The First Story
この作品を書き始めた頃に書いた番外編で、Act0とAct1の間の話です。
「……何してんだ、僕は――自分のレベル上げですよね、知ってますとも」
そんな誰にでもない一人漫才を繰り広げつつ太木の幹に背を預けながら、リューグは肩で息をするほど乱れた呼吸を落ち着かせようと全身から力を抜いて深呼吸する。
そして僅かに意識を集中させて、目の前に表示されたステータスウィンドウに目を通した。
リューグは浮かび上がった薄い硝子のようなステータスウィンドウを覗きこみ、そこに表示されるステータスの数値を見た。
〈ファンタズマゴリア〉には、多くのRPGに存在するレベルが存在しない。
この世界でステータスを上昇させるには、そのステータスが関連する行動をひたすら繰り返して熟練度を上げていくしかないのである。
変動しているステータスはHP・STR・VIT・AGL……ある意味仕方がない結果であり、同時に予想していた結果でもあった。
それに比べて、やはりMP・INTとRSTの成長率は今一つだった。
(まあ、仕方がないと言えば、仕方がないんだよな。こっちも)
今のところ微々たるが、しかし着実に成長している前者四つのステータス値はすべて肉体活動――即ち戦闘や徒歩による移動によって経験値が得られ、戦士系であるリューグは比較的簡単に上がる。
それに反して成長度合いが低い後者三つ――MPとINTとRSTは、魔術などを代表とした精神集中系統の行動をすれば大きく成長する。
しかし初期クラスが軽剣士であるリューグでは、なかなかにINT・RSTが上昇しない。
敵側の魔術攻撃や属性攻撃を受けたり防いだり躱したりすれば二つのステータス値も上昇するだろうが、生憎リューグが今いるフィールドではそんな大層な攻撃手段を持つモンスターは存在しない。
初期習得魔術など存在しないし、そもそもこの世界で魔術を行使する場合は魔術書か杖に分類される武器を持つことが必要とされて、ただ意識を集中し詠唱するだけで魔術が行使できるのとはわけが違っていた。
ついでに言えば軽剣士職では魔術書の装備は不可能であり、軽剣士で魔術を扱いたいのならば、軽剣士の上位職である魔法剣士に転職し、専用武器である魔法剣を所持した上で魔法剣の武器熟練度を上げなければいけない。
つまり、現段階ではリューグのMP・INT・RSTの成長は大きく望めないということになる。MPだけなら、武器熟練度によって習得ことの出来る戦闘スキル――アーツ・スキルを行使すれば比較的高い成長は望めるのだが、今のリューグの武器熟練度は低く、習得しているアーツ・スキルは片手剣下位アーツ・スキルの基礎中の基礎、初期習得の強撃――ノックバック効果のある《バッシュ》と、高速の袈裟切り、《スライサー》のみである。
DEXはあらゆる行動によって経験値が入る上、武器が片手剣であるリューグならばさほど意識しなくても勝手に上昇してくれるので、これはさほど気にかける必要はなかった。
今必要なのはINTとRST――特にRSTの成長だ。RSTは魔法防御や属性防御に影響を強く及ぼすステータス。リューグにとって、このステータスが成長しないのは色々と問題が発生するのである。
戦士系のPCというのは、総じてRSTの成長具合が悪い。
そして大抵の戦士系PCは皆著しくHP・STR・VITの数値が高い。いやむしろ高くて当然なのだ。無駄にでかい大剣やら重槍やら大戦斧を振り回して、全身を重鎧系で覆い尽くして攻撃力の高いモンスターと飽きることなく戦闘を繰り返していれば、それらのステータスなど気にする必要もなく成長していく。
だが、それは彼らが皆パーティを組み、後方からの〈僧侶〉や〈魔道師〉の後方支援が常にあるからである。RSTの低さから来る魔術攻撃や属性攻撃への耐性の低さは、後方にいる彼らの補助魔術や回復魔術によって補われる。
しかし、リューグはそういうわけにはいかなかった。
――ソロプレイヤー。
数いるプレイヤーの分類において、リューグは単独で活動するプレイヤーに分類されていた。MMORPGでありながら、パーティを組まずあえて一人で活動するプレイヤーを、ソロと呼ぶ。リューグもそんなソロの一人だった。
(実際はそう勝手に認識されて過ぎたために、パーティを組めなかっただけなんだけどね)
リューグ自身は、別段自身のことをソロだとは思っていない。必要があればパーティを組むし、実際βテスト時代から一緒に〈ファンタズマゴリア〉をプレイしていた友人とはよくパーティを組んでいた。
……逆にいえば、その友人としかパーティを組んでいなかったわけだが、それはあえて深く考えまいとリューグは頭を振り、改めてステータスウィンドウを見下ろして溜息を洩らす。
「はぁ……『草露や、兵どもが、夢のあと』――ってか。ほんの少し前まではBBSの書き込みで《十二音律》に名前を連ねるくらいだったのに……」
