息苦しくも青く風薫る
わたくしは寝る間も惜しむお勤めのかいあって、ただ今汽車に揺られております。
窓から覗く景色は上野の街並みがとうに過ぎ去り、青々とした緑豊かな山々が見えているのです。走り去る風はとても心地よく、むしむしと肌にこびりつくこの時期の空気を払ってくれるようでありました。
懐から手帳を取り出し鉛筆を進めますが、いささか揺れる為、わたくしは窓辺に手帳を置き、芯が踊らないように体を少し丸めてこの風景を記録していったのです。
さて、わたくしがこの様に上野からの切符を握る事になったのは、今から半年ばかり前の事になります。
妹であるチホがめでたくも子を授かりまして、もうじき十月経つこの日、お産の妹に会うため里の方に帰る事となったのです。
五人兄弟の中でわたくしは三男であり、高等科を出た後、先生の勧めで帝都の雑誌社に勤めることとなりました。幸いとでも言うべきでありましょうか、家業は兄二人で十分勤まっておりました。重石も無く気軽な身ではありましたが、わたくしは己が身を立てる為にも単身里を出たのであります。
チホは唯一わたくしより年下の兄妹でもあり、幼い頃からたいそう大切にしておりました。わたくしの家系は難産が多いそうで、あまり体の強い方ではないチホが少々心配となりまして、故郷での長めの取材旅行。という体をお借りして汽車に揺られている次第となります。
故郷までは、まだまだ時間がかかります。わたくしは風呂敷の隙間をそっと覗いて、生まれてくる甥や姪、土産に喜ぶ妹の顔などを楽しみに考えておりました。土産は安産で有名な神社からお守りと、カステラを買ってまいりました。甘い菓子が好きな妹は、きっと嬉しそうに食べることでしょう。
一面青い水田が広がる中、その若い稲の香りが風に乗り鼻をくすぐります。汽車に揺られ、わたくしはうとうと居眠りをはじめておりました。なにぶん朝早く帝都を出たもので、仕事の疲れもある為か、わたくしはすんなり夢の中へ落ちていってしまったのです。
わたくしは懐かしい我が家の前におりました。はて、汽車に揺られていたまでは覚えておりますが、いつの間に駅に着いてここまで来たのでしょう。
何はともあれ、中に入って家族に会おうと戸に手をかけました。しかし鍵でもかかっているのでしょう、戸は開かないため、右手で持っていた鍵を取り出そうとしました。そうして鍵を手に取ると、それはドロリと溶け出し、わたくしの手に吸い込まれるではありませんか。
驚いたわたくしは、溶けた鍵を振り払おうと手を払いますが、ドロドロとした真鍮色の液体はわたくしの手に密着して段々と消えてゆくのです。戸も開きませんし、なによりもこの右手が気持ち悪くて仕方がありません。
わたくしの右手は、鍵を握った人差し指と親指辺りが真鍮色のまだら模様となっておりました。
すぐさま家の隣にある井戸へと向かい水を組み上げると、右手を桶に突っ込みじゃぶじゃぶと洗ってみたのです。けれどもわたくしの右手はいまだに真鍮色のまだらとなっております。これは医者にでも見せればいいのだろうか。まずは家の者に会って見せるべきだろうか。とにかく裏口へと回ろうとするわたくしの耳に、何やらひそひそとした話し声が届いたのです。
知ってるか こどもがくるそうな
ああ知ってるさ こどもがくるそうな
今年は田んぼが青々しているぞ
秋になれば黄金に色づく こどもがくるぞ
大きな俵が山になる
そっと担いでいってしまおうか
いけないいけない あれがくる
私は声のする方向へ忍び足に歩いてゆきました。なぜでしょうか、とても体がふわふわとおぼつかないのです。物陰からゆっくり裏口の方を見ると、そこには子狸が五匹ほど集まっておりました。
わたくしは「あっ!」と声を出すのを抑えながら、その話しに耳を傾けようといたしました。体がふわふわとして定まらないので、わたくしは動かないように右手を壁にあるブリキ板に添えてみると、カツンと金属音をたてました。
だれかきた
こどもがきたか
おとこがきた
こどもがきたか
子狸はそう言うと、わっと深い茂みに向かって走りだしました。後を追おうとすると、わたくしは自分の右手がやけに重たいことに気がついたのです。
わたくしの右手はなんという事でしょうか、真鍮色のまだらがいつの間にか手のひら全体まで広がっており、色の付いた部分は人間の皮膚では無く、金属そのものでありました。
