灰色の世界
陵関から狭間や百鬼大戦のことを聞いた蓮は、その後夜道を1人、自宅へと向かって歩いていた。
話を聞いて、色んな事がいっぺんに頭の中に入ったせいか、眠気もあり身体が怠い。
生欠伸をしながらふと腕時計を見ると既に夜の8時を過ぎ、住宅街はあちこち灯りが点いているものの静かで、蓮の歩く靴音が響いていた。
「帰ったら、ご飯食べて、いつも通り行こうかな。」
腹をさすりながらそう呟いて早足になる。
流石に食事もせずに話を聞いて空腹となっていた蓮。
冷蔵庫に何があったかなどと考えながら歩いていると、一瞬視界が揺らいだ。
空腹のせいかと思い、更に歩みを早めると再び視界が揺れる。
「な、んだ?」
空腹のせいだけではない、眩暈に近いがそれだけではない。
気になって歩みを止めると、またも揺らぐ視界。
揺らいではまた普通に戻る奇妙な感覚。
それが何なのか、蓮はすぐに悟った。
「まさか、また狭間からか?」
思わず揺れる視界を手で覆ったその時だった。
周囲の風景が一瞬で色褪せ、肌寒い空気が一変して湿った生温い気持ち悪い空気へと変わる。
それを感じた途端に、蓮は走り出していた。
とにかく自宅へ向かわなければならない。
現世と狭間が入り混じり、それに巻き込まれ物の怪に遭遇してしまった場合、少女と初めて出会った時のように素手で応戦しなければならない。
それが出来ないわけではないが、先程の陵関の話を聞いてしまってはそんな事してる場合ではない。
もし、万が一狭間に百鬼が一斉に出現していたとしたら、身1つで太刀打ちできるわけはない。
雑魚ですら素手で倒せないのだ。
その上の物の怪など、天地がひっくり返っても今の蓮では倒せない。
息を切らしながら、必死に自宅までの道を走る蓮。
頭の中は百鬼の一斉襲撃の事ばかり。
それが仇となった。
交差点を曲がった瞬間、蓮の視界が黒く覆われ、顔面から硬い何かにぶつかってしまった。
コンクリート等の壁ではない、生暖かい、硬い表皮を持った生物。
色褪せた、気味の悪い空気の世界で、そんな生物は蓮の知る限り1つしかない。
勢いよくぶつかったせいでよろめいて尻餅をついてしまった蓮の目の前にいたのは、緑の体表をした赤い目が4つある、長く細い舌を鋭い牙の隙間から垂らした、腕が4本ある、骸のような痩せ細った物の怪の背中。
ぶつかった感触にその物の怪が背後に顔を向けた瞬間に、蓮と目があってしまったのだ。
「やっば…。」
額に滲み出した汗が頬を伝う、その時既に目の前に立つ4本腕の鬼は大きく口を開け、舌を振り乱しながら獲物を見つけた悦びを全身で表していた。
慌てて立ち上がろうと動いた瞬間、素早く2本の左腕を蓮へと伸ばす鬼。
2メートルはあろうかと言う巨体からは考えられない異常な速度で伸びてきた腕を、紙一重のところで後方に飛び退いて避ける蓮。
掴みそこねた2本の腕は空を切り、蓮の鼻先を掠め突風を巻き起こす。
飛び退いた先で思わず掠めた鼻に手をかけたその瞬間、鬼は蓮に向かって拳を握り締めて突進してきていた。
「速っ?!」
ドスドスと重い足音を響かせて突進してから鬼の速度が予想を遥かに超えて、既に目前に立っている。
突進の勢いそのままに鬼は握り締めた拳を豪快に蓮目掛けて振り下ろしていた。
風を切る豪腕、迫り来る自らの顔程の拳、蓮の頭に顔面が潰された瞬間が一瞬過る。
咄嗟に、両腕を顔の前に構え、防御の体制を取ったものの防げるわけも無い。
そう思っていた蓮の腕に、鬼の拳が当たる瞬間だった。
蓮の腕から白い光が放たれ、鬼の拳は鉄柱でも殴ったかのような音を立てて蓮から弾かれた。
弾かれた鬼は、反動によろめき、よたよたと後退していく。
「あ〜、っぶない危ない。忘れてた、これ。」