リューグは目を潤ませながらそんなことをのたまった。
《十二音律》とは、BBSに『〈ファンタズマゴリア〉内で最強って誰?』という書き込みに対して上がった十二人の至高存在の名前を纏めてそう名付けたモノであり、いつの間にかプレイヤーたちの間で常用されるようになった。
ちなみに名の由来は音階であり、名の挙がった十二人のうち五人が漢字名、七人がカタカナ名であることから、漢字名のキャラを日本音楽の五音音階に、カタカナ銘のキャラを西洋音楽の七音音階にたとえ、合わせて《十二音律》なのだという。
おそらくゲームである〈ファンタズマゴリア〉が和名だと〈交響想歌〉だというのに掛けているのだろうという憶測が飛び交ったが、その真意は定かではない。
ただ、その《十二音律》に名が挙がったPC名は、誰もが一度は耳にしたことがあるくらい有名なプレイヤーたちばかりで、そこにリューグの名が連なっていたのを見た時は驚きを隠せなかった。
ただ、そこに名を連ねるほど高レベルだったリューグも、今では出来立てほやほやの初期ステータスの初心者同然の状態に転落しているわけで。
まさしく言葉通り、兵どもが夢のあとだった。そして長い時間をかけて育てたはずのPCのデータが見事リセットされたプレイヤーとして言えることは、
「やってらんねー」
の、一言に尽きた。
七年かけて鍛え上げたPCデータがリセットされていれば、そりゃあ口に一つや二つは言いたくなる。むしろその一言で片づけられているだけだいぶマシ――むしろ廃人よりのプレイヤーとしては酷く温情のあると言ってもいいだろう。
元々の穏和な性格もあって、リューグ――即ちプレイヤーであり、現在はリューグそのものである理宇自身は嘆くようなこともなかった。
正確にいえば、嘆いてどうにかなるならいくらでも嘆くが、そうでない以上嘆くだけ無駄、と諦めているともいえるが。
リューグはベルトの後ろに吊ってある鞘から剣を抜き、それを軽く眺めた。
握る柄を通して感じる剣――片手剣Gランク《ショートソード》の重さは、剣身の尺寸が六〇センチ程度の剣としては妥当な重さだと言えるだろう。図ったわけではないが、おそらくは一キロ弱。現実にいた時に振るっていた、稽古用に刃挽きのされた刀と同程度の重さだ。
(まさか現実の経験がこんな形で役に立つとね……)
リューグは自嘲するように僅かに口角を釣り上げた。ゲームであるはずの〈ファンタズマゴリア〉の世界だが、ゲームのようにそう簡単に行くかと言えば、当然の如く否だった。
古都ユングフィから離れて半日余り、所持金も初期の一〇〇〇ガルドしかないとなると、まともな装備を揃えることもままならず、結局《回復薬》を幾つか買付け、後は初期体防具《布のチュニック》を下取りに出した上、全財産をはたいて《革のコート》に変えるくらいしかすることはなかった。
ちなみに体防具系は大きく分けて『重鎧』・『軽鎧』・『法衣』の三種存在し、『重鎧』系は物理防御を、『法衣』系は魔術・属性防御を重点的に強化し、『軽鎧』系はその中間に位置し、《革のコート》は『軽鎧』に分類される。
初期のキャラメイク時に回避重視にステータスボーナスを振り分けているリューグにとって、『重鎧』は名の通りの重量と大きさが動きを阻害するため装備対象外の代物だ。物理防御は多種の防具に比べて圧倒的に伸びるが、AGLにマイナス補正がかかるのでAGLを重要とする回避系PCにとっては文字通りの足枷となる。
ゲーム時代からそうであるように、現実のリューグのプレイヤーである日口理宇自身が『防御』よりも『回避』に重きを置く人間であるため、そこそこの防御力を得られ、なおかつ動きを阻害せず、さらに魔法耐性を上げる『軽鎧』はこの上なく望ましい防具だった。
所持金のほとんどを代償に装備を変えたリューグが古都ユングフィから出て最初にしたことは、MMORPGである〈ファンタズマゴリア〉におけるもっとも初歩的な目的であり、同時に最大の醍醐味――モンスターとの戦闘である。
そして、それが今の状況では最も初歩的にして最も恐ろしい事象であることを思い知った。
古都ユングフィ周辺に存在するモンスターと言えば、G級の獣人系モンスターの《コボルト》。G級子鬼系モンスターの《ゴブリン》。そしてG級不定形系モンスターの《スライム》の三種。
そしてリューグが遭遇したのは、獣人系モンスターのコボルトだった。三種のモンスターの中では少しばかり強く設定されているが、それほど手こずるような相手ではない――此処がゲーム時代の〈ファンタズマゴリア〉であったならば、だが。
――結果的にいえば、ゲーム時代ではたかがコボルトと侮っていた相手に、リューグはコボルト一体を倒すのに数分もの時間を要することとなった。
かつてEVD越しに見ていた世界で、EVD越しに相手をしていたはずのモンスター。コントローラーのボタン一つで攻撃し、初期の頃でも武器による通常攻撃二、三発で倒せたはずのモンスター相手に要する時間ではない。
