歌う人形の噂話
餅が膨らんだ。もちろん、それは餅を焼いているからだ。一応断っておくけど、別にダジャレのつもりはない。そして僕は今、新聞サークルのサークル室で、課題を片付けている最中だった。“社会におけるモチベーションについて”という題のレポート。一応断っておくけど、やっぱりダジャレのつもりはない。そして僕は、とても上機嫌なのだった。何故なら、鈴谷さんが珍しく僕の所のサークル室にいるからだ。彼女は今、餅を食べにここに来ている。
少し説明が必要かもしれない。
鈴谷凜子… 民俗文化研究会というサークルに所属している彼女に、僕、佐野隆は惚れている。でもって、僕は新聞サークルに所属していて、サークル同士が協力関係にあるものだから、それを口実にして彼女にしょっちゅう会っている。自慢じゃないが、僕はかなりのヘタレなので、そんな口実でもなければ、彼女に会えないのだ。因みに二人とも大学生で同級生です。
会うと言っても、僕の方から民俗文化研究会を訪ねる場合がほとんどで、こうして彼女の方から来てくれる事はほとんどない。だから餅があるという点を考慮に入れても、このサークル室に彼女が来てくれている事実は、僕にとってかなり喜ばしいのだ。
切っ掛けは、同じ新聞サークルに所属している小牧なみだが餅を届けた事だった。
僕はその時から、サークル室で課題に取り組んでいて、そこには火田修平という顔付きの悪い男も一緒にいた。因みにそいつも課題をやっていて、二人ともノートパソコンを開き、ワープロソフトで作業をしていた。
「相変わらず、たむろっているわね」
そして、そう言って、突如そこに小牧が乱入して来たのだ。小牧はビニール袋を持っていた。
「なんだよ、二人とも真面目に課題をやっているんだから、邪魔するなよ、小牧」
と僕が言うと、不服そうに小牧はこう返してきた。
「あら、随分ね。せっかく、差し入れを持って来てあげたのに」
言い終えると小牧は、持っていたビニール袋を差し出す。火田がそれを受け取り、中を覗いて「餅か」と、一言。
「餅って、それ全部、餅?」
ビニールはそれなりに大きかったのだ。僕がそう訊くと、「うん」と小牧は返す。
「ちょっとした知り合いから貰ったのだけど、少し多過ぎるから、あなた達にも分けてあげようと思って」
それからそう続けた。火田は軽くため息を漏らすとそれにこう返す。
「いや、ちょっと多過ぎるだろう。俺達だけじゃ食い切れないぞ、これ」
そして、言い終えると、少し考えてからこう続けた。
「そうだ。佐野、鈴谷を呼べよ」
僕はそれに少し驚く。
「え? 鈴谷さんを? 彼女、来るかな?」
「餅、嫌いなのか?」
「いや、そんな事はないと思うけど」
時々だけど、茶を飲みながら甘いものを食べているのを見かける。きっと、お菓子の類は好きなのだと思う。彼女の体型は、スレンダーなのだけど、特に体型に気を遣っている訳ではなくて、そういう体質なのだろう。人によっては、酷く羨ましがりそうだ。
「わたしは、来ると思うけどなぁ」
一呼吸の間の後、その僕らのやり取りを聞いていた小牧はそう言った。
「なんで?」
僕はそう尋ねたのだが、それを無視して小牧は続けた。
「もちろん、誘い方によるわよ」
僕はそれを怪訝に思う。
「どういう誘い方なら、来るっていうんだよ?」
「そうね。まずは、わたしの名前を出す事」
「小牧の名前を?」
「そう。わたしからお餅の差し入れがあったってね。で、食い切れないから、手伝って欲しいって言うのよ」
僕は小牧の説明にますます怪訝に思う。
「どうして、それで鈴谷さんが来てくれるんだよ?」
だからそう尋ねたのだけど、小牧が答える前に、火田が言った。
「なるほど。小牧の名前を出す事で、鈴谷に軽い嫉妬心を抱かせ、更に、“手伝って欲しい”という口実を与えて、来るためのハードルを下げてやるのか」
実は火田はそれなりに頭の切れる奴なのだ。しかも変な知識もやたら豊富だし。
それを聞くと「そうそう、流石、火田君」と、小牧は快活に言った。僕は軽くため息を漏らす。
「そんな風に思った通りにいくかぁ?」
僕には鈴谷さんがヤキモチを焼くというのが上手く想像できなかった。因みに、くどいようだけど、別に餅にかけている訳じゃない。
火田が言う。
「まぁ、物は試しだよ。失敗しても、別に害はないんだから、取り敢えず誘いに行ってみろよ。
駄目で、元々だろう?」
「まぁ、そりゃな」
僕はそう答えると、それから鈴谷さんを誘いに行く為に、民俗文化研究会へと向かったのだった。
で、
今、鈴谷さんは餅を焼いている。彼女はやや分厚い眼鏡をかけているのだけど、その眼鏡に光が反射して瞳が見えない。だから機嫌が良いのか悪いのかは分からなかったけど、とにかく彼女は僕の誘いを受けてくれた。僕にはそれが嬉しかった。とても。
“火田が言った通りの気持ちの動きが、彼女にあったかどうかは不明だけど、とにかくこりゃ、ラッキーだ”
餅を焼いている彼女を眺めながら、僕はそんな事を思う。
僕の視線に気が付いたのか、鈴谷さんは「課題をやらなくていいの? 佐野君」と、そう尋ねて来た。
「うん。ちょっと休憩中」
と、僕は返す。本当は、この喜びを噛みしめたいだけなのだけど。課題なんかやっている場合ではない。まぁ、その前から課題は進んでいなかったのだけど。
「なら、餅を焼くのを手伝ってよ」
と、軽く笑って彼女は言う。その瞬間に、パソコンから音が漏れた。実は、休憩がてらに動画サイトで音楽を検索している最中だったのだ。僕は椅子から立ち上がると、「だから、初めに僕も手伝うって言ったじゃない」と、そう言って、餅を焼くのを手伝いに行った。
鈴谷さんは御馳走になるんだから、せめて餅くらい自分が焼くと言って、一人で作業を始めてしまったのだ。多分、僕が「僕と火田は課題をやっている最中」と、言ったからだろうと思う。
餅を焼くのを手伝うといっても、待っているだけだから特別やる事はない。ただし、鈴谷さんの近くに行きたいから、それでも僕は椅子を寄せて腰を下ろしたのだけど。で、箸を持つと、焼き加減なんか関係なしに餅をひっくり返す。鈴谷さんの近くにいる理由を作る為だけの無意味な作業だ。鈴谷さんはそれを黙って見ていた。その間、パソコンから音楽は流れ続ける。
「誰の歌?」
不意に鈴谷さんがそう尋ねて来た。歌声は女性風の声だった。
「気に入ったの?」
僕が尋ねると「聞いた事がない曲だな、と思って」と返して来る。そこで小牧が「ねぇ」と言って、割って入って来た。
“気を利かせろ、小牧”
と、僕は思いもしたけど、きっと火田が真面目に課題をやっているものだから、話し相手がいなくて暇なのだろうと思いもした。まぁ、いいか、別に。
「それ、ボーカロイドよね?」
小牧はそう続ける。
「そうだよ」と、僕は答える。すると、鈴谷さんが口を開いた。
「ボーカロイド? ボーカロイドって、つまりは音声合成ソフトでしょう? こんなに肉声に近い声も出るの?」
「うん。出るみたいだね。最近は、ソフト自体も、それを使うユーザの腕もどんどん進化していて、本当の人間の声に聞こえるのも出て来ているよ」
それを聞くと鈴谷さんは、「へぇ、面白い」と返して、席を立つと、音を奏でている僕のパソコン画面を覗き込んだ。
「これって、誰かプロが作っているのかしら?」
「いや、中にはそれで金を稼いでいる人もいるみたいだけど、多くは素人だよ。趣味でやっている人の方が圧倒的に多い」
「ますます、面白いわね」
彼女はそう続け、パソコン画面を凝視した。
「意外ね。鈴谷さんは、そういうのは嫌いかと思ってた。全然、平気だなんて」
小牧がその様子を見てそう言う。小牧は少しばかり鈴谷さんを誤解しているようなところがある。確かに、鈴谷さんの性格は、多少はきついけど、基本的には彼女は多くの物事に対して寛容なんだ。文化的なものに対しては特に。きっと、文化相対主義の価値を認めているからだろう。
小牧の言葉を受けると、鈴谷さんは不思議そうにこう尋ねた。
「どうして? とても綺麗な歌声だわ」
「でも、それ、人間じゃないのよ? こう、なんか、嫌悪感とか抱かないの?」
「嫌悪感? だって、これって、ただの音声合成ソフトでしょう? ギターとかピアノとか、コンピュータで作っている音は、もう随分前から世間に溢れているのに、今更、嫌う理由もない気がするけど」
「そうだけど…」
小牧は鈴谷さんの返答に困惑しているようだった。どうも、小牧には鈴谷さんの発想が理解できないらしい。そのタイミングだった。火田が「ククク」と笑い出したのだ。
……なんでこいつは、こんな悪人のような笑い方をするのだろう?
