第3話 透明な日々
朝、目覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光は白く、部屋の中はしんと静まり返っていた。鳩の声が聞こえる。郵便受けの金属が鳴る音、近くの保育園から漏れてくる子どもたちの歌声。けれど、留譜は布団から出なかった。
寒いわけではない。眠いわけでもない。けれど、身体が鉛のように重かった。まぶたの裏で光の変化を感じながら、目を閉じたり、開けたりするだけ。窓の外では時間が過ぎていくが、部屋の中は、まるで透明な膜に覆われているようで、動くことも考えることも、どこか遠くの話のように思えた。
思えば、こういう日は以前からあった。大学に入りたての頃、突然講義に行けなくなった日。食事の支度すら億劫で、買ってきたパンを一口も食べずに夜になった日。誰かに説明できるわけでも、理解されたいわけでもなかった。ただ、起き上がる理由をひとつずつ思い出すのが億劫で、それを始める前に時間が終わってしまう。
携帯を手に取る。画面には、昨日の茶道部のLINE。来週の茶会に出るかどうかの確認が来ていた。
「行けたら行きます」と打とうとしたが、途中で指が止まる。「行く」とも「行かない」とも言えない曖昧な言葉すら、今日は遠かった。結局、返信はしなかった。
枕元の本を開こうとする。ページに目を落とすが、文字の形だけが浮かんで、意味が輪郭を持たない。最近はフレーゲの本を読んでいたけれど、今日はそれすら手が伸びなかった。意味と指示、概念と対象、言語と思考のあいだにある静かなずれ。それは面白いはずなのに、今の留譜には、あまりにも遠い話のように思えた。
ふと、体の奥から小さな空腹が立ち上がってくる。けれど、それに応える気力はなかった。台所まで行って、冷蔵庫を開け、何かを温める。そういう当たり前の動作が、今日はできそうにない。
「食べなくても、死にはしないだろう」
と、思う。そうやって誤魔化しながら、何度も同じ日を過ごしてきた。けれど、後から胃が悲鳴をあげるのも知っていた。
正午を過ぎ、部屋の隅にある観葉植物の影が、壁に長く伸び始める。水をやったのは、いつだったか。葉はまだしっかりしているけれど、土は乾いている。ジョウロに水を汲むだけ。それだけのことすら、今日は面倒だった。
それでも、起き上がったのは、鳥の声が聞こえたからだった。
「ピィ……ピィ……」
すぐそばの木に、雀がとまっていた。細くて小さな体。何かをついばんでいるのか、枝の上で忙しそうに動いている。風が吹いて、葉がざわめき、雀の羽がふわっと広がった。
その音を聞いたとき、留譜は思った。
——生き物は、ちゃんと生きてる。
それは当たり前のことだった。でも、その「当たり前」が、自分には失われているように思えた。息をして、動いて、何かを食べて、眠る。その連なりがうまくつながらないまま、今日のような一日が積み重なっていく。
冷たい床に素足をつけて、そろそろと立ち上がる。キッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。茹でておいた玄米ごはん、切って保存していた野菜、冷凍していた白身魚。火を使うのは億劫だったが、オリーブオイルと塩だけで簡単に炒めることはできた。
香りが立ち上る。油のはぜる音、フライパンに触れた水分の蒸発する音。これだけで、さっきまでの空気が少し変わる。器に盛るとき、形が崩れてしまったが、どうでもよかった。
テーブルに置いて、一口だけ食べてみる。温かいごはんの味がした。それだけで、少し心が戻ってきた気がした。
午後、もう一度、本を手に取る。ページをめくる。やっぱり、言葉は遠い。でも、さっきよりは近いかもしれない。近くにいる、と思えるだけで、少し安心できた。
夕方、公園へ向かった。空気はすこし肌寒い。おばあさんの姿はなかったが、ブランコの鎖の音、ボールを蹴る音、夕焼けに照らされたベンチがあった。そこに座り、ただ風の音を聞いていた。
何もしなくてもいい。そういう時間が、自分には必要なんだと、ようやく思えた。
夜、家に戻り、シャワーを浴びた。何かが変わったわけではない。でも、何かがつながり直したような、そんな気がした。
そうやって、また一日が終わる。
何もなかったようで、ほんの少しだけ、あった一日。
透明な日々にも、すこしだけ色が差すことがある。