ボタン一つで攻撃行動をとってくれる、ゲームの時のようなシステムアシストが通常攻撃には存在しない。攻撃するのも、どのタイミングで、どのような手段を用いるか――それらすべてを自らの頭で考え、決定し、行動しなければ何も起きない。
つまりは現実世界においての実戦と何一つ変わらないということ。祖父との稽古をしていた時のように、自分の腕一つでどうにかするしかない――そういうことだった。
だが、幾ら現実で祖父から古武術の指南を受けていたとはいえ、理宇自身に実際の命のやり取りを前提とした戦闘経験などあるわけがない。
ゲームなのだからそう気にすることはない――そう考えるのは簡単だが、五感を通じて感じる現実感と、コボルトが剣を振り上げた瞬間に感じた死を濃厚な気配に、リューグはとてもじゃないが、今いるこの場所がゲームの中だと割り切ることはできなかった。
コボルトの容赦のない攻撃に対し、リューグは死に物狂いで抵抗して、相手の攻撃の間隙を縫って剣を叩き込みなんとかというレベルで倒すことに成功はした。
その際に剣を通じて感じた肉を切り、骨を断つ感触。
切り裂いた腹から噴き出した血飛沫に、コボルトの断末魔。
それが何とも言えない後味の悪さを残した。
絶命して数秒の後、光の粒子と化して霧散していったコボルトの死体があった場所には素材アイテムが残されていたが、正直拾っている余裕はなかった。
リューグを襲ったのは、モンスターを倒した高揚感などではなく、生き物を殺したという焦燥と、それによって生じた嘔吐感。モンスターだとか、敵だとか、死なないためだとか、そんな発想を考えている暇はなく、リューグは膝をついて剣を落とし、震え定まらぬ右腕を左手で力の限り握り締めて、震えを抑えることに必死になった。
それからしばらくはその繰り返し。
襲ってくるモンスターを切り伏せ、倒すそのたびに、剣を握る手に力が失しなわれたから。
(なんなんだよ……此処は)
木に背を預けながら、リューグは全身から力を抜いて吐息を洩らす。
「たかがゲームのはずだ。なのになんだよ、この生々しさ……勘弁してくれよ……」
剣を脇に落とし、その剣を握っていた手を握り、開き、また握って開く。その動作を幾度か繰り返し、リューグはその腕をだらりと落とす。
「わけ……わかないよ」
吐き出すように囁かれたその言葉は、リューグの今の心情そのものだった。
「せめてフレンドリストが生きててくれれば、向吾に連絡することもできるのに……」
リューグは友人の名を口にしたら頭上を仰ぎ、ステータスウィンドウを開く。そこにはフレンドリストという欄こそ存在しているが、ステータスも装備も所持アイテムもすべて初期化されている状態のリューグの、元々そんなに多くはなかったフレンドリストも当然のように白紙化されている。
以前ならSM一つ送るだけで連絡を取り合うこともできたし、向吾はリューグ(理宇)の現実での友人でもある。いざとなれば携帯を使って電話かメールを送ればすぐに所在を確認することができた。
だが、理宇は今リューグとしてこの〈ファンタズマゴリア〉の世界にいるのだ。この世界には携帯なんてものは存在しないし、そもそも彼が今この〈ファンタズマゴリア〉にいるのかすら不明だ。
帰る場所もなく、
頼れる者もなく、
何をすればいいのかすら分からない世界で、リューグは空を仰いだ。
「ゲームの世界……ね。一度は夢見たことあるけど、実際に体感してみると……大していいことないな。むしろ強制サバイバルすぎる……」
実際、リューグの置かれている立場は強制サバイバル以外の何でもなかった。
「剣と魔法の世界――ね」
自分の置かれている立場。今ある世界は、きっと現代の少年少女が一度は夢見た異世界物語に類似しているだろう。
自分が主人公になって、世界を救う大冒険を思い描いていたはずだ。
だが――現実にその立場になれば、そんなものは幻想だと知るだろう。
現実はいつだって残酷で、不条理で、優しくないのだから……。
「よっこらせ」と呟きながら、リューグは剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる。そして手に持つ《ショートソード》を握り直しながら、ガックリと肩を落とした。
「しばらくは……これに慣れないとな」
呟き、リューグはひたすら戦闘の感覚に慣れるため――かつてのエンカウントシンボルであるモンスターを探して歩き出した。
◆ ◆ ◆
――数時間後。
「……迷った」
すっかり夜闇に包まれた森の中で、リューグは太い木に寄りかかりながらうなだれた。
僅かだが戦闘の感覚に慣れを感じ、ついゲームの時と同じようにエンカウント率がわずかに上がる森の中に入り込んだのが間違いだった。
――遭難である。
「まさか地図ウィンドウまでないなんてな……」
自分のステータス欄を見て、かつてあったはずの地図閲覧機能がなくなっていることに今頃になって気づいた自分の愚かさを自責しながら、リューグは重い足取りで森の中を彷徨っていた。
