「時間融資」のご利用は計画的に。
ふと思いついて気ままに書いた短編です。
難しい表現は極力避けていますのでご安心を。
「時間さえあればなあ…」なんて思った時にこそ読んでください。
「時間がない」、それが彼の口癖だった。
彼の名前は棚橋彰人。26歳。有名私立であるK大学を卒業し、現在は中堅の地方銀行に勤めるサラリーマンである。そして今彼は埼玉県のとある支店に勤務している。
銀行といえばお堅いところ、というイメージ通り銀行員はスーツをきっちり着こなし、クールビズの時期以外はしっかりとネクタイを結んでいる。スーツの質に関しては千差万別であるが、彼は7万円くらいの比較的質の良いスーツを着ているなど見た目にそれなりに気を使っていることもあり、一見するとやり手の営業マンのように見えるかもしれない。
しかし、実際のところ仕事振りに関しては微妙と言わざるを得ない。必要最低限のことはやるが、それ以上のことに関しては極めて消極的であり、残業も必要以上にはせず同僚よりも少し早めに帰るのが彼の日課だった。
彼、学歴もそこそこであるにも関わらず、なぜ仕事に情熱を注がないのか? それには大きな理由がある。
小説家! そう彼の夢は小説家になることなのだ。彼は高校生くらいの頃から小説を書き始め、サラリーマンとなった今でも小説家になるという夢を捨てきれないでいるのだ。
だが、現実はそう甘くない! 彼、既に小説を書き始めて10年近く経過するものの、未だ新人賞等の受賞歴がないのだ。しかも、最近は仕事が忙しく、学生時代のようにアイデアをじっくり揉んでいる時間がなく、そもそも執筆すらロクにできていない状態なのである。
ネタはある。書きたいこともある。だが時間がない!
自分の小説仲間の幾人かは、学校を卒業後も定職には就かず、フリーターをしながら執筆活動を行っている者もいる。だが、彼はそこまでの勇気を持てなかった。高い学費を払い学校を卒業させてくれた親や、将来的には結婚を考えている恋人のことを思うと、小説家になるというあまりにリスキーな賭けに出ることには躊躇いを覚えてしまうのである。
それでも彼は、仕事をしながらでも小説家になった人はいるのだから、俺だってサラリーマンをやりながら小説家になってやる! と密かに意気込んでいたのだ。
だが、現実はそう甘くない! 営業の仕事は予想以上にきつく、会社から帰った後も明日のスケジュールを考える日々が続き、仕事に取られる時間は増える一方であった。
小説を書きたいのに時間がない! 明日の契約とか、溜まっている事務仕事のことを思うと小説に打ちこめない! 彼は日夜苦悩し続けた。
それでも彼は、「時間さえあれば、俺だってきっと小説家になれる」「もっと研究して、もっと文章を磨くことさえできれば、俺にだってきっとチャンスがあるんだ!」という、希望的観測にも似た願いを捨てることはなかった。だから、時間がないと嘆きながらも小説を書くことを止めなかった。そしてそんなある日、彼の元に一人の男が現れたのだった。
「私、こういうものです」
差し出された名刺には、『時間銀行 さいたま支店 営業課 刻乃侑士』と書かれていた。彰人は唖然としながら、もう一度訪ねてきた男の顔をジッと見た。
彰人は髪を七三にピッチリ分けている男を見て、極めて清潔感のある好青年といった印象を持った。だが、そんな真面目を絵に描いたような印象の人がこんな素っ頓狂な名刺を差し出して来たのだから、彼には悪い冗談のようにしか思えなかった。
「あの、ふざけているのならお帰り下さい。俺こう見えて忙しいので」
部屋着を着て、寝ぐせを頭につけたまま言う台詞でもないようには思えるが、あくまで彰人は真面目にそう言った。
「おや、それはこれから小説を書く、ということですかね?」
男、刻乃の口から出てきた意外な言葉に、彰人は驚きを隠せなかった。
「な、なぜそれを?」