わたくしは自分の右手を見て目を白黒させて、尻もちをついてしまうのです。情けない事ではありますが、どうすれば良いのか分かりません。
地面に両手をついて立ち上がろうとすると、土に触れた右手の真鍮色のまだらから、にょきにょきと細い糸がいくつも伸び、地面に刺さってわたくしを固定したのです。
「な……なんなんだ!?は、剥がれろ!!!」
わたくしは力一杯土にへばり付いた右手を引っ張りましたが、びくともいたしません。すると、その真鍮色の糸はまるで躍動するように収縮をしはじめ、細くなったり太くなったりを繰り返すのです。
そうこうしているうちに、わたくしの右手は肌色の部分がほとんど無くなっておりました。そうして、手の甲からまた紐のような何かが上に向かって伸びてきたのです。
わたくしは側にある石を拾い、その伸びる何かを叩き潰そうかといたしました。しかし、わたくしの左手は側に落ちている石を拾うことができないのです。
触ろうともスカスカと石を通り抜けるばかりで何もつかめず、地面さえ突き抜けて地中へと沈んでいってしまうのです。
「嫌だ、嫌だ、どうなっているんだ……!!」
わたくしがいくらもがいても、地面に触れている足からずぶずぶと潜ってゆくのです。ただ、しっかりと地面を掴んでいる右手だけが、わたくしを支える唯一の物となってしまいました。
なんとか地表を掴む右手を左手で掴んで体を引き寄せ、首から上は地面の上に出すことが出来きたため、少し息をつけました。
上を見上げると、わたくしが苦しんでいる間に右手から伸びた紐のような物は、立派な一房の稲へと成長していたのです。
「だれかあぁーーーーっ!!!だれか来てくれえぇぇーー!!!助けてくれえぇぇぇぇぇーーーーっ!!!」
必死に助けを呼びますが、いくら叫んでも家からは誰も出てきはしませんでした。家の裏手で表から見えないと言えども、ここまで大声で叫び声を上げても、誰の声も足音も聞こえはしません。
その間にも手の甲の稲は成長し、深くお辞儀をする穂をつけてゆきました。わたくしはその様子を見ながら必死に右手にしがみついております。そして、その重たそうな稲穂から、籾殻に包まれた黄金色の米がぽろぽろと地面へと溢れてゆくのです。全ての米が地面に落ちると、わたくしの右手から伸びる稲はしおしおと枯れ始め、色がなくなり、気がついた時には白っぽい灰の様に粉々に風へと舞っておりました。
一方で、地面に落ちた米はまたたく間に成長し稲へと姿を変え、また実をつけ地面にこぼし枯れ、その米は稲へと育ってゆきます。米が稲穂に成長し実を落としだすまでは、ほんの十数える間の出来事でありました。
そして、なにやらその稲達は一つの方角へ、わたくしの家の裏口に向かっているように見えるのです。一分二分かからないうちに、稲穂の米は家の裏口の隙間に転がり、家の中でも芽を出した様でありました。
わたくしは、あまりのことに頭がぼうっとなっており、自分が地面にまた沈んでしまう不安に勝る睡魔に襲われていくのでした。
はっ、と気が付くと、わたくしは家の前に立っておりました。右手はいつもの肌、勿論真鍮色の紐も稲のような物も生えてはおりません。左手には荷持や土産の入った風呂敷を下げております。
わたくしは狐に。いえ、この場合は狸につままれたような気持ち。と表したほうが良いのでありましょうか。兎にも角にも一安心したと共に、そわそわと。明るい内なのにも関わらず、ひとけのない場所に居ることが落ち着かないのでありました。
戸の前に立ち、鍵を出すことにためらいを感じましたが、手をかけてみますといつもの様にガラガラと開いたのです。
「豊満ただいま戻りました!」
わたくしは不安な気持ちを振り払うように、大きな声を出しながら玄関へと入ってゆきます。
誰も居ない、少し涼しい玄関にわたくしはさっさと草履を脱ぎ、家に上がっておりました。すると、すぐに久しぶりに聞く母の声が聞こえてきたのです。
「おかえりなさい。思ったより早く着いて良かったわ。………どうしたのです?そんな呆けた顔をして?」
母はわたくしの顔を不思議そうに眺めております。
「い、いえ……久しぶりの我が家は落ち着くと思いまして……」
「そう。今日は豊満が帰って来るから、夕飯は豊満の好物ですよ。ゆっくりしていきなさい。帝都でのお話しも沢山聞かせてちょうだい」