ついつい此処が〈ファンタズマゴリア〉であるという認識がある故に、EVD越しにゲーム画面を見ていた時の感覚で行動したのが完全な失敗だ。
今は安全な自分の部屋から画面越しの異世界をキャラクターメイクで作ったPCを、コントローラーで操り冒険していた時とは違い――今はPCの姿こそしているが、その四肢を動かし、五感で世界を認識している感覚意識は自分自身のものなのだ。
「地図……買えってことか」
ぐっと拳を握り、改めて現状の理不尽さを再認識しながら、リューグはアイテムウィンドウを開いてそこに収納されている一覧を見た。
慰み程度の回復薬が幾つかあるだけの欄を凝視し、そして再び項垂れる。
すると、
ぐぅぅぅぅぅぅ……
「うぐ……」
下腹部から鳴った音に、リューグはバツが悪そうに顔を顰める。情けないなと自重気味に口角を釣り上げながら、リューグは現状の不安要素の一つに眉を顰めた。
ゲーム時代ではまずあり得なかった現象の一つ。それが空腹である。
当然と言えば当然だ。如何にリアリティの高い世界を垣間見ていたといっても、所詮はゲーム画面。プレイヤーは空腹を覚えればゲームからログアウトして現実で食事をする。
しかし、今は違う。
どんな理由はあれど、実感した空腹は間違いなく本物だった。
食事をするのすらご自由にと来たものだ。ありがたくて涙すら出てきそうになるのを必死に堪え、リューグはどうやってこの飢えをしのごうか試行錯誤する。
別に一食二食抜いた程度では死にはしないだろうが、状況が状況なだけに出来るだけ空腹でいるのは避けたかった。
現実世界の自宅自室でゴロゴロするような状況ならともかく、右も左も分からないような極限状態である今は、ほんの少しの疲弊すら命取りになりかねない。
野兎の一匹でも出てくれれば、どのような――それこそ他者が見たら卑劣と罵倒されそうな手段を労してでも捕まえて食ってやろうというのに、不幸にも先ほどからモンスターはおろか、獣の気配の一つも存在しやしない状況だ。
狩れる物なんて、何処にもないのである。
溜め息交じりにアイテムウィンドウから回復薬を取り出す。選択すると同時に光の粒子がリューグの手の内に集束し、やがて一本の瓶が顕現する。薄水色の液体が揺れるその瓶を見つめ、わずかの逡巡を経た果てに、空腹をごまかすようにその瓶の中身を口に含む。
僅かな酸味――言ってしまえば薄いレモン味のようなその液体を微妙な表情で嚥下しながら、再び何処へと知らぬ彼方へ向けて歩を進めようとしたその時、
「―――――ん?」
微かだが、何かの音が――声が、リューグの耳朶を叩いた。
届いた音は二つ。
ひとつは、獣の走る音。
ひとつは、人の走る音。
◆ ◆ ◆
暗んだ森の中を、少女が一人走っていた。
金か茶か判断に迷う色をした、肩まで伸びた癖のない髪と、同じ色の瞳を持つ少女。年の程は十代半ば。動きを阻害しない絹で出来た白亜の上着に、同色のズボンは脛のあたりを皮で補強してあり、その腰にはゆったりとしたスカートが巻かれている。腰には剣のない鞘が吊るされていた。見たところ収まるべき剣も手にしていない。何処かで落としたのか、あるいは壊れて捨てたのか。
その少女が息も絶え絶えといった様子で、必死に後ろに気を配りながら木々をかき分けて走る。
その耳には幾つもの足音。二足歩行のものではない。四足の――獣の早足だった。
人と獣ではそれだけで足並みが違う。人間の一歩に対し、獣はその間に数歩歩みを進めて来る。まして走っているのならばなおのこと。人間の瞬発力で獣の歩みを振り切るのはほとんど不可能に近い。
まして今は昼ではなく夜間である。夜目の利かない人間に対し、獣は鼻で獲物の行方を追尾する。
獣は背後に迫っていた。足音が耳朶を叩く。
「っ!?」
少女は咄嗟に身を屈めた。瞬間、その頭上を獣が飛び越えていき、その爪牙が虚空を刈った。
だが、獣は一匹ではない。最初に一匹に引き連れられるように現れた影は五つ。合わせて六匹の獣が少女を囲んでいた。
「くっ……」
悔しげにその口元が歪む。しかし、少女の後悔など獣たちには関係なかった。ただ目の前にある獲物を仕留めることにのみ意識は向けられる。
抵抗する術はない。
すでに手にしていた剣は失っている。自分の命を永らえさせる手段は疾うに潰えていた。
考えるまでもない絶対絶命的な状況である。
少女にできるのは、せめてこのような状況であろうとも決して自分が挫けることのないように目を瞑るだけ。
そう思って目を閉じようとした――その刹那、一際大きい草を掻き分ける音と共に、人影が飛び出してきた。
獣たちが一斉にその影へと注意を向け――その次の瞬間には一匹の獣が閃いた銀光によって吹き飛ばされる。
閃いたのは剣だ。それほど長くもない、武器屋に行けば幾らでも並んでいる、有り触れた一本の片手剣。
