もしも貴族がノブレス・オブリージュを忘れたら
プロローグ
建設途中の超高層ビルの一部が崩落した。高さは約三百メートルほど。落ちてきた建材は五百キロの鉄板。速度は時速二百五十キロメートルほどに達するだろう。僕がその計算に要した時間はおよそ三秒。二秒で落下地点に女性を見つけ、危ないと注意した。
否、しようとした。
気づいたときには落下地点の数メートル先に横たわる女性と、上半身と下半身が泣き別れている僕の身体があった。つまり、僕は柄にもなく身を挺して女性を突き飛ばしたらしい。紗がかかっていく意識の中、僕が考えたことはただ一つ。
ああ、これで死ぬのかという感慨と、もう少し生きていたかったなあという僅かな悔恨だけだった。
こうして僕、数学者の野々宮恭弥は死んだ。
***
「はーい、早く起きてください野々宮さん。いつまでそんなところで転がってるつもりですか〜?」
あれ、おかしいな。僕は死んだはずだから人間の声が聞こえるはずがないんだけどなあ。まさか上半身と下半身が泣き別れになっても生きていられるような機能を僕は隠し持っていたのか!
そこまで考えたとき、腹部に軽い衝撃。どうやら蹴られたらしい。
「何するんだよ! 痛い…」
思わず飛び起きると、僕の目の前には女神が立っていた。というか、あまりにもありきたりな女神、という表現の方が正しいだろうか。
抜けるように綺麗な蒼い髪に、シミ一つない純白の肌。顔立ちは西洋の貴族の娘のように清楚で、月並みだが美しいとしか表現できない。
服装も独特で、白色と青色が基調の『天女の羽衣』のような服を身に纏っている。人間離れした美しさと雰囲気に圧倒された僕は思わず文句を途中で止めてしまった。
周りは完全な暗闇なので、何もない空間に正体不明の美女と一緒にいるという奇怪な現象が僕を襲っている訳だ。彼女からは光が溢れ出てきているような錯覚さえ覚え、思わず僕は眼前の女性を凝視してしまう。
「どうした? 私の美しさに見蕩れるのは自由だけど、文句ぐらい最後まで言いたまえよ」
声も鈴を転がしたように軽やかで、どこまでも想像上の『女神』だ。だが、そんなことよりも疑問が山ほどある。
「あなたは誰なのですか? というか、ここは何処で僕はどうなったのですか?」
僕の質問に女神らしき女性は一瞬目を見開いて硬直すると、おなかを抱えて笑い出した。
「いやあ、君は面白いなあ! ここに連れてきた人間は大抵死んだ瞬間のことを思い出して発狂するか、私の『誘惑』に負けて廃人になるかなのだけれどな。君みたいに冷静に私に質問をした人間は初めてだよ。で、何だっけ?」
大笑いされたこともショックだが、それよりもまず数秒前の質問を忘れないでほしい。僕はここがどこなのか、僕はどうなったのか、そして目の前の女性は何者なのかを尋ねたのだ。
「そうだった。いやあ、君はやっぱり予想以上に面白いなあ! ところで私の正体だったか。私は君の想像通り『女神』だよ。そしてここは所謂『三途の川』のほとりだよ。つまり君は私が面白いと思ったから死後、この場所に呼んだということだ」
説明されてもあまりよく判らなかったが、どうやら僕は現実世界でちゃんと死ぬことが出来たらしい。
「ねえ、今君は『ちゃんと現実世界で死ぬことが出来てよかった』って考えたでしょ?」
なんで分かるんだこの女は。
「だってここは私の治める場所だよ? 人間ごときの思考を読むくらい、造作もないことだよ。そうでもしなきゃ、君とこうして会話することさえままならないよ?」
造作もないことなのか…恐るべし『女神』。まあ、そのおかげでどうやら日本語で会話できているようだが。英語の出来ない僕としてはありがたいことだ。
「ま、そんなことを考えるような異常者だから私は君をここに呼んだんだけどね」
「で、私は何をすればよいのでしょう? あなたは私に何かさせようとしているのではないですか?」
僕の問いに『女神』は艶然と微笑むと、虚空から椅子を取り出して座った。
「私の仕事は死者の向かう場所を調整すること。大概の人間は行く場所が決まってるんだけど、中には決まってない人間もいるんだよ。そういった人間をここに呼んで、行く場所を決めてもらってるって訳」
「ちなみに死後に行く場所が決まってる人と、決まってない人の差は何なんですか?」
「現実世界で死ぬ予定だったか、そうじゃないかの違いだよ」
あっさりと死ぬ予定だったとか言われてもよく解らないんだが…
