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幕末の女剣士が国家公務員のお仕事やってみた!~ハラスメントに牙を剥く~

作者: 悠木堂

「だめだよ。こっちが優先だよ、そんなの」


 一言の元に切って捨てられて、河原崎琴美かわらざきことみは目を剥いた。

 吐き捨てるように言って視線を逸らした相手は、琴美よりも十年以上先輩で役職もひとつ上の係長。話はもう終わり、と、全身から醸す係長の雰囲気には、下の者であれば「はいそうですか」と引き下がらなければならない場面だった。


 しかし、このプロジェクトに関してはそうはいかない。担当である琴美だけでなく、琴美の直属の上司である小田原慎おだわらしんから念押しされて交渉にやってきている。


 そもそも、上の人間からであっても、ここまでの冷たい反応を琴美はされたことがない。まだ二十歳を超えたばかりの琴美に対して、上司は一様にとても優しかった。琴美のいる職場は、昔はあったのかもしれないが、セクハラ、パワハラ、モラハラ、そういったハラスメントと縁遠く、琴美自身、遭ったことも見たこともなかった。


 いわばぬるま湯に浸かってきた琴美には、同じ職場にいる人間からこれほどのつれない対応をされたことがない。そのため、かなりのショックを受けていた。


 また、目の前の男に対して小さな怒りも湧く。琴美の身近な周囲にいる人々はおしなべてとても優秀で、コミュニケーション能力にも調整力にも長けている。そういった能力を一切発揮せず、ただただ下の人間に不都合を押し付けるだけの無能な男に対して、琴美はイラッとしてしまったのだ。その怒りを面にださぬよう一つ深呼吸をして、琴美は口を開く。


「この件には既に部長にも許可をいただいていまして…」

「いや、こっちが先だからね」


 伝家の宝刀のつもりで繰り出した部長という単語も空振ってしまった。無能なこの男は、交渉に応ずるどころか話を聞くつもりもないらしい。ただただゴリ押してくるこの態度に、経験の少ない琴美は早々に万策尽きた。


「係長、すみません」

「おう、どうだった?」


 とぼとぼと自席に戻り、一息をついてから立ち上がると、琴美は隣の隣の席に座る小田原に声を掛けた。


 忙しそうにPCに向かい、机上に冊子や資料を広げてキーを叩いていた小田原は、それでも部下の動向を把握していたらしい。また、視界の端に映る琴美の様子から不調を察していたのか、エンターキーを押すとくるりと体ごと琴美に向けて、ゆったりと話を聞く姿勢を見せてくれた。


 柔らかな表情と真剣なまなざしを向けられ、先ほどの無能男との天と地ほどの違いを感じ、ほっとして泣きそうになる。


 とはいえ涙はなんとか抑え、事の次第を報告した。本来ならば、交渉の可不可と不調であれば向こうの事情を聴いて今後の交渉材料のとっかかりなどを報告するはずが、ただただダメでした、ということしか伝えられない。


 自分の不甲斐なさを感じつつ、それでも先方の無能男に対する怒りは残っていたので、そのあたりの相手の様子や自分の感想なども付け加えておいた。


「そうか~」


 うう~ん、と唸るように頷いた小田原は、琴美が憤慨しつつ伝えた相手の様子を聞くと「えっ、なにそれ、ひどっ」と相槌を打ってくれた。


 結局そのあと、課長補佐の和泉沢豪いずみさわごうが、先方の課長に申し入れてくれ、上の判断で決定を落とし込んでくれた。

 琴美は、その調整の際に和泉沢にちょこちょこ付いて回り勉強をさせてもらったのだが、その折、向こうのお茶目そうな課長補佐から件の係長に関して「ごめんね、ちょっと頑固なんだよね。言っとくから~」との一言をもらって、多少留飲を下げたのだった。例え表面上だけで実際に注意喚起などする気はないのだとしても、気にかけてもらえたことが素直に嬉しい。そうして、なんとか無事に終わってほっとする。


