Act4:古都の夜の泡沫
「リューグ、知ってるか? 例の噂話」
「いや、大分どうでもいい」
「せめて耳を傾けるくらいしてくれても罰は当たらないだろう!?」
馴染みの屋台の店主の青年が、憤慨の声を上げる。そんな彼の言葉を慇懃に聞き流す姿勢を取るリューグだったが、店主が涙目でそう訴えてきたため、至極面倒くさそうな顔をしながら仕方なさげに肩を竦めた。
「……分かったよ。聞けばいいんだろ?」
「さっすが、常連客は話が分かる!」
瞬間、手のひらを返したように満面の笑みを浮かべる店主に向け、リューグはさも当然といった様子で要求する。
「そのかわり、全品半額な」
「それじゃ商売なりたたねーよ!」
当然の返答だったが、リューグはわりとどうでもよさげにかぶりを振る。
「言ってみただけだよ。僕だってそこまでお金にがめつくない」
「お前の発言は何処までが冗談で何処までが本気なのかがわからねーよ」
店主の青年は呆れた様子で嘆息する。
「実際に一時期のお前、本当に金がなかっただろ」
「それ、半年も前の話だろう? あの時は《ドラゴンスレイヤー》を山買いするためだったんだ……仕方無いんだよ……」
うんざりした様子でリューグは肩を落とす。半年ほど前にクエスト【聖人の屠竜】を制覇するためとはいえ、節約に節約を重ねすぎ、ほとんど絶食状態で金を溜めていたのだ。今思えば随分と無茶で馬鹿なことをしたとは思うが、当時はそれくらいしてでも【聖人の屠竜】を制覇し、伝説級武具である《竜血に染まる法剣》を入手したかったのだ。
ゲーム時代、『十二音律』の一角であったリューグの象徴とも言われた《竜血に染まる法剣》。その入手のためならば、多少の無茶くらい、当然の如くやってのける気概でいた自分が恥ずかしくも思えるが、その無茶のおかげで手に入れることができたのなら御の字。今では良くも悪くも酒の席の話のネタになっている。
「今は、あのときとは違って金銭的にも余裕があるよ――そのことはもういいから、さっさと話に入ってくれ」
「ん? 話って?」
店主は目を瞬かせながらそう言った。リューグは無言で拳を握り締め、にっこりと笑って見せながら一言。
「殴っていいか?」
そう言いながら、リューグは店主の頬を殴打する。店主の青年は唐突な奇襲を対処することなど出来るはずもなく、彼は屋台の中の商売道具を巻き込んでひっくり返る。
「おっと、ごめん」
その様子を鼻で笑いながら、リューグはとりあえず謝罪の言葉だけは口にしておいた。無論、謝る気などさらさらないのが丸分かりな、ぞんざいな謝罪の言葉を……。
「い……ってー……」
そんな亡者のような声を上げながら、よろよろと店主が身を起こし、眉間にしわを寄せながら呻くように抗議する。
「おめーなぁ……今のは俺も悪かったけどよ、殴るのはやり過ぎだろう!」
「うん、ちょっとやり過ぎたかなと後悔はしている。反省はしないけど」
「反省もしやがれ、このすっとこどっこい!」
「すっとこどっこいって……久しぶりに聞いたよ」
屋台内のテーブルを強く乱打しながら叫ぶ青年にそう返しながら、リューグはカウンターテーブルに肘を立てて掌の上に顎を乗せながら、半眼で彼を見上げつつ問うた。
「それで? 結局何の話なんだ。君の言う、例の噂話って」
「ああ、そうそうその話だったな」
リューグの問いかけに自ら放そうとしていた話の内容を思い出し、青年は屋台の中で作業をしながら思い出すように視線を宙空に漂わせた後、思わせぶるように間を開けてから言った。
「――なんでもここ一月の間に、ユングフィを中心にあちこちで《来訪者》が行方不明になってるんだとよ」
何気なく告げられた青年の言葉に、リューグは僅かに目を見開く。そんな彼の表情を見て満足したのか、店主はにやりと笑みを浮かべた。
「やっぱお前さんは知らなかったんだな」
「ああ……そんな話、初めて聞いたよ。確かなのか?」
尋ねるリューグに対し、青年は「さあな」と肩を竦めた。
「正確な情報とは言い難いな。でも、店によく来る常連客の何人かが似たような話をしてったから、まるっきり嘘とも言えないんだよな」
「ふーん……」
投げやり気味な生返事を返しながら、リューグは僅かに目を伏せて思案顔になる。そして、
「それ、数はどれくらい?」
リューグの問いに、青年は僅かに目を瞬かせた後、作業の手を止めぬままにわずかに黙考した後、
「ん~……百人前後だと思うぜ? まあ、聞いた話の総合でしかないけど」
「死んだわけではなく?」
「どうも違うらしいぞ。つーか、百人近くも一気に死亡したら、それこそ冒険者協会が大騒ぎして都市内外の《来訪者》がパニック起こすだろ?」
リューグの疑問に、青年は呆れた様子でリューグを見下ろしながら溜め息交じりにそう言った。その言葉に、リューグも「確かにな……」と呟きを洩らしながら同意する。
実際、《来訪者》がこの一ヶ月で百人も死亡するような事態が起きていたら、間違いなくパニックになっているだろう。
そのことが容易に想像できてしまったため、リューグは自分の推測が的外れだったことを理解し、安堵と自重の混じった溜息を洩らす。
「ほら、リアルじゃよくあった都市伝説よろしくって感じに、夜に宿で別室に分かれた連れが、次の日なかなか食堂に降りてこないんで起こしに行ったら、部屋はもぬけのから――みたいな感じらしい。実際、この店にも何人かの《来訪者》が写真持って『こいつ来てないか!?』って訪ねてきてたし」
小気味よい音を立てながら包丁を振るい、葱を細かに切りながら青年はそう説明した。が、彼の説明にリューグはますます眉間にしわを寄せて小さく唸る。
「パーティ組んでたんだから、夜逃げってわけでもないよな?」
「まあ、ないだろ。無差別っぽいしな」
「……それ、どういうことだ?」
汁をおたまで掬いどんぶりに注ぎながら何気なく口にした青年の言葉に、リューグは半眼で睨みつけながら問いただすと、彼は小首を傾げながらさも当然という風に答えた。
「行方不明の連中は、スラム街の《敗者》もいれば、ユングフィ周辺でステータス上げしてる中級組もいて――更には攻略組の連中も何人か含まれてんだとさ」
そう言った後、彼は湯切りをしながら「まあ、これは噂だけど」と何食わぬ表情でそう最後に付け加えた。が、その言葉にはリューグも驚きを隠しきれず、その表情に確かな驚愕の色を露わにする。
「そうなると……流石に草薙辺りが黙ってないだろう?」
「いや、そうでもないみたいだぞ」
店主はどんぶりの中に具材を放りこみながらリューグの疑問を即座に否定する。
「良くも悪くも、あの人は戦闘狂だろ?」
「ああ。いやというほど骨身にしみてるよ……」
乾いた笑い声を上げながら、リューグは苦々しげにだが店主の言葉を肯定した。
かつてギルド『十種神宝』のギルドマスターであった男――草薙は、良くも悪くも戦闘狂と呼ぶに相応しいMMORPGプレイヤーだった。ただひたすらに強敵と戦うことのみを追い求め、バージョンアップと同時に追加され、難関と謳われる幾つものダンジョンに一人で飛び込み、並み居るAA級モンスターから、果てにはS級を超えるようなモンスターと三日三晩の戦闘を繰り広げてみたり……。
あるいは、本来ならば数十人規模で挑むようなあ大規模戦闘クエストに単身で挑んでみたりなど、狂人と称されても仕方がないような所業はゲーム時代から数知れず。