「あ、死ぬ予定だったっていうのは、運命上死ぬしかなかったっていうこと。君たち人間は『運命』って呼んでるのかな? その人その人で生きられる年数の最大値は決まってて、その最大値がくれば人間は自然に死ぬんだよ。でもたまにその最大値を使い切る前に死んじゃう人がいるのよ。これも多分君たちは『運命』というのだろう? そういった人は死んでもまだ行く場所が『決まってない』んだ」
「じゃあ、僕はあなたが行ってほしいところに行くことにします」
僕の言葉にまたもや硬直する女神。たっぷり四秒は固まった後…
「え、ちょっと意味がよく解らないかな? なんで私の話を聞いて、自由に行き先を選ぶ権利を捨てることにしたの?」
と首をかしげながら言った。
「だって、何も知らない土地に行く方が、自分で選んだ土地に行くより楽しいじゃないですか」
そういうものなのかと呟きながら首をかしげる『女神』に、そういうものなんですと強く首肯する僕。
「君はなぜそんなにおもしろいんだろうね? じゃあ、そうだな…あそこの世界に行ってもらおうか。あそこに人間を送り込んだことは一度も無いけど、君なら何とかするだろう」
「ちなみに、どんな所か聞いても?」
「いわゆる『異世界』だよ。基本ベースは中世で、強い身分階級に苦しむ人たちがいっぱいいるような所。君はそこで司教になってもらおう。身分階級では上から二番目だね」
なんでそんな妙な世界が作られたのか甚だ疑問だが、おもしろそうな世界だ。腹もすでに括れている。準備は万端だ。
「じゃあ行ってらっしゃい。楽しんできてねー!」
『女神』はそんなことを言いながら光の輪を出現させ、僕にそこをくぐるように促す。
「それじゃあ、行ってきま
最後まで言う前に意識が飛んだ。
***
「あの…聞いておられますか…?」
あの女神にしてはえらく下手に出たしゃべり方をするじゃないかと不思議に思い、そんなはずはないと驚いて完全に覚醒する。
妙になじみ深い机。壁に掛けてあるタペストリーも妙に既視感がある。どうやらここは僕の執務室のようだ。目の前にはボブカットがよく似合う可愛らしい女の子。年は十五ぐらいだろうか。
「この度、野々宮様のお手伝いを拝命しました、神崎菜々美です。よろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくお願いします、神崎さんと呼べばいいですか?」
「そんな司教様が私に『さん付け』なんて…お願いですから呼び捨てにしてください!」
半分泣きそうな顔で嘆願する少女を、じゃあ神崎さんと呼びますと言って大泣きさせてしまう。
こんな、普通では考えられないような状況だが僕にはすんなり飲み込めていた。あの光の輪をくぐった瞬間、この世界での『野々宮恭弥の情報』が頭の中に刷り込まれたからだ。人の記憶を上書きするなんてこともあの『女神』にとっては造作も無いことなのだろう。
日本人が『司教』なんてしまらない話だが、この世界では普通のようだ。また、司教には補助司教の代わりに『お手伝い』が最低一人つくらしい。あれ、確か『女神』に刷り込まれた記憶では宮崎結羽という名の『お手伝い』が付くはずなのだが…
「あのですね…本来野々宮様の『お手伝い』に付くはずだった女の子…宮崎結羽っていうんですけど、結羽は私なんかよりも可愛くて、それなのに人一倍努力するようなすごい子なんです! そのせいか、彼女はある司教様がお気に止めまして…その代わりとしてなんですけど、私みたいな未熟者が『お手伝い』にあたることになりまして…本当に申し訳ありません!」
「自分のことを悪く言うのはやめた方がいいですよ? 誰も幸せになりませんから」
僕の言葉に明らかにしょんぼりする神崎さん。
「でも、神崎さんはとても友達想いなんだね。それはとても伝わってきたけどね?」
今度は僕の言葉にとてもうれしそうな顔をする神崎さん。本当に表情が豊かな人だ。
ふと、僕の『お手伝い』になるはずだった子を横取りした奴のことが気になったので、少し神崎さんに聞いてみる。
「ちなみに、その宮崎さんに目を付けたっていう司教は誰なの? 神崎さんは知ってる?」
聞いた瞬間、嫌な予感に襲われ、思わず眉をしかめる。神崎さんは少し逡巡すると、どこか言いにくそうにその名を言った。
「それは…川島翔太様です」
うわあ、こんなところでその名を聞くことになるのかという暗惨たる気分に襲われる。
川島翔太とはこの世界での『野々宮恭弥』が最も苦手な奴だ。川島は役職が『調査官』で、僕が『弁護官』だからか、僕とは考え方が根本的に違うのだ。そのせいか、全く話が合わない。しかも、偶然だろうが元の世界でも同じ名前の奴にさんざんひどい目に遭わされた記憶がある。つまり、僕は川島翔太が大嫌いなのだ。おそらく、今回の『お手伝い』の入れ替えも、奴が嫌がらせの一環でしたことなのだろう。