「あなたの小説を読ませていただいたからです。あなた、小説を投稿される時は実名で投稿されていましたよね? それに、それ以外にも私はあなたについて色々なことを知っていますよ」
そう前置きすると、刻乃はツラツラと彰人の個人情報を喋り出した。その中には、彼が他人には一度も話したこともないような情報も含まれていた。
「俺のことを調べて一体どうするつもりです? 調べてお分かりだと思いますが、俺は至って普通の人間であり、金になりそうなことは一つもありませんよ。投資信託について教えて欲しいのなら相談には乗りますがね」
「投信に関してはまた今度。今回はもっと大切な用件があって来ました」
「大切な用件? 人のプライバシーを勝手に調べ上げ、しかも自分は『時間銀行の行員です』と意味不明なことをおっしゃる人の大切な用件とはなんでしょうね? あまりバカにするようなこっちにも考えがありますが……」
状況の意味不明さに普段は寛容な彰人も流石に怒りを見せる。しかし、刻乃はこの期に及んでも笑顔を崩しておらず、あくまで冷静な口調でこう言った。
「申し訳ございません。ですがあなたを怒らせるために私はここに来たのではないのです。これから私が話すことは、決してあなたにとって損にはならないご提案なので、是非とも怒らないで聞いていただきたいのですが」
その口ぶりだと、また彰人にとって不愉快になるようなことを言われるのではないかとも彼は思ったが、自分にとって損にならない提案に興味がない訳ではなかったので、ここは大人しく彼の話を聞いてやろうと彰人は思った。
彰人が頷くと、彼は鞄からあるパンフレットを取り出した。そこには、こう書かれていた。
「『時間融資』……? なんです、これ……?」
「文字通り、お金の代わりに時間を融資するというものです」
「あの、意味が分からないのですが……」
要はこういうことだ。事業をはじめる時、社長は銀行からお金を借りる(「融資を受ける」と言う)。住宅を購入する時、その人はやはり銀行から融資を受ける。
「時間融資」は、お金の代わりに時間を借りるというものだ。例えば、5年という年月を借りるとすれば、その人は将来的に借りた5年と、そこから発生する利息分の年数を返さなければならないのである。5年間を融資してもらった場合、その人は同じ日を5年間繰り返すことができる。しかも、その間で得た知識や能力は継続して保有することができ、更に年齢を重ねることはないというのだから驚きだ! しかし一見すると万能であるように思える時間融資ではあるが、便利なものには当然代償が付きまとう。時間融資を受ける代わりに、その人は寿命(予め決まっている)から借りた分の年数を差し引かれてしまうのだ。当然、5年間の融資を受ければ5年間が差し引かれ、その人が亡くなるのは実際の寿命より5年早くなってしまうことになる。
「わざわざ寿命を短くしてまで時間を借りて、一体何の得があるっていうんですか?」
「そうですね、では分かりやすいように例を挙げて説明しましょう。例えば、あなたがプロ野球選手を目指している大学生だとします。あなたは非常に才能に恵まれており、プロ入りは間違いないと言われていました。ですがある日、交通事故に遭ってしまい、数カ月間をリハビリに費やすことになってしまいました。怪我の影響でスカウトの評価は落ち、このままでは恐らくあなたのプロ入りは難しいでしょう。しかし、プロ野球選手の選手寿命は決して長くありません。ここでプロ入りを逃せば、プロでの短い選手寿命を更に短くすることに繋がります。そんな時に、この『時間融資』が役に立つのです」
時間を融通してもらうことで、彼は人よりも多くの時間を練習に費やすことができ、その上年を取ることもない。才能のある人間であれば、人より多くの練習を積み重ねることで、怪我をする以前の能力に戻し、更にそれを上回ることもできるかもしれない。そうすれば彼の下がった評価は再び持ち直し、間違いなくプロになることができるのである。
