それからのハルジャー教区
チャンドラーは王都を追われたが、清貧を崩さず肉や魚を食すことはなかった。
だからワインは唯一の贅沢品である。
ぶとう栽培が成功したのは、土壌改良と土魔法を使える子供達の成果である。
どちらが欠けていても、3年と言う早期の期間で鈴なりに実ることはなかった筈だ。
これはチャンドラーやハルジャーが、教区民と話し合い、力を併せた成果であった。
ただハルジャーは活動の性質上、筋肉を鍛える必要があるので、肉を食べていたのは内緒である。
夜中に自力で狩って、自力で捌いて証拠隠滅していた。
ハルジャーの本質は、隠密家業である。
彼自らの願いで、ユハネからチャンドラーに仕える護衛対象が代わっただけなのだ。
だから彼は、司教の地位を早く誰かに託したかった。
◇◇◇
国王ユハネは遠方の教区の生活改善を訴えたが、多くの貴族達は王都外に利権が移ることを嫌い、議会も含めた者達がユハネを訝しく思い始めていた。
それはチャンドラーが、今の教区に送られてからだった。動機は従弟の為だったと言うのは、いささか個人的見解だとも思える。
それが日和見だった彼の意識を変え、貴族派と対立することになってしまっていたが、国王である認識を持った第一歩に王妃は喜びを見せた。
幼くして両親を亡くした一人息子の彼は、王弟の支配下にあったと言っても過言ではない。
まずは王都周辺の貧民層の援助から開始し、徐々にチャンドラー教区にと予定を立てていたが、輸送費も人権費も高額となり王都民の関心が薄い事業は、民からの国王の指示に繋がらないと切り捨てられていた。
それでも………………。
国王ユハネの意欲だけは、助けを受けた人々は忘れなかった。
貴族の義務を胸に灯す者達にも、ユハネの変化は前向きに捉えられてはいたが、残念なことに少数派であったことで、議会はなかなか動かせなかった。
※貴族の義務とは、ノブレス・オブリージュ を指す。
高い地位や権力を持つ者は、それ相応の社会的責任と義務を果たすべきだという道徳観のこと。
既に多くの投資利権を持つ者は、王都に回る資金が少しでも滞れば、投資先からの利益が減るから抵抗があり、ユハネに反対していた。
その後いくら訴えても、ユハネのチャンドラー教区の政策に賛同はされなかった。
チャンドラー教区の貧困状況をいくら伝えても、それでも。
………………彼らの心は動かなかった。
そしてこともあろうに、逆にユハネが王都民の利益を損なう計画をしていると、王弟が糾弾したのである。
それにはユハネも、彼に賛同する王妃や王子もがっかりした。彼らは国の為に尽くして来た、貴族の義務を是とする者達だったから。
だからと言っても愚直にただ清いだけではなく、清濁併せ呑む王族らしい考えも持っていたユハネなのに。
けれどそれ以上に、汚職などで力をつけた貴族派と、王位を狙う王弟が実権奪取に動いたのだ。
「そんなにしてまで利益を追求するなら、もう勝手にすると良い。
私は国王を辞任するから、後は君達に任せるよ」
そう言って、国王ユハネと王妃ビオラ、王子エスクードは、今はハルジャー教区となった地へ(ハルジャーの転移魔法により一瞬で)移住したのである。
ユハネの頑張りはハルジャー達が教区民に伝えていたので、移住後もすんなり受け入れられた。
大きな城も側近も近衛兵もいないけれど、一軒家が与えられて住み始めた彼らは、一教区民となり穏やかに過ごし始めた。
ユハネがハルジャー教区に移住してからは、元国王であるユハネを慕う貴族や民達から、付いて行きたいと手紙が教区に届き続ける。
ユハネはもう国王ではない。
だから彼は彼らにこう伝えた。
「私はもう、国王ではないよ。でももしこの教区に来てくれるなら、共に頑張っていこう」と。
ユハネを慕うのは、もともと個人的にチャンドラー教区(今はハルジャー教区)へ支援していた者達である。
教区での製作物や魔獣の素材を積極的に買ってくれた者、魔獣被害が多い時に自家の騎士達を送ってくれた者、儲けが少ない教区に店を出した商人もいた。
他にもユハネの人柄や政策に賛同する者や、汚職が蔓延る王都の議会に疑問を持つ者達等など。
最終的にはユハネが好きで、彼の傍で暮らしたい者達がたくさんいたのである。
ユハネはチャンドラーとハルジャーと相談し、まずは民や商人から受け入れを開始した。
いくら開けて来たといっても、ハルジャー教区まだまだ発展途上で、住人も少ない状態であった。
