信長は誰に抹香を投げつけたか
信長の、父・信秀葬儀における抹香投げつけ事件に関する一考察……というほど大層なものではなく、基本、素人の思い付きです。
そんなこととっくの昔に〇○先生が主張、あるいは論破しとるわ、というようなのがあれば、感想にて(優しく)ご指摘いただければ幸いです。
織田信秀――ご存知の方も多いと思いますが、戦国時代、「尾張の虎」との異名を取った梟雄であり、かの織田信長の父親です。
彼の葬儀の際に信長が抹香を投げつけた話はあまりにも有名ですが、信長は何故そんな真似をしたのでしょうか。
よく言われるのは、信長の、仏教に対する、あるいはそれも含めて形式ばった事に対する嫌悪感の故、といった解釈です。またあるいは、思春期の若者の反抗心だとか。司馬遼太郎氏の「国盗り物語」では、早死にした父親に対して怒りをぶつけた、といった描き方がされていたかと思います。
しかし、ここで一つ気になるのは、この葬儀において喪主を務めていたのは誰だったのか、ということです。
そんなの嫡男である信長に決まっているだろうって? まあ普通はそう考えられているのでしょうが、ちょっと待ってください。
この時代、大名、とまで行かずとも、ある程度の「家」の当主の葬儀ともなれば、それは単なる死者の供養にとどまるものではありません。葬儀において喪主を立派に務め上げるということは、次期当主として内外に公認されるための重要な第一歩なのです。これを、くだらない、ただの儀式ではないか、信長ならそう思ったはずだ、と考えるのは、あまりに「現代的」な解釈に過ぎるでしょう。
岳父・斎藤道三との対面、いわゆる「正徳寺の会見」において、普段通りの傾いた格好と、非の打ちどころのない正装とを見事に使い分け、蝮の道三を唸らせた一件からもわかるように、信長は、必要とあればいくらでも、礼にかなった振る舞いもできるのです。
その彼が、家中を掌握するための重要な儀式を、我と我が手でぶち壊したりするはずがない。そうは思いませんか? ――彼が本当に父の葬儀の喪主であったのなら。
そう、信秀の葬儀において喪主を務めていたのは、信長ではなく同母弟の信行(信勝)だったと考える方が自然でしょう。もちろんそれは、信行の支持者であった柴田や佐久間といった有力家臣たちの後押しによるもの、と考えられます。そして、信長の行いは、弟一派に対して当てつけをし、宣戦布告するためのものだったのではないでしょうか。
ただ、「信長公記」には、葬儀に当たって信長が銭を施し、尾張国内の僧達を集めた、との記述があります。これを素直に読めば、やはり信長が喪主だったということになるのでしょうか。
しかし、「信長公記」の著者・太田牛一は信長に仕えた人物であり、当然ながら信長贔屓です(まあ、それを言い出したら、別史料――他の人物の手紙や日記などで裏付けの取れるもの以外、何も信用できなくなってしまうのですが)。
実際には喪主である信行も当然銭を(おそらく信長以上に)出したのだけれど、牛一はあえてそのことに触れなかった、という解釈は可能かと思います。
また、ドラマや漫画などでよくある描写では、葬儀の真っ最中に信長がずかずか入って来て、抹香を投げつけてまた出て行ってしまう、といったようなイメージかと思います。
しかし、「信長公記」の記述だと、信長も林や平手など自派の重臣達を従えて最初から列席していたことになっています。しかも、家臣たちはともかく信長自身は傾奇ファッションで。
おいおいあんたら、自分たちの旗頭が葬儀を台無しにしようとしてるんだぞ、止めろよ、と言いたいところですが、このことも、彼ら信長派の家臣団が、葬儀をつつがなく執り行って当主としての立場を確立させたい側ではなく、それをぶち壊したい側なのだと解釈すれば腑に落ちるのではないでしょうか。
というわけで、上記の解釈に基づき、小説の一節っぽく仕立ててみました。
*****************************
梟雄として近隣諸国に名を馳せた織田信秀が、誰よりも彼に似た――否、間違いなく彼を乗り越えるであろう息子・信長に対して抱いたものは、愛情と信頼ではなく、嫌悪と忌避であった。そして、彼は自分の後継者に、信長の弟・信行を、と考えるようになった。尾張一国の主としては、信行のほうが相応しかろう――そう考えたのである。
だが、信秀はそのことを明言はせぬままに、四十そこそこの若さで病死する。
厳粛たるべき葬儀の席において、その少年は場違い極まりない異彩を放っていた。
長柄の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷、袴も履かぬいでたち。
後ろに従えた家臣たちは正装に身を包んでいるが、彼らが大真面目な表情で傾奇者に傅いているさまは、むしろある種の滑稽さを醸し出している。
そんな一団を、葬儀の列席者たちは畏怖、好奇、憎悪、さまざまな感情の入り混じった眼差しで見守っていた。
周囲の異様な雰囲気を気に留める様子もなく、僧侶たちの読経を欠伸交じりで聞き流していた信長は、不意に実の弟・勘十郎信行の方に向き直り、氷のような視線を投げかけながら、押し殺した声で言った。
「この兄を差し置いて、そちが喪主を務めるか。偉うなったものよな、勘十郎」
その氷刃にも似た眼光に対して、たじろぎの色を見せながらも、信行が平静を装った声で答える。
「父上の、御遺志でござる」
「……であるか。父上の、な……」
信長はそう呟くと、しばし押し黙った。無論、信秀の遺志というのは方便であろう。だが、父が信長を理解してくれなかった――あるいは、理解したがゆえに恐れた――ことは事実であった。
懸命に何かに耐えるが如き沈黙の後、信長はやおら立ち上がると抹香を摑み、
「信長、父上に御焼香つかまつる!」
一声叫んで、父の位牌に向けて投げ放った。
騒然とする列席者達の中、信行と、兄弟の母・土田御前、そして信行を擁する一派――柴田勝家ら重臣達の怒りの眼差しが、信長に集中する。
信長が投げ放った抹香。それはすなわち、彼らに対する宣戦布告に他ならなかった。
そして、信長の長い長い戦いが始まった。
*****************************
お目汚し、失礼しました。
でも、この解釈の方が、仏教嫌いをこじらせた(実際には、延暦寺や一向宗などの仏教勢力は憎んでも、仏教そのものを嫌悪していたわけではなく、むしろ当時のごく平均的な信仰心くらいは持ち合わせていたようですが)とか、若気の至りだとかより、信長らしい気がします。