乱入者はその剣を手に獣を一匹吹き飛ばすと、息継ぐ間もなく地面を蹴って別の獣へと飛びかかって右足を振りあげ、その横っ腹に蹴りを叩き込んだ。
「ギャイン!?」という悲鳴を上げて獣が吹き飛び、太い木の幹へとその全身を強打する。
乱入者の快進撃は続く。
蹴り上げた足の勢いを利用してそのまま身を反転させると、彼はそのまま手にする剣を水平に構えて疾駆すると、少女のすぐ傍らで忘我する獣目掛けてその剣を突き放った。
剣風が横を勢いよく駆け抜け、一撃を浴びた獣はまたも悲鳴を上げて地を跳ねた。
当然ながら、一瞬のうちにして同胞が倒されていくのを見てほかの獣たちが警戒を強め、少女と乱入者から距離を取るように後ずさる。
その獣たちに向けて、乱入者は油断なく剣を構えながら言った。
「退け……そうすれば命は助かる――もっとも、僕の言っていることが分かれば、だけど」
乱入者の声は、若い男のものだった。暗闇と静寂の中でよく通るその声に、少女は思わず息を呑んだ。
こんな辺鄙な地へ旅人が来ることすら珍しいというのに、それが壮年や老人などではなく、若い男だという事実に少女は驚きを隠せずにいた。
と同時に、さっきまで雲に隠れていた月がその顔を覗かせ、同時にその月明かりが辺りを照らすと、少女の驚愕は一層大きいものへと変わった。
月明かりを受けて浮かび上がった乱入者の姿は、若い男だった。どうみても二十代ではない。まだ十代の若い青年といった雰囲気の軽装の剣士が、鋭い眼光で獣たちを睨みつけている姿が浮き上がり、少女は思わず呆けたように口を開いて、その青年を見上げる。
青年の視線は獣たちへと注視していた。僅かな間もこちらに向けることはないほど、彼の早急色の双眸は獣たちを捉える。
決して視界から逃すまいとするかのように、その動きの機微の一つも漏らすまいとするように――彼は右手に握る剣を片手正眼に構えたまま獣たちを静観する。
その時間は一体どれほどだっただろうか。
一秒か。十秒か。あるいは一分以上か。実は一秒にも満たない短時間だったのかもしれないし、十分もの長時間だったのかも知れない。そう錯覚するほど、この一帯の空気は緊張感に満たされていた。
そして――勝ち目がないと悟ったのだろうか。獣たちは低いうなり声を残し、尻尾を巻いて去っていく。姿が消え、足音が遠退き、気配が感じられなくなった頃、少女は大きく息を吐いてその場にへたり込んだ。
ずっと緊張続きだったのがようやく終わったのだ。それはもう脱力だってしたくなる。
それは青年のほうも同じだったのだろう。彼も獣たちが見えなくなると嘆息一つ洩らして腰の鞘に剣を収め、険しかった表情も解けて穏やかなものとなると、彼はここに着て始めて視線を少女へ向けた。
端正な顔立ちをしたその青年。灰色の髪の間から覗く早急色の瞳が少女を見据え、彼はふっ……と口元を綻ばせながら手を差し出し、
「大丈夫かい?」
そう尋ねてきた。
自分でも単純だな、と少女は思う。だが、それはある種仕方のないことなのかもしれない。
何故なら、自分の窮地にさっそうと駆けつけてくる若く格好いい剣士が現れるというシチュエーションは、年頃の少女なら誰もが一度は夢見るものなのだから。
◆ ◆ ◆
結果として、リューグは助けた少女――リンセと名乗った少女の案内でなんとか近隣の小さな町へとたどり着くことが出来た。
逃げる足音と追跡する足音を耳にした瞬間、ほとんど反射的に駆け出したのだが、正直なところ間に合ったのはギリギリのタイミングだっただろう。
後数秒遅れていたら、彼女はあの獣たちに殺されていただろう。そう考えると、今でもぞっとする。
しかし、その命の危機に瀕した本人はと言うと――
「貴方、随分腕が立つのね? 一体何者よ?」
と、随分とお気楽な質問をリューグへと投げかけていた。
リューグは呆れた様子でかぶりを振り、肩を竦める。
「ただの旅人――で、満足してくれると嬉しいんだがね」
「それでごまかせるとでも思ってるの? あの獣たちが何なのかも知れないで言ってるの?」
「いいや。実際、暗くて見えなかったし」
事実だった。今のリューグは、かつてMMORPG〈ファンタズマゴリア〉でも屈指の実力を持っていた時のようなステータスもスキルも保持していない。そのため、《策敵》スキルのスキル熟練度だってほとんどゼロに等しい。
月明かりすら雲に陰っていたあの状況では、《索敵》スキルなしのリューグではモンスターを識別することすらできなかったのだ。せいぜい足音と息遣いから、四足歩行の獣程度にしか認識していなかったのだが、
「あれ、《ファイア・ウルフ》よ?」
その名を聞いた瞬間、リューグは目を点にして言葉を失い、文字通り顔を蒼くした。
ファイア・ウルフと言えば、初期タウンである古都ユングフィ周辺に出現するモンスターとは比較にならない、初期としてはかなり上位に位置するステータスを持つモンスターだ。ユングフィから少し離れた森林領域などでよく遭遇する獣系モンスターである《ウルフ》の上位種であり、火属性補正を施されていることが特徴だ。他に通常攻撃に火属性ダメージが追加され、遠距離からの火属性攻撃である《ファイアブレス》を持っているのが特徴である。