 自分の力が足りず和泉沢や向こうの課長らの時間を取ってしまったのは残念だったが、近々に開かれる予定の同期会で、皆に愚痴を聞いてもらおう、と琴美は思う。


 飲み会当日、願わくば、あの係長の無能っぷりをうわさで広めてやれっ、とばかりに意気揚々と向かった。もちろん、自分の失敗話も織り込んだ報告で、飲み会の場に相応しく、軽く笑ってもらう予定である。


 そんな気心の知れた同期らによる飲み会では、互いの繋がりも深く、するりとディープな話題も入ってくる。


「隣の席、空いてただろ? あれあの係の担当がさ、いま長期で休んでんだよ」


 琴美の同期でいまは別部署にいる北鬼江湊きたきえみなとは、ハイボールをとんっとリズミカルにテーブルへ置くと、唇を尖らせてそんなことを言い出した。一次会はそろそろお開きか、という頃である。


 会の始め頃に話した、琴美による愚痴交じりでのプロジェクト顛末報告を憶えていたらしい。いろんな部に散らばる同期たちから、さまざまな励ましを貰っていたが、その時そういえば北鬼江は難しそうな顔をして黙りこくっていたかと思う。


 そんなことを思い出しながら琴美は、あのあと課長補佐と一緒に再度訪れた際に見た係長席あたりの風景を、北鬼江の言葉に従って思い起こした。


 無能係長の隣席は、人がおらず不自然に散らかっていた。閉じられたノートパソコンの上に、書類の束が散乱していたのを琴美は思い出す。

 北鬼江はハイボールを一口飲んで、ぽつりと零す。


「たぶん、辞めちゃうんじゃないかなあ」

「自分都合で?」

「そうだろうね」


 わざわざ揉めたくはないのだろう。突然に辞めてしまう同僚たちは、たいてい穏便に済む理由を挙げて去っていく。本当かどうかはよほど親しくなければ判らない。もしくはすぐそばで様子を見て知っていなければ。だから、部下が感じる上司のハラスメントは人事評価に繋がりにくい。


「人事に伝わんないじゃん」

「そうだなあ」


 暢気な相槌を打つ北鬼江に、琴美は少し眉を寄せる。そんなことではあの無能係長の無能ぶりが、人事評価をする部署の人たちへ伝わらない。琴美はああいう人とは仕事をしたくないので、なるべくなら遠くにいてほしいと思うし、なんなら長期休暇を取って今にも辞めそうなその人に替わって、辞めていって欲しい。

 そんなことを考えたせいで、少しばかり強い口調で、先の憂慮を口にしてしまった。


「次の子きても、またやられちゃうよ、そんなんじゃ」

「いや無茶言うなよ」

「え?」


 さらに強めに言い返されて、琴美は目をぱちくりさせた。普段、穏やかな北鬼江が、珍しく怒っている。しかし強い視線は手元の結露したハイボールのグラスに向いていた。

 琴美が驚いているうちに、北鬼江は、大きく息を吸い込んで吐く。そうして、琴美を見つめなおした表情は、どこか哀しげだった。

 噛みしめるよう、訥々と訴えるように、北鬼江は語り出す。


「ずっとひどい仕打ちでさ、かなりダメージ受けてんだ。波多野はたののやつ、ギリギリだったと思うよ」


 北鬼江の、共感しているような辛そうな声音に、琴美は息を呑んだ。あそこの係員は、名前を波多野櫂はたのかいと言ったか。今回のプロジェクトに関して直接話し合う前の打診の段階でメールを送ったときに、そんな名を確認した覚えがあった。北鬼江は波多野と親しかったのだろうか。

 北鬼江はふと視線を和らげ、自嘲するように笑った。


「そんな弱ってる人間に戦えって言ったって、無理だって」

「戦うって…ちょっと相談すればいいんじゃない?」


 戦う、などという不穏な言葉に反応して、なぜかあせった琴美はそんなことを誰にともなく問うた。握りしめて氷も溶け切ったレモンサワーのグラスは、結露すら乾きだしている。そろそろ二次会の案内が回ってくる頃かもしれない。