「あの…大変申し上げにくいことなのですが…」
「どうしたの? 何かあるのかい?」
何かを言いにくそうにしている神崎さんに続きを促すと、彼女は一つ頷いてから答えた。
「川島様は結羽の真面目さを買っておられるのではないのです…夜な夜な、結羽にその…屈辱的なご命令を繰り返していると結羽から相談されまして…」
頬を羞恥に染めて話す神崎さんの姿に、鈍感な僕も流石に何があったか察した。
「それ以上は言わなくていいよ。大体察したから。本当に最近そういうの多いよね…僕も『司教』なんてやってるから、あんまり人のことをいえる訳じゃないけど…」
「いえ、そんなことはないですよ! 野々宮様は司教様の中で一番評判がいいですよ! 結羽も野々宮様の『お手伝い』になれると言って、とても喜んでおりましたし!」
ちょっと待って、なんで僕の評価はそんなに高いの? 内心首をかしげつつ、この世界の『身分階級』を思い出した。
この世界では教会での階級が絶対の身分階級を形成している。最上位に教皇が君臨し、その下に僕たち十二人の司教が並ぶ。その下は司祭、助祭、一般市民と分かれている。司教から一般市民まで一律で教会への寄付額で階級が分かれているので、そうそうそれが覆るようなことはない。
また、たとえ上流階級の人間が法に触れるようなことをしてもその罪は簡単に揉み消せるし、そもそも告発する人間もいないようなほど、その身分差別的な考え方は市井まで広がっている。それもそのはず、この世界では教会の権威に異を唱えることは死を意味するからだ。反教会的な言動がもし教会にばれたら教会騎士隊が治安の維持を名目に逮捕、連行するからだ。
それをいいことに教会内部は腐敗し、権力者たちの大半は自らの保身と淫堕に興じることしか考えない者になった。
「私の父は私に『たとえ司教様にお仕えするような身分になっても、絶対に自分より弱い者を切り捨てたり、ましては虐げてはならない』と。私は教会に逆らうことは出来ませんし、川島様のなさっていることに口出しできる分際ではないことぐらい弁えております。でも、結羽が私の目の前で泣きながら私に抱きついてくるのを見ていると、私は結羽の友人としてとても怒りを覚えます」
「神崎さん。君の、そして君のお父様の言っていることはとても正しいことだ。この世界では教会の権威が絶対だが、そんなものは本当はくそ食らえなんだ」
教会を侮辱するようなことは本来口にしてはならないことだし、現に目の前で神崎さんはとても狼狽している。でも、それでも僕は口にした。それほど僕は怒っていた。
「権力が何だ。地位が何だ。人間の真価を決めるものはそんなものじゃないだろう。人間が人間たる所以は『他者のことを慮り、行動してあげられること』なんじゃないのか? 今回ばかりは無関係ではないし、見過ごすわけにはいかないな。川島の所に文句を言ってくる。それで、改善されないようななら教皇に進言して川島の役職を罷免してもらおう」
ずかずか歩き出した僕の背に、神崎さんが感謝の言葉をかけているのが分かる。
「だから私もみんなも野々宮様のことが好きなんですよ…」
ちょっと待った。
「え、何だって? 今、僕のことがどうとか聞こえたが?」
「何でもありませんよ! さ、行きましょう!」
頬をほんのりと朱に染めていることから何もなかった訳ではなさそうだが、問い詰めてもどうにかなる類いのものでもないことぐらい僕にでも分かるので、仕方なく川島の部屋に向かう。
なんだか気勢をそがれたような気がするんだが…
***
僕が川島の部屋の前にたどり着くと、中から少女の悲鳴が聞こえてきた。慌てて中に押し入る。
そこは悪意と悲しみが渦巻く場所だった。恐らくは宮崎さんだろうと思われる少女が一糸まとわぬ姿で跪いている。それを欲望でぎらぎらと光る目で見つめている男─川島だ。
すぐさま少女に駆け寄り、自分の羽織っていたジャケットを着せ、川島と対峙する。
「貴様、何をやっている! こんなことが許されると思っているのか!」
「やあ、久しぶりじゃないか野々宮君。今度は正義のヒーローを気取って何のつもりだ? そこにいるのは僕の『お手伝い』だ。そして僕は司教だ。つまり、何も咎められるようなことはないんだよ。それとも何か。宮崎君が君に直接抗議しに行ったのか?」
「いや、そんなことはないが…」
何故か奴の勝ち誇ったような表情に一抹の不安を感じる。こいつは何か策があるのだろうか?
