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あめはれ日記①

作者: オードリー


誰か泣いてるの


しとしと


ちがう、雨音だ


空が、泣いてる


私の代わりに泣いてくれているの?


ちがう、私は、悲しくなんてない



腹立たしい雨の音で目が覚めた。


今日も外に洗濯物が干せない。


暖房のタイマーは、とっくに切れてしまい、部屋の中は冷えきっていた。


吐く息が真っ白い。


睡眠不足のせいで、凍ったように冷たい足は、感覚がない。


人気ない父親の部屋の前を通って、洗面所へ向かった。


私は、父親と二人暮らしをしている。


母親は、小学校6年生の時に病気で亡くなった。


大手の商社に勤めている父親は、出張も多く、ほとんど家にいることはない。


仕事に打ち込んだ父親を責めるほど、わがままではない。


でも、ふとした時に思う。


たとえば、父のいない朝に。


きっと、私がいなくなっても、父は、悲しむことはないだろう。


顔を洗って歯を磨いてドライヤーで寝癖を直した。


雨の日の寝癖は、しつこいので、困りものだ。


部屋の全身鏡の前で、制服を着た。


スカートは、制服チェックに引っかからない程度の長さにした。


授業で必要な教科書とノートを高校の指定カバンに携帯電話をカバンのポケットに押し込んだ。


学校で見つかると没収されるので、マナーモードに設定しておかなければ。


バッグを手に持って、キッチンへ行き、温かい緑茶を飲んで、買い置きのヨーグルトを食べた。


紺色のダッフルコートを着て、耳あてをした。


家を出ては、バス停に向かって歩き出した。


雨だから、自転車には乗れない。


ビニール傘越しに見上げた空は、どんよりした灰色だった。


雨は、当分止みそうにない。


もしかしたら、雪になるかもしれないと思った。


なんて、憂鬱な朝なんだろう。



下駄箱で靴を履き替えていると、突然、背中に軽い衝撃を受けた。


振り向かなくても分かるのは、纏わりつく香水の匂いのせい。


腰に回された腕は、雪のように白く、折れそうに細い。


「うたちゃん。宿題みせて。」


鼻にかかった声は、媚びるように甘い。


「たまには、自分でやりなよ。前期の成績は、赤点ばっかりだったんでしょう。」


一応、忠告してみるが、真山恵麻は、期待を込めた眼差しを向けてくるだけだった。


金髪と青い瞳は、文字通りキラキラと輝いていた。


「わかった。いいよ。3限までに返してね。」


降参した私は、バッグから世界史のプリントを取り出すと、恵麻に向かって放り投げた。


「サンキュ。うたちゃん、愛してる。」


プリントをキャッチした恵麻は、躊躇いもなく、私の頬にキスをした。


恵麻は、ハーフの帰国子女である。


自分の感情にとても正直な子だ。


腕をぶんぶん振りながら、走り去っていく少女を見送った後、時計を見ると、8時27分だった。


やばいかもしれない。


3号館の端にある教室まで全力疾走した私は、出席確認になんとか間に合った。


「大森。大森詩子。いないのか?」


「はい!います!」


担任は、ぎりぎりに滑り込んできた私をちらりと見ると、脂ぎった額の汗をハンカチで拭った。


どうして、こんなに寒い日に汗をかくのだろう。


席につくと、隣の男は、机に突っ伏していた。


茶色に染まった髪の毛は、寝息に合わせて、上下している。


朝から爆睡している男の名前は、小林幸太郎といい、小・中・高と同じ学校に通っている。


昔から陸上をやっていて、県下一の短距離ランナーらしいが、他のことには、とんと無頓着な男である。


運よく受かった高校でも全く勉強もせず、授業中は寝てばかり。


通信簿の赤点の数は、恵麻に匹敵する。


幸太郎が、目を覚ましたのは、1限が終わった後だった。


大きなあくびをした幸太郎は、日焼けした長い手足をぐんと伸ばした。


開口一番に出てくる言葉は、大体予想がついていた。


「詩子。」


呼びかけられたところで、先手を打った。


「世界史のプリントなら、持ってないよ。」


幸太郎は、目を丸くした。


「詩子が、宿題を忘れてくるなんて。」


「恵麻にレンタル中。」


「なんだ。」


私は、へらりと笑う男から教科書に視線を戻した。


こんな男にかまっている暇はない。


2限は、数学の小テストがあるのだ。


「1年からそんなに勉強してどうするんだ?」


「どうもしないよ。一流大学に入りたいだけ。」


「いい大学に入ったら、何するんだ?」


「一部上場企業に就職する。」


「つまんねえ、人生。」


幸太郎は、眠気覚ましのミントガムを噛みながら、ぼやいた。


悪気はないのだろうが、むかっとした。


少しだけ嫌味を言いたくなった。


「好きなことばかりやっている幸太郎に言われたくない。少し足が速いからって、いい気にならないでよ。」


沈黙が下りた。


幸太郎が怒っているのが、分かる。


「ごめ、」


謝ろうとした時、いきなり、ガンと音がして、私の机が揺れた。


机を足で蹴った幸太郎は、無言のまま、立ち上がると、教室を出て行こうとした。


「幸太郎!」


後ろ姿に向かって、名前を呼んだけれど、幸太郎は、振り向かなかった。


追いかけたい気持ちはある。


追いかけて、謝って、仲直りしたい。


でも、今ではなくていい。


だって、次は、小テストだから。


テストを休むなんて、論外だ。


私は、いつから、こんなにかわいくない女になったのだろう。


小学生の時は、幸太郎と一緒に遊ぶのが、とても楽しかったはずなのに。


いつから、幸太郎と一緒にいることが、苦しくなったのだろう。


考えても答えはでないような気がもしたし、私は、答えを出すのも面倒だった。


幸太郎は、4限が終わっても、教室に戻ってこなかった。


私は、昼休みになるとすぐ、幸太郎を探した。


放課後の部活は、サボるはずないから、校内にいるはずだ。


空き教室に幸太郎の姿を見つけた時は、ほっとした。


やっと謝ることができる。


「こ、」


声を掛けようとした時だった。


聞き覚えのある甘い声が聞こえた。


恵麻だ。


「幸太郎、元気だして。タイムが下がっているのだって、ちょっと調子が悪いだけだよ。」


「でも、もう1カ月以上だぞ。俺、やばいかもしれない。俺は、好きなことばっかりしてるって、さっき詩子に言われたんだ。その通りかもしれない。そのくせ、結果も出せないないなんてな。」


幸太郎は、かっこわりと自傷気味に呟いた。


いつもの呑気な声ではない。


辛そうで、苦しそうな声。


私の知らない声だった。


頭を殴られたようなショックだった。


「そんなことない。幸太郎は、かっこいいよ。私は、走っている時の幸太郎が大好きだもん。もっと自分に自信を持って。」


その声は、甘いメロディーで、言葉は、優しい呪文みたい。


私の謝罪なんて、何の意味もない。


仲直りなんて、何の価値もない。


そっと寄り添う二つの影を背に向けると、その場を後にした。




「大森さんは、これでいいわけ?」


気分いいわけないでしょうと心の中で突っ込みを入れるが、口には出さない。


幸太郎と恵麻のラブシーンを目撃した後、教室に戻った私を待っていたのは、目つきの据わった陸上部の女子部員達だった。


用件は、陸上部の期待の新人、小林幸太郎につきまとう真山恵麻をどうにかしてほしいとのことだ。


最初に口を開いたのは、隣のクラスの大石奏だった。


茶色いボブカットの少女は、よく教室の掃除中にうちのクラスを覗いて、幸太郎に声を掛けていく。


黒目がちな瞳で、幸太郎をじっと見つめる姿が、いつも印象的だった。


「最近、幸太郎が調子悪いのって、真山さんのせいだと思うの。昨日だって、部活の途中で帰ったと思ったら、駅前のマックで真山さんといるのを見かけたって子がいたのよ。」


大石奏の声は、少し震えていた。


幸太郎を見つめる瞳が、今日は、私を真っ直ぐに見ていた。


私のところへ来るなんて、かなり悩んだのだろう。


鹿のような漆黒の瞳を眺めながら、幸太郎もつくづく罪な男だと思った。


「幸太郎は、すごく期待されているの。幼馴染の大森さんだったら、わかるでしょう。どれだけ、幸太郎が頑張ってきたのか。インターハイのことを考えても、1年生の今が一番大事な時なのよ。」


