白昼夢
桜が色付き舞い踊る季節。
柔らかな日差しの中を、新たな生活に心踊らせて笑顔で歩く人々。
毎年の事ながら、その時期だけは周りに馴染めない少年が一人、怠そうに道端を歩いていた。
学生服を着ている少年は、道ですれ違う学生とは反対方向へ歩いていた。
春、桜舞う新生活始まりの時期、彼にとっては今は亡き両親を思う、供養の時期。
少年が住む町で一番有名なお寺に向かって、坂を上ってひた進む。
少年が三歳の頃から13年、ずっと続いてきた恒例行事。
少年がお寺に着く頃、世間では入学式や入社式が始まっていた。
「やぁ、蓮くん。毎年御苦労様。」
お寺の本堂に入ると、不意に届いた低い嗄れ声。
声の方を見れば、そのお寺の住職さんが皺だらけの顔を笑顔に染めて迎えてくれた。
「お久しぶりです。」
頭を下げて律儀に挨拶をした少年は、住職と何気ない会話をしながら位牌堂へと入っていく。
仄かに漂う線香の香りに顔が僅かに綻ぶ。
「今年も綺麗な姿で蓮くんが会いに来てくれたよ、如月さん。」
位牌堂のちょうど真ん中辺りで立ち止まり、住職が如月の名が刻まれた位牌に向かって声を掛けた。
それに合わせて少年は頭を下げ、位牌へと視線を向けた。
ほとんど覚えていない、母と父の姿。それでも、うろ覚えながらも声を、顔を、姿を思い浮かべて、一言呟いた。
「ちゃんと生きてるよ、俺。」
その言葉を隣で聞いていた住職は、優しく微笑みを浮かべて蓮を見ていた。
それが毎年の光景だった。
この少年、如月蓮の両親は凄惨な交通事故に巻き込まれ、わずか3歳の蓮を残してこの世を去った。
両親を失った少年は現実を知らぬまま親戚の家庭に引き取られ、両親の死を告げられたのは引き取られてから1週間が過ぎてから。
幼い子供に真実をどう告げようか、親戚一同が悩み続けた時、幼い蓮が両親に会いたいと泣きじゃくったから告げられた。
「今年はこれだけしかないけど、許してくれな。」
そう呟いて、蓮は位牌の前に小さな紫色の袋を置いて手を合わせた。
住職はそれを哀しげな表情で眺め、蓮が手を合わせた直後にその場から立ち去っていく。
位牌堂から本堂へ、本堂の真ん中にある仏像の前に移動すると、住職は静かにその場に座り、拝み始めた。
柔らかな春の陽射しが照らす本堂から、住職の読経が聞こえてくる。
「たぶん、来年はもっと持ってこれる。ようやく、見つけたんだ。」
読経を背に、位牌の前で蓮は呟く。
その瞳は大きく震え、ギリギリと噛み締めた歯音が耳を貫く。
「二人を殺した奴を、ようやく見つけた。次こそは、仇を討ってみせる。」
物言わぬ静かな黒い位牌を見つめ、その瞳に怒りの炎を燃やし、少年はその場から去っていく。
住職の読経が終わる頃、少年の姿は既に無く、後に残されたのは位牌の前に置かれた、奇妙な雰囲気を醸し出す紫色の袋だけ。
人気の無い位牌堂で、その袋を手に取り住職は再び哀しげな顔をして、俯いた。
少年の身を案じてか、それとも彼にその道を与えた事を悔いてか、住職は声にならない嗚咽を漏らして、顔を上げ位牌を見つめて呟いた。
「願わくば、彼にあなた方の力を、想いを分けてくだされ。」
一筋の涙を流し、住職は呟いた。
両親への挨拶は年々短くなっていた。
それでも、毎年報告に来なければならない気がして、少年は必ず報告に訪れる。
幼いながらに、どうしても両親に会いたいと泣きながら住職に縋り付いた5歳の秋。
「君は、真実を見ても壊れないと約束できるかい?」
哀しげに、それでいて力強く、住職は5歳の子供に向かってそう言って、懐から3枚の葉書ほどの大きさの絵札を取り出した。
「これはこの世の裏側になるのか。存在を知っている人は世界中に一握りほどしかいないと言われている。君のご両親はこれに巻き込まれ、命を落とした。」