「そういえば、僕はこんなものを持ってるんだが、見たいかい?」
大袈裟な言い回しをしながら川島が取り出したのはミュージックプレイヤーのようなものだった。それの再生ボタンらしき所を押すと、流れてきたのは僕の声だった。
「…この世界では教会の権威が絶対だが、そんなものは本当はくそ食らえなんだ。権力が何だ。地位が何だ。人間の真価を決めるものはそんなものじゃないだろう。人間が人間たる所以は『他者のことを慮り、行動してあげられること』なんじゃないのか…」
「さあ、これが何か分かるかな野々宮君。これは君が教会の権威に対してあからさまな批判をした証拠だ。君には悪いが、君の執務室に盗聴器を仕込ませてもらったんだ。そして君の言動を監視していたんだよ」
「他者の部屋に盗聴器を仕掛けるなんてこと、例え同じ司教様に対してでも、許される行為ではないのではありませんか!」
声を上げたのは神崎さんだ。口調は激しく川島を責めているので、逸礼行為と咎められそうな言動だったが、何とか咎められずに済みそうだ。
安心する一方で、その程度のことを川島が考えていないとは考えにくいなと僕は心配になった。川島はもっと狡猾な男のはずだ。
「君は確か、野々宮君の『お手伝い』の神崎君だったね。いや、主人を想う気持ちが強いようで結構結構。だがね、私は咎められることはしてないのだよ」
ほら、やっぱり何にかの策を持っていた。あ、まさか…
「どうやら聡明な野々宮君は気がついたようだね。そう、僕の役職を思い出してくれたまえ。僕の役職は『調査官』だから、他者の部屋に盗聴器を仕掛けるぐらいのことは職務の一環として出来るのだよ! 加えて君は日頃から教会に対しての不満を口にすることが多いと聞く。こう言っては何だが、盗聴の理由はいくらでも作れるのだよ」
「さすがは『調査官』の川島氏だ。僕はまんまと貴方の手のひらの上に乗せられたということですね。で、貴方は僕にどうして欲しいんです?」
大体想像はついていたが、あえて川島に尋ねてみる。案の定、川島は口角を歪めて、うれしそうに答えた。
「話が早くて助かるよ! いやあ、その聡明さを失うのは教会としても、また一同僚としてももったいないと想うし、何より私と君の仲だ。少しくらい融通があっても構わないと思うんだよ。というわけで取引と行こうじゃないか」
「取引? 一方的な取引には応じないぞ?」
「まさか、そんなことをするはずがないじゃないか。君に望むことは、今後一切私と宮崎君の関係について詮索、言及しないこと、そして今の君の『お手伝い』である神崎君を私に譲ってもらえないか? それが呑まれるのなら、今ここで君にこのレコーダーを渡そう。煮るなり焼くなりして、好きに処分するといい」
何が『そんなことをするはずがないじゃないか』だ。一方的すぎる条件と、『お手伝い』たちの人権を完全に無視した発言に怒りを覚えつつも、静かに尋ねる。
「で、もし僕が貴方の条件を呑まなかった場合はどうなるんですか?」
「その場合はもちろんこのレコーダーを教皇に提出するよ。最低でも罰金、最悪の場合は罷免だろうね? 君が断れば僕は神崎君を手に入れられず、すねに傷を持ちながら生活することにはなるだろうが。でも、僕が『告発者』になるわけだから、君の財産や土地は全て僕に譲渡されるだろうが。 まあ、君ほどの聡明なひとなら、条件を呑んでくれると期待しているよ?」
横にいる神崎さんと宮崎さんが『罷免』と言葉にはっと息を呑み、僕に自分のことは気にせずに条件を呑んでくれと視線で訴えてくる。