大石奏を押し退けるようにして、喋り始めたのは、陸上部の2年生の女子だった。


彼女の言葉を聞いた他の女子達もうんうんと頷く。


後輩想いの優しい先輩は、さぞかし素晴らしい人物に見えるのだろう。


部外者の私から見れば、ただの出しゃばりにしか見えない。


まったく、とんだ茶番だ。


私は、焼きそばパンを口に押しこむと、パックのコーヒー牛乳を一気に飲み干した。


「気持ちは、分かります。幸太郎のことをすごく心配していることも。でも、」


私は、すうと息を吸った。


「はっきり言って、余計お世話だと思う。タイムが下がっているのは、幸太郎自身の問題です。恵麻のせいで、タイムが落ちるなんて、そんな馬鹿な話はない。幸太郎は、そんなことでダメになるような男でなんですか。」


女子生徒達の顔にさっと赤味が差した。


「私達が悪いっていうの?」


ヒステリック声でわめく2年生を見ながら、この人は、日本語が通じないないのかと思った。


きっとやましい気持ちがあるから、逆ギレするんだ。


「誰も悪いと言っていません。」


呆れたように言うと、2年生をかばうように前に出てきた大石奏が、キッと私のことを睨んだ。


「何よ、その言い方。偉そうなこと言っている大森さんだって、幸太郎に相手にされていないじゃない。自分だけが、幸太郎を理解しているみたいな口利いちゃって、馬鹿みたい。」


私は、怒りと恥ずかしさで我を失っている同級生をぼんやりと見つめた。


その台詞を私に言うのか。


ふいに何かがぷつんと切れた音がした。


笑いがこみ上げてきた。


「何、笑っているのよ。おかしいんじゃない。」


気味悪そうに私を見る大石奏の言葉に苦笑した。


「おかしいのは、あなた達の方でしょ。幸太郎、幸太郎って、ここにいない人の話ばかり。そこの人は、いい人ぶって、後輩の事情に首を突っ込んでくる。そんなに幸太郎が心配なら、本人ときちんと話し合えばいいじゃない。本人と話しても埒があかないなら、恵麻と話せばいい。できないの?本人に面と向かって言えないようなやましい気持ちがあるなら、最初から何も言わなければいいのよ。」


気がつくと、大石奏は、泣いていた。


「大石の気持ちも知らないで、勝手なこというんじゃないわよ。」


さっきの2年生が、また食ってかかってきた。


「真琴先輩。もういいです。授業始まってしまうと、先輩達にご迷惑がかかります。」


大石奏は、血気盛んな真琴先輩に力なく言うと、ふらふらとした足取りで教室を出て行った。


残された陸上部の部員達は、恨めしそうに振り返ったけれど、結局、大石奏を追いかけた。






私は、自販機の前でぼう然と立ち尽くしていた。


押しかけたボタンは、赤く点滅している。


「コーヒー牛乳ないのぉ・・・」


放課後の廊下は、人気もなく、私の声は、よく響いた。


無い物は仕方がない。


美術室横の自販機にもコーヒー牛乳があるから、そちらに行くことにした。


着いてみると、自販機の前に人影が見えた。


背の高い男は、どこかで見覚えがあると思ったら、2年生の九重歩だった。


多分、校内で女子に一番人気のある男子生徒だ。


1年生にも憧れている子が多い。


間近で見るのは、初めてだけど、確かにおそろしく整った顔立ちをしている。


高い鼻は、すっと筋が通っているし、眉は、眉ペンで描いたみたいな形をしているし、目元は、涼やかである。


でも、なんだか冷たい感じだな。


しかし、そう感じたのは、一瞬だけだった。


「おっと。おまたせ。」


私の視線に気がついた九重歩は、にこりと笑って、自販機の前を私に譲った。


少し軽い気もしなくもないけど、人好きのする態度だった。


「どうも。」


一応、会釈をした私は、自販機を見た途端、がっかりした。


「また、ない。」


思わず、呟いてしまった時、歩いていた九重歩が、立ち止まると、引き返してきた。


再び目の前に立った男は、私の手を取ると、持っていたジュースのパックを乗せた。


見ると、コーヒー牛乳だった。


「あの。」


私は、驚いて、九重歩を見上げた。


「俺は、別の買うから、あげるよ。」


「いいですよ。」


「気にしなくていいよ。」


「本当に結構です。」


「もらってよ。」


「もらう義理がないです。あなたが、先に買った物でしょ。あなたが飲んでください。」


「強情だなあ。」


九重歩は、困ったように頬を掻いたが、すぐに何か思いついたようで、ニッと笑った。


「じゃあ、お礼してよ。」


「お礼?」


「うん。名前と携帯アドレス教えて。」


「嫌です。」


即答した私は、くるりと背を向けると、歩き出した。


「ちょっと、待ってよ。じゃあ、名前だけ。名前だけでも、教えてよ。」


背後から九重歩の声が聞こえる。


軽い上に往生際の悪い男だ。


私は、振り向きもせず、答えた。


「一年の大森です。」


「大森なにちゃん?」


「大森詩子です。」


しばらく沈黙があった。


あきらめたかと思った時だった。


「詩子!」


急に大きな声で下の名前を呼ばれた私は、反射的に振り返ってしまった。


振り向いた途端、空中を円を描いて飛んでくるコーヒー牛乳のパックが目に映る。


反射的に手を伸ばすと、コーヒー牛乳は、私の手の中にすとんと着地していた。


「ナイスキャッチ。」


九重歩は、いたずらっぽく微笑むと、踵を返して去っていった。


90年代のトレンディ―ドラマのヒーローか。




コーヒー牛乳を飲んで、図書室での自習を終えると、5時半を過ぎていた。


玄関口で傘立ての上にかがみこんでいる恵麻を見つけた。


「恵麻。どうしたの?」


「うたちゃん。あたしの傘が見つからない。間違って誰か持って行っちゃったのかなあ。」


「見つからないって、恵麻の傘は、名前つき・・」


言いかけた私は、口を噤んだ。


陸上部の女子部員達がわざと盗んだという可能性が、頭をかすめた。


恵麻の赤い花柄の傘は、海外で買ったらしいから、同じ物を持っている人はないだろうし、大きな名札がついている。


でも、こんなこと、確証はないから、恵麻にはいえない。


「幸太郎は、一緒じゃないの?もう少しで、部活終わるでしょ。傘入れてもらえばいいじゃん。」


明るい調子で言うと、恵麻は、首を横に振った。


「今日は、ミーティングがあるから、遅くなるって。7時過ぎるから、先に帰れって言われたの。」


「じゃあ、私の傘に入れてあげる。恵麻の家、学校から近いし。」


「いいの?ありがとう。」


私の提案を聞いた恵麻は、ぱっと顔を輝かせた。


花のような笑顔を見たら、大石奏がますます気の毒に思えてきた。


私が男だったら、恵麻を巡って、幸太郎と争っていたかもしれない。




帰り道で、恵麻は、少し控えめに幸太郎の話を始めた。


「あのね。うたちゃん。幸太郎のことなんだけど、もう少し優しくあげてくれないかな。うたちゃんて、幸太郎にすごく厳しいでしょう。でも、私は、うたちゃんがすごく優しいって知っているから、幸太郎にも優しくしてあげて。」


「幸太郎が甘ったれすぎるんだよ。優しくする必要を感じません。」


「でもね、うたちゃん。幸太郎、陸上部の方が上手くいっていないみたいなの。タイムもかなり下がってるみたいで、落ち込んでるの。」


「人間なんだから、良い時も悪い時もあるよ。幸太郎がこれからも陸上続けるつもりなら、いい機会なんじゃない。」


「そんな言い方って。うたちゃんは、心配じゃないの?」


恵麻は、泣きそうになった。


私は、そんな恵麻をなだめるように頭を撫でた。


「心配なんかしないよ。だって、恵麻がそばにいるもの。」


恵麻は、えっと驚いた声を上げた。


私は、傘を持っていない方の手で恵麻の小さな頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「恵麻がいれば、幸太郎は、大丈夫。だから、恵麻は、ずっと幸太郎のそばにいてあげなよ。」