ヒュンケル曰く「あの男は生まれてくる時代を間違えたのだろうな。でなければ、生まれてくる国を間違えたのだろう」という言葉は、リューグも苦笑いしながら同意せざるを得なかった。
草薙のプレイスタイルを見て、いっそ戦国時代か今も紛争の絶えない外国の国にでも飛んで行けばいいのではないか、と揶揄する者は少なくはない。
そして、彼は戦闘以外のことに関しては酷く無頓着な部分があり、ゲーム時代に『十種神宝』の横暴が目立ったのも、その関心の無さが原因ではないかと言われている。
唯一草薙が耳を傾けるサブマスター、羽々斬の言葉がなければ、かつての〈ファンタズマゴリア〉の『十種神宝』のレアアイテム狩りはもっと酷いものになっていたかもしれないと言われるくらいだ。
「確かに、あの男が攻略組に参加する人数が十人減ろうが二十人減ろうが、対して気にも留めず、攻略続行するだろうな」
「だろ」
リューグの同意を示す言葉に、青年はにかっと笑う。そんな彼の笑みにつられるように、リューグもまた微苦笑した。
そして、そのリューグに向けて、青年は出来上がった注文の品を両手で持ち、
「はい、お待ちどーさん」
リューグの目の前に置いてそうお約束の一言を添えた。
目の前に置かれたどんぶりの中身を見て、リューグは先ほどまでとは気色の違う喜々とした表情でそれを見下ろし、箸立てに大量に放り込まれた割り箸の一つを手に取り、それを割る。
パキッ、という小気味よい音と共に綺麗に二つに分かれた一組の箸を手に、リューグは破顔しながらどんぶりを手に取る。
「いただきます!」
食前のあいさつと共に、リューグは箸をどんぶりへと突き入れて中身を掬いあげると、数回熱を冷ますように息を吹きかけた後、躊躇いなくそれを口に入れて啜る。
「あー……染み渡るー」
啜った麺を胃に納めると、リューグは感慨深げにそう呟いた。そしてその言葉に、店主もうんうんと満足げに頷いてみせる。
「そうだろうとも。俺がこの世界に来てから一年かけ、研究と建さんを重ねてやっとこの味の再現を可能にした至高の逸品さ。和食の定食や寿司もいいが、こいつを忘れちゃいけねえぜ日本人」
何処か芝居がかった涙ぐむ仕草をする店主に向けて、リューグは次の一口を呑みこんで笑顔で告げる。
「これで笊があれば最高なんだけどねー」
「屋台の蕎麦屋に笊蕎麦を求めてんのがそもそもの間違いだろーが!」
一転し、怒りの形相を浮かべながら店主は怒鳴り声を上げた。それを何食わぬ顔で聞き流しつつ、リューグはどんぶりに口付けて蕎麦汁を飲んでいた。
「あー、美味い!」
「その一言が嬉しく思う俺が悔しい!」
寸前まで自分をおちょくっていたにも拘らず、リューグの発したその称賛の言葉に店主は苦々しい思いで拳を握り締めながら、しかし嬉しさを隠しきることが出来ずにそう漏らす。
料理人として、自分の作ったものを美味しいと言ってくれるのは、現実において料理番組などで行われる長々とした解説などよりも、遥かに嬉しい称賛なのだろう。
いや、そもそも比べることすらおこがましい。
作った料理を「美味い」と言ってくれる。それだけで十分すぎる、最高の賛美なのだ。
が、続いて発せられたリューグの一言に、
「おトネさんの作る飴なんかよりよっぽどねー」
「あの婆さんが造った飴を引き合いに出すんじゃねーよ!」
店主は再び憤慨する。
ちなみにリューグが言ったおトネさんとは、御歳七十八歳になる老婆だ。リューグを始めとした《来訪者》たちが知る限り、最年長の〈ファンタズマゴリア〉プレイヤーであり、現在はユングフィの住宅街にある長屋に住んで、訪ねて来る客にお手製の飴をふるまう人当たりの良い好々婆やである。
ただ、その際にふるまわれる飴が何故かはちみつと黒糖と砂糖を練り固めただけの、なんとも酷い出来の品であり、貰って口にした者はおトネさんの前でこそ言わないが、
「甘過ぎて不味いのかも判断し難い」
「食べ物と呼ぶべきではない」
など、不評には事欠かない飴なのである。
そんなものを引き合いに出されて「美味い」と言われても、喜んでいいのかと言われれば、製作者として、料理人として、答えは断じて否だった。
ゆえに店主は半ば涙目でリューグに詰め寄り訴える。
「お前はウチの蕎麦を褒めたいのか、貶したいのか、どっちだ!?」
「喚くなよ、お里が知れるぞ」
「お前と同じ現代の日本だよ!」
「それもそうだなー」
ずるずると蕎麦を啜りながら、リューグは酷く投げやりに、そして適当に店主の言葉に対して切り返した。蕎麦の味を堪能することに集中しているのか。あるいは単に店主をからかっているのか。正直なところ、半分半分というのがリューグの本音だった。
実際、彼の打った蕎麦は素直に「美味しい」という一言が口から自然と零れるほどに美味しいのだというのが、リューグの率直な感想だ。他にも現在のユングフィには《来訪者》により幾つもの和食料理店が点在し、そのいくつかでは蕎麦も料理として提供されてい入る。
しかし、それはあくまで幾つもある和食料理のうちの一つでしかなく、専門的にそばだけを徹底して作っているわけではない。だからといって粗悪なものだとは思わないが、絶品と呼ぶには程遠いのだ。
《来訪者》が料理を習得する場合、《一般/家庭用家事》スキルに分類される《料理》のスキルレベルを上げる必要がある。リューグは必要最低限程度にしかこのスキルのレベルは上げていないが、《料理》スキルのレベルを一定の数値まで上げると、そこから新たな段階に派生するようになっていく。その《料理》スキル派生の中にある分類『和食』の『麺類』の料理スキルを上げることで、《来訪者》はうどんと蕎麦の製作技量を向上させることができる仕組みだ。
そしてこの青年店主――ウォルターは、その数ある《料理》スキルの中から『分類/和食/麺類』を選択し、蕎麦打ち技術を徹底して鍛え上げた結果、現実のそば専門店などで出されても恥ずかしくない、つまり現実に存在する蕎麦と比べても遜色ない蕎麦を完成させたのである。
店舗を設けるほどの金銭がないためこのような屋台という形になってはいるが、出てくる蕎麦は一級品そのもの。この蕎麦の味に魅入られて訪れる常連客は少なくないのだ。
そしてリューグもまたそのうちの一人であり、そしてこの屋台の客の第一号でもあった。
半年ほど前、ヒュンケルの家からの帰路でたまたま見かけた屋台に懐かしさを覚えて、蜜に誘われた蝶よろしくこの屋台に引き寄せられて注文した蕎麦が、元々蕎麦好きであった彼の心を一度鷲掴みにしたのである。
それ以降、リューグはユングフィにいる飯時は常にこの蕎麦の屋台を探しては東奔西走するようになった。
何せこのウォルターは自分の蕎麦の味を広めようとしているのか、これと言って決まった場所に屋台で移動しているわけではなく、ほとんどその日の気分で場所を決めている。
そのため常連の客はこの店主の気まぐれに付き合わされてあっちこっちを歩き回される羽目になる。
本人はいろんな客に食べて貰えてラッキーと思っているのだが、馴染みの客としては迷惑この上ない彼の気まぐれ行脚。しかしそれでもこの屋台を探して彼の蕎麦を食おうとしているのだから、とやかく言うことはできないのだが……。
つまるところ、リューグがウォルターをからかっているのは、彼のきまぐれに対してのささやかな意趣返しである。
リューグはずずず……とどんぶりの中の汁を啜り、完食したどんぶりの上に箸を置いて手を合わせ、
「ごちそうさまでした」