蓮に絵を見せながら説明をしていく住職。
そう、交通事故と世間的に処理はされたが、実際は交通事故では無い、紛れもなく“何か”に巻き込まれて、この世を去ったのだ。
その“何か”の答えが、蓮に見せている絵。
1枚は御伽噺に出てくるような、所謂“鬼”の類。闘牛のような角を額に生やし、人間のように立つ異形の姿絵。
1枚は鬼とはまた違う大きな化け物に、侍や銃を構えた銃士、大きな槍を携え馬を駆る戦士など、様々な者達が細かに描かれた戦いの光景。
1枚は血を流した精悍な侍と、身の丈ほどの大きな棍棒を振るう厳つい男の戦いの光景。
これが何を意味するのかは蓮には全く分からない。
だが、住職は言葉を紡いでいく。
蓮の両親はこの絵の戦いに巻き込まれた事、その戦いは今もなお行われている事、そして、両親を巻き込んだ化け物は未だに人知れず生き残っている事。
「いつからか、この戦いは百鬼大戦と呼ばれるようになったそうだ。何故始まって、何故戦っているのか、その理由を知る者は今はもういないらしい。」
だが、確実にその戦いはこの世で行われていて、巻き込まれて亡くなった人間も少なくない、険しい表情を浮かべながら、落ち着いたような口調で語る住職。
だが、その掌は震え、僅かに瞳は揺れ、恐怖しているかのように額には脂汗を浮かべている。
住職の様子は幼い蓮には全く把握はできない。
そんな顔で何故話すのか、理由があるにせよ見当もつかない。
「それで、パパとママは?やっぱりもう会えないの?」
少年の何色にも染まらない真っ白な心、そこから湧き出した抑えきれない欲求。
あどけない表情を歪めて、必死に涙を堪えて縋る少年を前にして、住職は自分の気持ちを止められなかった。
「蓮くん、よくお聞きなさい。貴方のご両親はこの世を去りました。だけど、その真っ直ぐな想いがあれば、もしかしたらご両親に会うことが可能かも知れない。」
残酷で、偽善で、決してこの子の為にはならないだろう。
それでも、住職は可能性を伝えずにはいられなかった。
「百鬼大戦はこの世とあの世の狭間で行われています。時折、戦いの余波が現世に影響を及ぼしてしまうので、それに巻き込まれる人がいるわけですが、その方々は決して死して尚救われることがありません。」
本来、死を迎えた者、天寿を全うした者は魂のみが昇天し、一度浄土の門を潜る。現世から浄土まで狭間を通るわけだが、その狭間に魂が残されることはない。
水先案内人がいるから、彼らは狭間で止まることなく導かれるのだ。
だが、百鬼大戦はその狭間で行われている。万が一、その戦いに巻き込まれた魂がいたなら、そこに囚われてしまう。
水先案内人は戦いを避ける為に導くのだが、戦いに巻き込まれてしまうと、案内人の力が届かず魂は取り残されてしまう。
「君のご両親は戦いに巻き込まれて亡くなった、と言いましたね?」
住職の問いに、蓮は困ったような顔で頷いた。
既に少年の理解の範疇を超えてしまって、よくわからない状態になっている。
それでも住職の問いの答えは分かる。
「君のご両親は、大戦の中に未だ囚われ、恐怖に怯えているでしょう。」
だから、貴方がご両親をそこから救い出すのです。
住職はそこで言葉を切り、少年を見つめた。
まだ頭の中で考えがまとまっていないのか、ぽかんと口を開けて住職を見つめる蓮。
「そこへ行けば、パパとママに会えるの?」
「極めて危険な事ですし、貴方をそこへ送りたくはないですが、会える可能性はあるでしょう。」
住職がそう答えると、蓮は数秒俯いて、再び顔を上げる。
あどけない表情は決意の表情へと変わり、少年は希望を含めた瞳で住職を見つめて口を開いた。