恵麻の頬は、バラ色で、恵麻の瞳は、青くて、恵麻の髪は、金色。


冬の世界は、白と黒と灰色だけなのに、恵麻は、鮮やかな色彩に溢れて見えた。





その夜、幸太郎にメールを送った。


陸上部の女子部員のこと。


恵麻の傘がなくなったこと。


幸太郎は、単純で熱い男だから、きっと女子部員達に直談判しに行くだろう。


告げ口だっていわれたって、かまわない。


大石奏なんて、知ったこっちゃない。


幸太郎にとって、大切な存在は、恵麻なのだから。


メールを送った後、窓の外を見ると、一日中降り続いた雨は、雪に変わっていた。



凍ったのは、雨だろうか。





勉強をしている時が一番心穏やかかもしれない。


数学の難問を解いた後は、自分が世界で一番頭の回転が速い人間だと感じる。


世界史や日本史の教科書を暗記するほど読込んだ後は、自分が世界で一番知識のある人間ではないかと感じる。


逆に勉強していない時は、落ち着かない。


ひどく不安になる。


というわけで、私は、今日も放課後の図書室で自習をしていた。


コンコン。


集中して、源氏物語の原文を読んでいたので、自分の机が叩かれたのに気付かなかった。


コンコン。


二度目のノックでやっと顔を上げると、九重歩が立っていた。


スマイル0円男は、今日も笑顔だ。


このあだ名は、私が心の中で勝手に付けた。


そこら中の女子生徒に笑顔をふりまくから。


九重歩は、最近やたらと私に絡んでくる。


廊下ですれ違う度に手を振ってきたり、話しかけてきたりするし、時々、教室にも顔を出す。


学食に行けば、近寄ってきて、隣に座る。


神出鬼没な九重歩が、放課後の図書室に現れても、あまり驚かなかった。


「何を読んでるの?」


「源氏物語です。」


「どこ読んでるの?」


「明石です。」


「あ、須磨のやつでしょ。俺、須磨の水族館に行ったことあるよ。ちょい、さびれてて、いい味出してたよ。」


「はあ。」


「光源氏、かっこいいと思わない?俺は、結構いい男だと思うんだけど。」


「光源氏がいい男だとすれば、あなたも充分いい男だと思います。」


「ありがとう。でも、どうして?」


「節操無しだってことです。」


「また、つれないこと言って。」


そこがいいのだけどと言いながら、九重歩は、微笑んだ。


「どうして、私にかまうんですか。」


「かわいいから。」


「真面目に答えてください。」


「真面目だよ。」


「私が、あなたのことを好きにならないからですか。それが、面白くないから?」


九重歩は、苦笑気味に私を見た。


「そこまで自惚れてないつもりだけど。」


「じゃあ、どうして?」


「『はっきり言って、余計お世話だと思う。タイムが下がっているのは、幸太郎自身の問題です。恵麻のせいで、タイムが落ちるなんて、そんな馬鹿な話はない。幸太郎は、そんなことでダメになるような男でなすか。』」


九重歩は、私が陸上部の女子部員達に向かって言った言葉をすらすらと暗唱した。


言い終わると、急に真面目な顔つきになった。


明るい茶色の瞳が、私を覗きこむ。


距離が縮まったわけでもないのに落ち着かない。


「背筋がゾクッとした。この子と恋ができたら、楽しいだろうなって思った。」


「恋は、楽しいだけのものではないと思います。」


大石奏は、傷ついていた。


「そりゃ、苦しい恋もあるかもね。でも、俺と詩子の恋は、きっと楽しいよ。」


「どうして、そう思うんですか。」


「俺達は、似た者同士だから。」


「どこが、ですか?」


さすがに呆れた私が、驚いた声を出すと、九重歩は、いつものスマイル0円男に戻った。


「愛情深いところ。勉強の邪魔だから、そろそろ、俺行くね。」


去っていく九重歩の後ろ姿を見ながら、邪魔だと分かっているなら、来なければいいのにと思った。


九重歩を見た後は、なぜか不安な気持ちになる。


心臓が、早鐘を打って、胸が締め付けられる。


狭心症の前触れだろうか。


ず・ざら・ず・ざり・ず・ぬ・ざる・ね・ざれ・ざれ


差し当たって、打消しの助動詞の活用形を唱えてみた。


だけど、心は、ちっとも落ち着かなかった。




物理の教科書が見つからない。


たしか、登校してすぐに机の中に入れたはずだけど、おかしいな。


ロッカーの中をくまなく探してみたけれど、見つからなかった。


家に忘れたのかな。


「なんか、探してんのか?」


物理実験室に移動するために教室から出てきた幸太郎は、ロッカーに頭を突っ込んでいる私を眺めていた。


「物理の教科書が見つからない。家に忘れてきたのかも。」


「珍しいこともあるもんだな。心配すんな。貸してやるから。」


「班違うじゃん。」


「だから、貸してやるって言ってんだろ。俺は、どうせ教科書読まないし。」


言うなり、幸太郎は、ゴミ溜めのようなロッカーを開けて物理の教科書を取り出すと、なだれが起きる前にロッカーのドアを閉めた。


「ほらよ。行くぞ。」


幸太郎は、物理の教科書を投げて寄こした。


「ありがとう。この前は、ひどいこと言って、ごめん。」


幸太郎に並んで歩き始めた私は、お礼を言った後、この間の暴言を謝った。


「いいよ。俺の方こそ、陸上部の女子達が迷惑かけて悪かったな。」


「私は、あまり気にしてないよ。それより、恵麻は、何もされてないよね。昨日、廊下ですれ違った時は、元気そうだったけど。」


幸太郎は、ああと頷いた。


「俺の不調を心配してくれるのは有難いことだけど、陸上部の事情に恵麻を巻き込むなって、はっきり言った。」


「それで、すぐ納得してくれたの?」


「いや。でも、実力出して黙らせようと思って、がむしゃらに練習してたら、タイム上がり始めてさ。それから、誰も何にも言わない。」


「すごいじゃん。ちゃんと恵麻を守ったね。」


私は、予想以上の拳闘を見せてくれた幸太郎を心から褒めた。


「ありがとな。詩子って、やっぱりいい奴だよな。」


幸太郎は、照れ隠しで私の肩をバンバンと叩いた。


「あんなに怒ってたくせに。」


「あれは、詩子が悪い。お前って、時々、氷みたいに冷たくなるんだよな。」


「それ。もうちょっと聞かせて。」


幸太郎の言葉に引っかかりを覚えた私は、幸太郎に迫った。


幸太郎は、困った顔をしながら、正直に答えた。


「詩子は、昔から俺のことを俺以上に分かっているだろう。普段は、すごいいい奴だし、お前といると楽しいんだけど、時々、嫌な所もひょいと突いてくるから、ちょっと怖いんだ。」


なんとなく、私もそれを薄々感じていた。


「私も分かる気がする。でも、昔は、もっと普通だったよね。私は、いつから、そうなっちゃったか覚えている?」


「そりゃ、お前。おばさんが亡くな、」


幸太郎は、はっとして、口を閉じると、私を見た。


「ごめん。無神経だった。」


「いいよ。別に。もう4年以上経ってるし。」


「詩子は、強いな。」


幸太郎は、ふっと微笑むと、肩をまた叩いた。


頼りにしているぞと言われているみたいだった。





放課後、図書室の前で、恵麻と鉢合わせした。


恵麻が幸太郎の体育委員会が終わるまで待っているというので、私も付き合うことにした。


学食のテーブルで、英語の宿題をしていたのだけど、ふと顔を上げると、恵麻のシャーペンの動きが止まっていた。


どうしたのだろう。


恵麻は、英語だけは出来るのに。


「恵麻。」


声を掛けると、恵麻は、何度か瞬きをした。


長い睫毛が上下する。


「うたちゃん。ごめんなさい。」


「え?何が?」


「うたちゃんが、幸太郎に厳しすぎるって言ったこと。」


「そんなの別に謝る必要ないよ。」


「ううん。あたし、聞いたの。うたちゃんが陸上部の人達に私と幸太郎のことで嫌なこと言われたこと。あたし、何も知らないで、うたちゃんにひどいこと言った。ごめんなさい。」