その光景を見て、余裕たっぷりにそう口にした蓮。
放たれた光はすぐに収まり、代わりに服の袖が破け、腕が露わになる。
その腕にはお札のようなものが貼られた鎖が巻かれていた。
万が一があると寺を出る際に陵関が持たせてくれたもの、長い鎖だった為、腕に巻きつけておいたのだ。
巻きつけていた鎖の札が若干焼け焦げたように所々黒ずんでいる。
たった今、鬼の突進を遮った光のせいだろう。
防護壁のような役割を果たした代償は思いの外大きい、鎖に着いている札の半分程が黒ずんでいる事から蓮はそう悟った。
もって後1、2回が限度。
どうしたものかと思考している内に、目の前の4つ手の鬼は己の拳を一瞥し、再び突進の姿勢を取っていた。
「考えてる暇はない、か。」
そう呟いたのも束の間、鬼は既に走り出し再び蓮に向かって突進していた。
それを見て蓮は瞬時に身を屈め、鬼と接触する瞬間に左の方へ跳んで鬼を躱し、着地と同時に鬼とは反対方向へと走り出した。
戦う手段が無い以上、逃げの一択しかない、己の判断を信じ蓮は走る。
躱された鬼は突進の勢いをすぐに殺せず、バタバタと地面を乱暴に踏みつけながら進んでいく。
背中越しにその光景を一瞬確認した蓮は、そのまま交差点を曲がり、静かな住宅街を疾走していく。
後方より聞こえる鬼の咆哮が背中を揺さぶる。
「不味いな…。」
そう呟きながらも更に走る速度を上げる。
辺りに漂う湿った気味の悪い空気がより濃くなっている。
今の鬼の咆哮で他の鬼を呼び寄せた可能性が高い、小さく舌打ちをしながら、必死に周囲を警戒しつつ走る蓮。
そして、自宅まであと僅かと言うところで最悪は目の前に現れた。
「どちらへ、行かれますかえ?」
突然、視界を闇が覆い、何も視認できなくなり、思わず足を止めた蓮の耳元で、か細くも不気味な声が囁いたのだ。
「なんだ?!誰だ?!」
訳もわからず、首を左右に動かすも全く何も見えず、自分が立っているのかも怪しくなる感覚に襲われる。
「おやおや、いい顔。それならば───。」
耳元で囁く声、その気配が風に攫われたように瞬時に消えたと思った時、蓮の目の前にはっきりと現れる白装束の狐のような顔の女性。
その右手には身の丈ほどの大きな扇子を携え、軽々とそれを開くと、自らの半身を隠し、細い目を蓮に向けた。
「───姿を現せば、其方はどうなるのかえ?」
女性が呟いた直後だった。
途轍も無い寒気が背中を襲い、足先から頭の頂点まで一気に稲妻のように身震いが走る。
「お───。」
お前は誰だ、と口にする前に蓮の首に何かが接する感覚が生じる。
気付いた時には蓮の首元に大きな開かれた扇子が突き刺さんばかりに当てられていた。
「どれ、坊や。少し、お話しして逝かんかえ?」
突き刺すとは生温いほどに押し当てられた巨大な扇子が、冷たく蓮の首筋に食い込んでいった。
蓮が謎の女性と対峙していた頃、蓮から遠く離れた断界線で。
10人の人影が荒野に敷き詰められた物の怪の骸の上で、巨大な物の怪と対峙していた。
戦国時代のような鎧兜を身に纏った人の10倍はあろうその物の怪、地面に着くほどに伸びた白い髭が揺れる度微風を巻き起こす。
「よもや、永い年月を掛けて育て上げた魍魎どもが一晩持たずに壊滅させられるとはな…。驚いたぞ、脆弱な種族よ。」
笑いとも取れる息を漏らす度、大気が震え、言葉を発する度に肌を揺らす振動が伝わってくる。
「お褒めに預かり光栄ですね〜。」
「呑気に言ってる場合か、レヴィ。」
そんな物の怪と対峙しても尚、顔色を変えず薄っすらと笑みを浮かべて言った白衣の青年。
その横で鎌を構えて水色の長髪の少女が無愛想に言い放つ。
物の怪を囲むように立つ人影、それぞれに緊張の面持ちで物の怪の動きに警戒を払っている。