母は優しく笑っております。これだけでも、先程までの事を質の悪い白昼夢と安心したいわたくしには、とても心強い笑顔だったのです。
「母さん、チホはどうしておりますか?」
「居間に居りますよ。久しぶりなのだから早く顔を見せてあげなさい」
わたくしは荷持や土産の風呂敷を抱えて居間へと早足で向かいました。そこには大分お腹を大きくし、暑くなるこの時期には目に涼しい、薄い黄緑の着物を着たチホがおりました。
「おかえりなさい。豊満兄さん、お久しぶりです」
チホは裁縫の手を止め、いつもの儚げな笑顔で微笑みかけてきております。チホは細かな仕事が得意で、針子として刺繍の腕は中々なものなのです。
「ただいま。体の具合はどうだい?お腹の子は元気にしているか?」
「ええ、とても元気な子ですよ。私のお腹を沢山蹴ってくるので、わんぱくな男の子かもしれませんね」
チホは愛おしそうにお腹をさすりながら微笑むのです。忘れないうちに、わたくしは土産を渡そうと風呂敷を広げてゆきました。
「あぁそうだ。お前や家族に土産があるんだよ。これはな、安産で有名な神社のお守りだ。『情け有馬の水天宮』なんて、お前は聞いたことがあるかい?きちんと戌の安産にあやかれるよう、戌の日に祈願に行ったんだぞ」
「まぁ!ありがとう、豊満兄さん!これでお産も安心ですね。祈願までしてもらったら、きっと安産で生まれてくるこの子も元気でしょう。たしか……江戸の洒落にもなる神社……と聞いた事がありますよ」
「そうだよ、中々の賑だったからご利益だって間違いないさ」
チホはわたくしの話しを聞きながら、白地に金色の刺繍がされている守り袋を、大切そうに帯の間にしまってゆきます。一瞬、俯くチホの首元から、チラリと真鍮色の輝きが見えたような気が致しました。
少し嫌な気持ちが現れましたが、土産の続きをわたくしは進めるのです。
「それとこれは、家族みんなでだな」
わたくしは、風呂敷に入っている大きな箱を取り出しました。チホが喜ぶのは勿論、親兄弟みなの分もありますので、久しぶりの帰郷に少々奮発して上等のカステラを大箱で頼んだのです。
「豊満兄さん、この箱は…………カステラ!?わぁ嬉しい!!あ、お茶をまだ入れていませんでしたね。私としたことが。早く母さまも呼んで」
「チホ、安産祈願より嬉しそうだぞ。それに、父さんや兄さん達が帰ってきてたら一緒に食べよう。焦らなくても、カステラに足は生えないし逃げもしないさ」
立ち上がろうとするチホを止め、しばし茶を飲みながらチホと久しぶりの再会を楽しんだのでした。
嫁に行った先では仲良くやれているそうで、義理母は穏やかな方だそうです。針子の仕事をしてきた義理母はチホにとっては師でもあり、その仕事ぶりや日々の事を楽しそうに話しておりました。夫は反物問屋で働いており、その縁でチホとは知り合い見合いとなったのです。
さて、そのような話しをしておりますと、玄関の方から聞き覚えのある声が聞こえてまいります。程なくして、長男である一照兄さんと次男の康次郎兄さん、そして父さんの三人が帰って来たのです。
「おかえりなさい。おひさしぶりです。ただ今戻りました」
「満、元気そうだな。帝都の方はどうだった?」
一照兄さんは相変わらず気さくな雰囲気でありました。家業を次いで次期主人となる為でしょうか、里を離れた時より大分頼りがいのある様子へと成長しているよう、わたくしには見えておりました。
「凄いものです。ここも港の近くや栄えている所はありますが、街全体があのような、それ以上のにぎわいで。その分追いかける事件や文化、情報は絶えません。面白い場所ですよ」
「満は物書きの才がありますからね、仕事の方は順調そうですか?」
康次郎兄さんは眼鏡を拭きながら尋ねてきております。綺麗好きなのは変わらないご様子でした。帳簿のまとめ役でもある康次郎兄さんは頭は良いのですが少々風変わりな方と感じております。しかし家の仕事をきちんとこなすところ、責任感もある人だとも思うのです。
「はい、雑誌社にて書かせて頂ける記事も増え、任せて頂ける仕事も大きくなってきております。しかし、わたくしは作家先生にはなれそうにありません。物書きの才と言いても、文字を書くことは出来ますが、事実を元としてそれを追求する記者の方が性にあっているようです」