「謝らないでよ。私は、そんなつもりじゃなかったの。幸太郎と恵麻の問題に体育会系の上下関係とかを持ちこまれたから、むかっときちゃっただけ。大石はともかくとして、2年生は、本当に無神経だと思った。」


言い終わる前に恵麻にぎゅっと抱きつかれた。


「うたちゃん、きつい。でも、優しい。あたし、こんなに優しい人を他に知らない。」


恵麻の腕は、細いくせに私を容易く締め付ける。


でも、心地よい。


私は、目を閉じて、恵麻の体温を感じた。


温かい。


食堂のドアの隙間風なんか、全然気にならないくらいに。



どのくらい、時間が経ったのだろう。


食堂の静寂を破るように幸太郎の声が響いた。


「うーわ。お前ら、何してんだよ。」


駆け寄ってきた幸太郎は、恵麻と私を引き離した。


「あれ、幸太郎。もう、委員会終わったの?」


恵麻は、無邪気な顔で不機嫌な彼氏を見上げた。


「終わったよ。悪いかよ。」


幸太郎は、ふてくされたように言った。


「ううん。うれしい。」


恵麻は、にぱっと笑うと、幸太郎の腕に飛びついた。


「良かったね。恵麻が喜んでくれて。」


私が言うと、幸太郎は、顔を引き攣らせた。


「おいこら、詩子。俺は、時々、本当にお前が怖いよ。」


ため息交じりの台詞は、かなり切実な響きを持っていた。


気の毒になってきたので、気を利かせることにした。


「それじゃ、私は、図書室に戻るから、ここで。」


「玄関口で一緒に帰ろうよ」と誘う恵麻と敵を追っ払うことに成功して満足げな幸太郎を見送った後、下駄箱で戻った私は、廊下に立っている人物を見て、ぎょっとした。


「ストーカーですか。」


「それに近い。」


容姿端麗なスマイル0円男は、物騒なことをさらりと言った。


「冗談なら、もう充分堪能しました。そろそろ、他に当たってくれませんか。」


「無理。本気だから。」


九重歩は、私の要望をばっさり切り捨てた。


「本気でも、無理です。」


「それって、女の子にしか興味ないからとか?」


「はい?」


とんでもない質問に耳を疑った。


「さっき、食堂で女の子と抱き合ってるのを見たから。」


なんだ、恵麻のことか。


私は、脱力した。


「あれは、違いますよ。あの子は彼氏いるし、私は正常です。」


大真面目で答えたのに、なぜか九重歩は、笑い出した。


「はは。正常って、同性愛者に失礼だよね。」


「はあ。」


私は、下駄箱から靴を出した。


「帰るの?」


「帰ります。」


「じゃあ、デートしよう。」


「いやですよ。」


「どうして?」


「早く帰って勉強したいからですよ。」


「これ、あげるって言っても、デートしてくれない?」


目の前にぶら下げられたのは、S社の超難問数学問題集だった。


市販で売っていないので、某予備校の特進生しかもらえないと聞くかなりレアな問題集だ。


物欲に目が眩んで、心が揺れる。


私は、はっとして首を強く振った。


「やっぱり、ダメです。帰って勉強します。」


なんとか、振り切ろうとした私の肩を九重歩の手が掴んだ。


「これなら、どうだ。駅前のスタバで勉強デート。来てくれたら、1年の時、予備校の授業で取ったノートをやる。ちなみに授業では、問題集より難しい問題をやった。スタバは、もちろん、俺のおごり。」


「いきます」


即答してから、しまったと思った。



「何にする?」


「トールサイズのホットのソイラテ。あと、チョコチップスコーン。」


「迷いないね。俺、なかなか決めれない方なんだよね。」


九重歩は、感心したように私を見た。


こんなことでいちいち感心していたら、疲れてしまわないのだろうか。


私は、レジ上の看板を見ながらいつまでも悩んでいる九重歩を置いて、レジに並ぶと、さっさと自分の注文と会計を済ませた。


観察していると、九重歩は、私がソイラテを受け取っている時、やっと自分の隣にいた私がいないことに気がついた。


きょろきょろした後、レジの隣の受け取りカウンターの前に立っている私を見て、ホッとした顔をした。


慌てている時の顔もホッとした顔も、笑顔の時より好ましいように思えた。


「先に席取っておきますね。」


私は、やっとレジに並んだ九重歩に声を掛けると、店の奥のテーブル席に座った。


「おごるって言ったのに。」


キャラメルマキアートとサンドイッチを手にテーブルに来た九重歩の第一声は、それだった。


「おごられる理由がないです。」


「デートに付き合ってくれた。」


「金銭が絡むのは、あまり好きじゃないので。」


「前は、コーヒー牛乳もらってくれたのに。」


「そうでした。百円返します。」


百円をテーブルの上に置くと、九重歩は、苦笑した。


「詩子って、ホントにかたいよね。」


「小学校6年生まで体操を習っていたので、わりと柔らかい方です。」


「そうじゃなくて、でも、まあいいや。詩子のこと、もっと話してよ。てか、敬語やめない?」


「今日は、私の話をしに来たのではなく、勉強しに来たの。」


一応、年上だから、敬語を使っていたけれど、九重歩に対して尊敬の念は、微塵もない。


「ホントにいきなり、やめた。」


何がツボにはまったのか、九重歩は、笑いだした。


「いいよ。何、勉強する?」


「英語の宿題。やりかけだったの。」


「俺も手伝おうか?」


「意味ないから、やだ。」


「それじゃあ、俺、暇じゃん。」


「本を貸してあげるよ。」


「何の本?」


「『誰でもわかる経済学入門』」


「うわ。それって、面白いの?」


「面白いような、つまらないような。」


正直な感想を言うと、九重歩は、にやりと笑った。


「どっちつかずだな。なんで読んでるの?」


「賢くなれる気がするから。」


九重歩は、ちょっと目を細めてから、話題を変えた。


「ねえ、詩子は、趣味あるの?」


「趣味は、特には。」


「家で暇な時には、何してるの?テレビとか、好きな番組ないの?」


「テレビは、あんまり見ないよ。」


母親が毛嫌いしていたから。


「俺は、紀行番組とか好きだよ。旅行も行くよ。週末は、バイクでツーリング。」


さりげない自慢だろう。


「バイク免許の取得は、校則違反だよ。」


「ばれなきゃいいの。」


九重歩は、私の指摘を笑顔で受け流した。


「先週は、鎌倉行ってきた。海沿いの134号線沿いに走って、江ノ島も行ってきた。すごい寒いのにサーファーがたくさんいてさ。」


「江ノ島、」


ふと、昔の記憶が頭をよぎった。


母親の記憶。


「江ノ島行ったことある?」


「小学校1年生くらいの時に一度だけ。」


「家族と?」


「うん。お父さんとお母さんと。4月半ば。」


「4月か。4月って、案外寒いよね。暖かい日だった?」


「うん。すごく暖かった。私、ビーチサンダルだった。」


「岩屋とか行った?変な龍の置物が置いてある所。」


「岩屋、行ったよ。でも、あまり好きじゃなかった。薄暗くて、ロウソクの灯りがゆらゆら揺れてた。龍の前で、ピカッと光って、ゴオーンて音が鳴って、怖かった。」


「俺は、好きだな。子供だったら、怖いかも。」


「海にも入った。」


「海岸?」


「ううん。磯みたいな場所。お父さんが、裏磯って呼んでた。」


「ああ。稚児ヶ淵の方か。お父さんは、釣りやる人でしょ?」


「なんで、分かるの?」


「釣りやってるオヤジ達は、そう呼んでた。詩子も釣りした?」


「少し。でも、すぐに飽きてしまって、お母さんと一緒に磯で遊んでた。先端の方に行くと、波が高くて、ザッパーンて、押し寄せてきた。私、怖かった。それで、一等高い波が来た時・・・」