ふかぶかとまるで拝むかのように頭を下げてそう言葉を添えた。
「おう、おそまつさん」
リューグの言葉に、寸前までの憤慨は何処に行ったのかと問いたくなるような笑みでどんぶりを回収し、代わりに熱いお茶の注がれた湯のみを置いたウォルターに、リューグは僅かに口角を上げてからかうような素振りで言う。
「あれ? さっきまで怒ってたのに、嬉しそうじゃないか」
リューグの問いに、ウォルターはどんぶりを洗い始めながら僅かに考えるような素振りをして見せた後、微笑と共に答えて見せる。
「ん? まああれだ。お前はなんだかんだ言って俺をからかうが、あんだけ美味そうに食ってくれてる。その食いっぷりが、言葉よりもよっぽど素直に、如実に、お前の感想を教えてくれているぜ?」
「むぅ……」
ウォルターの言葉に、リューグは複雑そうに口元を一文字に結んで押し黙る。ぐうの音も出ないとは言わないが、反論するのも何か悔しい気がする――そんな心境だった。
リューグは溜息一つ漏らし、目の前で湯気を上げる湯呑を手に取って一口、啜る。
「……君は気楽だな。ウォルター」
「そう見えるんなら、きっと俺は気楽にやってんだろうな?」
水洗いを終えたどんぶりを手拭いで拭きつつ、ウォルターはリューグの問いにしたり顔で答える。
「俺は戦うのには向いていないだよ。PCのステータス値はどうあれ、性格的に、争い事は不得手なのさ」
「よく言うよ」
ウォルターの言葉に、リューグは肩を竦める。
「単に面倒くさがってるだけだろう?」
「だはは! そいつは否定できないな!」
明朗に笑い声を上げて、ウォルターはリューグの言葉を肯定した。
それも、当然と言えば当然だった。ウォルターはこうして日々ユングフィで蕎麦の屋台を営んではいるが、そのステータス値は攻略組には及ばないにしても、B級モンスター程度の相手ならば後れを取らないくらいの力量を持っている《来訪者》だ。
「でも俺は、前線で戦う攻略組やるより、此処で蕎麦打って客に食べてもらう方がよほどいいんだよ」
「……生粋の職人か、お前は」
「悪くない響きだな」
リューグの皮肉も受け流し、彼は豪気に笑ってみせる。何とも嬉しそうなその様子に、最早言うだけ無駄だということを証明するかのように感じられ、リューグもつられるように笑った。
その時だった。
屋台の置いてあるすぐ傍の路地から、どすんという衝撃音と共に、木材やらが倒れる轟音が響いた。
音の発した場所は、正確に言えば路地に設置されているゴミ捨て場だ。リューグとウォルターは目を瞬かせながら屋台から顔を出してそこに目を向けて、呆然とした様子で成り行きを見守る。
「うぐ……」
僅かに漏れ聞こえたのは、そんな呻き声だった。
しかしその声が聞こえた後、それ以降の変化はなく、リューグとウォルターは怪訝そうに眉を顰める。
もうもうと土埃の舞う路地を凝視し――そして沈黙。
暫し押し黙ったままその路地を見据え続け、徐に互いの顔を見合せて首を傾げた。
「……なんだ?」
「……さあ?」
二人は揃って疑問の声を上げ、再び互いの顔から視線を路地のゴミ捨て場へと戻す。
しかし、変化はない。
何かが――いや、誰かが上から落下してきたというのだけは辛うじて判断できるが、それ以上のことはまったく不明。予測も推測もあたわず、リューグは、
「ふむ……」
このままではらちが明かないと判断したリューグは、とりあえず蕎麦の代金として硬貨をテーブルの上に置いて立ち上がり、様子を見るために席を立つ。
「おい、リューグ――」
「大丈夫、様子を見るだけだから」
「そう言って今まで何回貧乏くじ引いたんだよ、お前は……」
気楽に手を振るリューグに向けて、ウォルターは髪を掻き上げて諦め気味に背中へ向かってそう呟く。
しかしリューグはたいして気にも留めず、さっさと道角に歩み寄って路地の中を覗きこんだ。
そして――ゴミ捨て場に落ちてきたのであろう件の人物――それをしばし見据え、どうしたものかと僅かに頭を掻いて首を捻る。
路地裏に設置されたゴミ捨て場。そこには燃えるゴミも燃えないゴミも区別なく――それこそ身分別のまま大量に、そして無差別に投棄されており、明らかにその許容量を上回った量がその中に詰め込まれていた。
果たしてこれを一体誰が回収し、その始末をするのかという疑問はさて置いて……リューグはそのゴミの山から生える二本の足を見て言葉を詰まらせていた。
ゴミの山から生えているのは、すらりとした、ほっそりとした薄灰色の長靴下に包まれ、赤と黒で彩られた靴を履いた、二本の人の足だ。
その二本の足が時折ジタバタともがくように動いては止まり、動いては止まりを繰り返している様子は、なんとも言葉にし難い困惑がリューグを唖然とさせる。
しかし、これを見て見ぬふりをして周り右するということも出来ず、リューグは溜息と共にゴミ捨て場に歩み寄る。
「う……うぐ……ぬぅぅ……」
大量のごみの中から僅かに漏れ聞こえるうめき声と、生え出ている足の位置を頼りに、リューグは僅かに目を細めて狙いを定めると、ゴミの山の中に腕を突っ込んだ。
そしてゴミを左右にかき分けながら、何とかその指先が標的を捉えると、リューグは身を乗り出すように腕を伸ばし――ゴミ山の中で暴れる相手の腕を摑むと、
「よぃ……しょっと!」
そんな掛け声と共に、ゴミの中からそこに埋まっていた人物をなんとか引っ張り出す。
「って――うわっ!?」
その際勢いがつき過ぎ、リューグは数歩下がるようにたたらを踏んでしまい――
引っ張り出した相手を巻き込み、回りのゴミと共に盛大にずっこけてしまった。
「――うぎゃ」
リューグと共に倒れ込んだ相手は、そんな蛙のつぶれたような悲鳴を漏らす。リューグは慌てて半身を起し、巻き込んだ相手を見て安否を確かめる。
随分と長い黒髪を左右で二つに束ねた髪形をした、小柄な少女だ。
黒のアウターと、その下に着たフードの付いた赤いミニのワンピースに身を包んだ少女は、その何処か吸い込まれるような既視感を抱く薄紫の双眸を瞬かせながら、纏わりついたゴミを払うようにかぶりを振った。
左右の髪が、その動作に合わせて揺れるのを見つめ――自分の行動にはたと気づくや否いや、リューグは思考を切り替えるようにしてその少女に問う。
「――っと……大丈夫か?」
「ぬぅ……問題ない」
リューグの上に乗った状態のまま、その人物は呻くように答えた。その答えに、リューグは安心したように溜息を洩らし、そしてふと自分と相手の体勢に気づき、僅かに息をのんで、
「――な、ならすぐにでも退いてくれるかな? 流石にこの状態は色々問題がある」
「? なにが?」
可能な限り冷静を装って、リューグは相手から僅かに目を反らしつつそう告げたのだが、少女はいに会した様子もなく小首を傾げるだけだった。
ちなみに今の状況は、対外的に見ればまるでリューグが押し倒されているように見えなくもない。男として、それはそれでも何か色々問題あるような気がしないでもないが、それは思考の片隅に置いておき、リューグは少女を見て降りるように視線で訴える。
しかし、半眼の少女はリューグの視線に込められた意を全く理解していないのか、無表情に首を傾げるだけだったので、リューグは諦めたように溜息一つ吐き、
「……とりあえず、退いてくれないと僕が立ち上がれないんだけど」
「……ああ、そうなんだ」
リューグの言葉に、少女はやっと得心がいったという様子で一度頷いて見せると、軽やかな動作でリューグの上から飛び退いて、