「まぁまぁ、そう怒らない。可愛い顔が台無しですよ、ヘラ?」
戯けて見せたレヴィに苛立った様子で舌打ちをした少女。
今にも飛び出しそうな少女だったが、ふと目の前に移動してきたレヴィにその気を削がれた。
目の前に、妨害するようにレヴィの腕が伸びたのだ。
「今、彼は我々と戦うつもりはないようですからね。」
少女の気が削がれたのは、いつの間にやら笑みが消え、殺意に溢れた細い目を物の怪に向けたレヴィの雰囲気に、圧倒されたからに他ならない。
それ程に目の前の青年の雰囲気が豹変していた。
しかし、それも物の怪には意味を持たないのか、巨大な鎧兜を纏った物の怪は悠然と立ち尽くしたまま、こちらを見下ろし動く気配を見せない。
戦う気がない、と言うのも頷けるほど、静かに立つその姿は威圧を通り越し、神聖さすらも感じさせる。
「貴様らと今、殺し合いをしても我々にとって意味を成さん。今回は様子見よ、小僧。」
クツクツとゆっくりと笑うと、巨大な物の怪は静かに体を断界線へと向けていく。
「逃すかよっ?!」
「此処で討つ!!」
動かないレヴィとヘラを他所に、他の人影が咄嗟に跳び上がり、巨体へと突進していく。
一瞬、兜から垣間見えた物の怪の口元が不気味に吊り上がったのを、ヘラは見逃さなかった。
「やめろーっ!!!」
無意識にヘラは叫んでいた。
物の怪に向かう仲間に対してか、その仲間に最悪をもたらしかねない物の怪に対してか、本人にもわからない。
しかし、その叫びも虚しく、飛び立った仲間達に閃光の軌跡が描かれ、仲間達は弾かれたように地面に落とされて行く。
「クックックッ、焦るな小僧共。主らでは我が刃を受けるにも値せん。」
巨大な物の怪がそう言うと、その背後に風のように現れた1つの影。
その影は人と変わらない大きさながらも巨大な物の怪に劣らない、途轍もない威圧感と殺意を放っていた。
「あれは…。」
「貴様等、人間にもなれない者共が、我らが王に刃を向けるなど笑止千万。そこで地に伏す事すら愚かな事と知れ。」
影は地に降り立ち、ヘラ達を一瞥すると身に纏った衣を払い、両手を広げた。
すると、その影の周囲に拳大程の火球が次々と現れ、影の周りを回り始める。
その火球の光に照らされ現れたのは、女と見間違えるほどの端正な顔立ちの男。
しかし、その体は青く染まり、額からは角が飛び出し、人外である事を示していた。
「良い、修羅よ。戯れに其方が手を出すでない。」
襲いかかってきそうなその男に、巨大な物の怪は静かにそう言って再び歩き出した。
「しかし───っ!」
修羅と呼ばれた男は歩き出した王である物の怪に対して、直様に口を返そうと振り向いた。
その瞬間、男の周囲に雷が落ち、竜巻が起こり、宙に大きな火球が現れ弾け飛ぶ。
閃光と轟音を放つその光景に一瞬、レヴィ達は目を塞ぐ。
「クカカカカッ、そこまでだ、修羅!」
「王の言葉は絶対だぜ!」
「お主と言えど、それ以上は…。」
甲高い笑い声と共に火球から現れたのは、極彩色の翼を4枚羽ばたかせて飛ぶ色鮮やかな鳥のような物の怪。
修羅の首元に槍と刀を押し当て立つ両隣には、幾つもの太鼓を背負った金色の鬼と身の丈を越える大きな膨らんだ袋を背負った銀色の鬼。
「そうじゃな、これは様子見。言わば、児戯に等しき事。…命拾いしたな、滑稽な種族よ。」
何処と無く苛立ちを含んだ表情でそう言うと、修羅は再びレヴィ達を一瞥する。
それぞれに、言葉は発せず、ただ物の怪達のやりとりを眺めているだけ。
「強くなるんだな、せめて、其奴等と戦えるくらいまでは。でなければ、百鬼は止まらんぞ?」
動けないままのレヴィ達を嘲笑い、巨大な物の怪はそう言い残し去って行く。