「まぁ、そのおかげでうちの店やこの界隈の記事を書いてくれるんだろう?是非とも立派な記事にしてくれよ!」
一照兄さんはわたくしの背中をバシバシと叩いております。兄弟の中では一番の大柄なので、わたくしは少しよろめきながらそれを受け止めておりました。寡黙な父は、そんなわたくし達兄弟を見ながら、うんうん。と静かに頷いております。
「サチ姉さんは今日は来ないのでしょうか?」
「姉さんはお家のお夕飯の支度を整えてから来るそうなので、もうじき着くと思いますよ」
チホがそう教えてくれると、母さんが夕飯の支度がそろそろ出来ると、わたくし達に声をかけてくれたのです。それからさほど時間も経たずに、サチ姉さんはやって参りました。こうやって家族一同で会するのは本当に久しく感じるものです。同じように久しぶりに食べる母の手料理に舌鼓をうち、団欒の時は和やかに過ぎてゆきました。少々、米が足りないのは我慢の時代です。そして勿論、食事の後はカステラを切り分け頂きます。チホはまるで子供のように喜び食べておりました。
その後、わたくしは旅の疲れや我が家の安心からか、布団に潜るとすぐさま眠りについたのです。あの、恐ろしい夢は見ることはありませんでした。
それから、五日ばかりが過ぎました。わたくしは自分の仕事でもある雑誌の取材記事のため、地域での取材調査を行っております。最近は色々と物騒な時期でもあり、経済の不安などから多くの地域で暴動が起き、人々の不安はお話しを伺っているだけでも十分伝わってくるのです。
家までの帰り道、青々とした田んぼを見ているとあの白昼夢を思い出し、わたくしは急ぎ足で我が家へと向かってゆきました。
いかん いかん
いかん いかん
大将 はやく
こわい こわい
ああ こわい
ああ!!!
耳元でぽそぽそと聞こえた声に、わたくしは目を開けました。すぐに障子の奥から軽い女性の足音と、母の声が聞こえてまいります。まだぼんやりする中で立ち上がり、声のする障子を開けてみますと、廊下の母はサラシなどを抱えて小走りでこちらに向かて来ております。
「母さん、夜更けに何事ですか?」
「あぁ、豊満。起きてくれて助かりました。産婆さんを呼んで来てちょうだい!生まれそうなのよ!」
わたくしはその一言にビックリし、母から聞いた産婆の元まで全速力で駈け出してゆきました。あまりに慌てふためいていたため、着崩れ乱れた寝間着を直しもせず飛び出しておりました。
産婆を家まで連れてくると、今度はする事がありません。こういう時、男というものは役に立たないものであります。妊婦や出産はあの世に接する穢れとして忌み嫌う方も多くはありますが、わたくしは体の弱いチホの身が心配でありません。
しかし、サチ姉さんのように手伝いに産屋に入ることも出来ませんので、わたくしは居間で湯のみをひっきりなしに傾けておりました。騒ぎに起きてきた一照兄さんに小突かれた時には、わたくしの腹はだいぶ水っ腹となっていたのです。
わたくしが産婆を連れて来てから半刻ほど経ったのでありましょうか、居間にかかる振り子時計は丑三つ時となっておりました。チホの夫、真之介さんも駆けつけて参りましたが、やはり、わたくし達兄弟と同じように居間で我が子が産まれる時を、今か今かと落ち着きなく待っておりました。
しばらく静かになっていた辺りから、なにやら騒がしさのようなものを感じたのです。もしや赤子が産まれたのかもしれません。
真之介さんはすぐに立ち上がり、産屋へと向かってゆきました。わたくしも後を追い産屋に向かってみると、産屋の前には父と母、そして真之介さんがなにやら真剣で、どこか緊迫感ある面持ちで話し合っておりました。サチ姉さんはうなだれたような姿で、産屋の入口辺りで座り込んでおります。
「……チホは………医者や産婆は……………でしょうか……」
「…………すぐに……落とした方が良いとも……ます……病院に連れて……か」
「それは…………こんな物………切り…………いい、待っていろ」
そんな会話が聞こえると、父はわたくしの居る母屋の方へ歩いてくるのです。
「父さん、チホや赤子はどうしたのですか?」
「……………………」
父は何も返事をせず、真剣な顔をして一直線に母屋へ向かってゆきました。母と真之介さんは心配そうな表情をして父や産屋を見ております。
「赤子は産まれたのですか?」