そのためMMORPG〈ファンタズマゴリア〉がサービスを開始して間もない頃、このファイア・ウルフと遭遇して敗北したプレイヤーは山ほどいたくらいである。
(よく生き残れたな……僕)
改めて、自分の後先見ない行動に背筋が凍る気分だった。そしてそんなリューグの様子を見て、今度はリンセのほうが呆れたように眉を顰めた。
「その様子だと、気づいていなかったみたいね……」
「言葉の端々に棘を感じるね。まあ、そう思われても仕方がないけど……」
ごまかすように微苦笑しながらリューグはあらぬ方向に視線を泳がせる。同時にその胸中で驚嘆するのだ。
彼女――即ちリンセはAIN――正式名称は|AI(自立型人工知能)‐NPC。人工知能によって動くノン・プレイヤー・キャラクターのはずだ。PCならばそもそもリューグに何者などと問うことはないし、あの程度の腕前で凄腕などとは勘ぐりはしない。
だが、それならば何故? とリューグは胸中で自問する。
どれだけ優秀な人工知能を搭載していようと、彼女は所詮NPC。AI搭載と言えど、結局はコンピュータで制御されたアルゴリズムに従って数万通りある予測動作をランダムに行っているだけのはず――なのだが、
(とてもじゃないが……そうは見えない、よな)
ちらりと、リューグは隣を歩く少女を盗み見る。
その挙動を始め、先ほどの話しぶりを見る限り、とても彼女がコンピュータ制御されただけの人工知能とはとても思えない。
「さっきから視線が痛いんですけど? 私の顔に何かついてるの?」
「いや、ちょっとね……」
適当に言葉を濁し、リューグは大きくため息を漏らした。
正直、これ以上考えていても意味はないのは確かだ。彼女がAINであるか否かなど、この場においてそれはどちらでもいいことである。
むしろ問題は、
「……腹減った……」
空腹である。これまで口にしたのは実質さっき飲んだポーションだけ。
思わず腹を抑えてしまうリューグを見て、リンセは肩を震わせ噴き出した。当然ながら、リューグはバツが悪そうに顔を顰める。
そんなリューグに向け、リンセは必死に笑いを堪えながら言った。
「まあ、もうすぐ町につくからそれまでの辛抱よ。ついたら御馳走するからさ」
「……是非招待にあずかりますよ」
少女の言葉に、リューグは苦笑してそう応じたのだが――
赤々と燃え上がる町の姿を見た刹那、飯は諦めるべきなのだろうな、とリューグは胸中で泣いた。
◆ ◆ ◆
炎の中を駆け抜ける少女の背を負いながら、リューグは周囲に視線を巡らせた。
轟々と燃え上がる炎に、倒壊する建物。逃げ惑う人々。そのどれもが本来ならデジタルコードであるはずなのに、揺れる炎の熱も、肌を刺す熱さも、耳に次々と飛び込んでくる悲鳴もすべて、それがデジタルコードで出来たものだとは到底思えないリアリティを醸し出している。
自分は本当にゲームの世界に迷い込んだのか? そう予想した自分の思考すら怪しんでしまうほどの現実が目の前にある。
だがそれ以上にリューグを驚愕させたのは、少女を追ってたどり着いた先――そこで繰り広げられていたのは、複数の鎧に身を包んだ戦士たちと戦っている、人ほどの大きさを持つ異形たち――
(モンスターだって!?)
リューグは目を剥き、その場で思わず足を止めた。
今リューグがいるこの場所は、言ってしまえば人々の住む場所――即ち《街》に位置する。
《街》。
MMORPGにおいて――いや、ほとんどあらゆるゲームにおいて、人の集まる《村》を始めとした《街》や《都市》は、プレイヤーの安全を確保する非エンカウントエリア――『モンスター戦闘が発生しない最も安全な場所』というのが常識であり、最も優先されるべき大前提が存在するし、実際MMORPG〈ファンズマゴリア〉でも《街》はモンスターが侵入してくることのない場所である。
しかし、今目の前に存在するのは、間違いなくMMORPG〈ファンタズマゴリア〉に存在するモンスター――それもD級悪魔系モンスター、三叉の矛を手にした子供ほどの体躯を持つ悪魔――《トライデント・リトルデーモン》である。
「冗談じゃないだろ……ユングフィ周辺だぞ? なんであんなモンスターがこんな場所に、それもフィールドにいるんだ?」
トライデント・リトルデーモンは本来フィールドエリアに出現するモンスターではなく、一部の迷宮の中にのみ出現する部類のモンスターである。しかし、現状トライデント・リトルデーモンはこうしてフィールドエリアに現れ、よりにもよってモンスターの侵入するはずのない《街》を襲撃しているではないか。
リューグは自分の中にある大前提が崩れている事実に忘我する。しかし、その前提が崩れる可能性があることにすぐに気づいた。
(――《侵略系クエスト》……なのか?)