「それをできないようにされてんじゃん。モラハラって、自分が悪いように思わせるってやつだろ?」

「ええ~…支配的な感じ?」

「そうそう」

「なんなの、それ。気持ち悪~」


 想像して琴美は、怖気が立って首をすくめた。モラルハラスメント、洗脳、支配。どこかで起きた殺人事件で、ニュース映像に飛び交った刺激的な単語が頭を掠める。怖くて気持ち悪い。あの係長はそんな男だったのか。乗り出してくれた和泉沢や心配してくれた小田原のおかげであまり関わらずに済んで助かったと思う。


「そうじゃなくても自分ができなかったことを他人のせいにするのって、ちょっと抵抗があるんじゃないか?まともな神経持ってたらさ」

「そうかあ~そうだね」

「うん」


 北鬼江は、モラハラ、パワハラの圧で仕事ができなくなることを軽く見ているわけではない。もちろん、相談するなどまともな神経じゃできない、と言っているわけでもない。他人にハラスメントを仕掛けるまともな神経をしていない人間のそばにいて被害を受けて、まともではない状況に追い込まれ、まともに生きていれば必要のなかった勇気を振り絞って立ち直らなければならない、そんな苦境に立ってしまった波多野櫂を思い、まともな神経を持たずにのうのうと存在する無能な上司を揶揄しているのだ。

 確かにまともじゃあ、やってられない、と、琴美も思う。


「まともじゃない神経の人に立ち向かうのって、たいへんだね」

「だなあ」


 琴美は、立ち向かう、と言った瞬間、ぴりりと頭の隅がしびれた気がした。


『立ち上がれ。立ち向かえ』


『守るために戦え』


『斬って捨てろ』


 熱くも冷徹な声が耳に届いた。

 頭の中にまでぐわんぐわんと響いてゆく。

 そして、そのまま琴美の意識は遠のいた。


 ぬるくなったレモンサワーを飲み干して『琴美』はにやりと笑う。


 『琴美』は部署内をきょろりと見渡す。琴美がやっていた通り、琴美の記憶通りに本日午前中の仕事をこなして、昼休憩に入っていた。周囲の人間は「今日は河原崎さん、言葉が少し乱暴だな?」と思っているようだったが注意されるほどではなかったので『琴美』は安堵している。前に叱られたので、他所への電話は後回しにしていたこともあり、周囲の認識はその程度で済んでいた。


 課長補佐席と係長席の間に立って、『琴美』は二人へ目配せをしながら声を掛ける。


『和泉沢補佐…、小田原係長…、少々…よろしい…?』


 ぎこちない呼び掛けになったのは「和泉沢補佐殿、小田原係長殿、少々お時間頂戴いたしてもよろしいか」という『琴美』本来の文語文を琴美風にアレンジしながら喋ったためだ。口語文、現代文は聞き慣れていても操るのはまだ『琴美』には難しい。


 昼休みに消灯していた使っていない会議室兼休憩室に三人は連れ立って入る。扉を閉め、明かりを点けて早々に『琴美』は立ったまま言い放った。


『初めてお目に掛かる。手前てまえ中沢琴なかざわことと申す者』


 帯刀していたならばちょうど鍔の位置、左腰脇に左手をつけて肘を張り、右手は右太ももに置いて腰から上体を倒す姿勢に、和泉沢と小田原は目を見開き自分の部下を凝視した。


 二人の部下、河原崎琴美は、物柔らかで所作の若々しい女性だった。少し短気そうな趣きはあったが、概ね問題なく、将来が楽しみな若手だと和泉沢は認識しているし、気遣いがあり仕事のしやすい部下だと小田原は思っている。

 ところが、目の前の女性の醸す雰囲気は、二人が良く見知った琴美のものとは懸け離れていた。姿は見慣れた部下であるのに、気軽に声を掛けられない…殺気もしくは覇気、といった言葉がしっくりくるような鋭い空気を身にまとっている。


