プロローグ
「私の人生…何だったんだろう…」
左手首から薄いカーテンのように流れ、浴槽のお湯を徐々に濁らせるそれを見ながら小さく呟いた。
居間で両親が言い争っている声がかすかに聞こえてくるが、もうどうでも良い。
私の人生は今日、唐突に、全く予期していなかった形で終わってしまったのだ。
いや、始まることすらできなかったのか。
国内最難関の国立大学、今日はその合格発表の日だった。
両親は私が小さい頃からそこの大学に入学するためだけの教育をしてきた。
幼稚園から一貫校の私立学校で常にトップの成績だけを求め続けられてきた。
放課後は毎日塾に行かされて友達と遊んだ記憶なんかほとんどない。
流行の服も、テレビ番組も、食べ物も、遊び場も何も知らないまま18年の年月を過ごしてきた。
「この大学に入学し、優秀な成績のまま卒業し、一流企業に就職し、そこで初めてお前の人生が始まるん
だ。だから今は言うとおりにしなさい。」
そう言われ続けてきただけの人生だったから。
だから、合格発表者の中に自分の受験番号が無かった時は世界が真っ暗になったように感じた。
自分の殻を破れずに、暗闇の中で誰にも気づかれないままひっそりと死んでいく雛鳥のように。
何分、何時間か立ち尽くした後にハッと気が付き、関係者らしき人に「私が受けた学部の発表はここで合ってますか」と聞いてみたが現実は何も変わらなかった。
その場で座り込み、わんわんと泣いて何か色々と叫んだ気がする。
何が悪かったのか今でもわからない。予想ではほぼ満点に近い点数だったはずだ。塾の模試の判定も最高評価しか取っていなかった。解答欄がずれていたのか。何度も確認したはずなのに。
コートの中で携帯電話が何度も震えて母からの着信を知らせてくれていたがとても出る気にはなれなかった。
そのうち私は警備員だか、新しくできる後輩を祝いにきた在学生だかに引きずられるように敷地の外に追い出されていった。
そして、泣き叫んで歩いているところを若い男たちに声をかけられて、半ば無理やりどこかに連れていかれたんだった。
聞いたことのない音楽がガンガン鳴り響く狭い部屋で、男たちは親身になって私の話を黙って聞いてくれていた。最も、最初のうちだけだったけど。
勧められるままに渡された飲み物を飲んでいるうちに何が何だかわからなくなって、それでも私は情けない言葉を言い続けて、男たちが段々と近くに寄ってきて、押さえつけられて、それから、確か…。
思い出したようにズキリと下腹部が痛んだが、もう終わった人生なんだからどうでも良い。
家に帰ってきた時にはもう日が沈んでいた。
玄関から飛び出してきた母親は何か喚きながら私に平手打ちをしようとしたが、私の様子を気づきギョッとして、しばらく考えるように黙ってから「まずお風呂に行きなさい」と絞り出すように言った。
服を脱いでから私は思い出したようにカバンからカッターナイフを取り出し、チキチキと刃を出し入れしてみてからそれを持ったまま浴室に入った。
また左手首に目をやる。思ったより痛みはないが、赤いカーテンが流れ出るのは止まる様子はない。
(何分経ったっけ…今どれくらい出たんだろ…どうせ死ねない…どうでも良いか…)
男たちと飲んだ飲み物のせいか頭が痛い。意識もまだはっきりしないし吐き気もする。
(お父さん、お母さん…ごめんなさい…)
死のうとしていることにではない。
(期待に応えられなくて本当にごめんなさい…)
もう何も考えたくなくて目をつぶった。
簡単な設定だけの見切り発車です
フィリップことフィル君のファンタジーは次回からになります