ユハネは彼を慕う貴族達に、さらに伝える。
「教区は貴族制度がないから、一市民となるがそれでも良いならおいで」と。
元より貴族の地位で動くより、商会や医療に従事して働く者達が多かったから、教区にも援助の必要性をずっと感じていた。ただ遠くて、なかなか足を運べなかったが。
「勿論ですとも。爵位は国にお返しして、さっぱり片付けて行きます。よろしくお願いします」
「私達医師団も向かわせてください。私達は治癒魔法と医学知識の融合をさせて、治療に当たります。
特に医療的な建物は必要ないので、教区を起点に動きます。
どうせ暮らすのなら、ユハネ様の元で生きていきたいのです」
「ああ、ありがとう。こんなに嬉しいことはないね。
ありがたい言葉を貰って、泣きそうだよ」
そんな感じで、ハルジャーと他数人の転移魔法が使える者達で、希望者を教区に次々に受け入れたのだった。
村づくりが進む中で、乱暴な者や貴族身分だからと威張り散らす者は、ユハネが国王であった時に「乱暴を働く者にはチャンドラーの裁量で裁いて良い」と確約をされ、最悪死刑の許可も記された書状を書いて貰った。
それを見た彼らは顔を青くして、次々と村から去って行った。どうやら余罪もあったらしい。
詳細はまだチャンドラー達の知らないところだったが、厳しめに権限をくれたのだろう。
だから今は、わりと住みやすい場所になっていたのだった。
その後。
更生が出来そうにないとハルジャーに判断された、数人の悪人達が粛清され、土地に還ったこともたぶんチャンドラーは知らない。
夜中にこっそりは、食料調達だけではなかった。
◇◇◇
医師団は王都に残る者もいたが、金を貯えて横柄になった民は、医師の指示を効かなくなった。
「どうせ治癒魔法ですぐ治るのでしょ? 節制なんてしたくないわ!」
「そうだ、そうだ。金を払っているのだから、文句は言うな!」
民も貴族と同じように、商人や医師を金で懐柔できると下に見ていた。
爵位の低い貴族や平民の言うことは、効かなくなっていたのだ。
だからそれに嫌気が差した彼らも、教区に移動し始めた。
「金を握りしめて、我が儘にしていると良い。
何れ報いは来るだろうから、その瞬間までは……」
ハルジャーは、王都の近い未来が予想できた。
チャンドラーとハルジャーを慕う者達は、ますます彼らの教区に移動していった。
◇◇◇
ハルジャー教区にはバラド公爵、アジサ侯爵、ルヴァン率いるアザミレ子爵達は、爵位を国に返し領民達と共に既に移住していた。
アザミレ子爵家はハルジャー教区の近隣に住んでいたが、もう王都と決別するように住民ごと移動したのだ。
クラビット伯爵家のリファインも生家を捨て、自分の商談を引き連れて、家を出た。
投資先からの利益は、今まで通り銀行に振り込まれる予定だったが、王都の投資金は頭打ちになるだろうと思い全ての株を売り払う。
朝食時に詳細は語らず、自分の籍を抜いて欲しいと切り出したリファインに、驚愕したガラナルとフランベーナ。
二人は次期当主となる息子を止めたが、彼の決意は固かった。
けれど母親であるフランベーナは、話を聞かない彼に涙ながらに縋った。
「馬鹿言わないでよ、後継者は貴方しかいないのよ。
貴方はずっと家にいて、私とここで暮らせば良いじゃない。
結婚なんてしなくて良いわ。養子を貰って二人で育てましょう。
仕事なんてガラナルにさせれば良いわ。
楽しいことだけして、生きていきましょう。
だから……傍にいて頂戴、リファイン!」
それでも頷かず、冷たい瞳でフランベーナを見る息子にキレて、玄関から飛び出していく彼女。
「何よ、何なのよ。そんな我が儘な子なんていらないわ。もう知らないんだから!」
いつもは当たり障りなく返答していたリファインだが、今回だけは譲れない。
何か言えば泥沼化すると分かるから、沈黙で返すのは今までの経験値だった。
ルカーニのことで彼がずっと後悔していることを知るガラナルは、場所を移し応接室で彼と暫く話した後にそれを認めることにした。
「ありがとうございます、父上。……もっと反対されると思っていました」
「お前はもう、自由に生きて良い。……ケイトリーさんだったか、若いけれどしっかりしている子だな。お前を引っ張ってくれそうだ。ふふっ」
「! 父上は僕のことを調べたのですか? いつからですか?」
調べられていたことに、目を見張る。