「もしその人が3年間の融資を受け、利息が5%だとします。そして彼の定められた寿命が70年であったとします。お金の融資とは違い、時間融資の利息は寿命に対して掛かってくるものなので、70×5%=3.5年となり、この場合は切り上げとなるので4年間となります。そして彼は元々3年間の融資を受けているため、将来的に彼が返さなければいけない年数は3+4の7年となります。この様に、通常の融資とは仕組みが異なりますが、時間融資の仕組みは以上のようになります。ご理解いただけたでしょうか?」
「まあ、仕組みは分かりましたが、全く納得はいきませんし、少しも現実味が湧きませんね……」
彰人の言うことももっともだ。いきなり家にやってきてそんな話をされたところで、普通の人間であればそんなこと納得できる訳もない。そこで、刻乃は彰人にある提案を持ちかけた。
「では、あなたにも理解して頂けるように、時間融資を少しだけ体験していただきましょう。あ、これはあくまでデモンストレーションですので、あなたの寿命になんら変動はございませんのでご安心を。では、まずは1分間だけ時間をループさせてみせます。よく見ていてください」
刻乃がそう言うと、数秒後家のインターフォンが鳴り響いた。彰人は刻乃を邪魔だなと思いつつも、訪ねてきた客の対応を行った。
「お届けものでーす」
客は宅配業者であった。彼は実家からの贈り物を届けて来てくれたようだった。
「仕送りですか? 優しいご両親ですね」
刻乃がそう言うのを軽く流し、送られてきた段ボールを部屋の中に入れた所で再び刻乃が言った。
「はい、これで1分間終わりです。ではこれから時間融資のデモンストレーションをはじめます」
彼がそう言うや否や、再び家のインターフォンが鳴り響いた。相手はやはり宅配業者だった。彼は不審に思いながらも再び彼を出迎えた。
「お届けものでーす」
「どうも。何か忘れ物ですか?」
「え? あれ、私前にも窺ったことありましたっけ?」
「は? 前って、さっきあなたウチに来たばかりじゃないですか? あれ、手に持っているそれって……?」
「あ、これはあなたへのお届けものです。ご印鑑いただいてもよろしいですか?」
彰人はまったく納得がいかなかったが、止むなく宅配業者の言われるがまま印鑑を押した。彼が混乱したまま段ボールをさきほど置いた段ボールの横に置こうとするも……
「あれ、さっきの段ボールがない……」
「仕送りですか? 優しいご両親ですね」
「は? もしかして、あなたここにあった段ボールをどこかに持って行きましたか?」
彰人がそう尋ねると、刻乃はニヤリと笑った。なお彰人が訝しがっていると、刻乃は言った。
「これが時間融資です。今、私は同じ1分間を繰り返させていただいたのです」
「え? それじゃ、今宅配業者が2回来たのは……」
「はい、時間融資によるものです。実際には彼は1回しか来ませんでしたが、同じ時間を繰り返したので2回来たように見えただけです」
そんなバカなとは思いながらも、彼にはそれを否定する術がなかった。実際に彰人は2回同じ用件で来た宅配業者に会ったのだ。そして2つ送られてきたはずの荷物が今は1つしかない。
これは、本物かもしれない……。彰人は尚も疑いながらも、刻乃が本当に「時間融資」とやらを扱えるのではないかとも思った。しかし、そんなことができるのだとしたら、この人は一体何者なのか? こんなこと、未来のネコ型ロボットでもなければできるはずがないというのに。
「あなた、本当に一体何者ですか……?」
「そうですね、寿命をいただくという意味では、”死神”、といったところでしょうか。決して私はあなたに不幸をもたらしているつもりはありませんがね」
死神とは、また随分とファンタジックな話だなとは思いつつも、それ以外に表現のしようがないことは、彰人も理解していた。