 妙な冗談を、と笑い飛ばそうとするのに、表情筋が動かず笑顔が作れない。貴重というか奇妙な体験を、琴美の上司たちは味わっていた。


 先に立ち直ったのは、人生経験の故か、アラフィフの和泉沢である。また、『琴美』が名乗った名前に聞き覚えがあったため、そちらのほうを尋ねてみることにした。笑い飛ばして「冗談はやめろ」と叫ぶほどのバイタリティは、目の前の女性の覇気に押されすぎて失せてしまっている。


「中沢琴って、幕末の新徴組しんちょうぐみの?河原崎くん、歴史好きなのかい?」


 幕末の女剣士、中沢琴。有名な新選組が京都警護ならば、新徴組は、江戸警護の浪士隊であった。その隊で唯一の女性であり、とても美しい容貌をしていたとかで、江戸の女連中に大人気だったらしい。戊辰戦争を経て生き残り、兄とともに帰った故郷は、そういえばこの辺りだ、と和泉沢は思い出す。


流石さすがは和泉沢補佐殿。見識が深くておられる。手前は江戸で刀を振るっておったが、何の因果か今はこの娘と共に生きておる』

「え?お?河原崎さん、どしたの?」

『うむ。ちと相談があってな』


 いまだ混乱している小田原が発した言葉に促されるように、琴は真面目に頷き先日来の悩み事を口にした。


『先日のぷろじぇくと、のおり、伺った係の担当殿の話なのじゃが、御存知ごぞんじか?』

「ん?ああ、長いことお休みしてるね。ちょっと困った感じだよね」


 事情通じじょうつうである小田原が、混乱したままに、時代言葉の琴と会話を進めていっている様子に、和泉沢は吹き出しそうになりながらもなんとか耐えた。そして改まって琴に向き直ると、自分の部下であることはいったん忘れて一番の心配事を尋ねてみる。


「琴さん、河原崎くんは大丈夫なのかい?」

『うむ、心配無用だ。この娘…琴美とはもう何年も一緒におる。我が話す事も聞いた事も、すべて把握しておるぞ。少しばかり不可思議ではあるが、己が為した事と認識するらしいのう』

「そう。記憶が飛ぶことはないんだね、それは良かった」


 和泉沢と琴の会話に、小田原ははっとした顔で、素早く会議用のPCを触り始めた。そうしてすぐに顔を上げ、琴に尋ねる。


「波多野櫂くん、だっけ、その話。なんか気になってるの?」

『そう、櫂だ。櫂を救ってやれはせぬか』


 二重人格だと片方の人格が出ているときはもう片方の記憶がなくなる場合が多いようだが、琴は「琴美にも今の記憶は残る」と明言した。ならば部下の前で無様は晒せない、とばかりに、すぐに名簿検索をして、仕事のできる係長らしく小田原は時間を無駄にせず話を進めた。


「救うって…」

「いやあ…それは本人次第じゃないの?」


 戸惑う和泉沢とは裏腹に、小田原はドライに断じた。仕事の早い男は判断も早い。


『無論、櫂次第ではある。だが…』


 琴は頷き、真摯な瞳を向けて二人を見つめた。


『櫂のために環境を整える事を、先達せんだつに期待してはいかんか?』

「環境…環境ねえ」

「立場的に越権行為になる…んだけど」

『御二人は搦手からめて使つこうて琴美を助けたであろう。櫂も同様に救うことはできぬか?』


 環境かあ、と考え込む小田原は、和泉沢が躊躇ちゅうちょする境界を既に飛び越えているらしい。仕事の早い係長は、琴のさらに押した発言を聞いて、にやっと笑うと和泉沢を誘った。


「補佐、越権でない立場の人に動いてもらえばいいんじゃないですかねえ?」

「う、う~ん…あちらの専門官とは僕、同期だけど…」

「そうそう。ほいであちらの補佐って俺と学校同じなんすよね」


 困ったなー、と頭をかいていた和泉沢は「俺、情報集めますよ」『手前も提供できる話を同期から集めたぞ』などと迫ってくる部下たちへ、慌てて小刻みに頷いてみせた。仕事の早い部下を持つと別の意味で苦労するのだなあ、と思いつつ、和泉沢自身の禁忌に抵触しない程度に正義感を満たすのは構わないかなあ、と考え、楽しそうな部下たちを見やるのだった。


