第4話 茶会の空白
茶会の朝は、やけに空が白かった。
いつもより早く目が覚めた。アラームよりも早く、意識だけが先に起きてしまった。身体は布団の中でじっとしていた。静かに目を開ける。天井に、うっすらと揺れる光。カーテンの向こうの空は、まだ本格的な朝を始めていないようだった。
今日は、茶会の日だった。
三年ぶりの学外開催。顧問の先生が古くからつきあいのある寺の一室を借りて、先輩やOBも来る。格式ばった会ではないが、浴衣を着て、道具の扱いもきちんとする。流れも決まっていて、それぞれの持ち場もある。留譜には、客として入る役目が割り振られていた。
出るかどうかは、まだ答えていない。
「行けたら行きます」という既読のまま放置された返信が、グループのログに残っていた。誰も詮索しない。慣れているのだ。留譜が、そういうふうに「薄くいる」ことに。
浴衣は畳んで押し入れに入れてある。アイロンをかけて、たとう紙に戻したのが春だったか、夏だったか、もう覚えていない。着ようと思えば着られる。場所も知っているし、行き方だって調べてある。道順も、所要時間も、持ち物も、頭ではわかっている。
ただ、それをやる気が、なかった。
正確に言えば、「やる気があるかどうか」が、そもそもわからなかった。昨日からずっと、考えようとするたびに思考が霧のように流れていってしまう。茶を点てる所作や、背筋を正す感覚は好きだ。なのに、今の自分にはその一つ一つが、すこしずつ遠い。
布団の中でしばらく目を閉じていた。起きたら、すぐ支度が始まってしまう。そう思うと、まぶたの裏が厚くなる。
行かなかったら、どうなるだろう?
特に、なにも起こらないだろう。誰かに怒られるわけでもない。欠席は、当日連絡でも問題ない。すべてが、優しい。だからこそ、逃げ道がある。だからこそ、行けない。
時間がゆっくり過ぎていく。遠くで車の音がした。鳥が鳴きはじめた。小さな子の泣き声。すこし遅れて、お母さんの声。それでも、留譜は布団から出なかった。
9時。集合時間に間に合うには、もう30分以内に家を出ないといけない。浴衣を着る時間、電車に乗る時間、寺まで歩く時間。全部計算してあるのに、身体がまったく動かなかった。
10時。もう間に合わない。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
茶会には、行けなかった。
なにも言わず、連絡もせず、部屋にいたまま、窓の外をぼんやり見ていた。誰かの草刈り機の音が、公園の方から響いていた。夏の名残のような空気。地面は濡れていないのに、空気が湿っている。蝉はもう鳴いていない。
昼前、キッチンでお湯を沸かした。今日は紅茶を淹れた。セイロンのティーバッグ。急須ではなく、マグカップ。白湯よりはましな味。飲みながら、机に置いたままの哲学書を手に取る。フレーゲではなく、今日はユクスキュルの『環世界』だった。
「人間が見る世界と、犬が見る世界は、同じではない」
その一節だけが目に入る。頭の中で、ことばがゆっくりと意味に変わっていく。
——じゃあ、私が見てるこの日も、他の人から見たら別のものなんだろうか。
誰かにとっては、すごく大事な茶会の日。誰かにとっては、晴れた一日。誰かにとっては、ただの週末。
留譜にとっては、「行けなかった日」。
でも、そのことが、そこまで重くのしかかってくるわけでもない。軽くもない。ただ、空白として残る。それが今日の印。
午後、少し散歩に出た。公園のベンチに、おばあさんの姿はなかった。代わりに、二人の小学生が縄跳びをしていた。カウントの声が、風に乗って流れてくる。
ベンチに座って、目を閉じる。風が頬をなでる。木々がすこしずつ色づいていた。
——今のわたしは、ちゃんと生きているだろうか。
答えはわからない。でも、座って、紅茶を飲んで、本を読んで、こうして風に触れている。そこに「生」があるのなら、きっと今日は「死んでる日」ではない。
帰り道、留譜はスマートフォンを取り出して、茶道部のグループに短く送った。
「すみません、行けませんでした。また茶室に顔出します」
すぐに「了解です!」の返信が来た。文末に絵文字がついていた。優しいけれど、それはそれとして、やはり留譜はその優しさに少しだけ疲れた。
——だから、ときどきしか顔を出さない。
だから、ときどきだけ、笑っていられる。
それでいいんだと思う。
それで、いいのだ。