第1話 うすあかりの部屋
雨が上がった直後の午後、留譜は部屋の隅に座っていた。窓際には光が差し込んでいたが、カーテンは半分閉じたまま、部屋の中にはまだ湿った空気が残っていた。
畳の上には数冊の本。開かれたままの一冊は、フレーゲの『意味と指示』。けれども、読んでいたわけではない。留譜の目は文字の上を通り過ぎて、そこに何もない空白を見ていた。目の前にあるのは言葉ではなく、思考の影だった。
「読めてるのか、これ」
独りごとのような声が空間に溶ける。返事はもちろんない。頭の中で声がこだますることもない。ただ、少し喉が乾いていることに気づいて、立ち上がる。
キッチンへ行き、棚の奥からそっとほうじ茶を取り出す。急須に葉を入れて、やかんで沸かした湯を注ぐ。湯気がふわりと立ち上り、少しだけ自分がここに生きていることを実感する。そういう瞬間が、今の留譜には貴重だった。
茶道部に入って四年目。特別なことをしているわけではない。けれど、茶葉の香りや湯の温度、湯呑みの手触りは、他の何よりも今の感覚に働きかけてくる。
台所の窓を開けると、遠くで子どもの笑い声がした。近くの公園だろう。犬の鳴き声もまじっている。蝉がまだ鳴いていた。今年の夏は長い。
そういえば、最後に誰かとちゃんと話したのはいつだったか。茶道部の後輩が「就活どうですか」と聞いてきたとき、「まあ、いろいろ落ちてる」とだけ答えた。深く追及されることもなかったし、留譜自身、答える気もなかった。
本当のところ、就職する気があるかといえば、あまりない。毎日働くという感覚が、どうも想像できないのだ。朝起きて、通勤して、ずっと誰かと話すことが求められる。そういう生活に耐えられる自信はない。
「実家に帰って、塾講師でもやろうかなあ」
思わず声に出す。誰に向けたわけでもないが、口にすると少し現実味が増す。国語は得意だし、教えることも嫌いじゃない。子どもの頃の夢だった。学校の先生にはなれそうもないけど、近いことはできるかもしれない。
お茶を手に、ベランダに出る。小さな公園が見える。ブランコに乗った子ども、ベンチに座るおばあさん、すれ違う犬の散歩の人。彼らの世界はゆっくり回っているように見えた。
「わたしも、あんなふうに生きられたらなあ」
けれど、実際の留譜は、日によっては布団から出られず、何も食べず、ただ天井を眺めて終わる時間を抱えている。何もできない日がある。それが続くと、何かしようという気もなくなってしまう。周囲は「疲れてるんだよ」と言うが、そうじゃない気もする。ただ、そういう状態になるのが当たり前になってしまっていた。
でも、今日はお茶を入れられた。茶葉の香りも感じたし、湯の温度もちょうどよかった。そういう日があることに、救われる。
「まあ、そんなもんか」
空に薄く虹が出ていた。