侵略系クエストというのは、その名の通り『ある一定の領域に特定の存在が進入および被害を及ぼすのを阻止する』というクエストである。
もし、現状がその侵略系クエストに類するイベントの途中だというのなら、確かにこの町がモンスターに襲撃されている理由も説明がつく。
しかし、ここでひとつ問題があるとすれば、それはリューグの記憶の中に存在する侵略系クエストの中に、このようなクエストは存在しなかった――ということである。
リューグのプレイヤーである日口理宇は、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉の最古参プレイヤーの一人である。βテスト時代からこのゲームをやりこんでいたリューグにとって、幾度となく繰り返されたアップグレートによって追加された無数のクエストは勿論のこと、理宇は毎日一〇〇〇以上アップされていた様々なプログラムのほとんどを記憶していることを自負している。
その自分の記憶場の中に、このユングフィ近郊に存在する無数の町村で発生するクエストの中に、このようなクエストは存在しなかったはずなのだ。
故に、リューグの困惑は大きい。
この異世界は、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉であるというリューグは推測をしているのだ。
しかし、目の前の現象はリューグの既知とするクエストには存在しないものだ。自分の中の予測と、それによって得ていたわずかな精神的安定が揺らぎそうになる。
思わず、目の前にある戦士たちと異形の戦いにぞっと背筋が凍る気がした。
もし、彼らの戦いに巻き込まれて自分のHPがゼロになったら――その時自分はどうなるのか。
それは、この世界に来てすぐに考えた、最も考えたくない可能性。
――HPゼロ=死。
ずっと昔。
それこそ――MMORPGというゲームジャンルが確立した時から流れ続けている都市伝説。
――MMORPGの中に意識を取り込まれ、そこでHPがゼロになったら現実でも死ぬ。
誰がともなく言い始めた、あらゆるMMORPGに付随する噂であり、あったら面白いな、といわれ続けてきた与太話である。
しかし、今リューグは現実に意識をゲームの世界らしき場所に取り込まれていて、日口理宇は自身のPCであるリューグとして今こうして活動している。
なら、当然それを恐怖しないわけがない。
原始の記憶から人間の中に存在する、最も忌避したいものであり、決して離れることのない、恐るべき事象。
死は、文字通りの終わりであり、誰もが忌避しようとする始原の恐怖だ。
そしてリューグにとって、それは恐怖の対象であるのと同時に、自分にとって罪の代名詞に等しいものだ。
決して逃れることのできない、幼い頃に犯した許されざる行いの終結。
だから、
――だから
炎の影に泣きながら彷徨うその小さな姿を見た瞬間、リューグは自分の中に生じた死の恐怖すら忘れて飛び出した。
考えるよりも先に足が動き、その小さい姿の元へと駆け抜ける。敏捷度パラメータからは想像もできない、スタートダッシュからの超疾走。影との距離は瞬く間に縮まり――その影の――小さな女の子のその後ろに新しい影を見た瞬間、リューグは苦々しげに舌打ちをしながら後腰に吊るす剣を鞘走らせる。
何処から現れたのか、新しいトライデント・リトルデーモンが姿を現す。悪魔は足元で泣き喚く少女を見下ろして「キシシ……!」と憎たらしい笑いを上げてその手にする三叉槍を大きく振り上げ、その矛先を少女へと振り下ろそうとする。
――させない!