母親が動いた。


私も動いた。


そして。


私は、きゅっと目を瞑る。


記憶に蓋をするように。


「詩子?どうしたの?」


九重歩は、心配そうに私を覗きこんだ。


「帰る。」


私は、一言告げると、机の上のノートとペンケースをバッグの中に突っ込むと、逃げるようにスタバを飛び出した。


学校まで全速力で走った。


学校の自転車置き場で、自転車に乗ると、一心不乱にペダルを漕いだ。


息が上がる。


胸が苦しい。


それでも、押し寄せる記憶の波を止めることは、できない。


母親の黒くて長い髪の毛から水滴が落ちた。


びしょ濡れの母親は、優しく笑った。


「詩子。大好き。怖がりで、気が小さくて。世界一かわいい私の詩子。」


親馬鹿。


あの時。


高波が押し寄せてきた時、私は、自分だけ安全な岩肌まで逃げた。


だけど、母親は、背後にいるであろう私を守るように腕を広げ、波を頭からかぶった。


母親は、岩肌にぴったりとくっついている私を見て、驚いた顔をした後、おかしそうにクスクス笑った。


それから、言った。


「ああ、よかった。」


私は、逃げたのに。


そして、今も逃げ続けている。


母親のいない真っ暗な家は、静かだ。


今夜も父親はいない。


どこまで逃げれば気が済むの。




「置いてきぼりなんて、ひどいよ。」


私の机に肩肘をついた九重歩は、責めるような口調で言った。


会いたくなかったから、学食に行かなかったのに、のこのこと私の教室にやって来たスマイルO円男。


1年の教室に堂々と入ってきた九重歩は、私の前の席に断りもなく座った。


九重歩の特徴に図々しいという言葉を付け加えることにした。


だけど、クラスに残っている人が少なくてよかった。


九重歩は、変な男だけど、とにかくもてる。


すらりと伸びた手足を振って歩く九重歩を大抵の女の子はちらりと振り返る。


彼と話しているところを誰かに見られるのは、いつもなんとなく気が引けた。


まあ、そこら中で女子生徒に笑いかけているから、誰も気にしないと思うけど。


「急にお腹が痛くなったから先に帰った。」


茶色い瞳は、棒読みで大嘘をついた私を探るように見つめた。


「じゃあ、デートしよう。」


「脈略ないこと言わないでよ。」


「だって、最後まで付き合ってくれなかったでしょ。」


「1時間も一緒にいたじゃない。」


「問題集あげないよ。ノートも。」


「デートしたら、くれるって言ったのに。それ、詐欺だよ。」


「だから、今度は、最後まで付き合ってくれたら、あげる。」


「今日は、夕方から雨が降るので、洗濯物を取り入れなければいけないから無理。明日か明後日の放課後、1時間だけなら。」


「やだ。」


いきなり、拗ねたように呟いた九重歩は、ぷいとそっぽを向いた。


「嫌なら、さっさと問題集とノートちょうだい。」


「デートは、してほしい。だけど、スタバじゃ、いやだ。」


「マックかドトール。遠いから、面倒だけど、まあ、いいよ。」


「そうじゃなくて、休日がいい。日曜日にデートしよう?」


「嫌だよ。休みの日は、家で勉強するから。」


私の返事を聞いた九重歩は、大げさなため息を悩ましげについた。


「枯れた発言しないでよ。」


「ほっといて。」


つっけんどんに言い放つと、九重歩は、悲愴の表情を浮かべた。


「どうして、そんなに冷たいの?」


「好きでもない人に優しくできないから。」


一瞬、九重歩の瞳が揺れたような気がした。


見たこともない光が宿った。


でも、たったの一瞬だけ。


「真っ直ぐだな。詩子は。」


剥がれかけた0円スマイルは、すぐに彼の顔に貼りついた。


詩子と呼ばれる度に胸が痛い。



自転車のタイヤがパンクしていた。


登校してくる時は、なんともなかったのに。


バスで帰るか駅前の自転車屋に持って行くか。


パンクを早く直したいが、雨が降りそうだから、家に帰って洗濯物を取り込みたい。


自転車か洗濯物か。


どうしようかと思いあぐねっていた時、ジャージ姿の幸太郎に声を掛けられた。


陸上部の買い出し用のエコ袋を両手に持っている様子から察するに一年生限定の買い出し係の日なのだろう。


「詩子、どうした?」


「自転車がパンクしたみたいなんだけど、今日は、早く帰りたいんだ。バスで帰るか自転車屋行こうか迷ってて。」


「俺、今から駅前に買い出し行くけど、自転車持っていってやろうか?パンク直したら、乗って帰ってきて、ここに置いといてやるよ。」


「え、悪いよ。」


「いや、むしろ、楽。帰りは、荷物重くなると思うから、自転車があると助かる。俺、バス通だから。」

「そう。悪いね。じゃあ、任せようかな。修理代は、千円で足りると思うけど、足りなかったら、明日請求して。余ったら、お菓子買っていいよ。」


私は、財布の中から千円札を取り出すと、幸太郎に渡した。


「了解。」


「お願い。じゃあ、また明日。」


「あ、おい。詩子。」


バス停の方へ足を向けた時、幸太郎に呼び止められた。


振り返ると、幸太郎は、何か迷っているような表情で私を見ていた。


「何?」


「お前さ、何か変なこと起きてないか?」


やがて、幸太郎は、言い難そうに口を切った。


「変なことって?」


「何か物がなくなったりとか。」


「物理の教科書以外は、特にないよ。この前、貸してくれて、ありがと。家も探してみたんだけど、見つからなかった。やっぱりどこかに置き忘れたのかもしれない。」


「そっか。」


幸太郎は、安心したように表情を緩めた。


「なんで、そんなこと聞くの?」


逆に質問をすると、幸太郎は、ギクリとした顔になった。


口ごもったけれど、やがてしどろもどろに白状した。


「いや、なんか、妙な噂が耳に入ってさ。」


「妙な噂?私、噂になるほど、目立つ女じゃないけど。」


「目立ってるのは、お前じゃないよ。最近よくお前に話しかけてくる2年の男。女みたいに綺麗な顔している。名前は、えーと、ココノエだったかな。」


九重歩の名前を聞いて、やっと合点がいった。


「あの顔だろ。すごいもてるみたいで、なんか、陸上部の2年生も結構好きな女子がいるみたいでさ。お前のこと、よく噂してるんだよ。ほら、お前、ただでさえ、俺と恵麻のことで立場微妙じゃん。あんまり気持ちいい噂じゃないから、ちょっと気になって。」