彼には夢があった。そして彼の口癖は「時間がない」である。もし、その時間があるのだとしたら……。死神によって寿命が削られると言うのはあまりに荒唐無稽かつ大きなリスクを孕んではいるが、そんなものすら霞んでしまうほど、彼は夢を叶える可能性のある「時間融資」とやらが魅力的に映ったのだ。
「ご興味を、持っていただけたのですね?」
全てを見透かしたような刻乃の笑顔は腹が立つが、今はそんなことを気にしていられない。彼は首肯を返答とした。
「ありがとうございます。では、具体的にあなたは何年間のご融資を希望されますか?」
彰人は頭を捻る。彼は今まで新人賞などの受賞歴が全くない。小説仲間には君の文章は上手いと言われることもあるが、実際に賞の受賞歴がないことからも、彼には何かが足りていないことは明白だった。
彰人はもし時間をもらえれば、今まで以上に沢山の書籍を読み、文章を基本から徹底的に鍛え直したいと思っていた。そんな彼にとって、「時間融資」という代物はまさに渡りに船といったところなのだ。
実際彼は今まで10年近く小説は書いていたが、学生の頃は好きな内容をただ垂れ流していただけであり、実際に彼がプロになりたいと考え始めたのは大学3年生の時だった。しかしその時にはすでに就活やら論文やらで忙しく、就職してからは仕事のことでてんやわんやになり、結局彼がプロを意識していから本格的に執筆活動に打ちこめた期間は実はほとんどなかったのである。つまり、しっかり打ちこめる期間さえあれば勝機はあると彼は考えたのである。
「5年ですかね。5年あれば、俺はプロになれるくらいの実力を身に付けることができると思います!」
「5年ですか、なるほど。あなたの能力を考えると、ウチとしては5年のご融資がギリギリといったところでしょうか」
つまりはこういうことだ。通常、企業へ融資をする際、銀行員はその会社の能力・体力・成績であるところの「決算書」と呼ばれるものを分析して融資の可否を判断する。その内容が悪ければ、融資の金額は少なくなるし、反対に内容が良ければ金額を増やすことが可能となる。時間融資の場合、企業でいう決算書の代わりに、時間銀行はその人間の能力・実績を根拠に融資する年数を判断するのだ。
「例えば、アスリートで言えば、大会での順位や、タイムの速さが融資の根拠となります。そしてあなたのような小説家志望の方でしたら、やはり一番の根拠は賞の受賞歴となるでしょう。ですが、あなたのように実力はあるのに受賞歴のない方もいらっしゃいます。しかしそういった方はお断りするのかと言われると決してそんなこともありません。実際に行員がその方の小説を読ませていただいたり、今のように面談をして熱意の程を窺ったりします。この様に総合的な観点から、融資の可否を判断させていただくのです」
刻乃曰く、既に彰人の小説は大方読了済みとのこと。そして、熱意は今の会話からしっかり伝わったとのことだった。
企業でいう「決算書」の様に、彼の能力が数値化されたデータを刻乃は既に所持しているという。それはこれまでの彰人の個人情報を分析した結果だと言う。そういった”定量的”な観点に加え、彼のプラン、熱意その他諸々の”定性的”な要因を総合し、彼に提案できる条件はというと……
「融資期間は5年、利息は15%、といったところでしょうか」
「ん? さっきと比べると随分と利息が高い気がしますが……」
「いいですか? 失礼ながら、あなたの携わる銀行の融資であれば、あなたは業界において全く実績のない新設会社の社長なのです。事業計画にも穴が多く、完璧であるとは言い難い。だが、あなたの会社の運営能力には光るものがあり、情熱も人一倍ある。そこは非常に大切なポイントだ。ですが、それは裏を返せばそれ以外推し所がないということでもある。そのような企業に、あなたは好条件でお金を貸し出すでしょうか?」