「どうしたの?火田君」
と、小牧が少しだけ苛ついた感じでそう尋ねる。すると、火田はこう応えた。
「いやいや、悪い、悪い。なんか、こう、お前ら二人のギャップが面白くてな。思わず、笑っちまったんだよ」
それを聞くと、小牧は更に不機嫌な顔になった。だからなのか、仕方ないといった様子で火田はこう説明をする。
「まぁ、あれだ。ボーカロイドを嫌っている連中っていうのは、要は、ただのソフトを人間扱いしているのだと思うぞ」
それから火田は自分のパソコンで、検索をかけてボーカロイド反対派のコメントを表示させて、それを持って来る。
因みに火田が使っているノートパソコンは僕と同じ機種だ。別に仲良く揃えた訳ではなく、大学でまとめて購入すれば安く買えるというので、二人ともそれに申し込んだというだけの話。パソコンに詳しい連中はその機種の性能を馬鹿にしていたが、僕らのようなライトユーザには、それで充分だった。
鈴谷さんはその火田が表示させたボーカロイド批判のコメントを読む。
「なるほど。面白いわね」
と、彼女はそれにまたそう言った。そこで僕は気が付く。彼女の“面白い”は、恐らく学術的な興味から出ているのだろう。
「人間ってのは、人に近い猿の顔をひょうきんに感じるだろう? ところが、犬や猫だとそれはない。
猿は人に近いものだから、人間は猿の顔に“人間”を見ちまうんだな。そして、“人間の顔”という基準をもってすれば、猿の顔はとても変だ。だからひょうきんに見える。
それと似たような事が、ボーカロイドでも恐らくは起こっているのだろうよ」
小牧はそれに頷いた。
「ああ、なるほど。人間だと思って聞くと、違和感があって気持ち悪いのね。だけど、ただの音声合成ソフトのものだと割り切っちゃえば、普通に音楽として楽しめるんだ。
でも、ボーカロイドを楽しんでいる人達の中にだって、ボーカロイドを人間扱いしている人はいるのじゃない?
ほら、ライブとかで盛り上がったり。ああいうのにツッコミを入れる人の心理は、分かる気もする。画像に向かって、どうして声援を送っているの?って気分になるもの」
「まぁ、そりゃな…
ただ、俺はそれだったら、アイドルとかのコンサートだって同じだと思うぞ。別にアイドルとコミュニケーションできる訳でもないのに、がんばっているじゃないか。それに、そもそも、コンサートでのアイドルなんて、ほとんどの場合、実態とはかけ離れている。アイドルの語源の通り“偶像”だろう」
「でも、アイドルは人間だけど、ボーカロイドは存在すらしていないのよ?」
「偶像って意味じゃ、どちらも同じだよ。どちらも本当は存在していない。でもって、ファンだってそれを承知で、声援を送っている訳だろう? なら、ボーカロイドも大差ないじゃないか」
それを聞いて小牧は「うー」と声を上げる。どうも納得し切れないようだ。そこに、鈴谷さんが割って入る。
「“偶像崇拝”。人間は、ただの像ですら崇拝の対象にできる生き物よ。そういう意味じゃ、ボーカロイドに声援を送るのだって、充分に正常な人間の行動の範疇だと思うけど。別に異常な行動とは思えない」
「神様まで、同列に扱っちゃうの?」と、それに小牧は驚きの声を上げた。鈴谷さんはそれに淡々と返す。
「ええ。偶像崇拝を馬鹿にする人達も、世の中にはいるしね。私はとてもよく似ていると思うわ。
もっと言うと、アニミズムっていうのもある。これは、ありとあらゆる物に霊が宿っているとする考え方ね。そして、人間の脳はなんと物に対しても、共感できる能力を持っていることが知られている。何か物が破壊されると、痛みの神経が反応するのだとか。だから“もったいない”という言葉は、その脳の共感能力から生まれたのじゃないかと考えている人もいるわ。
因みに日本は、このアニミズムが文化に深く根付いていると言われている。器物の霊… 付喪神の類も多い。その日本で、“もったいない”という言葉が生まれたのは偶然じゃないのかもしれない。他の言語では、これに該当する言葉を探すのは難しいそうだしね」
そこで僕は声を上げた。
「共感っていったら、女性原理とも深い関係があるよね。やっぱり、日本で女性原理が強いことが影響しているのかな」
鈴谷さんはそれに頷く。
「多分、関係があると思うわよ」
「なるほど。その日本で、ボーカロイド文化が発展しているってのも、見逃せない点かもしれない」
そう僕が言うと、小牧が口を開いた。もう不服そうな表情は消えている。小牧は、機嫌がコロコロと変わるタイプなのだ。
「で、結局、何が言いたいの?」
「人間の脳は、元来、物に共感できる能力を持っている。そこに霊を想定し、コミュニケーションができると錯覚できる。世界各地に残るアニミズム文化がその証拠。つまり、ボーカロイドを人間扱いするのだって、そういった人間の能力が動いているだけで、異常な行動じゃない。
私はそんな事が言いたいのだけど」
小牧はそれを聞いて「ふーん」と言う。理屈の上では納得したようだ。ただし、感情がまだそれに追いつき切っていない感じだ。これは、しばらく放っておく方が吉かも。鈴谷さんもそう思ったのか、小牧から視線を僕に移すとこう言った。
「多分だけど、今、佐野君のやっているレポートの内容にだって、この物に対する“共感能力”は関係していると思うわよ」
そう言われて僕は少し驚く。
「どういう事?」
「佐野君がやっているのは、“動機付け”に関する課題なのでしょう? 日本人の内発的動機付け… 特に“ものづくり”の動機付けをテーマにしている」
ちょっと説明しよう。
鈴谷さんの言う通り、(冒頭でも書いたけど)僕は社会におけるモチベーション… つまり、動機付けに関する課題をやっている最中だ。
動機付けっていうのは、平たく言ってしまえば“やる気”のことで、これには大きく分けて二つある。
一つは外発的動機付け。
動機付けの原因が、外にある場合をいう。例えば、テストで良い点数を取りたいだとか、給料が欲しいだとか、そういうのは外発的動機付けに分類される。
もう一つは、内発的動機付け。
外に原因があるのじゃなくて、それ自体が動機の原因になっている場合をいう。平たく言うのなら、それが好きだからやる。数学が好きだから、数学を勉強するのは、内発的動機付けになる訳だ。
実は日本社会は、この動機付けに関して、一つ謎を抱えている。多くの優れた製品を開発して来た技術者達は、高度経済成長期はもちろん、今も日本経済を引っ張っている。ところが、なんと、この技術者達の収入はそれほど多くはなかったのだという(近年は、少しずつこの傾向は見直されてきているらしい)。つまり、“外発的動機付け”という面ではとても弱い事になる。しかし、にも拘らず、技術者達は懸命に仕事に取り組み続けている。だから、彼らの動機付けは“内発的動機付け”だろうと考えられるのだ。
しかし、では、その“内発的動機付け”は、一体、何から発生しているのだろう?