「どいた」
そう、リューグへと淡々と言った。
「……ああ、ありがとう」
何とも摑みどころのない少女の言葉に、リューグは呆れ半分の様子で肩を竦めて見せ、ゆっくりと立ち上がりながら服についたゴミを払う。
「――にしても……」
衣服についたゴミを落としながら、リューグはそう言葉を口にして一旦間を開け、頭上を見上げ、
「何をどうすれば、あんな上から落ちてくるような事態になるんだい?」
リューグは苦笑いを浮かべながら少女に尋ねる。
すると少女は、「ん?」と僅かに声を漏らして両目を瞬かせ、小さく小首を傾げて、リューグが見上げたのと同じように頭上を見上げた。
二人の視線の先にあるのは、家屋と家屋の屋根の間。そこから降り注ぐ僅かな月光と星の瞬き彩る夜の空。
「なんで……あんな所から?」
視線を頭上から下ろし、少女へと向けながらリューグは問うと、少女は同じように視線を頭上からリューグへと下ろして――答える。
「追われてた」
簡潔に口にされたその言葉は、しかしてリューグを驚愕させるには十分な衝撃を孕んでいた。
この世界で、一体モンスター以外の如何なる存在が人間を――ましてや戦うことに特化した能力を持つ《来訪者》を追跡し、危機的状況に陥らせるようなモノが存在するのか。
存在するとすれば、それは一体どのような存在で、何を目的に動いているのか。
――誰が、なんのために?
少女の一言が齎した予期せぬ事情を思索するよりも早く、少女が僅かに相貌を細めた。ぐっと拳を持ち上げて身体の前で構え、僅かに体を開いて右半身を踏み出した姿勢を取り、そして告げる。
「――来る」
その言葉に、何が? と尋ねることはなかった。
リューグは少女の口から発せられたその言葉の意味をほとんど無意識で理解し、少女の視線の先――即ちリューグ自身の背後を振り返りながら腰の剣帯に吊るす剣の鞘に左手を携え、柄に右手を伸ばし――抜き打ちの構えを取る。
――ごぽり……
それは、そんな不気味な音を引き連れて浮き上がった。
――出でたのは目の前の影から。
路地裏の影はまるで黒い水面であるかのように、そこから鋭い五指を宿した腕が生えて石畳の地面を捉え、その腕を支えに水から飛び出すように姿を現す。
タール油にどっぷりと浸ったような黒の人型。それでいて、顔の位置にある白いヘルメットのような面が異様に際立っていた。
現れたそれを見て、リューグは思わず言葉をなくしてその異形を瞠目する。
リューグはMMORPG〈ファンタズマゴリア〉の古参プレイヤーだ。それこそβテスト時代からそのゲームにのめり込み、世界観や人種設定は勿論のこと、数万と存在するモンスターの分類から名称まで、バージョンアップによって追加されたものも含めて記憶している自信がある。
しかし、こんな形状のモンスターは、リューグの持っている知識の中には一つとして存在していなかった。分類するのならば《人型》種か《不定形》種。しかしそのどちらの中にも、今目の前に出現したモンスターは存在しない。
いや、そもそもに、
(――どうして安全領域の中に、モンスターが出現して、エンカウトが発生している!?)
リューグの胸中を占めていた驚愕は、まさにそれだった。
MMORPGにおいて――いや、ほとんどあらゆるゲームにおいて、人の集まる《村》を始めとした《街》や《都市》は、プレイヤーの安全を確保する非エンカウントエリア――『モンスター戦闘が発生しない最も安全な場所』というのが常識であり、最も優先されるべき大前提だ。
だからこそ、《敗者》の多くはこの安全圏とも言えるユングフィから一歩も出ずにいるのは、都市から出なければモンスターに長われる心配がないという大前提があるからである。
しかし、今リューグの目の前で、彼らの安全を保証するその大前提が覆ろうとしていた。
一体、二体、三体――徐々にその数を増やして数を増していく黒の人型。
びちゃり……まるでずぶ濡れのまま地面に立ったような水音を立てて、その奇妙な――認知外のモンスターが佇立する。
――こおぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお……
それは、呼気――だったのだろうか?
あるいは呻きだったのか?
黒き肢体。その中でただ一つだけ白に染め上げられた頭部から発せられたそれが、リューグの肌を粟立てる。
「……なんだ……こいつらは」
「――分からない。僕はただ、いきなり追われただけだから」
リューグの呟きに、少女は油断ない構えを取ったまま答え、その異形を見据えていた。赤い指抜きのグローブを嵌めていた両手には、いつの間にか宝玉の備わった手甲。
接近戦の中でも徒手空拳に主眼を置いたクラス――拳闘士などが装備する護拳だ。
体術アーツ・スキルは、前衛系クラスならば誰でも習得出来る汎用性の高い技だが、更にその体術アーツ・スキルに特化したボーナスを得られたり、他のクラスに比べてもはるかに多くの体術アーツ・スキル習得が可能となるのが、クラス拳闘士の特徴にして利点である。
リューグは隙のない少女の挙動に僅かに目を剥き、ほくそ笑む。
「――君、クラスは?」
「二次、拳聖」
「そりゃ凄い……」
言葉少なに返ってきた返答に、リューグは満足げに微笑みながら称賛の声を漏らす。
――拳聖。
拳闘士からクラスチェンジすることのできる二つのクラスのうちの一つ。二つの上位クラスの内、より近距離格闘に特化した拳聖の最大の特徴は、その習得する体術アーツ・スキルの多くが、強力な反撃系アーツ・スキル――俗にカウンター・スキルと呼ばれる技を多分に有することにある。
リューグの得意とする片手剣や二刀流のアーツ・スキルの中にも、反撃系のアーツ・スキルは存在するが、それはよくある『敵の攻撃を受けることで発動する』というただそれだけの反撃技だ。
しかし、拳聖の習得するカウンター・スキルはその分類が数十近く存在するということにある。それらは等しく、敵の攻撃手段に応じて使い分けることが重要視される珍しいタイプの反撃スキルだ。
拳聖の扱うアーツ・スキル《パワーリフレクト》は、相手の打撃系の攻撃に対してのみスキル効果を発揮する反撃技だ。
ただし、このスキルがカウンターを発動するのは《打撃》系の攻撃に対してのみであり、剣などによる《斬撃》系や、刺突剣や槍の《刺突》系に対しては一切のカウンターを発動しないという欠点を持つ。
《斬撃》系の攻撃に対して反撃を行う場合、《スラストキャンセラー》を始めとした《斬撃》系攻撃に対してのみ発動するカウンター・スキルを発動させればいい。ただし、この場合は《打撃》や《刺突》などに対しては一切の効果を発揮しない。
といった具合に、拳聖の使う反撃系アーツ・スキルは、それぞれに対応した攻撃属性にのみ発動するものが幾つも存在する。体術スキルのレベルが上がれば、その分カウンター・スキルの対応する攻撃属性は細分化され、結果カウンター・スキルの総数は五十近くに及び、拳聖プレイヤーはその数々と存在するカウンター・スキルと体術アーツ・スキルを組み合わせて戦うという高度なプレイ技術を要求される、玄人向けのクラスだ。
隣に立つ少女は、つまりそれだけ扱いの難しいクラスを選択し、立ち回れるくらいの技量を保持していると考えていい。
(なんというか……〈ファンタズマゴリア〉の女性プレイヤーは、やたら玄人向けのクラスを選択する傾向でもあるのかな?)