刻乃の物言いに彰人はぐうの音も出なかった。確かに、そんな危ない会社にお金を貸したらお金が返って来なくなる可能性は非常に高い(「焦げ付く」と言う)。それでも刻乃は、あなたにセンスがあるような気がする(勘)し、あなたの熱意が凄いのでお金を貸してあげますと言っているのだ(実際は時間だが)。そんなこと、普通の銀行であればあり得ない。それを彼はやろうと言うのだ。そう考えると。条件面に文句を言う資格が彰人にあるとは彼自身も全く思えなかった。
いつか時間は生まれるさ、などと悠長に構えていてはいつまで経っても機会に恵まれることはない。ならば、挑戦するなら今しかない。若いうちに賞を受賞できれば自然と人の目に自分の作品が触れる機会も増える。それに、彼自身自分の老後になど興味はなかった。年をとれば想像力は否が応でも衰える。作家にも全盛期というものがあって、そしてそれがいつか分からない以上、彼が勝負をかけるのは今しかないと彼は信じた。もはや、そんな彼にこの融資を断る理由はなかった。
「分かりました。5年、15%で融資をお願いします!」
「よくご決断されました。それでは、ご融資の実行の前に、確認しておくことがもう一つあります」
最終確認事項は、あくまで返済するのは、”小説家になる夢を叶えたあなたの未来”だということだ。
「もし、あなたが5年の融資を受けながら、夢を叶えられなかった場合でも、当然ながら融資のご返済を免れられるわけではありません。そして、もしあなたが小説家にはならず別の人生を歩まれたとしたら、返済は当初の15%ではなくペナルティが課されることになります」
「ぺ、ペナルティとは、一体……?」
「利息が変わります。具体的には20%の利息が課されることになります(出資法の上限金利)」
「高っ!? あ、でも、元の利息と5%しか差がないんですね」
それは元々の金利が高いからですとは刻乃は敢えて言わなかった。何にせよ、彰人が小説家になる夢を叶えられなかった場合、寿命の20%を削られると言う大きなリスクを負うことになったわけだが、彼の熱意はそれで削がれることはなかった。
彼は契約書にサインし、もしもの時のために登録してあった実印を押印した。
一度持ち帰ってよく考えてみる、という手もあったはずだが、彰人はもはや引くことは考えてはいなかった。こうして契約は成立した!
「ご利用ありがとうございます。5年間を有意義にお過ごしください」
刻乃はそう言って満面の営業スマイルを彰人に向けた。この瞬間、彼の時間融資は幕を開けた。彼はそれから予定通り、同じ一日を5年分繰り返すこととなった。
これまで読めていなかった小説を読みあさり、名著と呼ばれる古典の表現を引用してみたりと、日夜研究に明け暮れた。
そしてそれから……30年の月日が経過した。
彼、棚橋彰人は56歳になっていた。
「棚橋先生、先日発売の新作読ませていただきました! いやあ、今回も流石の出来栄えでしたね!」
「ありがとう。いつも読んでくれて嬉しいよ」
棚橋彰人といえば、もはや知らない人はいないくらいの売れっ子作家になっていた。売れっ子でしかも、そろそろ大御所と言われてもおかしくないほどの年齢だ。並の人間であれば天狗になってしまうだろう。しかし彼の作品はもちろん素晴らしいが、それ以上に彼の人柄に惹かれる人も多いと聞く。出版社で働く彼、西島瑞稀もそんな内の一人だ。彰人と一緒に仕事をし、それがキッカケで彼の熱狂的なファンになったのだとか。
「いえいえ、私は先生のファンですので当然ですよ。それにしても先生、ご多忙なのに、よくこれだけ濃密なお話をこの短期間で書かれましたね。寝る時間もなかったんじゃないですか?」
「いやいや、幸いなことに、若い頃に書いたネタ帳が役に立ったおかげでそんなに時間は掛からなかったんだよ。もちろんある程度の取材はしたのだがね」
そう言って、偉そうな素振り一つ見せず、彰人は若い西島に対しても気さくに笑いかけた。彰人は若い人を見ると昔の自分を見ているような気がして微笑ましい気持ちになった。そして同時に、あの時の奇妙な銀行員のことと、まるで永遠ともつかない終わりなき修練の日々が想起され、また自分がその代償として自分の命を大幅に縮めたことを強く意識させられるのだった。