僕のレポートの内容の概要は、大体、そんなものだった。因みに、今は問題の提示が終わって、推論を書こうとしているところだったりする。……まぁ、その推論は何も思い付いていないのだけど(だから、進んでいないのだけど)。
「鈴谷さんは“ものづくり”の動機付けに、“共感能力”が関係していると言いたいの?」
「ええ。まぁ、その可能性が高いのじゃないかと思っているわ。物に共感し、大切に作ろうとする思いがあるからこそ、収入は低くても懸命に仕事をするのじゃない?」
それから鈴谷さんはパソコン画面を見つめる。画面では、ボーカロイドの別の曲が始まっていた。
「このボーカロイドでも、似たような事が起こっているのでしょう?
多くの人は、お金なんて稼げなくても、趣味でこういうのをがんばって作っている。つまり、内発的動機付けによって作っている可能性が高い。それには、アニミズムに通じる何かがあるのじゃないかと思うけど」
「なるほど」と僕はそれを聞いて言う。ボーカロイドなんて、近年生まれたポップカルチャーだとか思っていたけど、その根を辿って行けば、しっかり古来よりの文化に結びついているものなんだ。ちょっと感心してしまった。
が、そこで釘を刺すように鈴谷さんはこう言うのだった。
「一応、断っておくけど、単なる仮説だからね、これ」
僕は笑いながら「分かっているよ」と応えた。本当は分かっていなかったのだけど。
「ま、“仏作って魂入れず”なんて、諺もあるくらいだから、“ものづくり”にアニミズムが関係している可能性は否定できないと思うけどな」
そこでそう言ったのは火田。
「あー、そんな諺もあったな、そういえば。そう考えてみると、面白いもんだよな、文化とか民俗ってさ」
と僕は言う。それを聞くと鈴谷さんは、何故か少しだけ微笑んだ。それに僕は「どうしたの?」と尋ねてみる。
「ちょっとね、私が好きな分野を面白いって言ってもらえて嬉しかったのよ。これも共感の一例だわね」
そう答える鈴谷さんに、僕は少しだけ見惚れてしまった。可愛い。彼女のこんな反応はレアだと思う。
「はい」
でもって、見惚れていた僕に向かって、鈴谷さんは皿を差し出してきたのだった。皿の上には餅が乗っている。
「お餅、随分前に焼けていたから、お皿に分けておいたの。早く食べないと、冷めちゃうわよ」
そして彼女はそう言う。
そう言えば、会話に熱中していて、餅の事をすっかり忘れていた。そして僕は、結局、餅を焼くのをほとんど手伝っていない事にその時、気が付いたのだった。
……いや、まだ、餅はあるから、今からだって手伝えはするのだけど。
それから、皆で餅を食い始めた。火田も課題をやるのを止め、餅を食っている。因みに、どうでもいい話なのだけど、鈴谷さんはきな粉で餅を食べていた。やっぱり甘いものが好きなようだ。同じ様に、きな粉で餅を食べていた小牧が口を開く。
「“仏作って魂入れず”ってさっき火田君が言ったけどさ。そんな怪談話もあるわよね。このサークル棟に」
「そんな怪談があるの?」
と、訊いたのは鈴谷さん。
「あるわよ。まぁ、“魂入れず”っていうか、“わざと入れてなかったのに、入れちゃった”って、感じの話なんだけどさ」
僕もその話は知らなかった。どうやら火田も知らないらしい。小牧以外の全員が、「知らない」と言うと、小牧は驚いた声を上げた。
「なんで知らないの? ちょっと前に、サークル棟自治会の仙谷君が、大騒ぎしていたのに!」
呆れた口調で火田が言う。
「小牧。誰も彼もが、お前みたいに顔が広い訳じゃないんだよ。仙谷なんて、顔くらいしか知らないぞ、俺は」
何を隠そう僕は顔すらも知らなかった。小牧は少しだけはしゃいだ感じで言う。
「知らないなら、教えてあげるわよ。ちょっと怖い話なんだから」
基本、こいつは噂話とお喋りが大好きだから、話しができて嬉しいのだろう。それから嬉々として、語り始めた。
「“仏作って魂入れず”って言うけど、お化け屋敷のお化けの人形には、魂入れたら駄目でしょう? お化けの人形に魂が入ったら、祟ったりするかもしれないもの。だから、職人さんの仕上げてくるお化け屋敷の人形なんかは、わざと完成させないでおくものもあるのだって」
鈴谷さんがそれに頷く。
「うん。聞いた事があるわ」
小牧はそれに頷くと言った。
「で、そのお化け屋敷の人形のうちの一体を、このサークル棟の誰かが、貰って来た事があるらしいの。文化祭で使いたかったから、古くなっていらないやつを貰ったのね。
ところが、貰って来たその人は、その人形の完成されていない部分を見つけてしまう。頭の上の所に、色が塗り忘れた箇所があったのだって。で、完成させていないのがわざとだと知らなかったその人は、あろうことか、色を塗ってその人形を完成させてしまった」
僕はその小牧の話を、ちょっと面白いと思っていた。先の展開は読めるけど、それでもワクワクする。
「そのお蔭もあってか、文化祭のお化け屋敷は大成功したのだけど、その間に、変な噂話が囁かれた。
お化けの人形のうちの一体が、お客さんに話しかけたとか、勝手に歩いたとか、そんな事が言われるようになったの。“どんな仕掛けになっているのか?”と、問い詰められたこともあったそうよ。
お化け屋敷をやっているメンバーは、その話をそれほど気にしなかった。お化け屋敷が成功したから、そんな噂が生まれたのだろうと思っていたのだって。
だけどね。文化祭が終わって、お化け屋敷を片付けてみると、例のお化けの人形がない。どこにもない。どれだけ探してもそれは見つからなかった。そして、その文化祭が終わった後も、お化けの人形が歩いているのを見たとか、喋っているのを見たとか、そんな噂が囁かれるようになったそうなのよ」
小牧が言うのを聞き終えると、火田が言った。
「なるほど。で、仙谷がその人形を見たってか?」
「見たというか、聞いたのだって」
「聞いた?」
「うん。歌声が聞こえて来たらしいわよ。誰もいない部屋から。で、その怪談を知っていた仙谷君は、“人形が歌っていた!”って、大騒ぎしていたの」
「姿を見ていないってのが怪しいな。それじゃ、人形が歌っていたかどうかも分からないじゃないか。空耳か何かじゃないの?」
そう言ったのは僕。
「それを言ったら、姿を見たと言っても怪しいだろう。幻覚や記憶の改ざん、単なる思い込み、嘘。可能性ならいくらでもある」
火田がそう続けた。その後で、小牧が鈴谷さんにこう訊く。
「鈴谷さんは、どう思う?」
「私?」
僕はその質問に軽く興味を覚えた。鈴谷さんの興味は、飽くまで社会科学的なもの。幻聴だとか、幻覚だとか、そういった原因を探るような自然科学的な観点から、怪談を考えたりはしない。
さて、どう答えるのだろう?