「嫌がらせとか受けてるんじゃないかって?」


「うん、まあ。あんまり、人の悪意は、信じたくないけどさ。特に知り合いのは。」


幸太郎は、歯切れ悪く答えた。


それは、幸太郎の本音だろう。


幸太郎は、昔から、人を必要以上に疑おうとしない。


よく騙されていたけれど、すぐに本気で相手を怒鳴りつけ、喧嘩した後、仲直りする。


短気、単純、一本気。


私は、不器用な昔馴染みの肩をトントンと安心させるように叩いた。


「大丈夫だよ。悪いね。変なこと、言わせちゃって。」


「いいよ。詩子が何もないなら。」


幸太郎は、悪さをした後、母親に叱られなかった子供みたいにホッとした顔をした。


土曜日の夕方、ブリ大根を作っていたら、九重歩からメールが入った。


内容を見て、メールアドレスを交換したことを後悔した。




From 九重歩

Subject デート

朝の10時お迎えに上がります。

早起きして、おしゃれしてね。




新手の嫌がらせかと思った。


大体、どうして、家まで知っているんだろう。


From 大森詩子

Subject Re:デート

行きません。

来ないでください。



From 九重歩

Subject Re:Re:デート

寝坊してもいいから、俺が行ったら、起きてね。




無視することにした。


すっかり、九重歩のペースにはまっている。


幸太郎と噂の話をした時に気がついたことだけど、私は、九重歩が嫌いではないらしい。


そもそも、そういうふしは、あった。


一度だけだがデートもしたし、メアド交換もした。


学食で昼食を一緒に食べたりもしている。


明日もなし崩しでデートするのだろうか。


気が重い。


私は、計画したより多く問題集を進めた。




バイクの音で目が覚めた。


はっとして、時計を見ると、10時を指していた。


日曜日だから、目覚ましはセットしていない。


階下で玄関のベルが鳴る音がした。


窓から見下ろすと、私服姿の九重歩が、立っていた。


予想はしていたけれど、本当に来た。


なんで、家の住所を知っているんだろう。


私は、小さくため息をつくと、パジャマの上からカーディガンを羽織って、玄関へ向かった。


「ホントに寝てたんだ。」


九重歩は、パジャマ姿の私を上から下までじろじろ眺めると、おかしそうに言った。


「私、行かないって言ったもの。」


「でも、俺が来たら、起きてくれたよ。待ってるから、着替えておいで。」


九重歩は、なぜか偉そうに言った。


「日曜日の朝ごはんは、ゆっくり食べたいから、時間かかるよ。」


投げやりに言うと、九重歩は、気にした風もなく、頷いた。


「いいよ。待ってる。」


私は、深いため息をつくと、九重歩の手を引いた。


「入って。外にずっと立っていたら、近所の人から変に思われるから。」


「俺のバイク、家の前に停めておいていいの?」


「道幅広いから、大丈夫だと思う。」


九重歩は、ふーんと言いながら、私の後について、家に入ってきた。


廊下の天井が低いので、長身の九重歩は、頭をぶつけそうになった。


私の家に父親以外の人間がいるなんて、妙な気分だ。


とりあえず、居間のソファーに座らせたが、九重歩は、きょろきょろと目だけ動かしていた。


「家族は?出かけてるの?」


「うん、まあね。」


私は、答えると、居間のテレビをつけた。


「じゃあ、二人っきりだ。」


「馬鹿なこと考えたら、包丁で一突きだよ。」


九重歩を思いっきり睨んだ。


九重歩は、怖い怖いとおどけたように言った。


「朝ごはん作るけど、一緒に食べる?」


「何作るの?」


呆れかえって、ソファーでくつろぐ九重歩を見つめた。


こちらは、一応礼儀上聞いてやったのに、この男ときたらは、厚かましくもメニューを確かめてから、食べるか決めるらしい。


「アジの干物とワカメと豆腐の味噌汁と白米。おしんこ付き。」


「俺、納豆も食べたいな。」


殴ってやろうかと思ったが、思いとどまった。


日曜日の朝、私は、なぜか九重歩と向かい合って、遅い朝食を食べていた。


「うん。おいしい味噌汁を飲むと、ほっとするね。すご。このアジの開き、干物なのに脂のってるね。いい匂いだし。どこで買っているの?」


私が、3駅先の干物屋の名前を告げると、九重歩は、感心した表情を浮かべた。


「わざわざ、干物屋さんまで買いに行くんだ。すごいね。お母さんのこだわりとか?」


「まあね。」


母親は、その干物屋の干物が大好きで、しょっちゅう買いに行っていた。


おかげで、私もそこ以外の干物では物足りなくなってしまった。


平日の朝は、時間がないから、簡単な朝食で済ませているけれど、日曜日の朝は、必ず、干物屋の干物を食べることにしている。


美味しい美味しいと連発しながら、干物を食べている九重歩と母親が重なった。


私は、九重歩をまじまじと見ていたらしい。


「俺の顔に何かついてる?」


九重歩が不思議そうに私を見つめる。


母親と九重歩。


似て似つかない二つの顔が、私の前で重なってぶれて、ぶれては重なる。


「ううん。何でもない。」


私は、小さく首を振った。



センスの良し悪しは別にして、洋服を選ぶのは、好きな方だと思う。


しかし、経験不足のため、デートにどんな服を着ていくべきかよく分からない。


九重歩の服装は、たしかジーンズとグレイのシャツとダークブルーのカーディガンを着ていて、上着は、黒のブルゾンだった。


ラフな印象だったけれど、そこそこ気を使っているような気もした。


動きやすい格好でいいか。


スキニーのジーンズにブルーのカットソーの上からベージュのショートコートを着た。


くしゃくしゃの髪を手早くゆるいおさげに編んだ。


黒のエンジニアブーツを履いて、外に出ると、九重歩は、バイクのヘルメットを被っているところだった。


「おお。かわいい。私服だとイメージ変わるね。」


私を見た九重歩は、さらりと褒めた後、バイクの後ろに取り付けてあったオレンジ色のメットを外すと、私に放って寄こした。


「寒いから、バイクは、嫌だ。」


文句を言うと、九重歩は、メット越しに0円スマイルを浮かべたような気がした。


「勉強時間を削られるのと寒いドライブを我慢するのは、どちらがいい?」


「寒いドライブ。」


私は、小さく唸ると、諦めて、後部座席に跨った。


九重歩は、走り出す前に一度後ろを振り向くと、私の体をぎゅうと抱き締めた。


「こんな風にちゃんと掴まっててね。」


ブオンと大きな音と共にバイクは、走り出した。


九重歩の運転するバイクで冷たい北風の中を20分位走った後、賑わっている繁華街に着いた。


あまり来たことはないが、大きなデパートや映画館が立ち並ぶ街だ。


パーキングにバイクを停めた九重歩は、手袋をはずすと、すぐ私の頬に手を当てた。


「冷たいな。大丈夫?」


手袋をしていた九重歩の手は、温かく、私は、冷え切った肌に感覚が戻ってくるのを感じた。


「大丈夫。でも、温かい飲み物が飲みたい。」


私の返事を聞いた九重歩は、ほっとした顔をした。


「朝食のお礼におごるよ。」


「当たり前だ。あの干物一枚で、300円するんだよ。」


「はいはい。あそこのカフェでいい?」


私達は、北風に後押しされるように九重歩の指差したカフェに入っていった。


「アフォガート。」


メニューを開いた私が、即座に注文を告げると、九重歩は、あきれたように私を見た。


「アイス食べる気なの?」


「メニューにアフォガートがあった時は、食べるって決めてるの。」


「さっき、温かい飲み物がいいって言ってたよね。」


「エスプレッソも一緒だよ。」