一体いつ、自分は死ぬのだろうか? それを考えない訳にはいかない。
幸いなことに、5年間の努力は実を結び、彼は数々の賞を受賞し、一躍有名作家の仲間入りを果たした。自身の小説を原作としたドラマや映画が公開され、それなりのヒットを見せたこともあった。私生活では学生時代から付き合っていた女性と結婚し、二児の父となった。順風満帆だった。なのに、この幸せがある日一瞬にして終わるかもしれないという恐怖が同時について回り、彼は心からこの人生を楽しむことができないでいた。そしてそれは、50代になり尚のこと強くなった。
それでも、彼はあの時の自分の判断を後悔するべきでないと思った。
代償は大きかったが、彼は夢をかなえた。それは、あの銀行員のおかげなのだ。「時間融資」が人生を変えたのだ。時間がないと嘆き続けてきた彼に時間をくれた。あの融資がなければ、彼は今間違いなくここにいないだろう。
あのまま忙しすぎる日々を過ごしていては、いつか過労で死んでいたかもしれない。そう考えれば、自分の縮んでしまった寿命であれども恐れるには足りない。堂々巡りの後、彼は最終的にそう自分を納得させた。
「棚橋先生? どうされました? 体調でも悪いのですか?」
よほど暗い顔をしていたのだろう、西島が彰人の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「い、いやいや、失礼。最近ちょっと寝不足でね。少し眠れば元気になるさ」
「そうですか。あまり無理はいけませんよ先生。あなたに倒れられては、私の楽しみがなくなってしまいますから。それに、娘さんの出産、そろそろじゃないんですか? お孫さんが生まれた日に寝込んでいてはおじいちゃんの顔を覚えてもらえませんよ?」
そう言って西島は笑った。彼の言う通り、彰人の娘は現在出産のために病院に入院しているのだ。出産まではそうかからないだろう。
「それもそうだな。休める時に休んでおかなければならないな。いやいや、君の言う通りだ。それでは、私はお暇するよ。連絡があれば、すぐに娘のいる病院に駆け付けられるように……」
彰人がそう言いかけた時、彼のスマホの着信音が鳴った。彼が電話に出ると、娘の夫と共に病院にいる妻の慌てた声が彼の耳に届いた。どうやら、孫が生まれるまでそれほど時間はかからないようだ。
「どうやら間に合いそうもないな。だが、生まれたら私は孫と沢山遊んでやるつもりだから、すぐにでも仲良くなってみせるよ。それでは西島君、君も早いところ嫁さんを見つけなさい」
「痛い所つきますねえ……。まあとにかく、無事に生まれることを祈っていますよ」
西島がヒラヒラと手を振る。彰人は笑顔のまま彼の横を通り過ぎていった。
そしてそれが、西島の見た最期の彰人の姿だった。
交通事故。自動車三台による玉突き事故に、歩行者2名が巻き込まれ、その内1人が死亡した。
死亡した人の名は、棚橋彰人。有名作家の事故死のニュースは、瞬く間に日本中に広がった。そしてそれは、娘のいる病院にも伝わった。
新しい命の誕生。掛け替えのない喜び。しかし同時に、ぽっかりと心に穴が開く。埋めようのない哀しみ。相反する感情が渦を巻き、生まれた灰色の雲から叫びにも似た雷鳴が轟く。それはまるで、彼を亡くした人々の嘆きが寄り集まったもののようだった。
それでも、何が起こっても、棚橋彰人は帰ってはこなかった。
彼の命運は、もう尽きてしまったのだから。支払った代償が、ようやく終わりを告げたのだから。
彼を見送る儀式が終わると、火葬場の煙突から煙が上がった。
その煙をスーツ姿の男が眺めている。それは見覚えのある男だった。
そして彼が言った。
「ご利用、ありがとうございました」
刻乃侑司は、薄く笑った。
特に続かない。