「私は“歌”って点が気になるな。だって、昔から知られているこのサークル棟の怪談では、人形が歌ったりはしなかったのでしょう?」
「ああ、言われてみれば」
「それと、お化け屋敷の人形って確か高いというから、そんな風に簡単に誰かに上げたりするのかな? って思いもするな」
火田がそれを聞いて笑った。
「確かにな。もしかしたら、元々は当時のメンバーがお化け屋敷を成功させる為に流したデマなのかもしれないぞ、その怪談」
それに小牧は少しだけ気に食わないといった感じで「ロマンがないなぁ」と、そう返した。
何がロマンなんだか、僕はと思う。そして、その後で小牧は、僕のパソコンを勝手にいじってボーカロイドの曲を流し始めた。
「何をやっているんだよ?」と、僕は尋ねる。
「ちょっと、“怪談”繋がりで、怪談をモチーフにした曲をかけてみようと思って」
「そんなのあるの?」と、鈴谷さん。
「けっこう、メジャーなジャンルだよ」と僕はそう返した。
「都市伝説から創作ものまで、幅広くある」
「ふーん」と鈴谷さんは返す。それからちょっと経って、ロック調の激しくホラーな曲が流れ始めた。掠れたような声で、恐怖を演出したボーカロイドの歌声が響く。
「へぇ、こんな声も出せるんだ」
それに、そう鈴谷さんは返す。その反応を受けて、小牧は言った。
「つまらないなぁ こういうのも平気なんだ」
「お前は、何を鈴谷さんに期待しているんだよ?」
と、僕はツッコミを入れる。そのタイミングだった。突然にサークル室のドアが開いたのだ。
面長で、眼鏡をかけた顔。長身。真面目そう。
そこには、そんな男が立っていた。
僕らはそいつを凝視した。その複数の視線を受けて、その男は少し固まる。間。何も動かない。男は状況を理解しようとしているように見えた。そしてしばらくした後で、指をさしながら、
「パソコン」
と、一言。
また少しの間の後で、こう続ける。
「なんだよ、パソコンかよ。紛らわしい音楽をかけるなよ」
それを聞くと、小牧が言った。
「どうしたの? 仙谷君」
仙谷?
こいつが仙谷って奴なのか。
「いや、ちょっと勘違いしちゃって」
小牧の問いに仙谷はそう答える。
勘違い?
その言葉で僕は察する。
“ああ、なるほど。このパソコンから流れるボーカロイドの声を、怪談の中に出てくる人形の歌声だって勘違いした訳か。
……伴奏つきなのに”
それから仙谷は、顔を真っ赤にすると、ドアを閉めてしまった。多分、もうどっかに去ってしまったと思う。その後で火田が言う。
「仙谷って、ああいう奴だったんだな。ほぼ、逆ギレじゃないか」
小牧が庇うように言う。
「でも、逆ギレでもああいう反応だと、ちょっと可愛いって思いもするけど」
鈴谷さんもそれに加勢する。
「まぁ、ちょっと怖い曲だしね」
それを聞くと、小牧は何かを思い付いたのかこう言った。
「それは、そうかもしれないわね。むしろもっと踏み込んで、ぶっ飛んでおけば勘違いもしなかったかもしれない」
悪戯っぽく笑う。
そしてまた僕のパソコンをいじり始めた。どうでもいいけど、どうしてこいつは、勝手に他人のパソコンを使うかな… しばらく後、かなりハードな曲が流れ始める。鈴谷さんが尋ねる。
「なにこれ?」
「ふふふ。“般若心経”のハードコアなやつよ。これなら、どうだ!」
「いいんじゃない?」と、それにあっさり鈴谷さん。
「ええ! どうして? 罰当たりじゃない! 不謹慎でしょう? もっと、変な反応をすると思っていたのに」
「だから、鈴谷さんに何を期待しているんだよ、お前は」
僕はまたツッコミを入れた。
「原始的な宗教ってこんな感じよ。激しく歌って踊ってトランス状態に入るのね。それに、その昔の踊念仏の中には、かなりハードなものも多くって、偏見もかなりあるようだけど、ロックミュージックを引き合いに出す人もいるくらいなの。
だから、これはこれでとても“宗教的”と言えるのじゃないかと思う」
「宗教って音楽とも関係あるの?」と、小牧。
「あるわよ。というか、根元を観れば音楽はそもそも宗教と不可分だった。それは、宗教儀式の一環だったのよ。もっと言っちゃうと宗教から分化していった文化は、音楽だけじゃない。
小説、演劇、踊り、絵画、彫刻、哲学、自然科学まで。そういった様々な文化の根元は、そもそも宗教だったと言える」
「そう言われてみれば、確かにライブで観客が盛り上がっている光景とかって、宗教っぽく見えない事もないな」
と僕は言う。鈴谷さんは続けた。
「霊を想定し、それを社会の機能として活用する。もちろん、それが宗教な訳だけど、そういう事ができたからこそ、人類は発展したのじゃないか?という説を唱えている人がいるわ。
今の日本じゃ、否定されがちな傾向にあるけど、本来、宗教っていうのは、それくらい重要なものなの」
それに火田がこう返す。
「いや、むしろそれだけの力があるからこそ、恐れられて否定されているのだと俺は思うけどな」
確かに。オウム真理教などの数々の事件で、日本人の心理には、宗教に対する警戒心が生まれたような気がする。そしてそれはむしろ怖れに近いものだろう。鈴谷さんは、それに何も返さなかった。黙って、ボーカロイドの激しい曲を聴いている。聴き入っているように思えなくもない。その顔を見て、僕はふと思い付いた。
「ねぇ、鈴谷さん。音楽が宗教と結びついていて興味深いというのなら、一度、ライブに行ってみない?」
彼女はそれに少しだけ驚いた顔を見せた。
「え?」
僕は続ける。
「実はこの大学のバンドが、後少しでライブをやるらしいんだよ。それに一緒に行かないかな?と思って」
鈴谷さんは珍しく迷っているようだった。彼女は基本的には即断即決の人だ。彼女が僕の誘いに悩んでくれているのは、僕にとっては嬉しいことだった。
「無料だし、会場もここから近いんだよ。それに、このバンドのボーカルは僕らと同級生で、同じ講義を取ってもいる森さんなんだ。普段は大人しそうで声も小さいのに、ボーカルになると良い声を出すんだって」
僕はもうひと押しだとそう続けてみた。すると、「まぁ、断る理由もないけど」と、鈴谷さんはそれに返してくれる。つまり、オーケー。僕はイメージでガッツポーズを取って、「よっしゃ」と心の中で呟く。そのやり取りを見て、小牧が言う。
「おぉ! ヘタレの佐野君が、鈴谷さんをデートに誘うだなんて。しかも、成功している!」
火田がそれに続ける。
「いや、実はこいつは、こういう感じの時は積極的だぞ。何か口実があると、途端に変わるんだ」
僕は言った。
「お前ら、僕をダシにして、楽しむのはやめろ」
約束の日。ライブ会場。久しぶりに、鈴谷さんとデートができて、僕は多少、興奮していた。
それに、ライブ会場という特殊な場所で、鈴谷さんがどんな反応を見せるのか、少しばかり興味もある。案外、会場が盛り上がり始めたら、一緒になって叫んだりして。
が、僕の予想は見事に外れた。
微動だにしない。
そう。鈴谷さんは、音楽が始まっても、会場が盛り上がっても、少しも反応をしなかったのだ。気持ちがいいくらいに、無反応。
これは……、楽しめていないかな?