だが、僕の心は決まっていた。
「もちろん、拒否させてもらうよ」
「おい、ちょっと待て。これはただのこけおどしではないぞ? 政治生命はおろか、人生すら棒に振るつもりか? たとえ条件を呑んだとしても、君は何も損をすることはないんだぞ?」
やっぱり、この男とは最後まで意見が合わなかったなあと場違いな感想を抱きつつ、僕は川島を正面からにらみつける。
「貴方はたかが自分の権力を維持するくらいのことで僕が貴方になびくと思ったのですか? だとしたら、とても見くびられたものですね。僕の権力なんて、この少女たちの人権に比べたら遙かにちっぽけなものですよ。少し話が逸れますが、僕が前にいた世界の話をしましょう。そこでは、一部の特権階級の人間には『ノブレス・オブリージュ』という考えがあったんですよ。選民意識と言い換えても構わないでしょう。力を持つものは、その力をきちんと自覚し、無闇に振りかざすのではなく、弱い立場の人を守るために使うべきだという考え方ですね。僕はこの言葉がとても好きなんですよ。『守る』だなんてちょっと横柄な感じもしなくはないんですが、言いたいことはとても納得のいくことなんです。僕はこの世界でも『司教』という力はそういうことに使いたい。だから僕は貴方の条件を呑まなかったんです」
川島は呆然とした面持ちで「信じられない…権力を失うことが怖くないなんて…」と呟いているが、この男には一生分からないことだと思う。権力なんかよりも遙かに大切なものがあるということに気がつかない限り分かるまい。
「では仕方ない。私としても大変不本意ではあるが、このレコーダーを教皇に提出してくる。君たちはこの部屋で通達を待つといい」
そう言い残して川島は部屋から出て行った。ドアが閉まると同時に神崎さんと宮崎さんが駆け寄ってきた。
「野々宮様! 何故条件をお呑みになってくださらなかったのですか! 私が川島様の所へ行けば、万事うまくいったのでしょう?」
「そうですよ! 先ほど、野々宮様は権力を維持するくらいならとおっしゃっていましたが、最悪の場合野々宮様の人生すら棒に振るのですよ? それなのに私たちのために条件を呑まないなんて…」
彼女たちの必死の抗議に思わず苦笑いが出る。確かに僕の人生もここで棒に振ることになるかもしれないのか…ちょっと残念な感じもすると思いつつ、ある妙案が頭をかすめた。
「ねえ、君たちは階級は何なの?」
僕の唐突すぎる質問に一瞬ぽかんとしていたが、すぐに勢い込んで答えてくれた。
「えっと、私は川崎様にお仕えしたときに助祭に昇進しました」
「私は一応司祭です。でもこれ以上の階級は望めないでしょうし…」
「ならいけるか…僕に考えがあるんだけど、君たちは僕を信じてそれに従ってくれるかい?」
これは一種の賭だ。この賭に乗れば、間違いなく彼女たちの人生は変わる。だが、彼女たちはその内容を聞かずに応えてくれた。
「もちろんじゃないですか! 私は野々宮様の『お手伝い』ですし、たとえそうでなかったとしても野々宮様のお願いなら喜んで聞きます!」
「私だってもちろん従いますよ。野々宮様はいつだって私たちのことを考えてくださってますもの。こんなことを言って良いのか分かりませんけど、私は野々宮様が大好きです!」
「あー! 結羽だけ抜け駆けなんて許されないよ! 野々宮様、私だって好きなんですよ!」
ちょっと待って、いつからこんな雰囲気になってしまったんだ? 第一、僕と彼女たちとはさほど面識がないはずなんだが、いつの間にこんなにもなつかれてるんだ?