言い返すと、九重歩は、肩をすくめた。


「まあ、いいけど。俺は、何しようかな。」


また、ぐずぐずと悩む気だろうか。


私は、店員を手招きした。


「アフォガートとカプチーノ・コン・ココアをください。」


勝手に注文を告げた私を九重歩は、驚いたようにメニューから顔を上げた。


「俺、まだ決めてないよ。」


「迷っているなら、カプチーノにしなよ。そして、一口ちょうだい。」


にっこり笑って言ってやると、九重歩は、観念したように唸った。


「ひょっとして、ジャイアン系?」


九重歩は、不貞腐れたような顔をした。


「何それ?」


「お前の物は、俺の物みたいな。」


私は、顔をしかめた。


ひどい言い草だ。


わたしは、むしろ、


「逆かな。俺の物は、お前の物。」


九重歩は、首を傾げた。


「どういうこと?」


「一人占めしたものは、どんなに美味しいものでも美味しくないってこと。」


九重歩は、私をじっと見つめた。


「ああ、そんな感じだ。詩子らしいね。」


また、胸が、どきどきした。


「私らしいって?」


「うん。正論を恥ずかしげもなく言えるところ。」


「けなしてるの?」


九重歩は、まさかと首を横に振った。


「根が優しいからだと思うよ。」


店の天窓から差し込む光が、九重歩の茶色い瞳を透かす。


「アフォガートを半分あげる。」


口をついて出た言葉に、男が、微笑む。


私の狭心症をますます悪化させる恐ろしい代物だった。


ピカピカのフローリングの床を靴の音だけがコツンコツンと響いた。


買い物をして(私は、本屋で参考書を買っただけ)、昼食を食べた後、九重歩に連れてこられたのは、モネの美術展だった。


私は、美術展なんて、興味ないと断った。


だけど、九重歩は、「俺と詩子の趣味は合うはずだ」とか根拠のないことを言いながら、無理やり引っ張ってきたのだ。


高校生のデートで、美術展というのもどうかと思う。


絵の前に立つキザ男のすらりとした後ろ姿を軽く睨んだ。


モネの美術展は、睡蓮の連作を中心に集められていて、白い壁に掛っている絵画は、ほとんど睡蓮が描かれたものだった。


柔らかく鮮やかな光の世界。


近づけば、荒々しい筆づかいに動揺してしまうくせに近づきたくなる。


奥へ行くにしたがって、輪郭を失ってゆく風景画をぼんやりと見つめた。


晩年のモネは、視力がどんどん低下していく中で、作品を描いている。


失われてゆく光の世界で最後に彼が見たものは、何だったのだろう。


現実なのか、幻想なのか。


「どうして、日本人は、モネやルノワールが好きなんだろう?」


鑑賞を終えて、休憩室のベンチに座った時、私は、九重歩に問いかけてみた。


「西洋のロマンチックなものに憧れたんじゃないかな。甘くて、色鮮やかな世界に。」  


ふと、恵麻の笑顔が頭をよぎった。


「私達は、無意識に西洋らしいものに惹かれるんだね。」


神妙に言うと、九重歩は、小さく笑った。


「興味ないって、言ってたくせに、ちゃんと鑑賞してたね。」


私は、苦笑した。


「こういう所は、楽しめないかなって思っていたの。小さい頃は、よく来てたんだけどね。」


母親は、美術館やクラシックコンサートが大好きだった。


週末になると、母親は、私と父親を色々な所に連れ回したものだ。


でも、母親が死んでからは、何もかもが変わった。


母親が隣にいない美術館なんて、行く意味がないと思っていた。


「どうして、今は、楽しめないと思ったの?」


九重歩の質問にギクリとした。


答えたら、どうなるのだろう。


九重歩は、同情するのだろうか。


そういうのは、嫌だなとなぜか強く思った。


「ええと、」


口ごもりながら、視線を窓の外に移した時だった。


前の通りを横切っていく一対の男女の姿が私の目に留まった。


夕暮れも終わりかけ、薄暗くなっていたけれど、『彼』は、私の目にはっきりと映った。


体が震えた。


「お父さん?」


小さく呟くと、私は、弾かれたように美術展のドアを飛び出した。


ドアを出て、大通りに出ると、さっきの男女は、ちょうどレストランに入っていくところだった。


追いかけようとする私の腕を九重歩が掴んだ。


「おい、赤信号!」


九重歩の口調は、激しかったし、腕を掴む力は、痛いほど力強かった。


でも、そんなことは今の私に関係なかった。


「お父さんがいた。」


「え?」


「お父さんがいた。知らない女の人と一緒だった。」


うわ言のように呟く私を見た九重歩は、さすがに顔色を変えた。


「それって。」


「お父さんを追いかける。」


私は、叫んだ。


九重歩は、少し躊躇ったが、やがてあきらめたようにため息をついた。


「わかった。どこに行ったか分かる?」


「向かいのレストランに入っていった。」


九重歩は、私の腕を引いて、青信号になった横断歩道を渡った。


「あそこのテーブルでお願いします。」


レストランに入ると、私は、父親達の後ろのテーブルを指した。


境目に植物が置いてあるから、私達の姿は、見えないだろう。


テーブルに座ると、案の定、父親達の会話が聞こえてきた。


最初は、旅行の話だった。


先週の出張は、どうやら、女性との旅行だったらしい。


女の人は、旅行先のバリでの出来事を楽しげに話していた。


あの料理が美味しかったわよねとか、あなたに買ってもらったネックレスは、本当に素敵だったわとか。


他愛ない恋人達の会話。


でも、とうとう、彼女は、徹底的な言葉を発した。


「結婚のことだけど、私は、やっぱり待てないわ。お互いが忙しい身なのは、分かるけれど、そろそろいい時期なんじゃないかしら。」


父親は、否定しなかった。


むしろ、躊躇いながら、同意している。


もう聞いていることなんて、できなかった。


「帰る。」


呻くように言うと、九重歩は、小さく頷いた。


その後どうやって家に帰ったのかは、よく思い出せない。


私のポーチを手に追いかけてきた九重歩に全部やってもらった気がする。


ヘルメットをつけてもらって、バイクの後部座席に乗せてもらった。


「落ちたら、危ないから、ちゃんと掴まって。」という指示に辛うじて従って、九重歩の背中に抱きついていた。


「着いたよ。」


気がつくと、家の前だった。


分かっていたことだけど、真っ暗な家。


冷え冷えとした誰もいない家。


「これは、私の家じゃない。」


「え?」


九重歩は、驚いたように振り返った。


私は、ひっそりと人気のない家を見つめながら、続けた。


「お父さんもお母さんもいない家なんて、私の家じゃない。」


九重歩は、私の肩に手を置いた。


「お母さんが帰ってきたら、ちゃんと話し合えばいい。大丈夫だよ。」


優しい言葉が苛立たしい。


私は、肩に置かれた手を振り払う。


「お母さんは、帰ってこないもん!死んじゃったんだから!」


九重歩は、大きく目を見開いた。


闇は、シンと静まり返っていた。


息を飲む音が聞こえた。


相手が戸惑っていることは分かっていたけれど、私の口は勝手に動いた。


「お母さんは、4年前に死んだの。お父さんと私を残して、死んじゃった。私なんか好きじゃないお父さんだけ残して。お母さんもいなくて、お父さんの帰ってこない家で過ごす私がどれだけ惨めだったか、あなたに分かる?」


私は、激しい口調で言いながら、地団太を踏んだ。


「落ち着け、詩子。」


再び、肩に置かれた手を振り払う。


「落ち着かない。馬鹿みたい。一人でご飯作って、お父さんの分まで作ったりして。どうせ帰ってこないのに。お母さん以外の女の人とどこかいっちゃうお父さんなんかに何を求めていたんだろう。」