僕はそう思う。
終わった後で、僕らは近くの喫茶店で少し話をした。結局、終わるまで鈴谷さんは、目立った行動は執らなかった。
“ライブに誘って、失敗したかな?”
と、僕は思う。僕の様子が変な事に気付いたのか、鈴谷さんはこう尋ねて来た。
「どうしたの?佐野君」
「いや、鈴谷さんが、あまり楽しめていなかったのじゃないかと思って」
それに鈴谷さんはこう返す。
「どうして? とっても面白かったわよ」
澄ました表情。その“面白かった”が、学術的な興味によるものなのか、それともライブ自体(というか、僕とのデート)によるものなのかどうかが重要なのだけど、彼女はそれを言ってはくれない。そしてチキンな僕にはその質問ができなかった。
……まぁ、“つまらなかった”と言われるよりはマシか。
そう僕は気を取り直す。
鈴谷さんはそれから、歌詞カードを読み始めた。さっきのライブでうたわれていた歌で、ライブ会場で配られていたものだ。それをじっと見つめながら、彼女は言う。
「確かに、良い声だったわね。彼女、私達と同じ講義を受講しているのだっけ? あまり、覚えがないのだけど」
「うん。普段は目立たない子で、あまり喋らないってのもあるかもしれないけど、歌っている時と普段の会話じゃ、かなり声質が変わるタイプらしいから、多分、覚えがないのはその所為じゃないかな」
それを聞くと鈴谷さんは、眉を顰めてまた歌詞カードを眺め始めた。どうにも、様子が変だ。
「なんか、引っ掛かるのよね私は」
それから彼女はそんなことを言った。
「引っ掛かるって、何が?」
「うん。佐野君は、彼女の歌を聞いていて、何か感じなかった?」
「いや、特に何も…」
実はライブの間、ずっと鈴谷さんを気にしていたものだから、歌なんてほとんど聞いちゃいなかったのだ。
鈴谷さんはそれに「ふーん、そうか」と言う。僕はそれを見て、ますます変に思った。
“もしかしたら、僕の事で彼女に嫉妬してくれているのかな?”
それで、僕はそんな希望的観測をする。
「あ、断っておくけど、彼女とはほとんど個人的な繋がりはないからね。有名人だから、知ってるってだけで」
だから、そう言ってみたのだけど、「そう」の一言で片づけられてしまった。嫉妬して不機嫌とか、そんな雰囲気もない。
違うか…
そう思う。それから、鈴谷さんは何故か、ゆっくりと歌詞カードの詩を読み始めた。
「偽りでしかないわたしの声が、あなたの中で優しく響くなら、それはきっと多分、あなた自身が、とてもとても、優しいってことでしょ。だから、お願いあなた自身と、その中にいるわたしを、大切にして…」
「どうしたの?」と僕は訊いてみる。
「うん。これは、さっきのライブで歌っていた“アニミズム”って歌の歌詞なのだけど、ちょっと、前に皆でした話の内容を思い出さない?」
「ああ、ボーカロイドのやつ。確かに、連想できる気もするけど… タイトルが“アニミズム”なら、なおさら。でも、それがどうしたの?」
そう僕が尋ねると、少しの間の後で、彼女はこう返した。
「ちょっと気になったの。
……でも、ま、私が気にするような事でもないかな。うん。この話はもう忘れる事にするわ」
それから彼女はそう言うと、席を立ってしまう。
「そろそろ帰りましょう。夕飯が遅くなっちゃう」
それを聞いて僕は“どうも夕食を、一緒に食べようとか、そういう発想はないみたいだな”と思い、ちょっと悲しくなりながら、彼女に続いた。
「デートは、どうだったぁ?」
翌日、突然、小牧からそう話しかけられた。因みに講義中だ。恐らく、僕らを見つけて席を移動して来たのだろう。講義中に声を上げるなと僕は言いたい。僕は鈴谷さんを見つけて、隣に腰を下ろしていたから、もちろん、隣には彼女もいる。
「どうって… 別に。普通だよ、普通」
と、僕は返す。少しだけ鈴谷さんの視線を気にしたけど、彼女は無反応だった。
「なるほど。何にもなかったのね。相変わらずヘタレな佐野君で、安心したわ」
小牧はそう言うと、僕の隣に腰を下ろした。どうしてこいつには、鈴谷さんと一緒に講義を受けたいという僕の願望が分からないのか。
……いや、分かった上で邪魔している可能性もあるけどな、こいつの場合。
それから小牧は、退屈そうに落ち着きなく辺りを見回していたのだけど、急に頭を固定させると、こう言った。
「そういえば、森さんはどうだった?」
小牧が見ている先を目で追ってみると、そこには小さくなって講義を受ける女の子の姿があった。地味で目立たない感じ。森さんだ。昨日のライブで受けた印象とはかなり違う。人間ってのは変わるもんだ。僕は小牧の問いに、こう返した。
「まぁ、普通にいい感じだったのじゃない?」
本当は、ほとんど聞いていなかったのだけど。僕がそう返すと、小牧は笑いながら言った。
「なるほど。鈴谷さんが気になって、ほとんど聞いていなかったと。
ちゃんと聞きなさいよ。最近、森さん、少しずつ歌声が変わってきているらしいんだから」
なんで分かるかな、こいつは。
横目で鈴谷さんを見てみたが、彼女は何も反応をしなかった。淡々と講義を受けている。そろそろ小牧を黙らせないと、真面目に講義を受けろと、彼女から叱られてしまいそうだ。僕は小声で小牧にこう返す。
「うるさいな。少なくとも、今と印象は全然違っていて華々しかったよ。というか、そろそろ黙れ。講義中だぞ?」
もっとも小牧は、僕が少し言ったくらいで大人しくなったりはしない。平然と、まだ会話を続けた。
「そうよねぇ ライブとは全く印象が変わっちゃうのよね、森さん。普段は、パソコン研究会の地味子さんなのに。
ライブの彼女だけを知っているファンは、驚くでしょうね」
……へぇ、森さんにはファンまでいるのか。
それを聞いて僕は少し感心をした訳だけど、鈴谷さんの視線を気にして、「だから、そろそろ黙れって」とそう言う。しかし、そのタイミングで、その鈴谷さん自身が、突然、口を開いたのだった。
「その話、本当?」
僕はその質問に多少驚く。
「その話って?」
「森さんが、パソコン研究会に所属しているって話」
「本当よ。パソコン研究会と、バンドをかけ持ちしているの」
それを聞くと、鈴谷さんは鉛筆の柄尻の部分を、額にこすりつけるようにしながら、こう言った。
「パソコン研究会なのに、講義を受けるのにパソコンを使わないで、鉛筆でノートをとっているの?」
そう言われて僕は気が付く。確かに、森さんは普通に紙のノートで、講義の内容をメモっていた。
講義には、ノートパソコンを持ち込んでも、ノートでもどちらでもいい。因みに、僕は大学で共同購入したノートパソコンで、鈴谷さんは紙のノートだ。小牧は、そもそもノートをとっていない。