金色の鬼は雷に打たれて消え、銀色の鬼は袋の口から吹き出した竜巻に巻かれて消え、鳥の物の怪は自らの吐き出した焔に焼かれて消え、修羅は付き従うように巨大な物の怪の後を追っていく。
物の怪達の姿が濃い霧の向こうへ消えていく、その様を静かに見る事しか出来なかったヘラの前に立つレヴィが、拳を握りしめて呟いた。
「…児戯に等しい…ですか。私達と彼等の距離はそこまで…。」
小さく、それでいて憎悪に満ちたその呟きの直後、俯いたレヴィは唐突に手を叩き、顔を上げた。
それに反応して全員の視線が集まったところで、レヴィは口を開いた。
「さて、今回は戻りましょう。話は戻ってから。」
そうレヴィが言うと、次々に人影の周囲に光り輝く六角形の鏡のようなものが浮かび上がり、影達を包んで行く。
「おい、待て!今を逃したら!」
巨大な斧を持った男が叫ぶ、だがその言葉を遮り完全に鏡に包まれた男は、眩い光を放ちその場から姿を消した。
「レヴィ!あたし等はまだ!」
「ちょっとまだ!」
「はいはいは〜い。」
口々に叫ぶ影達を他所にもう一度レヴィは手を叩いた。
すると、影達は一斉に光を放ちその場から消えて行く。
「話は戻ってからって言ったでしょう?さっ、帰りますよ、ヘラ。」
そう言って振り返ってヘラを見たレヴィの表情は、いつもの貼り付けた微笑みを浮かべ、光に消えて行った。
その渇いた笑みが光に飲まれる一瞬、ヘラには曇った顔に見えた。
「ほんに強情な坊やですな…。」
レヴィ達が断界線を後にした頃、闇に囚われたままの蓮の耳に、溜息交じりの声が届いた。
あれから約3時間、特に何かされるわけでもなく、得体の知れない力で体の自由を奪われたまま、目の前の狐顔の女性に囚われ、よく分からない問答を繰り返し続けていた。
「もう一度聞きますえ?」
身の丈ほどの扇子で左半身を隠して佇む女性は、艶っぽくも妖しい笑みを浮かべて、磔にされて項垂れたような格好の蓮の目の前に滑るように移動していく。
「坊や、わっち等を狙ってますやろ?」
不思議な言葉遣いで、独特の抑揚と速度で、ゆっくりと問うと蓮の顎に冷たく細い指先を当て、自分の目線と合わせるように顔を上げさせる。
逆らいたくとも体に力が入らない。
時間が経てば経つほどに、その感覚が強くなっていく。
「…あんたが百鬼ならな…。」
そして、この問答ももう何度目だろうか。
「その百鬼の意味がわかりしまへんのやけど、鬼、物の怪の類なら、坊やはわっち等を殺すわけかえ?」
「…しつこいな、あんた。何回そうだと言えば分かるんだよ。」
「はてさて、どうしたもんやろか…。」
この問答を何度も何度も繰り返してきた。
どうしたものか、と、そう呟くと女性は離れていき、考え込むような素振りを見せ、扇子で左半身を隠して佇む。
この光景も何度目だろうか、蓮の思考は脱力感と共に落ちていき、もはや考える事も投げ出したくなっていた。
狐顔の女性の目的がいまいち掴みきれない蓮にとって、苦痛以外の何者でもない時間。
じわじわと襲ってくる脱力感も相まってこの問答すらも黙りこくってやり過ごしたい。
しかし、何故かは分からないが、この女性の瑠璃色の瞳を向けられると、気怠くとも口が動いてしまう、思った事を言ってしまう。
物の怪の類である事は間違いないが、明らかに普通の物の怪ではない。
「…なぁ、俺もあんたに聞きたいことができた。」
考え込む女性に、不意に蓮が声をかける。
女性は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐ様その顔を扇子で隠し、蓮を覗き込むように僅かに顔を出して頷いて見せた。
「…ええよ、聞く分には、ね。」
少し言葉に詰まったようにも見える素振りだったが、この3時間の問答からこの女性は演技でもしているかのように振る舞う事が分かっている。