「会えるなら、行くよ!」
柔らかな日差しが降り注ぐ坂道、お寺を出てその坂を下っていく蓮、頭に過ぎった幼い日の記憶に自嘲の笑みを浮かべた。
何も知らない、理解もできない子供だった自分はあれから色んな事を経験して、普通の人間とは違う生活を送っている。
「本当、馬鹿だよな、俺。」
そう呟いて立ち止まり、振り返って坂の上にある寺を凝視する。
「でもさ、貴方を恨んではいない、この道を選んだのは知らなかったとはいえ、自分だからさ。」
呟いて、今度は柔らかな少年らしい笑みを浮かべて頭を深々と下がる。
数秒そうしてから、蓮は勢いよく上体を起こして、坂を走って下っていく。
春、新たな始まりの季節。
幼い日の想いを失う事なく、少年は真っ直ぐに走っていく。
青く澄み渡った空に白い雲が点々と流れるなか、少年の先には大きな大きな入道雲が浮かんでいた。
お寺から自宅への帰り道、坂を下り終えるとそこから閑静な住宅街が広がっていく辺り、走っていた蓮は突然立ち止まった。
普通の何もない住宅街の筈なのだが、蓮が進もうとしている道の先に重苦しい淀んだ気配を感じ取ったのだ。。
「この気配…狭間と同じ…。」
それを知っている蓮は、額に汗を滲ませ険しい表情をして、ゆっくりと気配の方へと歩み始めた。
その直後、先程までの晴れ渡った空が嘘のように曇天へと変わり、突然辺りが闇を帯び始めた。
日中にも関わらず、まるで夜かと勘違いする程薄暗くなった周囲の景色、若干その暗闇も相まって色が褪せたようにも見える。
それでも、その異変に蓮は驚く事なく、優しげな瞳を鋭くさせ、道の先を射殺さんばかりに睨みつけている。
「やっぱり、“狭間が出てきてる”。」
滲んだ汗を一筋垂らしながらそう呟くと、睨んでいた前方、ちょうど交差点の右側、民家の陰から何かが爆発したような炸裂音が聞こえてきた。
その音を聞いて反射的に走り出した蓮。
交差点に差し掛かろうかというところで、音がした方から土埃と灰色の煙を纏った何かが、滑空でもしてるかのように吹き飛んできた。
それを見て立ち止まった蓮は、次の瞬間目を見開いた。
何かが吹き飛んできた交差点の右側から、ベタベタとコンクリートを叩くような足音とともに、赤黒い皮膚をした痩せ細った鬼が尖った先端の細い木の棒を引き摺りながら現れたのだ。
淀んだ空気、一変してしまった周囲の風景、目の前に現れた赤黒い鬼。
「日中から境界を超えたのか?!」
突然の事に思わず叫んでしまった蓮。
その声に反応し、目の前の鬼は吹き飛ばした獲物を他所に、蓮の方へと顔を向け、その姿を確認すると口端を吊り上げ不気味に顔を歪ませた。
しまった、と思いつつも思考は冷静に働き、焦る事なく鬼と戦う為にどう動くかを考え、体は思考が働くと同時に条件反射のように瞬時に思考の通りに鬼へと向かっていた。
「先手必勝だ!!」
鬼へと向かって走る蓮、その向かって来る獲物に歓喜したのか、鬼は金属を捻るような気味の悪い雄叫びを上げ、天を仰いだ。
直後、目の前まで迫った蓮に向け、大きく体を捻り手に持った木の棒を豪快に横に振り抜いた。
風を切る轟音を伴って物凄い速度で振るわれた棒、それを紙一重のところで蓮は地面に貼りつくように伏せて避ける。
地面に伏した獲物を捉えると、鬼は振るった棒を両手で握り、後ろに振り被る。
その瞬間、地面から飛び上がった蓮の拳が鬼の下顎を殴り付け、鬼は堪らず後ろに倒れ込んで行った。
倒れた鬼を睨みながら蓮が着地すると、鬼はゆっくりと上体を起こし、立ち上がろうと動き出す。
異形の口元からは自らの牙で傷付けたのか、青紫色の血が流れ出し、粘着質な涎と混ざってドロドロと垂れ落ちている。