「ああ、本当だ。でも、おかしいな。森さん、前はノートパソコンで授業を受けていたわよ。佐野君と同じやつ」
小牧はそう言う。
「なるほど。森さんもパソコン共同購入を利用したのか」
それを聞くと、鈴谷さんは何かを考え込み始めた。それから、口を開く。
「ねぇ、小牧さん」
「なんじゃいな?」
「あの、例の歌う人形の噂話は、あれから今どうなっているか知っている?」
「うん、知ってるわよ。なんと、仙谷君の他にも体験談が増え始めているの。うちの新聞サークルの園田君も聞いたって」
それを聞くと、鈴谷さんは軽くこめかみに手をやる。そして、こう言う。
「それは… あまり、良くない兆候ね」
僕はその言葉を不思議に思う。なにがどう良くない兆候なのだろう? そしてそれから鈴谷さんはこう続けるのだった。
「ねぇ、できれば、園田君からその話を詳しく聞きたいのだけど、今日、彼をサークル室に呼べないかしら?」
「呼べると思うけど…」
と、それに小牧は返す。小牧も不思議に思っているらしく、変な顔をしていた。
「……怖かったですよ。誰もいない廊下を歩いていたらですね。こう、か細い女の人の歌声が聞こえてきまして…」
園田タケシ(通称、ソゲキ)は、ややオーバーアクションで、そう語っていた。恐らく稲川淳二辺りの真似をしているのだろうと思われるが、単に間抜けな印象になっているだけな気がする。
因みに、こいつは一年下の後輩で、マイペースな異次元ボケをかますような、そんなキャラだ。
鈴谷さんはそれを無表情で淡々と聞いている。その二人のテンションの差が、傍から見ていて面白くはある。
「それで、その声の発生源を突き止めるようなことはしなかったんだ?」
彼女がそう尋ねると、変なポーズを取りながら、ソゲキはこう返した。
「ええ、まぁ、怖いですから。
よくホラー映画とかで、怖い何かを確認しに行くってシーンがありますが、そういうのを見る度に僕は思うのですよ。なんで、そこで逃げないかな? わざわざ、危険に足を踏み込むかな? と。
ですから、現実に自分が同じ場面に遭遇したならですね、絶対に逃げてやろうと、ずっと前から思っていた訳ですよ、僕は。まさか、実際にそんな場面に遭遇するとは思っていなかったですが、見事に実行してやりましたよ」
そして、どうしてなのか、ずっと昔の某番組の“友達の輪”のようなポージングを決めると、真剣な表情で「とっても怖かったです」と、そう言う。鈴谷さんは無感動な感じで「分かったわ」と一言だけ、それに返した。
やはり、傍から見ていると面白い。シュールな雰囲気すら漂っている。
それから鈴谷さんは、「ところで、ソゲキ君。ちょっと聴いて欲しいものがあるのだけど、もう少し時間平気かしら?」と、そう言った。
聴いて欲しいもの?
僕は不思議に思う。これは、ちょっと想定外の展開だ。
「なんでしょう?」
と、ソゲキは返す。すると鈴谷さんは、「ボーカロイドって知ってる?」と、言ってノートパソコンを取り出した。
彼女もノートパソコンを持ってはいるのだ。講義を受ける時は、使っていないけど。
鈴谷さんはそれから、ノートパソコンを起動させると、動画サイトへとアクセスして、ボーカロイドの曲を流し始めた。
「この曲…」
流れてくる音楽は美しいピアノの旋律で、やがてそこに迫力のある女性風の歌声が重ねられる。
肉声に近いボーカロイドも徐々に珍しくなくなってきているが、これは特に凄いかもしれない。多分、鈴谷さんは自力で探したのだろう。と言っても、検索をかければ、比較的楽に見つけられそうだけど。
「これ、ボーカロイドなんですか?」
と、曲を聴きながらソゲキは言う。鈴谷さんはこう返す。
「ええ、そうよ。感想はそれだけ?」
それにソゲキはあさってな返答をした。
「まさかぁ… これ、ボーカロイドじゃないですよ。人間でしょう? 多分、ボーカロイドだって嘘をついて、本当は人間が歌っているのですよ。
鈴谷さんもピュアだなぁ そんなのを、簡単に信じちゃって」
うわぁおぉ…… そう来るか、ソゲキよ。
と、僕は思う。これはうざい。
こいつもなかなか、予想通りの反応をしない男だ。
「分かったわ。もう、いい」
ソゲキのとんでも発言に、鈴谷さんはそう返した。やはり飽くまで、淡白に、淡々と。ソゲキは「はぁ」と返すと、それからあっさりサークル室を出て行ってしまう。ソゲキが去った後で僕は
「ごめんねぇ ソゲキは、ほら、ああいう奴だからさ」
と、そう言ってみる。多分、ソゲキの態度に多少は苛立っているのじゃないかと思ったからだ。
「まぁ、私から頼んだのだし……」
それに鈴谷さんはそう返す。いつもなら、“別に平気よ”とか言うような場面だろう。これは、やっぱり、ソゲキをうざいと思っていたんだろう。
「それに、園田君の言葉が、ヒントになりもしたから…」
それからそう続けた鈴谷さんに僕は「ヒント?」と疑問の声を上げる。
「ヒントって何の?」
その質問に、鈴谷さんは答えてはくれなかった。代わりにこう質問をして来る。
「ねぇ 佐野君。もし私が、お金を貸してって言ったら貸してくれる?」
「お金? どれくらい?」
「五万くらいかな」
「うん。それくらいなら貸すよ。アルバイトで貯めた金があるし」
僕が即答すると、鈴谷さんは微妙に瞳を歪めて僕を見つめた。僕は鈴谷さんに見つめられて、ちょっと嬉しかった… のだけど、その視線がそういった意味ではない事も明らかだったので、こう返す。
「どうしたの?」
すると、鈴谷さんはこう言った。
「あのね、佐野君。私から頼んでおいてあれだけど、そんなに直ぐに人を信用して、五万もの大金を貸すなんて簡単に言っちゃ駄目よ」
やや説教口調だ。僕は少しだけ困りつつ、笑顔を作ってこう応える。
「いや、僕が信用しているのは、人間一般じゃなくて、鈴谷さんだけどね。火田とかから頼まれたら躊躇するって」
その僕の言葉に、鈴谷さんは少しだけ止まる。表情の変化はなかったけど、少しだけ顔を赤くしたような気はした。気の所為かもしれないけど。
「そういう事じゃなくて」
と、それから鈴谷さんは言う。誤魔化しているように思えなくもない。
「いくら信頼している人からの頼み事だって、理由くらいちゃんと訊かなくちゃ駄目でしょう?」
そう続ける鈴谷さんに、頭を掻きながら僕は「まぁ、そりゃね」と応える。変な間ができてしまった。
「じゃあ、改めて尋ねるけど、どうしてお金が必要なの?」
気を取り直して、僕がそう尋ねると鈴谷さんは、少しだけばつの悪そうな表情で、こう言った。
「本当を言うと、まだ絶対にお金が必要って決まった訳じゃないの。ちょっと、パソコン研究会まで一緒に来てくれる?