「野々宮様、覚えておいでですか? 私たち、小さいときから野々宮様のお側に控えておりましたのよ?」
確かにそんな感じの記憶が情報としてはあるような。確か彼女たちが七歳の時に屋敷にやってきて、『お手伝い見習い』として働いていたような記憶がある。そこで何かあったっけ? 全く記憶にないのだが…
「恐らく野々宮様は覚えておいでではないでしょうが、働き始めて間もないころ、私たちは野々宮家の家宝の壺を割っておりまして…」
「完全に私たちの不注意だったんです! 本当なら処罰されて当然の場面だったんです。でもその時に野々宮様がご当主さまに『壺なんて買い換えればそれで片の付くものでしょう。でも彼女たちの人生は買い直すことの出来ないものです。どちらの方が大切かなんて自明じゃないですか』と言って私たちをかばってくださったんです!」
いや、それはかばったとは言い難いのではないだろうかという疑問がふと湧いてくるが、本人たちはとても感激しているようだ。僕がこの世界に来る前に『野々宮恭弥』はそんなことをしていたのか…何とも僕の行動パターンと似ていて、改めて『女神』の人外さに空恐ろしさを感じる。
どうやらこの二人になら任せられそうだ。そう感じて僕は思いついた『あること』を二人に話した。
***
「『調査官』の司教、川島翔太氏を収賄、猥褻の容疑で罷免、公職追放とします」
下された判決はとても重いもので、一同が騒然としたがこれが新しい『憲法』のあるべき姿だ。これから上流階級にメスが入り、どんどんきれいになっていくはずだ。あの人が目指した世の中にどんどん近づくはずだ。そう『女教皇』の神崎菜々美は強く感じながらこれまでのことを思い出していた。
かつて私の『お手伝い』だった野々宮様は教会に対する侮辱罪と反逆未遂で終身刑に処された。その判決が出る直前に野々宮様は私に野々宮様が所有していた財産、領地のすべてを私に譲渡してくださった。『司教』の所有する土地と財産を譲渡されたのだから、『教会への寄付額』も司教クラスの金額になり、私は晴れて『司教』になった。つまり、野々宮様は『司教』としてではなく、土地も財産も持たない『賤民』として処罰されることとなったのだ。故に普通では考えられないような『終身刑』という重い罰を科されることになった。
思惑が外れ、野々宮様の所有する財産や土地が手に入らなかった川崎様は怒り狂い、ありもしない罪で結羽を処罰しようとしたが、司教となった私がいち早く結羽を自分の養子に迎えたため、重罪は免れた。
全てのことがうまくいったために『賤民』として処罰され、牢につながれた野々宮様に泣き縋る私たちを見て、どこか苦笑しながら優しく話しかけてくださった。
「僕にはもう何の力も残ってはいない。君たちに何かしてあげられることも無い。だから、これからは君たちが自らの良心に従って行動して欲しい。せっかく手に入れた地位と権力だ。それを有意義に使ってくれることが僕の最後のお願いです。聞き入れてくれるね?」
答えはとうに決まっている。野々宮様に『お願い』されなくとも、やるべきことは一つだけだった。
私たちは涙をぬぐい、強く頷いた。
それからは苦労の毎日だった。他の司教の方々と意見を擦り合わせ、新しい法整備に邁進した。目指すのは、社会的な弱者に立身するチャンスがあり、教会の権威におびえながら暮らさなくても良い世界だ。なるべくなら身分階級もなくしたかったが、今すぐには無理だろう。幸い、川崎司教以外の司教たちは野々宮様の後継者である私を快く受け入れ、また法整備にも好意的だった。
二年して完成した『王国憲法』は教皇に許可され、発布された。
「神崎様。私は何をすればよろしいのでしょうか…?」
ぼーっとしていた私を『お手伝い』の奥田さんがこわごわ声をかけてくる。数年前の私とかぶり、思わず頬が緩みそうになるが、この風習もなくさないといけないのだろう。少し寂しくなったが、それを隠して私は極力優しい声で言う。
「そうね…一緒にご飯を食べに行きましょうか! おいしいレストランが近くにあるんですよ!」
呆然としている奥田さんの腕を掴み、私は執務室のドアを開けた。
fin
題材が異世界転生で、こんな小説を読んだことないでしょ?