何となく不満を吐露した時から、放置されていた気さえしていたから。
「引きこもっていたお前と、部屋で話した時からだ。
あの時に俺は後悔した。
ルカーニも私の娘でお前の姉だと言うのに、あの時の俺はフランベーナに夢中で、彼女の言いなりだった。
今考えると、とんでもないことだ。
ルカーニにもお前にも、辛い思いをさせた。
だから俺も資金を投入して、ルカーニの行方を調べることにしたんだ。
その時には、お前の調べていた地帯は除いて調査させて貰ったよ。
資金力の差があるから、当然お前よりも先に見つけていたが、お前の努力に横やりするような気がして言えなくてな。
……その代わりに、見守ることにしたんだ。
俺も匿名で、あの子の教区に寄付をしていた。
遠くから眺めたルカーニがあまりにも幸せそうで、連れ帰るとは言えなかった。
きっとお前もそう思って、俺達に言わなかったんだろうし。
その時から思っていた。
お前が何かを望んだら、難しいことでも必ず叶えてあげようと。
だからもう、良いんだ。
跡継ぎなら養子を取っても良いし、俺の代で爵位を返しても良いし。
フランベーナの我が儘も今まで許してきたから、文句は言わせない。
毒婦などとずいぶんな醜聞も付いたが、お前が俺達を嫌っていると確信してから、こんな日が来ると思って自由にさせていたんだ。
だから……お前は幸せになっておくれ」
寂しく微笑む父親に、(なんでもっと早く、言ってくれなかったんだ)と思ったが、母親にバレないようにだろうと、何となく気づいてしまった。
「母さんには、お前は仕事で隣国へ行くとだけ伝えておく。けれど手紙も何も送らなくて良い。下手をすれば足がつくだろうからね。
ただ元気でさえいてくれれば、それで良いから」
根性の別れのような表情で、自分を見つめる父親をもどかしく思う。
けれど自分も歩み寄らなかったから、仕方なかったと思い返した。
「僕はたぶん……今の父上なら普通に話が出来そうだと思う。だから、また話に来ても良いですか?」
ガラナルは瞬き、そして頬に涙が流れた。
「いつでも来ておくれ。待ってるから…………」
「今まで育てて下さり、ありがとうございました。
落ち着いたらなら、必ず連絡します」
リファインが自分でも泣いているのに気付いたのは、部屋に戻って静寂を手に入れた時だった。
その感情がどんなものか、今はまだ分からないリファインだったが、嫌な気持ちではないことだけは確かだった。
その夜ハルジャーが彼を迎えに来た。
リファインの部屋の物は、その殆どが彼の稼ぎで購入した物だったから、全てをハルジャーに運び出して貰った。
必要のない物は教区に行ってから、売却や寄付をして片付けた。
彼の部屋に残されたのは、フランベーナからプレゼントされた衣類や装飾品だけだった。高価そうな物も全て置かれたまま。
不満の発散の為に外泊したフランベーナが、伯爵邸に戻ったのは10日くらい経てからだった。
リファインの不在に、ガラナルからは隣国への仕事の為だと伝えたが、フランベーナが突っ込んで聞いてくることはなかった。
美しい息子に冷たい眼差しを受けた拒絶が忘れられないフランベーナは、深くは聞かずに曖昧に納得した。
「すぐに戻って来るのよね。じゃあもう、貴方に任せるわ。
だって……今会ったら、また喧嘩しそうだもの……。
手紙で仲直りすれば、きっと蟠りもなくなるわよね」
逆らうことのなかった息子からの態度は、ショックが大きかった。
彼女はまた振り返ることもなく、買い物や夫以外との恋愛で気分転換を図るのだ。
リファインの部屋を見たなら、彼の覚悟も伝わっだたろうに。
けれど彼女は不安から逃げて、向き合うことはなかったから見ることを避け続けた。
どうして離籍したいかの理由さえ、考えることもないままに。
彼女は自分の衰えつつある容姿を抱え、生家の家督が兄に譲られたことで、昔のような援助が期待出来ない状態に焦りを感じていた。
それでも自分の味方である息子が居れば何とかなると思い、不安を深層に押し留めて来た。
それが崩れたことを受け入れられないフランベーナは、歯車の軋む音が聞こえるようだった。
自分に逆らわないと思っている夫さえ、とうに彼女を見放し、義務でしか繋がっていないことに、気付きもせずに…………。
ガラナルの思考力を奪ってきたフランベーナの美貌は、もうずいぶん昔に失われている。
それに踊らされたガラナルの罪は、後悔しても消えることはない。