殴り倒せはしたが、ダメージが見て取れる程与えられたわけでもない。
実際、殴った手の方が非常に硬く、弾力性のある太いタイヤを殴った様な鈍い痛みを帯びている。
決定打が無い、鬼を傷付け滅する武器となる物が今は手元に無い。
あるとすれば鬼の持つ巨大化した爪楊枝の様な棒くらいである。
「不味いな、これは…。」
短い状況整理の末に蓮は小さく舌打ちをして、立ち上がってしまった鬼を睨む。
「伏せろっ!!」
その時だった。
背後から凛とした低めの女性の声が蓮に届く。
咄嗟に、誰だと疑問を持つ前に、蓮はその場に即座に倒れ込むように伏せた。
その直後、頭上を重苦しい風切り音を放ちながら、何かが飛んでいく。
地面に伏したまま、顔だけを上げて鬼を見れば、鬼は大きく口を開いて白目を剥き出し、頭上を通過したであろう巨大な鎌にその体を真っ二つにされ絶命した瞬間だった。
立ち上がる事すらも忘れて、真っ二つになった鬼が倒れていくのを眺める蓮。
唖然としたまま、倒れていく鬼を眺めていると、近付いて来る足音が聞こえた。
背後から迫る何か、それが先ほどの声の主であると気付いたのは同じ声が届いてからだった。
「人間か?」
地面に伏したままの蓮を見て、声の主はそう言った。
一瞬、気が緩みそうになった蓮だったが、そうなるのを首を振って抑え、背後に集中しながらゆっくりと立ち上がり、体を向けた。
その声の主の姿を見た瞬間、蓮は背筋が凍る程の戦慄を覚えた。
まるで漫画やアニメから飛び出したような膝下まで伸びた長い長い水色の髪を靡かせ、真っ白なワンピースを着た小柄な少女が、此方を殺さんばかりの鋭い眼光を向けたまま、左手を腰に当て立っているのだ。
しかも、尋常では無い程、重苦しい威圧感がある。
「人間か、と聞いている。」
再び届く少女の低い声。
グッと息を呑んで見ていた蓮は、呆然としていたことに気付き、慌てて頷いてみせた。
しかしながら、少女は鋭い視線を蓮に向けたまま、じっとして動かない。
そもそも生きた人間などいる筈の無い場所だ、疑われても当然の状況だが、少しでもその眼差しを止めて欲しかった蓮の口から思わず飛び出したのは、
「見れば分かるだろ?」
若干高圧的ともとれる口調で、慌てて両手を胸に当て、自らが人間であるのが分からないのかと、敵意剥き出しの少女に告げていた。
しかし、やはりと言うべきか少女の怪訝な表情が消える事なく、視線は更に厳しくなり、無言で蓮に突き刺さる。
その視線に怯えながらも、それ以上の言葉を発さなかった蓮、数秒の沈黙の後、少女は短い溜め息を漏らして蓮に向かって歩き始めた。
「…えっ?」
そう思ったのも束の間、少女の姿は忽然と視界から消え、周囲が明るくなり、色付いていく。
何度見渡しても、少女の姿は無く、閑静な住宅街の中、
春の日差しを浴びて歩く親子の姿が映り、やや離れた場所から自動車の走るエンジン音が聞こえてくる。
「…戻った?」
重苦しい雰囲気はさっぱりと消え去り、普通の平和な世界がそこにあるのみ。
交差点の端、壁にもたれかかるようにゆっくりと歩いて行き、そう呟いた蓮。
狐にでも化かされたように青くなった顔を、さっと撫でて、蓮は少女の姿を思い浮かべた。
「間違いなく、戦いの範囲がこっちまで拡がってる。さっきの娘は鬼と戦ってた。なんだ、今まで全く知らない人間は見なかったのに。」
ブツブツと考えている事を呟きながら、蓮はゆっくりと歩き出した。
自宅へ向かう道中、まるで夢のような現実を何度も思い返し、纏まらない考えを呟いていく。
家に着く頃、ようやく考えが纏まったのか、呟きは止まっていたが、蓮の表情は依然険しく、眉間に皺を寄せたまま自室へと入っていった。