涙は、出ない。


お母さんがいなくなってから、私は、一度も泣いていない。


泣いていたら、幸せなものを全部失ってしまうような気がしたから。


私は、泣く代わりに九重歩を睨んだ。


九重歩を通して、父親を責めるように。


「何なの。馬鹿にしないで。面白がっているだけのくせに。近寄ってこないでよ。」


強く握りしめた拳で九重歩の胸を叩いた。


理不尽なことを言っているのは、分かっていた。


でも、苦しくて苦しくて、我慢できなかった。


どれくらい、そうしていたのだろうか。


寒さなんか感じないくらい、体は、冷え切っていた。


突然、腕を強く掴まれた。


反応する前に体を後ろに押された。


コンクリートの塀に背中がぶつかった。


顔を上げると、月の光に照らされた端正な顔があった。


よく知っているはずなのに知らない顔。


スマイル0円男は、どこかに消えてしまったみたいだ。


冷たいひんやりとした表情。


まるで、私の家みたいだ。


でも、家とは違う。


意志を持って、動くもの。


覆いかぶさるような大きな体を初めて怖いと思った。


細くて長い手がこんなに力強いとは、今まで知らなかった。


月夜に見る茶色い瞳は、透明だ。


何を考えているのか、全然分からない。


夜の帳が下りた町は、静寂に包まれていた。


聞こえるのは、形の良い唇から微かに聞こえる吐息だけ。


「はなして。」


やっと出た声は、かすれるほど小さく、弱弱しかった。


気が動転している私でも、殺気立ったオオカミみたいな男相手に強気に出れるほど、気は狂っていなかった。


結果的には、逆効果だった。


私の声を合図に九重歩は、動き出した。


顔ががっちり固定されたと気付いた時にはもう、それは、私の唇を捕らえていた。


生温かく柔らかいそれは、熱い吐息と共に私の口に覆い被さった。


「ん、ん。」


息が出来ない。


顔を逸らそうとしても、大きな掌に顔を押さえつけられて、動くことすらかなわない。


両手で叩いても押しても、目の前の体は、ビクともしない。


叫ぼうにも息継ぎさえできないのだから、私の声にならない悲鳴は、九重歩の口に吸い込まれていく。


口を割るようにして、舌が入ってきた。


大きくて長い舌は、私の口内を縦横無尽に這いずりまわった。


私の舌をからめとり、もてあそぶ。


逃げようとしてもすぐに捕まえられてしまう。


何も出来ないと分かった時、心底怖いと感じた。


頭の冷静な部分が全部、停止した時、何かが決壊した。


気がつくと、私は、泣いていた。


圧倒的な力に支配され、体の自由を失った時、自由になるのは、涙だけだった。


ほろほろと落ちていく水滴は、私の頬と彼の頬を濡らした。


涙は、後から後からわき上がってきた。


キスが塩味になる頃、九重歩は、私を解放した。


解放された後も私は、泣き続けた。


時々、嗚咽の交じる泣き声は、永遠に続くかもしれないと思われた。


それは、4年分だったのかもしれない。


九重歩は、謝ることも慰めることも怒ることもなく、ただずっと泣く私を見つめていた。


夜が、静かに更けていった。


嗚咽がしゃっくりに変わった時、私は、よくやく泣きやんだ。


涙が止まると、不思議なことにしゃっくりも止まった。


頬を掌で拭った私は、九重歩を見上げた。


九重歩の表情は、相変わらず冷たいままだった。


なまじ整っているだけに人形のようにも見えた。


「俺は、謝らないよ。だって、男だし。」


「何、それ?」


私は、戸惑って、聞き返した。


「男って、そういうもんなんだよ。苦しくて心で悲鳴を上げている女に欲情してしまう。壊れそうな女に平気で自分の欲望をぶつけることができる。」


「それ、最低だよ。」


責めるように言うと、九重歩は、苦々しげに笑った。


「きついな。でも、俺は、好きだよ。詩子の清廉潔白なところ。間違っている部分を間違ってますって、迷いなく指摘できる人は、あまり多くない。でも、」


九重歩は、とがめるように私を見ると、続けた。


「詩子は、他の人間に対して、幻想を持ちすぎだ。誰もかれもが、良心と理性に従って、行動できるわけじゃない。そういう弱い部分を責めるのは、むごいよ。」


「何がいいたいの?」


「お父さんは、多分、戸惑っていたんだ。詩子の真っ直ぐさに。奥さんを亡くしたお父さんは、すごく苦しんだ。だけど、その悲しみを唯一分かち合えるはずの娘は、毅然と前を向いていた。お父さんは、きっと自分がすごく恥ずかしかったんだろうね。お父さんは、娘を慰め合うことも守ることも出来ない自分からきっと目を逸らしたかったんだと思う。」


ゆっくりと話す九重歩は、キスしていた時よりもずっと離れているはずなのに、なぜかさっきよりも近くにいるように感じた。


「私が、お父さんを苦しめていたってこと?」


九重歩は、小さくため息をついた。


「詩子とお父さんは、お互いの心が見えなくて、苦しんだんだよ。どちらが悪いわけでもない。」


「そうなの?」


私は、縋るような想いで九重歩を見上げた。


九重歩は、微笑んだ。


冷たい表情は、どこかに消えた。


あれも彼の仮面のひとつだろうか。


「そうだよ。これから、俺は、魔法をかける。詩子は、目を瞑って、五つ数えて。目を開けたら、ちゃんとお父さんの本心を見極めるんだよ。詩子なら、できるだろう?」


九重歩は、あやすように私に言うと、目を閉じさせた。


一つ数えたら、頬に手が置かれた。


二つ数えたら、顔に吐息がかかった。


三つ数えたら、そっと触れるようなキスをされた。


四つ数えたら、「何やっているんだ!」という怒声が響いた。


五つ数えたら、九重歩の唇が離れた。


目を開いたら、血相を変えた父親が九重歩を殴ろうとしていた。


「お父さん!」


私の悲鳴が夜の空に響いた。


父親に殴られ、長身の男は、地面に横倒しになった。


荒い息をしながら、九重歩を睨みつけている父親。


事態は、はっきり言って、最悪だったけれど、私がちゃんとしなければ、収拾つかなくなりそうだ。


多分、九重歩のそばに駆け寄るのが、道徳上の正解だと思うけれど、さっきの話を聞いてしまった以上、私は、父親に駆け寄った。


これは、きっかけなんだ。


せっかく、九重歩が作ってくれたきっかけを無駄にしてはいけない。


「お父さん。」


父親は、駆け寄った私の手をぎゅうと握った。


「詩子。大丈夫か?何もされていないか?」


私を上から下まで見る父親の目は、とても優しかった。


「うん。大丈夫。」


私は、嬉しくて、力強く頷いた。


父親は、安心したような表情になった後、尻もちをついている九重歩に厳しい目を向けた。


「今、こいつを警察に突き出してやるからな。」


この言葉には、さすがに慌てた。


「え、ちょっと。お父さん。この人、うちの学校の人だよ。そんなことしちゃだめ。」


「同じ学校だろうがなかろうが、犯罪は犯罪だ。詩子だって、助けてってメール送っただろう?」


「そんなメール送ってな、」


言いかけた時、九重歩の目に気がつき、口を噤んだ。


「とにかく、警察に連絡だ。」


父親は、携帯を取り出した。


私は、父親の手から携帯をひったくると、九重歩に向かって必死で叫んだ。


「早く行って。本当に警察に突き出されちゃう。」


「何するんだ、詩子。返しなさい。」


「だめったら。早く逃げて。」


「返しなさい。」


結局、九重歩は、私と父親がもみ合っている間にバイクで走り去った。




その夜、私は、父親とたくさん話し合った。


私は、今日、父親が、女の人を一緒にいるところを見てしまったこと。


こっそり後をつけて、話の内容を聞いてしまったこと。


再婚については、ちゃんと話しておいてほしかったこと。


喋っている内に涙が滲んできた。


最後は、もう支離滅裂だった。


母親が死んでからずっと孤独だったこと。


淋しくて堪らなかったこと。


父親が家にいないことが、どんなに私を苦しめたか。


泣きながら、父親を何度も責めた。


父親も泣いた。


何度も謝ってくれた。


「ずっと、お前は、強い子で、俺だけが弱いと思ってた。でも、俺の勘違いだったんだな。すまなかった。お前を独りにしてしまって。」


「私も悪かったと思う。自分の気持ちをもっと素直に言えばよかった。」


しょんぼりする父親の背中は、小さくて淋しそうで、愛おしかった。


たくさん泣いた後、私達は、一緒にお好み焼きを作った。


母親がいた時によく作った長芋入りのお好み焼きをたくさん作った。


父親は、ちゃんと食べた。


食べすぎるくらい食べた。


レストランの食事は、どうしたのかと聞いたら、私からのメールを見た途端、レストランを飛び出してき

たから、前菜しか食べていないと白状した。


素直な父親をもっと困らせたいと意地悪な質問をした。


「再婚したい相手の女性は、何やっている人なの?気強そうだったよね。」


「取引先の会社の人で、女部長なんだ。やっぱり、色々あるみたいで、気は張っているんだよ。」


父親は、恥ずかしそうに言った。


「すごいね。てか、お父さんより上のタイトルじゃん。」


課長である父親は、まあなと呑気に言った。


「年は、いくつ?まだ、若そうだよね。35歳くらい?」


私の言葉を聞いた父親は、おかしそうな顔をした。


「もう47歳だよ。若づくりだからなあ。」


「お父さんより2つも年上なの。」


驚愕である。


私は、父親のゴマ塩頭と目尻の皺をまじまじと見た。


ちらりと見ただけど、すらりとした美人だった。


あれで、この人よりも2つも年上なのか。


きっと父親は、あの女性のことをすごく好きになって、なんとしてでも振り向いてもらおうと頑張ったのだろう。


だから、打ち明けられなかったのだと思う。


ずるい気もするけれど、仕方ないことのように思えた。


4年の月日は、私は、冷静さと我慢を学んだ。


遠まわしに確かめる必要などない。


私は、父親の目を真っ直ぐに見つめながら、はっきりと問いかけた。


「あの人、お父さんに娘がいることを知らないでしょう?」


父親の顔色が、赤から青に変化した。


父親は、俯いた。


テーブルの上で組まれた手は、小刻みに震えていた。


「すまない。母さんが亡くなったことは、話したんだが、お前のことは、話していない。」


苦々しげに言う父親は、私の知らない人みたいだった。


母親が亡くなる前の頼れる父親とも母親が亡くなった後の冷たい父親とも違った。


少し淋しい。


だけど、私は、この人を好きになることができると思った。


「顔上げて、お父さん。私は、多分、許してあげることができる。」


「詩子。」


お父さんは、ゆっくり顔を上げ、不安げに私を見た。


「でも、条件がある。ちゃんと、相手の女性に私のことを話すこと。それから、ちゃんと家に帰ってくること。その人にとっても私にとっても最低限のマナーは、守ってね。」


父親は、頷いた後、また泣いた。


すまないと何度も謝りながら、泣いた。


雨降って地固まる。


私は、雨を好きになれるかもしれない。


月並みな表現だけど、悲しみを洗い流してくれるから。


たくさん流したら、からりと晴れるのを待てばいい。


続きます。たぶん。

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― 新着の感想 ―
[良い点] さらりとした文章でめっさ好みです。文章長いのにすぐ読めました。キャラクターもみんな好感がもてます。 [気になる点] なし! [一言] 続きあるなら読みたいです。ヒロイン可愛すぎきゃわわ(?…
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