そこで必要かどうかが分かると思うから」
そして彼女は、サークル室を出ていってしまった。僕も後に続く。
少しだけ彼女は速足で歩いてる。急いでそれに追いついて、横に並ぶと僕はこう尋ねた。
「パソコン研究会ってことは、森さんに会いに行くの?」
「ええ。多分だけど、今もいると思う。きっと、彼女、自分のパソコンを壊してしまっているだろうから、パソコンを使いたかったらサークル室の備品で作業をするしかないもの」
それを聞いて僕はちょっと考える。
“あ、そうか。講義で、森さんはノートパソコンを持って来てなかったのだっけ。だから鈴谷さんは、森さんのパソコンが壊れていると考えたのか”
それから僕はこう訊いた。
「でも、どうして、鈴谷さんは森さんに用があるのかな? 全く知り合いじゃないはずだよね」
鈴谷さんは僕の言葉を聞くと足を止めた。それから僕の顔を見ると、ゆっくりとこう言う。
「ねぇ、佐野君。私って、お節介だと思う?」
「鈴谷さんが? どうして? そうは、思わないけど」
僕がそう返すと、鈴谷さんはまた歩き始めた。ただし、今度は普通のペースだ。
「正直、今回の件は無理に首を突っ込むような話でもない気がするのよ。放っておけば良いのかもしれない。
佐野君にも迷惑をかける事になるかもしれないし」
「僕は別に迷惑だなんて思っていないよ?」
「佐野君は思っていなくても、私が嫌なのよ。これじゃ、まるで私が佐野君の信頼を利用しているみたいじゃない」
それを聞いて、僕は“なるほど”と思った。
さっき、僕に簡単にお金を貸すなと説教をしたのは、こんな気持ちがあったからなんだ。僕が彼女に惚れていることに付け込んだみたいになったのが、彼女は嫌だったんだろう。
そう思って、僕はなんだかちょっとだけ嬉しくなってしまう。
「優しいねぇ、鈴谷さんは」
そして思わずそう言ってしまった。鈴谷さんの場合、潔癖というのとは、ちょっと違うのじゃないかと思う。
「何の話よ?」
と鈴谷さんは返すと、また少し歩く足を速める。僕は軽く微笑むと、それに合わせてスピードを上げた。
パソコン研究会は、思った以上にゴチャゴチャしていた。実は案外、スッキリしているのじゃないかと思っていたのだけど、完全に予想外だ。新聞サークルや民俗文化研究会は、比較的荷物が少ないから、そのギャップもあるのかもしれない。
微かに重低音が響いているのは、恐らく、独自のサーバを持っているからだろう。サーバは消耗品というし、それなりに金がかかるはずだ。どうやって手に入れているのか、その資金源が知りたいところだ。まぁ、今は気にしてはいられないけど。
鈴谷さんの予想通り、森さんはパソコン研究会にいた。都合良く一人で、何かの作業をしていたらしい。僕らが入ると、パソコンをロックさせてしまったから、どんな作業をやっていたのかは分からなかった。
「あの… 何の用ですか?」
僕らに向き合って座る彼女は、軽く俯いていて、しかも声はとても小さかった。本当にライブの時とは、大違いだ。
そう言われて鈴谷さんは、顔に手をやってからこう言った。
「そうね。まず、何から言うべきかしら… ごめんなさいね。もっと言う事をまとめてから来るべきだった」
それからちょっとの間の後で口を開く。
「まずは、そうね。ちょっと質問をさせてもらいたいのだけど、森さんは、どうしてバンドなんかやり始めたの?
とてもじゃないけど、そんなタイプには思えないのだけど…」
森さんは「え… それは…」と、とても答え難そうにしている。鈴谷さんは、それを助けるように言う。
「例えば、パソコンを買って、音楽ソフトを手に入れたはいいけど、音楽の技能はなかった。それで、手っ取り早く音楽に触れたいと思い、初めは雑用か何かでバンドに加わった… とか?」
それを聞くと森さんは驚いたような顔になり、こう言った。
「どうして、知っているのですか?」
驚いたからかもしれないが、いつもとは違って声は大きかった。鈴谷さんは首を横に軽く振る。
「知らないわよ。ただ、状況から軽く予想しただけ…
森さん。パソコンで、音楽を作っているのでしょう? しかも、ボーカロイドも使っている」
そう言い終えると、彼女は森さんの使っていただろうパソコンを指さした。いつもより、ちょっとだけ鈴谷さんはきつい気がする。普段なら、知らない人と話す時は、とても丁寧になるのに。
「ボーカロイドで歌わせることはできたけど、音楽の技能はなかったから、伴奏までは作れなかったのじゃないの? あなたは」
森さんはそれを聞くと「どこまで知っているのですか?」と、そうゆっくり言った。大きな声ではないけど、普通に聞き取れる声だ。いつもの彼女の喋り声とは違う。僕はそれを不思議に思った。
「だから、知ってはいないわ。単なる予想。
でも、今のあなたの反応で確かめられはした。やっぱり本当は普通に喋れるのね。わざわざ自分の声を隠す為に、小さな声で喋るようにしていたんだ」
僕はその鈴谷さんの指摘に驚く。
「ちょっと待って、鈴谷さん。どうして、そんな事をする必要があるの?」
鈴谷さんは、それに淡々と返す。
「簡単よ、佐野君。バンドで歌っていたのは、森さんじゃなくて、ボーカロイドだから。彼女には自分の声を誤魔化す必要があったの」
僕はその説明に愕然となった。
「え、何それ? つまり、バンドの時は口パク?」
確かにボーカロイドは、パラメータの深い部分までいじれて、オリジナルの声に調整する事も可能ではある。それを更に音楽作成ソフトで加工すれば、別モノになり、ボーカロイドの声だと、簡単には分からないようにできるかもしれない。
心なしか、少しばかり今回の鈴谷さんの口調には険があるような気がしたのは、だからだったのか。この不正に、ちょっとだけ怒っていたのだ、彼女は。
「断っておくけど、私は別にあなたを責めるつもりでここに来た訳じゃないの。きっと何か訳があるのでしょう?」
そう言われると、森さんは観念したのかおずおずと語り始めた。
「はい。あの… パソコンでボーカロイドを趣味にし始めて、そのうちに作曲もしたくなったんです。それで、鈴谷さんが言った通り、勉強の為にバンドに雑用係として入ったのですが、しばらくして、わたしの作っているボーカロイドを聴いてみたいって先輩から言われて… それで、聴かせてみたんです。ところが、それを聴いて先輩が悪ノリをし始めちゃって…
わたし、凝り性なものだから、その頃、既に肉声に近い声で歌わせる事ができるようになっていたもので…」
鈴谷さんがその後に続ける。
「なるほど。あなたの声が、ボーカロイドの声にどことなく似ていたから、ボーカロイドに歌わせて、口パクでステージに立ってみろってそう言われたのね?」
「はい。単なる一度きりの冗談だって言われて、承諾したんですが、予想以上に反応が良くって、それで後一回、後一回と説得され続けてズルズルと…」
なるほど。
恐らく、元々彼女は大きな声で喋るタイプではなかったのだろうけど、この所為でそれに拍車がかかった訳か。
それほど人付き合いも多くなさそうだから、その変化に気付く人もいなかったのかもしれない。
鈴谷さんは森さんの説明に頷く。
「大体、予想していた通りだわ。そして最近になって、あなたはパソコンを壊してしまって、ボーカロイドで歌声を作れなくなってしまったのね。
だから、パソコン研究会でその為の作業をしていた…」
「はい」
「だけど、その作業を自治会の仙谷君に聞かれてしまった。何とかその時は誤魔化したけど、仙谷君は、それを“歌う人形”の噂話として広めてしまう…
でも、あなたはその作業を止める訳にはいかない。それで、それからもあなたは作業をし続けた。結果として、サークル棟であなたの歌声を聞く人が増え、噂話がもっと広がってしまって、今に至る… と、概要はそんなところかしら?」
森さんは無言だったが、その無言は鈴谷さんの質問を肯定していた。僕はそこで不思議に思って、こう尋ねる。
「でも、作業ならヘッドフォンでもつけてやれば良かったのじゃない? そうすれば、音は漏れないよ。騒がれることもなくボーカロイドの歌を作れていたはずじゃ…」
しかし、そう僕が言っている途中で、鈴谷さんはパソコンの横に置かれているマイクを指さしたのだった。
マイク? どうして、マイクがあるのだろう?