わたくしが母や真之介さんに尋ねると、二人は口をつぐみました。事情が分からず二人へ交互に目をやっていると、早足で父、その後を追いかける形で兄二人がやって参りました。父の片手には、日本刀が携えられているのです。
「父さん!そんな物を出してどうしたのですか!?」
声を荒げると、後ろに居る母はわたくしの着物を掴み止めに入ります。奥に見える兄二人も何やら不安そうな表情をしているのです。そうして、母の震える声が聞こえてまいりました。
「赤子のへその緒に、奇妙なコブが出来ているのです………へその緒を切る竹刀やら、色々試しましたが切れず、とうとう、はさみすら受け付けないため、お父様が刀で切るとおっしゃられたのです………普通のへその緒なら放っておけば良いのですが、あれは、とても…………」
母はそこで言葉を詰まらせてしまいました。本当に何かの奇病でしたら、確かに赤子やチホの為に取り除かねばならないのでしょう。しかし、わたくしは胸騒ぎがしてなりませんでした。
わたくしが黙っていると、父は無言で産屋に向かってゆくのです。わたくしは母をなだめて手を離して貰い、父の後を追いかけてゆきます。父は既に産屋に入っておりました。後ろで兄や真之介さんの声が聞こえておりましたが、わたくしはそれを無視して産屋に入ったのです。
目の前には抜刀した父が刀を振り上げております。そして、チホが抱いている泣きもしない赤子とそのへそからは、ぶつぶつとした小豆程度の小さな肉塊の粒がびっしりと付くへその緒が伸びておりました。凸凹と歪んだ形をしており、所々小さな枝分かれまでしております。さながらそれは、稲穂の穂先を模したかのような………………
「待って!!!とうさ………!!!!」
わたくしの言葉が終わらぬうちに父の刀は振り下ろされ、へその緒は勢い良く断ち切られました。反動でしなり、血液などが滴りながら地面に落ちたのです。
「豊満!!!こんな所にまで入ってきて、何をしている!!!」
父の怒鳴り声が聞こえましたが、わたくしには、いえ、わたくしを睨みつける父以外の全てが。チホに産婆、医者、後から駆けつけた母や真之介さん、姉に兄達もでしょう。みな、息を飲んでへその緒を見つめておりました。
断ち切られたへその緒は、その小豆大の肉塊おのおのがぐねぐねと動き、ぽろぽろと剥がれてゆきました。転がるそれらはまだ動きつづけ、ボコボコと波うち互いにくっつき合い、離れ合い、次第に大きくなってゆくのです。
後ろからは母の悲鳴が聞こえました。兄達や真之介さんは手近な物を持ち、肉塊を叩き潰してゆきました。
ぶちゅり。と血を吹き出し肉塊が弾けるように潰れてゆきます。辺りが一層、鉄臭い空気が増したように思えました。中に混ざる、腐った肉のような悪臭はわたくしの鼻をつきます。
吐き気がこみ上げ下を向きますと、飛び散った肉片が目に入りました。なんと、それらはまだ不規則な鼓動を続けているのです。そして潰れた分だけ増えた肉片は、また大きくなってゆくのです。
肉片はグチャグチャとした塊から、歪ながらも丸い形状に整うと、いつかの稲穂のようにあっという間に大きく膨れ上がりました。二尺程度、わたくしの膝上程度に膨らんだそれは、産まれたばかりの赤子がそのまま大きくなったような姿形をしておりました。体中を血でテラテラとヌメつかせた赤子は、小さな産屋の中や、外に飛び出たモノも合わせるとざっと三十体程度がひしめくようにいるのです。
ああ、わたくしは、あの稲穂を連れて来てしまったのでしょうか。
わたくしは思わず後ずさりますが、四方を赤子の化け物で囲まれ身動きがとれません、みな、目は閉じておりますが同じ顔をしております。チホが産んだ子と全く同じ顔をしております。
わたくしは目の前のチホに目を向けました。産婆や医者は腰を抜かしております。後ろにいるはずの母の悲鳴はもう聞こえてきませんでした。姉や兄達、真之介さんはどうしているかは分かりません。目の前のチホは目を見開いてどこともつかない場所を見ております。そして、わたくしと目が合い、ぴくりと顔をひきつらせました。ゆっくりと抱いている我が子を見、目の前に広がる同じ顔をした化け物の方を見ると、口をぽかんと広げてゆきました。
「はぁ。 は は は はははははははははははははははははは」
一切表情を変えずにチホは声を出しました。笑い声とは到底思えない「は」という音だけが規則的に聞こえてくるのです。