彼の《十二音律》の一人にして、親友に恋慕する呪葬鎌使の姿を脳裏に浮かべながら、リューグは僅かに苦笑する。
じゃりぃぃんという音を引き連れながら金色の剣を抜剣し、リューグは片手で構えながら囁く。
「此処じゃ狭い――突破するよ」
「うん」
少女は素直に首肯したのを見て、リューグは脳裏に描いたウィンドウ画面からスキルウィンドウをオープン――右半身を引き、左半身を前に出すように立ち、僅かに腰を落として剣を水平に構え――牙突姿勢を取る。
剣が水色のオーラを纏い、そこに蓄積した力を解放するように、リューグは地を蹴って路地に乱立する異形たち目掛けて突進する。
片手剣中位アーツ・スキル、《スフォルダント》。
渾身の踏み込みと共に放たれた突進系単発の片手剣技は、あたかも壁のように路地裏を埋め尽くさんとしていた黒塗りの人型たちを弾き飛ばすようにその中央を穿った。
剣圧による爆音と衝撃が路地の中を埋め尽くし、立ちはだかっていた異形たちを空中に打ち上げ、あるいは壁際に叩きつけながら、リューグは化け物たちの間を貫通し、街路へと飛び出す。
地を滑るように踏み締めて突進の勢いを殺しながら振り向くと、リューグの切り開いた道を、すかさず少女が追いすがるように突破し、同じように街路に飛び出す。勢い余ったのか、空中に飛び上がった彼女は宙で身体を捻り、軽やかに着地を決めながら拳を構えた。
鮮やかすぎるその挙動に目を剥きながら、リューグはその口角を確かに吊り上げて無行の位を取りながら路地の中に視線を向ける。
ぬぅ……という擬音が聞こえかねない生々しい挙動と共に、それは這い出ずるように壁に手を掛けて顔をのぞかす。
目も口もない白の仮面が周囲を巡らせ、そしてその顔をリューグたちへと一斉に向ける様はいっそホラー映画も真っ青な恐怖を煽る。
「うおぉぉぉ、なんだ!?」
実際、異形が這い出てきた路地のすぐ傍の屋台から成り行きを見守っていたウォルターは素っ頓狂な声を上げて屋台から飛び出してきた。
そんな彼に向けて、リューグは視線だけを彼に向けて、説明を省きながらからかうように言った。
「簡単に言うと、女の子を追いかけまわす不逞の輩だよ」
「なぬっ!?」
リューグの言葉に、ウォルターは眉間に青筋を浮かべながら化け物たちを見据え、次いでリューグの傍で何時でも迎え撃てるように構えを取っている少女を見て――そして不敵に微笑んで大仰に叫ぶ。
「そいつぁー許せねーな! この俺様の目が黒いうちは、女の子に不埒な行為をするのは断じてさせん!」
そう何処か芝居がかった言い回しで化け物たちに向けて一方的に叫ぶと、彼はその手に十字をかたどった杖を取り出し、両手でそれを握り無造作に構える。
「頼もしいね」
「だが前衛は任せるぞ!」
リューグの言外に戦えるのかという皮肉に、彼は素直にそう言ってのけた為、リューグは苦笑しながら肩を竦めた。
「では、任されようか」
「ん」
リューグの言葉に、少女は小さく頷き――二人は同時に地を蹴って左右に分かれた。少女はウォルターのいる右へ、リューグはそれと相対するように左へと駆けた。
這い出る異形たちを挟撃するように、三人は陣形を展開すると同時に、リューグは十近く這い出てきた化け物たちの陣中へ正面から突撃を掛ける。
今のリューグは普段のような裾長の《アークナイト・コート》ではなく、対して防御力もない簡素なチュニックに、トレードマークの翠緑色の長い襟巻――《風妖精のマフラー》を身につけている程度で、普段に比べれば圧倒的に防御力に乏しい状態だが、元々回避重視装備であるリューグにとって、防具が乏しいことは大した問題ではない。
リューグは一斉に自分目掛けて振り下ろされた無数の腕爪を凝視し――そしてそのすべての攻撃起動を完全に見切り、腕と腕の交錯する中を縫うようにして抜けて、腕を振り抜いた姿勢のまま硬直する化け物目掛けて容赦なく剣を振り抜く。
「っ!?」
剣を振り切った刹那――相手の肉を裂き、骨を断った剣から伝わる手応えに、リューグは僅かに目を見開いて眉を顰めた。
手応えがなかったわけではない。だが、その手応えは到底人型の生態のそれとは思えないほど滑らかだった。かと言って、それが不定系モンスターのような感触かと言われれば、それもまた違う。スライムなどにある弾力に似た抵抗もまるでなく、まるで泥か何かを切っているような感覚だった。
考えながら、リューグは地面を蹴って背面跳びの要領で宙に舞い上がり、異形たちの追撃を躱すと、落下と同時に剣を振り上げ――着地すると同時に剣を振り下ろして上段から一刀の下に両断した。
ただそれだけで、異形の身体はまるで水の塊が地面に迸るように四散する。
まるで水を満杯にした水風船。周囲に立ち並ぶ化け物たちを切り伏せながら、リューグはそんな考えに至る。
――パンッ
異形たちの間から覗く向こう側で、幾つもの炸裂音が響き、ちらりと視線を向けて確認すれば、異形たちの垣根の向こうでは、あの黒髪の少女が舞いを演じるかのように拳を振るい、蹴打を放ち、そのたびに黒い人型は炸裂し、地面に黒い染みを大量に残して無力化していく。
――しかし、問題はその数だ。
如何に一体一体の力が弱く、一撃で倒すことができるものだとしても、路地からは次々と、まるでありの巣を壊したかのように無尽蔵と異形たちは排出され続けている。
それを視界の隅で確認しながら、リューグはその場で一回転し、円を描くように剣を振り抜く。金色の軌跡が閃き、間合いの中に飛び込んできた異形たちを一掃する。
次いで掃討された異形の数を埋めるように現れ、次々とその鋭利な爪の宿る腕の追撃をパリィし、その横から放たれた別の腕を蹴り上げることで射線を逸らす。
更に背後からの強襲を視界の片隅で捉えるや否や、振り向き様に空いている左手で格闘下位アーツ・スキル、《エントラーダ》を発動――闘気を纏った掌底を打ち出して相殺し、追撃の一刀で斬り伏せる。
キリがない!