僕が疑問に思ったタイミングで、彼女はこう言う。
「ところが、そうもいかない理由があったのよ、佐野君」
「理由ってどんな?」
「森さんは、徐々にボーカロイドの歌に、自分の声も混ぜていたの。そこのマイクでね。ほら、最近、歌声が変わり始めたって、小牧さんが言っていたでしょう?
自分で歌うのだから、ヘッドフォンしても声は響いちゃう」
僕はそれにまた驚く。
「え… どうして?」
「森さんが、今の客を騙しているような状況に罪悪感を覚えていたからよ。だから多分、森さんは、そうやって、徐々に自分の声に切り替えていく気だったのじゃない?
あの“アニミズム”って歌の歌詞を思い出して。
“偽りでしかないわたしの声が、あなたの中で優しく響くなら、それはきっと多分、あなた自身が、とてもとても、優しいってことでしょ。だから、お願いあなた自身と、その中にいるわたしを、大切にして…”」
鈴谷さんはあの時の歌詞カードを取り出して読みあげていた。森さんはそれを聞いて、ますます小さくなる。と言っても、これは単に照れているだけかもしれない。
「さっき、園田君が、ボーカロイドの声を人間の声だって言い張っていたでしょう? その時に、私も初めて気が付いたのだけどね。なるほど、逆もできるんだって」
そう鈴谷さんは続ける。森さんが頷いた。
「はい。やっぱり、無理があると思うし、お客さん達に悪いし…」
鈴谷さんは黙って頷くとこう言った。
「私にはどこまであなたが責められるべきなのか分からないけど、その事実を知れば、傷つく人が出てくるでしょうね。それに、そうなれば、必要以上にあなたを責める人も出てくると思う。
なら、このままその事実は伏せておくべきじゃないかと私は思うの。
ライブで、ミュージシャンに熱中する。これは多かれ少なかれ幻想なのだと思う。幻想は幻想のままで終わらせるべき。それが一番、なんじゃないかしら…
あなたにとっても、その方が都合が良いでしょう? それでね、森さん。少し私に提案があるの」
その鈴谷さんの言葉に、森さんは不思議そうにした。
「あの… なに?」
「あなた、お金、ないのでしょう?
だからパソコンを買えないでいる。私から五万、ここにいる佐野君から五万。それぞれ貸してあげるから、それでパソコンを買うっていうのはどう?
このまま“歌う人形の噂話”が広まっていけば、いずれはバレるわよ。そうなる前に、手を打たないと」
「いいんですか?」
それを聞いて森さんは、驚いた声でそう言った。明らかに感動している表情だ。
「もちろん。今日、私はその為に、ここに来たんだから」
その言葉を受けると、森さんは目を潤ませて立ち上がり、そして大きく頭を下げてからこうお礼を言った。
「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます!」
それに鈴谷さんは嬉しそうに微笑みながら、「どういたしまして」と、返す。まるで、手のかかる自分の子供を見ているかのような表情だった。
パソコン研究会を出ると、鈴谷さんはゆっくりと僕にこう訊いて来た。
「ねぇ、佐野君…
今回の私の判断、あなたはどう思う?」
僕はこう答える。
「良い判断だと思うよ。真実を知って、皆が傷つくのなら、真実なんて隠されたままでいいと思う。
もちろん、今回のが、罪のないイタズラってレベルの話だから、だけどね」
鈴谷さんはそれに頷く。
「ええ。何でもかんでも嘘が許されるような風潮になったら、社会全体にとってマイナスだから、それはもちろん駄目。
でも、ルールを護れば、それで物事が万事解決するって訳でもないなら、ある程度は柔軟に対応するべきじゃないかとも思うのよね」
そう言い終えると、鈴谷さんは少しだけ黙った。そしてしばらく後に、神妙な口調で語り始める。
「ねぇ、佐野君。結局のところ、人が人を認識するのってアニミズムと同じ様なものだと思わない? だって、他人がどう感じているのかなんて、極論を言ってしまえば、全て想像でしかないでしょう。
それは、佐野君から見た私だって同じなのよ。あなたの中にいる私は幻想。だからね、その…
あまり私に期待し過ぎないでね…」
僕にとって、鈴谷さんのその言葉は、予想外のものだった。森さんは、観客が自分に対して幻想を抱いている事に罪悪感を抱いていた。もしかしたら、それは鈴谷さんも同じなのかもしれない。
僕の抱いている幻想に、鈴谷さんはプレッシャーを感じている。
だけど、それを受けて僕はこう言ってみた。
「大丈夫だよ」
鈴谷さんは少しだけ表情を変化させる。
「僕は自分の幻想の責任を、誰かに押し付けたりはしないから。自分自身で、責任を執るよ」
すると鈴谷さんはゆっくりと笑う。
「そう… でも、それはそれで、ちょっとさみしいかも」
そして、そんな事を言うのだった。
「どうすればいいの?」
と、僕は言う。笑いながら。
鈴谷さんは速歩きで進み始め、それに答えてくれない。けど、敢えて僕は返答を期待しはしなかった。
余談。
それから少し後で、森さんの歌声はすっかり様変わりをし人気がなくなっていった。飽きられただけという可能性もあるけど。そして、それと同時期に、ネット上には、肉声に近いボーカロイドの歌声が、新たに投稿されるようになっていたのだ。
見事な歌声で、徐々にファンも増え始めているらしい。
歌声を作るのが上手いのと、歌うのが上手いのは全く別モノらしいから、人間ってのは不思議なもんだと思う。
このシリーズを、コミティアとかで売ってますんで、よろしく~