「チホ!!!夢だ!!これはゆ、『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』『はははははははははははははは』
一斉に周りの化け物はチホと全く同じ声をあげました。わたくしは最早悲鳴すら出てこないようです。
チホは一、二分声を上げ続けました。これほど恐ろしく、長く感じる時間はわたくしは体験したことがありません。
そして、ピタリ。とチホの声は止み、同時に化け物の声も止まりました。辺りは丑三つ時過ぎらしい、静寂が訪れます。
「チ、チホ………」
わたくしの言葉にチホは返事をいたしません。代わりに、足元に広がる化け物達は、一斉にわたくしの方へと顔を向け、ニィッと口を三日月形に歪めたのです。
「ーーーーーーーー!!!!!!」
わたくしはその場に立っているだけで精一杯でありました。化け物達はその表情のまま、また先程と同じように抑揚の無い『はははは』『ははははははは』『はははは』『は』『ははははははははははは』と夫々が声を出し始めると、一斉に動き出し、赤子には見えぬ軽やかな足取りで産屋から出て行くのです。
わたくしは化け物が居なくなると一目散にチホの元へ駆け寄りました。チホは気絶しているようで介抱しておりますと、康次郎兄さんと真之介さんが産屋に入って来たのです。
「満、みんなを外に出すぞ!!一照や父さんがこんな場所には火を点けると言って聞かない」
康次郎兄さんは医者の腕を肩にまわして支えながら言いました。医者は意識が無いようで康次郎兄さんに引きづられながら出てゆきます。産婆は腰を抜かしながらうわ言のように、途切れ途切れの経を唱えておりました。
「チホ!チホ!!」
わたくしの隣では、真之介さんがチホに声をかけますが、チホは眠ったままでありました。真之介さんはチホを抱き上げ母屋の方に運んでいきますので、わたくしは産婆をおぶりあげて産屋を出ました。
わたくし達が出るのを確認すると、父と一照兄さんは持って来た油を産屋に撒き散らし、あっという間に真っ赤に照らしてしまったのです。
産屋の奥にある山を見ると、狸が何匹も集まっておりました。その中に、一際大きい狸がおります。わたしくは産婆を外まで連れ出すと、狸の群れへと走りました。しかし、狸はわっと走り去り追いつく事はできそうにありません。
ひとが悪いものをひろってきた
ひとをもらった増えてはこまる
大将 大将
島にくる前にこらしめて
いなほのように増えてはこまる
風に乗ってそのような声が聞こえてきたのです。狸たちの居た場所まで辿りつくと、そこにはある明神の札が一枚落ちておりました。近くの島にある明神の物ですが、今さっき落とされたかのように汚れのない札でありました。
あれからすぐ、母屋で生まれてきた赤子は死産と分かりました。チホは産後の記憶が無かった事が救いだったかもしれません。母はチホを毛嫌いするようになり、父や兄達、姉、真之介さん、わたくしもチホには本当のことを告げずに、よそよそしく過ごすようになっておりました。
あの後から、山で大きな赤子を見た。という話しや噂が絶えなくなって来たのは、雑誌取材の中ですぐ知れたことでありました。
わたくしが渡した守り袋は「チホの体を守って御役目を終えたのだ」と言い、元の神社に返す為に引き取ることにいたしました。この守り袋が悪い訳ではありませんが、なんとなく今回の件を思い出す品を、チホの元から無くしておきたかった為であります。
あの狸の言うことが正しいのならば、今回の件はわたくしが引き起こしたようなものなのでしょう。後ろめたさと罪悪感に、チホの側に居ることが心苦しくなった事は事実ではありました。けれど、それに負けてしまってはチホを支える者が居なくなってしまいます。家族の不和を無くす為、故郷へ戻り働いても良いのかもしれません。どうするかは、この長い帰り道で沢山考える事といたしましょう。
わたくしは、ただ今汽車に揺られております。窓からは水田が見え、青い香りが鼻をくすぐるのです。
読んでいただきありがとうございます。
初のホラー。思いつくまま書き連ねてみました。
タグに名前ありますが、とあるマイナー妖怪さんはもしかしたら、こんな風に生まれたかもしれないと妄想です。
祖母の生まれ故郷を想像しながら。