胸中で、リューグはそう舌打ちしながら次の手を模索する。しかし、その間も異形たちはリューグへ向け次々と攻めの手を止めず、その物量で押し切るかの如く腕を振るった。
身を翻して無数の腕の中を掻い潜り、あるいは剣で捌き、回避行動に集中する。切る時は手応えがないというのに、その攻撃は見た目通りの質量を伴って、受けた剣が攻撃の圧力で震えるのを感じながら、リューグは返す刀でその腕を切り落とし、間合いを開く。
刹那、密集する異形たちの頭上に、幾何学模様の描かれた円陣が現出し、そこから幾つもの閃光が射出されて、円陣の下にいた異形たちを貫いた。
僧侶クラスの用いる数少ない攻撃魔術、中位バースト・アーツ、《シャインズレイ》。
放ったのは、少女の背後で十字杖を構えたウォルター。特に打ち合わせしたわけでもなく、合図があったわけでもないあのタイミングで正確に敵だけを捕捉して範囲魔術を発動させた判断は、流石に攻略組に及ばずとも十分に戦えるだけのことはある、的確な采配と言えた。
少女のほうも、そんな後衛職タイプのウォルターを上手くフォローし、決して彼に敵を近づけぬように気を配りながら的確によって来る異形を殲滅している。
よほど戦い慣れているのだろう。その動きと判断に無駄はなく、明らかに上位に位置する《来訪者》であることがうかがえた。
その様子に、リューグは敵と相対じていながらに微苦笑する。不謹慎ながらに思ってしまう。彼らに、負けてはいられない。そんなことを考えてしまう自分に呆れながらも、僅かに胸中に生じる高揚を抑えきれずにいた。
リューグは脳裏のスキルウィンドウを確認し、そこに表示されるスキルの中で、条件に見合うそれを見繕う。
そして「コレ!」と自分の目的に見合ったスキルを見出すと、リューグは不敵に笑んで剣を薙ぎ払った。
眼前の異形を一刀で三匹屠ると、リューグはバックステップで間合いを開き、更に大きく身を屈めて跳躍――背後の壁に足を掛けると、その場を足場に見立てて更に大きく宙空に舞い上がる。
眼窩の街路を埋め尽くすほどに溢れた黒い人型の群れを見下ろしながら、リューグは微笑と共に剣を振り被り、アーツ・スキルを発動させる。
刹那、リューグの手にする剣が金色の輝きに呑まれ――僅かに、だがはっきりと周囲にきぃぃんと唸るような音を発し、それは次第に周囲の空間と共鳴するかのように大きくなってく。
「ハァッ!」
裂帛の気迫と共に、リューグはまるで背後に見えない壁があるかのように蹴り、文字通り空を駆けながら異形の群衆へと飛び込み剣を振り抜いた。
片手剣奥義アーツ・スキル、《ハウリングブラスト》。
空中から流星の如く滑空し、地を滑るようにして剣を切り払う。超高圧縮された剣圧は、巨大な金色のオーラエフィクトとなって周囲を呑みこむ。リューグの保持する単発系範囲剣技の中でも随一の威力を誇るアーツ・スキルが炸裂し、その攻撃範囲に密集していた人型たちが圧倒的な剣圧によって一掃せんと牙を剥いた。
異形たちは抵抗も断末魔も許さず、ただ無慈悲に、そして容赦なく放たれた金色の剣圧に呑まれ無情にも霧散していく。
数にすれば二十近く。それらが僅か一刀の斬撃によって無力化され、周囲には一瞬の静寂が訪れる。
しかし――
「……これでも駄目か」
静寂を打ち破ったのは、リューグのその言葉。それに追随するかのように、水面に水滴が落ちて波紋を広めるような、ぴちょり……という音。
水音。それが意味するもの。
リューグの、少女の、ウォルターの視線が、一斉に路地へと向けられる。三人の顔に走るのは明らかな動揺。未知に対する僅かな、だが確かな恐怖心を彷彿させる。
ただの無限湧き、あるいは大量出現などと呼ばれるそれであるならば、これほどリューグたちが動揺することはないだろう。一体多数での戦い方は心得ているし、無限湧きのモンスターはその大体が雑魚――少なくともC級以上のモンスターが出現することはないため、その掃討は苦ではない。
だが、今回のこれは違う。あらゆる条件に置いて、現状はリューグたちの認知するモンスターエンカウントではないのだ。絶対の前提条件、フィールドやダンジョンでモンスターと遭遇することで発生する《フィールドエンカウント》でもなければ、ゲーム時代には存在し、異世界化した〈ファンタズマゴリア〉ではまだ未確認とされている、ある条件下でのみ都市内部でも発生する戦闘――《イベントエンカウント》でもない。
絶対なる安全領域であるはずの都市内部で生じた、正体不明のモンスターとの遭遇は、これまでリューグたちが絶対不変と信じてきたMMORPG〈ファンタズマゴリア〉のシステムを根底から覆している。
データ上に存在しないモンスターが、本来モンスターの侵入することすら適わないユングフィへ侵入し、こうして《来訪者》と対峙している。しかもそれは倒しても倒しても無限に湧き続け、戦闘終了の兆しすら見せない――実質解決手段の見出せない状況で続く、理解の及ばない状況は、体力も精神力も摩耗させるのだ。
握る剣が、僅かに重くなったような錯覚を覚えた。
実際にはそんなことは有り得ない。手にする剣の重みは変わらない。その剣身が折れでもしなければ、その質量が変わることはないのだ。
折れ欠けているのは――心だ。
戦おうとする心。剣を振るう心が、挫け掛けていることに気づき、リューグは僅かに目を剥く。
目の前の異常。〈ファンタズマゴリア〉の仕様を逸脱したイリーガルな状況に、怖れを抱くなというほうが無理だ。事実、リューグ自身それを自覚していた。予想外の連続に精神が揺らいでいたのは否定しない。
だが、それがまさかここまで顕著に自分の精神面に作用するとは思ってもいなかった。
(くそ……っ!)
