レシピ9 隠し味には吊り橋効果をひとつまみ
「シャルトリューズ、平気か? 離れんなよ?」
「その心配は全くないわ。遅々として進まないせいで、置いて行かれる心配は皆無よ」
「……鈍いってか? 足元が見えねえし、そんなに早く進めねえんだよ。
ヘビとか出てきたらさすがのお前だって嫌だろ? 怖かったら抱きついてきてもいいんだぜ?」
「ヘビ毒の解毒薬なら持ってきてあるから咬まれても平気よ。
私が過去に遭遇したことのあるヘビなら対処できるから、もし咬まれた時は必ずヘビの柄を確認してね。
概算だけれど、私の解毒薬で対応できるヘビは、この山に出没するヘビのおよそ82.3%ってところかしら(シャルトリューズ調べ)」
「…………ちょっとはかわいげのあるところを見せろってんだよ……」
大きなため息とともに吐き出されたイエーガーのぼやきは、残念ながらシャルトリューズの耳には届かなかった。
「あ。止まってイエーガー。
……水の音がするわ。湧き水かしら? 行ってみたいわ。行きましょう。行って!」
シャルトリューズが興奮気味にイエーガーの背中をぐいぐいと押す。
「お、おい! 分かったから押すなよ。ちゃんと行くから。
……こっちの方角か?」
二人は水の音を頼りに、繁みをくぐり抜け、山の奥深くへと進んでいった。
そして――――。
二人を出迎えたのは、大きな泉だった。
木漏れ日が水面に反射して、キラキラと輝いている。
泉の中央へは、ただ丸太を組んだだけの簡素な橋が架けてあり、対岸では大きな樹がそびえ立っていた。
「きれい……! すごいわ……! なんて大きな樹なの……」
惹き寄せられるように橋を渡ろうとするシャルトリューズの手を、イエーガーがつかんだ。
「待った。俺が先に渡る。お前は後ろついてこい」
「別に一人で行くからいいわよ。ここで待ってて」
「ダメだ。橋が壊れるかもしれない。手すりもねえし……危ないだろ」
「大丈夫よ。見たところ誰かが歩いてる形跡があるわ。定期的にこの橋を使っている誰かがいるのよ」
「……お……っ、男が先に渡らないと天罰が落ちるんだよっ! 先頭譲れよっ!」
余裕のない口調のイエーガーの迫力に、シャルトリューズが負けた。
「……あんた、意外と信心深いのね……。
分かったわ、先に渡らせてあげる」
先に橋に足をかけたイエーガーが、振り返って手を差し出した。
意図が分からず、シャルトリューズは眉をひそめる。
「……なによ」
「……狭い橋だし、足元……危ねえから、つかまれよ」
「大丈夫よ。見たところ泉はすごく浅いし、もし足を滑らせてもたぶん……」
「……っ手!! ほら、行くぞ!」
シャルトリューズの手を乱暴につかむと、イエーガーが橋を渡り始めた。
驚きながらも、シャルトリューズはイエーガーに手を引かれるまま歩き出した。
シャルトリューズは橋の下に広がる泉に目を向けた。
底まではっきりと見ることができる。水が澄んでいる証拠だ。
なにかが視界の端で光って、あっという間に去っていった。
(……魚? 光る魚? それともただ光が反射しただけかしら?)
目で追おうと振り返り、イエーガーと手をつないでいたことを遅れて思い出した。
「――わ、どうした……うわっ!」
シャルトリューズに引っ張られる格好になり、バランスを崩したイエーガーが、盛大な水しぶきをあげて、泉に尻もちをついた。
「……ごめんなさい。
手をつないでいたのを忘れてたわ」
「手をつないでいるその瞬間まで忘れられている俺って、お前にとって一体何なんだ?」
ずぶぬれになって睨んでいるイエーガーを見たシャルトリューズは、自分の中でこみ上げてくる何かを感じた。
こらえきれず、思わず吹き出した。
おかしくて、たまらなかった。
「――やだもう……っ! ……おもしろすぎよ、イエーガー……!
だって、どう考えたってこんな細い橋で手をつないで渡る方が危ないのに、つなごうとするし……!
こんなにすごく浅い泉なのに、わざわざ橋を渡ろうとするし……!
ねえ、その結果がこれよ? 一番起こりうる可能性が低い事象が起きてるの!
わざとじゃなくて偶然でよ? ねえ、すごいわイエーガー! あんたってすごく想定外なことばかりするのね! もう……信じらんない……っ!」
てっきり文句を言われるのだと、シャルトリューズは予想していた。
想定の範囲だと「うるせえ」「笑うな」「黙れ」あたりを言ってくるだろうと考えていた。
だが、シャルトリューズの予想はすべて外れた。
イエーガーは、自分を見て笑っていた。
悪口を言う時のような嫌な笑い方ではなく、まるで父が自分に笑いかける時のような――温かくて、穏やかな笑顔だった。
完全に想定外だった。
シャルトリューズは、イエーガーから目が離せなくなった。
「……なんだ。やっぱりちゃんと笑えるんじゃねえか」
「……なにを言ってるの?」
「顔面プレートメイル女だと思ってたけど、ちゃんと笑えるんじゃん。……ちゃんと、人並みだったんだな」
「……え? 私、いつもちゃんと微笑を浮かべてますけど?」
イエーガーから笑顔が瞬時に消えた。
「浮かべてねえよ! 微笑なんかこれっぽっちも浮かべてねえよ! お前のは無笑だ無笑!」
「……無笑? なにそれ、そんな言葉ある? ダメよイエーガー。言葉は正しく使わないと」
「それだよその顔だよ。お前は基本いつもその顔だよ。無愛想女。
……ほら、行くぞ。無愛想女」
橋に足をかけたイエーガーは、懲りずにシャルトリューズへ手を差し出し、懲りずに橋を先行して歩き出した。
シャルトリューズは、今度こそ手をつないでいることを忘れないようにしようと、橋を渡りきるまでずっとつないだ手を見つめていた。
そして、なぜか微笑んだイエーガーの顔が、シャルトリューズの頭から離れなくなっていた。