忘却の此方
「ねえ。人はさ、過去を認識できると思うかい?」
「……なんですか、急に。過去を認識……?」
「そう。例えば、君が一昨日の夜に食べた晩御飯。覚えてる?」
「えぇ……と……確か、肉を焼いて食べたような」
「原始人かな君は……普通はこういう時、料理名を答えるものだよ」
「普通は『過去を認識できると思うか』なんて話しないんですよ、先輩」
「失礼だな貴様。普通だよ私は、至ってふつう」
うだるような熱気の中。唐突に始まった意味のわからない問答に吐いたため息は、マスクに跳ね返って顔に当たった。
「わけわからないこと言ってないで、手を動かしてくださいよ、手を。ここ片付けたら終わりなんですから、話はその後でも良いでしょ」
じっとりとかいた汗で髪が額にへばりついているのがわかる。さっさと作業を終わらせて帰りたい。無駄話に割くアタマは無い。
もっとも、作業を終えればとっとと帰るので、話に付き合う気は最初から無いのだが。
「あ~わかったわかった。手も動かすからさ。ほら、考えてみてよ」
しかし、相手はそんな俺の思考を読んだかのように食い下がる。こんな酷い環境に置かれても普段と変わらないその様子は素直にすごいとは思うが、むしろ元気がなくなってくれればよかったと、そう思わずにはいられない。
「この世に存在するものってどんなもの?」
「なんか趣旨変わってません? えぇ……見たり、触ったりできるものとかってことですか」
「いい答えだね。じゃあ、この世に存在しないものって?」
「……見たり触ったりできないもの?」
「まあ、そんなところだね。正確には、如何なる方法を以てしても客観的な認識ができないもの、とでも言うべきかな」
「……それで?」
「え、淡白。なんで? 興味無い? 『じゃあ俺の意識は? 俺以外には認識できない、つまり客観的な認識ができないものですよね?』とか言ってよ」
「いやまあどうでも……じゃないや、好きなように語ってもらうのが一番かなと思って」
「君もう遠慮ないね。まあ、それに関してはその通りだと思うけどさ」
先輩の口は止まらないが、宣言通り手は動かしているので文句は言わない。なんなら、こうして熱弁を繰り広げている今も、俺よりこの人の方が仕事は早いのだ。
「君の意識を他人に理解できるものとして取り出す、なんてことはどう考えたって不可能だ。そもそも、主観って呼ばれるものがつまり意識だって思わない?」
「そうですね」
「でも、君の意識って存在しないの? 確かに君は今、私の話をこうして聞いているのにさ」
「知らないですよ、そんなの。この世に存在しないってなら、この世じゃないとこにあるんじゃないですか」
「うわ、めっちゃいい事言うね。私もそう思う」
「なんか複雑だな……」
「人が存在を認識できないものというのは、それについて考えるなんて実際問題無駄だから、存在しないということにしておいているだけ。存在はしてるんだよ、君も……私もさ」
「ありもしないものをないって証明はできないですからね。まあ、あると思うならあるんじゃないですか、何だって」
「じゃあ、過去は?」
どうやら、話は一週したらしい。
「過去は認識できる? 過ぎ去ってしまったいつかの未来は、この世に存在するのかな」
「……しないんじゃないですか。この世には」
「そう。つまり、我々の生きる『この世』というものが如何に矮小であるかがよくわかるね」
「過去は記憶になりますからね。意識と似たり寄ったりなんじゃないですか」
「む……なるほど。確かに、そうかもしれない」
「……何が聞きたかったんです?」
この話に何の意味があったのか。もはや、それだけが気になる。
「じゃあさ、じゃあさ。人の記憶からも消えたら。過去はどうなる?」
「そもそも存在しないんじゃなかったんですか?」
「いやさ。でも、あるじゃん。過去は。私たちは過ごしてきたわけじゃん。この世界をさ」
「……まあ」
「過去は記憶になっていく。いや、なんなら記憶を過去と呼んでいるんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
「世は常に過去――記憶へと変換されていっている。つまり私も、この世から消えた時には、誰かの記憶にしか存在しなくなるということだ」
心なしか、普段より沈んだ声色。その視線の先には黒く変色した床板。
かつてこの部屋で生活を送っていた誰かの終着点が、そこにあった。
「私はさ。意識こそが、人だって思うんだ」
「……」
「行動は思考に基づく。過去の偉人のどんな偉業も、元をたどればその思考、意識にたどり着くはずだ」
「まあ……突き詰めればそうかもしれないですね」
「それが思惑通りであるかどうかは置いておいて、人が感動するのはいつだって、誰かの強い意思じゃないのかな」
「綺麗な夕焼けとかもありますけど」
「……今は、そういう話じゃない」
人の意識を変えるのは、人の意識であるべきだと。あるいは、そう言いたいのかもしれない。
「要するに『我思う、ゆえに我あり』。そう考えている自分の、その意識だけは自分であって、そしてそれ以外は全て自分ではない」
「なんかもうよくわかんなくなってきましたけど」
「そこで、さっきの話。記憶も意識の一部なんだとしたら……忘れるというのは、自分を喪っていくってことなんじゃないかな」
そう言った先輩の視線は、今度は真っすぐにこちらを向いていた。真剣な、何かを追及する眼差し。求めているのは反応か、あるいは回答か。
いつかはここに生きていたはずの、既に過去と化してしまった名も知らぬ何者か。その残滓を拾い集めて、拭いとって、今まさに現在から消し去ろうとしているというのに。
「先輩」
「何かな」
「手ぇ止まってますよ」
自身を取り巻く暑さすら忘れたようなその冷たい視線に俺は、まさに冷や水をぶちまけて。先輩は、今度こそ絶句した。
これは、いつかの過去。それは誰かが日常として過ごす現在であり、そして誰かが手を伸ばしても決して届かなかった未来であり。
そして、誰かにとっては、もう既に存在しない記憶である。