自分のふがいなさを叱咤するように胸中で舌打ちしながら、リューグは小さく、ゆっくりと呼吸を整えながら肩の力を抜く。
(――落ちつけ。呼吸を乱すな……)
緊張はそのまま全身に無駄な力を強要する。だから本来のポテンシャル以上に力んでしまい、結果肉体への疲労を早め、精神への負担を高める。まずはそれを払拭する。
思考を定め、呼吸を整え、リューグは大きく肺の空気を吐き出す。
そして手にする剣を握る手に、自分の意思で力を込めた。
剣を振るうのは意思。ひいては心。リューグは――日口理宇そう教わった。
昔。
それこそ今の自分と比べれば、無知で無力な幼い子供だった頃に。
『決して心を折るな。たとえどんな状況であっても。使い手の心が折れなければ――』
脳裏によぎる祖父の言葉。そして姿を思い出して、リューグは自らを鼓舞するように剣を一閃させた。
違和感が、消える。
全身を巡っていた緊張の糸が解け、身体が普段通りの自然体へと切り替わる。
見据える視線の先。路地から溢れる無数の異形。
しかし、それがなんだというのか。恐れるに足らん――ただ単調で鈍重な動きと、数だけで押してくるしか出来ないだけの、ただそれだけの化け物だ。
対人戦闘に比べればはるかに劣る、人の意思が伴って初めて生まれる圧倒的な圧力も迫力もない。
これならば、たまにヒュンケルと行う模擬戦のほうが……いや、それは比べるのもおこがましい。
あれだ。先日自分を襲ったPKたちのほうが遥かに緊迫した戦いになる――そう思考が決すると、先ほどまでの兢々とした感覚が嘘のように晴れる。
(そうだ。何を恐れる? 得体が知れないとしても、こいつらはただ、数だけの連中だ)
胸中で呟きながら、小さく吐息を吐き出す。そうすることで思考を切り替える。
瞬間、手に握る剣の質量が元に戻る――無論それは錯覚だ。剣の重さは変わっていない。
変わったのはリューグの認識。そして全身に廻っていた力みが失せたことで、身体が覚えている剣の重さと、実際の剣の重さが一致した証だ。
夜の闇の中でも鮮明にその存在を主張する金色の剣を持ち上げ、八双の構え。
「シッ……」
飛び出すと共に、リューグは剣を振り抜いた。考えるよりも早く、ただ自然とリューグの身体は動く。
今まさに湧きでようとしていた異形目掛けて袈裟に払い、その勢いのまま一回転して、更に右から一文字に寸断する。
破壊不可能である建物の壁ごと剣の刃を叩き込み、強烈な一撃によって火花が散る。最初の一撃で斬殺された異形を踏み越えて飛び出してきた人型を輪切りにした。
四散する異形を後目に、リューグは路地の影からふつふつと湧き、這い出す人型を見据え――
「ウォルター」
脇で十字杖を構える青年の名を呼ぶ。
「おう」
リューグの呼びかけに、彼は即応と共にリューグの下に駆け寄る。そんな彼に向けて、リューグは視線を路地から逸らさずに問うた。
「お前のクラスって魔祓師だったっけ?」
「そうだけど……それがどうかしたのか?」
ウォルターの問いに、リューグは言葉少なに答える。路地の奥を見据えたまま、抑揚のない平坦な声音と共に、その剣の切っ先を路地の先へと突きつけて――
「この路地全体に《聖浄術》を放ってくれ」
「――なんだって?」
リューグの言葉に、ウォルターは僅かに目を見開いて怪訝な顔をして首を傾げた。そんな彼に向って、リューグは僅かに語気を強める。
「いいから、急げ!」
その怒号に、彼は戸惑いの表情を浮かべるも――それは一瞬のことで、彼は人呼吸の間を置いた後静かに頷いて路地を見据えながら十字杖を構えた。
「分かったよ、やってやりますよ――っと!」
その宣言と共に、彼はスッ……と両目を伏せて杖を頭上に振り被る。
刹那――彼の頭上に光が灯り、その光芒は明滅を繰り返して徐々に移動し、中空に円を描き、その中に幾何学的な文様を記していた。
描かれた紋様――《円陣》。
夜闇を切り裂くほどの光源を頭上に携え、ウォルターはにっと不敵に微笑んだ。
「そんじゃ景気よく、いってみようかー!」
宣告の言葉と共に、巨大な光の塊の陣が路地へと目掛けて展開され――
目が眩むほどの爆発にも似た閃光が路地のすべてを呑み込んだ。
◆ ◆ ◆
――魔祓師。
僧侶からクラスチェンジできる二次クラスで、僧侶の回復役一辺倒のスキル習得とは異なり、パーティへの様々な付与系スキルや補助スキル、そして光属性の攻撃魔術を習得することができるようになる中衛職の一つ。
その最大の特徴は、不死系モンスターに対して、そしてバッドステータスに対して最大の浄化効果を持つ《聖浄術》という固有スキルにある。
不浄なるものを諌め、魔を祓う清めの秘技――即ち《浄化》。
《呪い》などのバッドステータスを一瞬で解除し、不死系モンスターに対して発動させれば、その戦闘力を大々的に低下させ、不死系の特徴である一定時間経過による復活を阻止することができる――魔祓師の持つ最大の武器。
様々な効果を発揮する《浄化》の作用の一つとして、フィールドやダンジョンにある通過することでダメージを伴うフィールドオブジェクトの一つ、《瘴気》などを消し去ることができる。そしてそれは《瘴気》だけではなく、スキルのレベルが上がれば浄化できるものの幅は増え、当然《浄化》の効果も増強されていく。
そして上位の《聖浄術》ともなれば、その浄化可能オブジェクトの中に無限湧きを誘発するオブジェクト《門》が含まれるようになる。
無限湧きそのものを消し去るわけではないが、その出現量を低下させる効力を発揮する効果が《聖浄術》には存在する。
相手は正体不明の、既存のMMORPG〈ファンタズマゴリア〉を逸脱した存在だ。本来有り得ない存在である黒に染まった人型。それが沸き続ける影のような泉。
――もし、それが既存の《門》と同じものであるとすれば……!
リューグの見出した手段――それが魔祓師であるウォルターの《聖浄術》だった。
(これで駄目だったら……打つ手なしだぞ)
目の前の路地を呑みこむ膨大な光量を正面から見据えながら、リューグは胸中でそう呟く。
実際、この《聖浄術》も、あの影のような泉のような、異形たちが出現している存在が既存の《門》と同じか、それに類似するものであるということを前提としたものであり、言ってしまえばその僅かな可能性に賭けた博打だ。
確信もなく、ただ推測によって導き出された可能性に任せただけの運試し。
半ば祈るような気持ちで眼前を見据え、リューグはそっと剣を持ち上げようとし、ふと隣に立つ影に気づいて――目を見張る。
静かに、だが凛とした態度で両手を前に、そして右足を半歩踏み出した姿勢で構える少女の姿。
その身から迸る気迫が語る。いつでも迎え撃つ――そんな無言の宣言を垣間見て、リューグは笑う。
(――ああ。迎え撃つ)
これで潰えないのならば、後は根気勝負だ。向かってくるというのならば容赦はしない。手にするこの剣で、ひたすらに切り伏せる。
意を決したリューグの目の前を呑みこんでいた極色彩の光の塊の、その眩い輝きが徐々に納まっていく。《円陣》の効力が失せ、すべての不浄を清める神聖の力が消え去る。
同時に身構える三人の耳朶を叩いたのは、ガラスの砕けるような破砕音。
晴れた光の先に広がる闇の中で、異形たちの這い出ていたあの深淵の闇――それがいつ柄にもひび割れ、今まさにリューグたちの目の前で粉砕し、無数の細かなポリゴンの破片をまき散らして虚空へと舞い上がり、そして消失していく。
その舞い上がる細かなポリゴンの欠片を見上げながら、リューグは僅かに表情を顰め、目を細めた。