「でも河原崎さん」

『琴、だ』

「う、そうか。琴ちゃんさあ、どっちにしろ波多野くんが動かなきゃ駄目だぜ?わかってる?」

『うむ、その点は心配めさるな。櫂は頑張っておるぞ』

「へええ…琴ちゃん、仕事早いねえ」


 えらいえらい、というように肩をぽんぽんっと叩く小田原に、琴はにやり、と笑ってみせた。


 琴は以前から琴美の中に居た。

 琴はずっと戦ってきたので、攻撃的な外的要因に敏感だった。琴美を傷つけそうなものの気配…物理的なものは当然、言語的なものにも反応する。琴美が危機的状況に陥ると、琴は表に出て戦ってきた。琴が琴美になるずっと以前から、命のやり取りをしてきたのだ、戦うことは何でもないが、時代ごとに戦い方が違うのだなあ、とつくづく思う。

 飲み会の席で、琴美が怖気を感じ危機感を増したせいで顔を出したが、心の問題は非常に難しい。琴美の経験や友人、同僚の言葉が、琴の刃を研ぎ澄ましてくれていなければ、動きようがなかっただろう。現代の人々は繊細だ。


 そういうわけで今回なぜか、幕末の女剣士がハラスメントに牙を剥く事態と相成ったのである。


 まずは、本人が立ち向かう気にならねば、と、北鬼江を従えて波多野櫂に会いに行った。素直で真面目で優しい波多野は、同僚の女性としては様子のおかしい琴の言動に相対しても、真摯に会話をしてくれた。琴なりに応援できたと思うが、細かいところや行き先は波多野自身の心に任せ、外堀を埋めるように周囲を整えることにした。


 琴美と琴で入れ代わり立ち代わり、そんなことをしつつ仕事も頑張りつつ、数か月後。


 どうやら琴美とは記憶を分け合っているらしく、お互いの記憶に関して飛びはない。琴の言動は、なぜそうしたのかは判らないが、「そうした」ことは、琴美も把握していて記憶にも残っている。琴美は琴が何をしたのか知っていてそれが自分の行動であると思っているが、なぜそうしたのかが判らないので、微妙に薄い記憶になりがちだった。


「河原崎さん、おはよう」

「小田原係長、おはようございます」


 うん、今日は琴ちゃんじゃないね、と呟く上司の声は、意識の端を掠めて流れた。琴美は大して気にせず頷くと、気にかかっていたことを尋ねた。


「あのっ…この時期、異動ってあるんですか?」

「まあ、たまに、ね」


 口の端を上げてウィンクするように片目を瞑った小田原に、琴美はぽかんと口を開けてしまった。小田原係長って、こんなお茶目な人だったっけ?


 ともあれ、先日、同期の北鬼江が気にしていた波多野櫂が、出勤するようになった、と噂で聞き、気になって覗いてみると、今度は波多野の隣、係長席が空席になっていた。同期では事情通の北鬼江に尋ねてみると、思いっきり吹き出し涙を流して大笑いされて驚いた。


「なに言ってんだ、お前の仕業だろ」


 そう言われて目をひん剥いた。確かに波多野櫂に会ったような覚えはうっすらとある。酔っ払っていたような気もするが、まじめで優しそうな波多野に好感を持ったと思うし、そのことで上司たちに相談したような気もするのだが、はっきりと憶えていない。


「私、なにもしてないよ?」

「へ?覚えてねーの?」

「んんん~…覚えてるような覚えてないような」

「んだよそれ。まあ、ありがとうな。波多野、良かったよ」


 礼を言われて唸りながら、その日出張だった上司二人の帰りを首を長くして待ったのである。朝の挨拶を済ませてすぐに気掛かりを尋ねると、軽く肯定されてしまった。じゃあ、櫂のストレス源はどっか行っちゃったんだ…良かったあ…。


 ほっと胸をなでおろしつつ、「櫂?って何よ?波多野くん、だよねえ?」と自分の心の声にツッコミを入れる琴美であった。

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