気怠さもあり、勘繰るよりもさっさと目的を果たすべきと蓮はそう判断し、思ったままを口にする。
「あんた、物の怪だろ?」
その蓮の問いに、女性は数秒視線を落とした。
どう答えるか思考中か、纏まったのか、女性は再び視線を蓮に向けて、妖しく微笑みを浮かべた。
「そうやね、あなた方人間が言うとこの物の怪、化生の者、妖。所謂、人ではあらしまへんな。」
飄々と、淡々と、ゆっくりと答えると女性は更に目を細めて微笑む。
それを予想していた蓮からすれば、やはり疑問は1つに限る。
「鬼と、百鬼とあんた等は違うのかよ?」
女性が言った百鬼の意味がわからない、その事が引っかかったのだ。
すると、蓮の言葉を受けて女性は静かに笑うと、微笑んだままゆっくりと宙を漂い始めた。
「坊やの言う百鬼はよう知りませんけど、鬼とわっち等は全く違いますえ?わっち等にとっても鬼は敵、あんた等人間と同じ、わっち等に害をもたらす存在や。」
ふわりふわりと漂いながら女性は語る。
身の丈ほどの扇子がまるで羽のように、女性の浮遊を補助するように動く。
「…なんとなく、分かりましたえ?」
そう言うと、漂っていた女性は蓮の目の前に降り立ち、パタンと軽い音を立てて閉じられた扇子の先を蓮の顎に当て、くいっと蓮の顔を持ち上げた。
「百鬼と違うなら、わっちと戦う理由は無いと、そう言いたいのかえ?」
その瞬間、蓮の体を捉えていた何かが両肩を締め付けるように絞られていく。
「違うの、かよ?!」
ギチギチと締め付け等れる痛みに耐えながらも、蓮はようやく言葉を絞り出す。
両肩どころが全身に広がる痛み。
やはり物の怪、得体の知れない事には変わりない。
「戦う理由なんて、決まってますえ?」
女性がそう呟くと、より一層締め付けが強くなり、痛みが増していく。
「坊やは人間、わっちは妖、この世界に於いてそれ以上の理由はあらしまへんえ?」
女性がそう言った瞬間、蓮の右肩が激しい痛みを伴い、渇いた鈍い音と共に肩から腕が弾け飛び、離れていく。
「うあぁぁっ?!!!」
「坊や等人間はわっち等を殺してきた。それだけで坊やは死ぬ運命や。」
悲痛な叫びと共に飛んでいく右腕、痛みに悶えて歪む蓮の顔を嬉しそうに眺めながら、女性は言った。
尚も増す全身の痛み、このままでは全身が裂かれる、そう思った蓮は女性を睨むも、次の瞬間再び襲われた左肩の痛みに瞼を強く閉じてしまった。
「そろそろ時間、坊やとさよならせんと。」
静かに笑う女性がそう言うと、左肩から再び渇いた鈍い音が響き、左腕が弾け飛んでいく。
両腕を失った蓮は、支えを失った人形のように前に倒れていき、女性の足元に伏すと両肩に走る激痛に身を屈めてのたうち回る。
それをさも滑稽と女性は遂に声高らかに笑い始めた。
「ええよええよ、その様が見たかったんよ!もっと泣いて、もっと喚いて、もっと叫んで!!」
満たされ始めたのか、女性は徐々に理性を失ったように歓喜の声を上げ、その姿を変えていく。
耳が体毛を帯び、大きく伸びて獣のそれになり、背後から伸びていく白い尾がゆらりと揺れ、9本の尾が広がっていく。
「キュウビ、か?!」
痛みに悶えながらも蓮の視界が捉えた女性は既に、人の形を成しておらず、狐が衣を纏って2本足で立っている状態。
高らかに笑うその声も、高い声と低い声が不気味に重なって響いている。
「さぁ、坊や!寝てる場合やあらしまへんえ!!」
声を張り上げ、本性を現したキュウビは蓮を睨みつけると、右手に持った扇子を開き、蓮に向けて一度、大きく振るった。
振るわれた扇子から襲いくる突風、それに抗えず蓮の体がゴロゴロと転がっていく。
地面を転がる感覚、頭の中まで掻き回されていく錯覚、その中で蓮に一つの違和感が浮かぶ。