ポリゴンとして消失するということは、リューグたちを襲った異形を出現させたあの影のような、闇のような《門》は、〈ファンタズマゴリア〉の仕様に存在することを意味する。
だが――
(――あんな召喚陣……《門》は、〈ファンタズマゴリア〉には存在しない)
この〈ファンタズマゴリア〉が異世界になる前――即ちゲームであった頃、このゲームを盛り上げるために様々なプログラマーが魔術などを考案してはアップデートしており、その数は一日で数百にも上る。
しかし、七年という歳月の中で、今のようにリューグたちを襲ったモンスターを召喚する《門》は、誰一人として作り上げていない。無論、〈ファンタズマゴリア〉を運営する公式側でもあのような《門》は作られていないし、発表もされていない。
無論、リューグの記憶に漏れがないとは言い切れないだろう。しかし、あんなタイプの――それこそ街や都市内で発動し、モンスターを召喚するような《門》を、見逃すとは思えなかった。
(そうだ。見逃すわけがない。〈ファンタズマゴリア〉の一プレイヤーとして。そして――)
そこまで考えたのとほぼ同時、横から滑り込むようにしてリューグの前に飛び込んだ影が、
「――危ない」
その一言と共に、その影は軽やかなステップで飛び上がり、達人の放つ居合のような鋭く、そして何より速い強烈な上段蹴りが繰り出される。
それは今まさにリューグ目掛けてその爪を突き立てようとしていた生き残りの人型を的確に捉え、その白い仮面の顎を撃ち抜く。
がくんっ、と人型の耐性が大きく揺れた。少女はその看過するにはあまりにも大きな隙だった。
振り抜いた足とは逆の左足の靴底が地面を捉えるや否や、少女はぎゃりっという音をその足下で響かせながら身を翻し、
「ハッ!」
裂帛の気合が大気を震わせた。
力強い右の踏み込みと共に大振りの、だが狙い確かな右ストレートを人型の胴体部分へと叩きこまれる。
いっそ清々しいまでに的中した見事な拳打。その一撃を受けた人型は、やはり先の例に漏れず、水を大量に詰め込んだ風船の割れるような音と共に四散し、地面に黒い水溜まりを残して消滅した。
呆然とその様子を見守っていたリューグを、少女はゆっくりと振り返り見上げ、
「ちゃんと見て戦わないと、あぶない」
半眼で抑揚なく告げる少女の言葉に、リューグはしばし目を瞬かせた後、呆けたような表情で首肯し、
「……う、うん」
何と言葉に出せばいいのか分からず、とりあえず言葉少なに応じた。
しかし、リューグの思考の半分以上は、未だ霧散したポリゴンの欠片と、そこにある可能性へと向いている。
(誰かが新しいプログラムを組み立てた? でも、現状でそれは出来ないはずだし、もし出来たとしても、アップデートする方法がない。なのに、どうやって?)
脳裏に描かれる幾つもの可能性を示唆し、しかしそれが不可能であることを自ら証明することを繰り返すリューグだったが、
――ぐうぅぅぅぅぅ……
不意に耳朶を叩いたそんな音に、リューグは目を見開いてその音の聞こえた方向に目を向けた。
「うぅ……」
見れば、黒髪の少女がばつの悪そうな面持ちでお腹を抑えていた。
リューグとウォルターは少女を見つめ、そして互いの顔を見合い、そしてもう一度少女を見た所で、彼女はぽそりと言葉を漏らす。
「……お腹……減った」
刹那、限界が来た。
男二人が、同時に腹を抱えて爆笑する。突然の笑い声に、少女は左右に括った髪を躍らせてぎょっと目を剥いて二人を見上げた。
「フハハ! ヤバい! この娘サイコー!」
「わ、笑い過ぎだウォルター。あはは……」
声を上げて笑うウォルターを諌めるリューグもまた、眼尻に浮かぶ涙を拭いながら声を漏らし、少女を見た。
未だ訳が分からず呆然としているようで、少女は男二人の爆笑をただ目を剥いて見上げている。その様子は、先ほどの戦っていた時の立ち振る舞いとは縁遠い、年頃の少女のそれに見えて、リューグは急に微笑ましくなった。
そしてさっきまで考えていたいろんなことが頭から吹っ飛んでしまい、今は考えるだけ無駄だろうと開き直ったリューグの決断は早かった。
「君、蕎麦は食べられる?」
「……蕎麦?」
リューグの唐突な質問に、少女は理解しきれずそう問いかけした。
対し、リューグはまだ笑いが止まらないらしいウォルターを指さして、
「あいつ、この辺では結構知れた蕎麦打ちなんだよ。そこにある屋台のね」
今も街路の傍らで提灯を揺らす屋台を向きながら、リューグは言う。
「それで良かったら、さっきのお礼も兼ねて幾らでも御馳走するけど――どう?」
リューグの説明に、少女はようやく合点が行ったのだろう。括る左右の髪を揺らして、少女は大きく首を縦に振った。
その様子に、リューグは微笑と共に頷いて見せ、まだ腹を抱え続けるウォルターの足に蹴りを入れながら、
「ウォルター。蕎麦二つ追加。僕も食べるから」
「注文するのに蹴り入らないだろーが!」
「文句言う暇あったら蕎麦作ってくれ。僕もこの子もお腹空いてるんだ」
「お前はさっき食ってたじゃねーか! たく……作りますとも。ご注文とあらばね」
ぶつくさと文句を垂れながら、ウォルターはそそくさと屋台のほうに歩いて行った。その背を見送りながら、リューグはふと思い出したように再び少女を振り返り、
「そう言えば、名前――聞いてなかったね。君の名前は?」
そう尋ねると、少女は数度瞬きをした後、
「人に名前を聞くときは、まず自分から……って聞いた」
「それは失礼」
その切り返しに、リューグは苦笑と共に謝辞の言葉を口にし、僅かに佇まいを整えてから名乗る。
「リューグだ。今の〈ファンタズマゴリア〉では、リューグ・フランベルジュって名乗ってるよ」
微笑と共にそう今の自分の名前を告げると、少女は鷹揚に頷いて見せた後、その黒髪の間から覗く淡い紫の双眸を半眼のままにリューグを見据えて口を開く。
「……ノーナ。ノーナ・カードゥケル」
「そっか」
短な、言葉少ない少女の自己紹介に、だけどリューグは満足げに頷いて、
「此処で会ったのも何かの縁。よろしく、ノーナ」
「……ん」
それは肯定なのか否定なのか、おそらくは肯定の意と受け取り、リューグは口元に手を当てながら苦笑した。
「そこの二人―。そろそろ出来るぞー」
屋台から顔をのぞかせたウォルターが、二人を呼んだ。リューグは「分かった」と短く答えると、
「それじゃ、行こうか」
少女――ノーナにそう促しながら、自ら屋台に向かって歩き出す。
「うん」
ノーナははっきりと一言だけ答えを返し、リューグを追ってウォルターの屋台へと小走りに駆け寄って行った。
◆ ◆ ◆
「おかわり」
どんぶりを突きだしながらのノーナの要求に、リューグは苦笑する。
「……よく食べるね」
「つーか、もう五杯目なんですけど?」
新しい麺をお湯に浸しながら、ウォルターは呆れ気味に呟いた。そんなウォルターに向けて、リューグは至極真面目な表情で告げる。
「やっぱり笊蕎麦作ろう。ウォルター」
「何でだよ?」
「笊なら僕も五杯は余裕だから。あと、僕もお代わり」
「張り合ってんじゃねーよ! そしてテメーも三杯目だ!」
結局、その日リューグとノーナの食べた蕎麦の合計は十六に上ったというのは、余談である。
第一章開幕です。ようやくヒロインも登場です。ゴミ捨て場に落下して足だけ生えるという登場の仕方ですが、ヒロインです(たぶん)。
次の話は来週までを目途に急ぎ書きします。はたして今年の内に一章を終わらせられるのか(今のペースでは不可能)。まあ、やれるだけやってみます。ノシ