肩に何度も感じる傷口から走るのとは違う、骨が地面と接する感覚。
その感覚が何かに守られてるように、微妙に柔らかい痛みをもたらす。
「もっと、楽しませてもらいますえ?」
違和感に意識を取られていた蓮は、いつの間にか自らの体にのし掛かり、不気味に微笑むキュウビに気付かなかった。
「離せっ!!」
「その格好で抵抗なんて出来ませんえ!」
最早人の形を成していない、化生の者の姿を現したキュウビに叫ぶも、蓮の声など涼しい顔で流し、鋭く伸びた右足の爪を蓮の顔目掛けて振り下ろした。
「う、があっ!!」
何かを確信していたわけでもない。
だが、無意識であったわけでもない。
蓮はもがきながらも、その爪を首を大きく動かして避けた瞬間、思い切り身を捩り、のしかかっていたキュウビを体から振り落とした。
腕を肩から失っていたはずなのに、傷だらけの両腕を取り戻して、キュウビを突き飛ばしたのだ。
「坊や、その腕…?!」
「もう…騙されないからな…。」
脱力感が薄れていく体をゆっくりと起こして、驚愕の表情を浮かべてこちらを見るキュウビを睨みつけた。
「いつ、気付きはった?」
「たった数秒前、かな。地面転げ回った時。痛みが直接来るんじゃなく、何かに遮られて弱まってる感覚がした。」
大きく息を吐き出しながらキュウビに答えると、蓮は拳を握り締めた。
動く、握り締めて変な痛みも走らない、確かめるようにゆっくりと動かして両腕の状態を確認していく。
囚われていた時から、時間をかけてかどうかは分からないが幻覚を掛けられていた。
腕が弾け飛ぶ幻覚、転げ回って違和感に気付かなければ更に悲痛な幻覚が続いただろう。
「影かなんかだろうな、俺の体を縛ってたの。長い時間を掛けて体力と感覚を奪っていった。」
そうして、弱った所で腕を弾け飛ばす幻覚を見せた、両腕を上に伸ばしながら言う蓮を、黙って睨むキュウビ。
「何が目的かはよく分かんないけど、そこまでは何となく分かった。」
「…。さよか。なら、お話は終わり。」
蓮の話を黙って聞いていたキュウビが、不意に宙に浮かび上がっていき、長く揺らめく九本の尾を垂らしながら蓮を見下ろす。
「坊や、時間やと言ったやろ?時期にここも呑まれる。」
そう言うと、キュウビを中心にまるで幕が開くかのように闇が消えていき、薄く青白く染まる空が現れ、住宅街の光景に戻っていく。
「もうじき始まる。したら終わりや。」
「何が…?」
戻っていく周囲の光景を見渡しながら僅かに安堵していた蓮、キュウビの呟きを聞き、再び宙に視線を戻すと、そこにはキュウビの姿はなかった。
「覚えとくんやね、終わりは近い。ここで死ななくても、もうじきみんな死ぬんや。」
直接頭の中に響いてくるキュウビの声。
こだまするその声を聞きながら、蓮はゆっくりと自宅へと入っていく。
白んだ空に包まれるように、街並みが白さを増して灰色に染まっていく。
やけに静かな街、空気が冷たく、全く音の無い街。
「戻ったか、蓮。」
自宅のリビングに入った蓮はその声を聞いて固まった。
「何驚いてやがる。何も不思議な事はねえだろう?」
「清さん…。」
まだ狭間の中に居る筈の蓮の目の前には、黒い袈裟と僧衣を着た纏った若い茶髪の男が1人、ソファーに座って煙草を吸っている。
灰色に染まった世界、その空の地平線から太陽が顔を出す頃、深い紫色に濃く染まる霧が街を覆っていく。
それは終わりを告げる霧。
「親父に頼まれたんだ。暫くお前に着けってな。」
タバコの煙を吐き出しながら告げる男。
よく状況を飲み込めない上に疲れている蓮。
その言葉の直後、清と読んだ男は衝撃の事実を告げる。
「今日中に、この街に百鬼夜行が来るからってな。」