胸中で叫び、リューグは一層強い踏み込みで異形へと飛び込む。飛び込みながら、リューグは脳裏に表示したスキル・ウィンドウの中から昼間のうちに新しく習得したアーツ・スキルを発動させる。
片手剣下位アーツ・スキル《スティンガー》。
刺突・突進系に分類される、割と初期に習得できる片手剣の下位アーツ・スキルが発動。スカイブルーのライトエフィクトを纏った剣を構え、リューグは七メートル近い距離を一気に駆け抜けて悪魔系モンスターへと剣撃を叩き込んだ。
爆発音にも似た音と共に剣が異形を捉え炸裂する。突進の勢いに加え、モンスターが攻撃モーションである状態で攻撃を叩き込んだことにより『Counter』判定が生じ、トライデント・リトルデーモンのその小柄な体躯は大きく吹き飛んで焼けた建物の中へと瓦礫交じりに倒れこんだ。
モンスターが倒せたかなど確かめもせず、リューグは今も泣き喚く女の子を掻っ攫うように脇に抱えてその場から離れようと駆け出した。
瞬間、ズン! と激しい震えがリューグを襲った。
思わず駆け出す足を止めてその震源を探るように視線を辺りに廻らせ――そしてそいつを見つけて絶句する。
「……嘘……だろ?」
現れたそのモンスター。D級分類。しかしその強さはC級にも及ぶといって過言ではない大型巨鬼系モンスター《バーバリアン・オーガロード》。
真紅の表皮を持った巨躯の異形の姿が、夜闇の中にゆれる炎に照らされ浮き彫りにされていた。
巨鬼系モンスターは総HPが圧倒的に多く、物理攻撃力、物理防御力共に高いポテンシャルを宿しているのが特徴である。更にいえば、その手にする武器から繰り出される一撃のダメージは恐ろしいほど高い。今のリューグのステータスでは、一撃掠るだけでも即死してしまうかもしれない。
視界に捉えられる前にこの場を離脱しないとまずい。そう判断して駆け出そうとしたリューグだが、それよりも早く、オーガロードの双眸が爛々と輝き、リューグを見据えていた。
ヤバイ! と本能が警鐘を鳴らす。同時にオーガロードが動いた。その巨躯からは想像もできないような俊敏さでリューグ目掛けて瞬時に距離をつめ、その手に握る得物を――片手戦斧を振り上げる。
咄嗟に地面を蹴るが、子供を抱えていることで筋力パラメータが不足して支障をきたし、自分がイメージした跳躍距離ほど飛べなかった。斬撃が目前へと迫り、リューグは思わず自分の死を予感する。
しかし、リューグの身を切り裂こうとした片手戦斧を、横から飛び込んできた金色の閃光が弾き飛ばした。
目の前で生じた現象に、完全に我を忘れたリューグはその場に屈みこんだまま目前の空間を見据えたまま双眸を瞬かせる。
そこに立っていたのは、白銀の外套に身を包んだ長身の剣士だった。
金か茶か判断の迷う色の髪に同色の瞳。見た目二十代前半か半ばくらいといった程度の容貌の、騎士然としたその剣士は、口元に緩やかな微笑を浮かべてリューグを見た。
――下がっていてくれ。
無言の微笑を通してそう言われたような気がし、リューグはただ一度頷いて見せ、脇に抱えた子供と共にその場を離脱する。
瞬間、剣士の姿が掻き消えるように瞬動した。
同時に轟音が三つ。
斬撃。打撃。衝撃。
飛び退りながらその一瞬を垣間見ていたリューグは、あまりの衝撃に言葉も失ってその情景から目をそらせずにいた。
白銀の剣士は、リューグがその場を離れるのと同時にバーバリアン・オーガロードへ一足飛びで肉薄すると、間隙も生じぬうちに剣を振るい、斬撃が標的を捉えると同時に距離を零へ詰め、そのまま鋭い蹴足を異形の胸元――致命傷打撃箇所と叩き込み、更に着地すると同時に剣を地面へ突き立て、巨大な衝撃波を放ってオーガロードを中空へと打ち上げたのだ。
一連の動きの機微のひとつひとつが完成された挙動。
そして隙の生じぬ、その上で敵を徹底的に殲滅せんとする猛攻の激しさと凄まじさに、リューグは一介の剣士として畏敬の念を覚えるほどだった。
剣士とリューグが見上げた先――空中へ打ち上げられたバーバリアン・オーガロードの緑色のHPバーがみるみる減少していき、危険を示すイエローを飛び越え、そのHPは瞬く間にレッド――即ち致命的領域にまで下がった刹那、剣士が爆発じみた踏み込みで跳躍する。
すべてが、一瞬にして終わる。
飛び上がった剣士の放った一閃は、あたかも巨大な斬撃と化して異形の巨躯を輪一文字両断した。
純粋な、何処までも純粋かつ鮮やかな剣閃が弧を描き、その先にいるオーガロードを問答無用に殲滅する。
最早、リューグはただ圧倒されるしかなかった。
斬撃によって両断されたローガロードは断末魔を上げる暇もないまま、甲高い破砕音を響かせて爆散――無数のポリゴン片を炎に照らされ赤黒く染まる夜空へと撒き散らして消滅した。
そして、爆散したポリゴンの本流の中から金色の軌跡を引き連れて騎士が地へと降り立つ。
その様子を、リューグは言葉もなくただただ目を瞬かせて、呆然としたまま眺めるだけに徹していた。
◆ ◆ ◆
町の中央には、この町の行事などで利用する集会場がある。数時間前まで繰り広げられていた戦闘の後にこの場に連れてこられたリューグの前に立つのは、あのバーバリアン・オアーガロードを一瞬のうちに殲滅して見せた騎士だ。
「緊急事態故に、挨拶が遅れてしまったね。俺はレオンハルト・オーガスト。レオンと呼んでくれ」
そう名乗ると同時に差し出された手を、リューグはほとんど反射的にその手を取り、名乗った。
「りゅ、リューグ! リューグ・フランベルジュ……僕も、リューグで構わない」
フランベルジュという姓は、別にリューグが考えたものではない。MMORPG〈ファンタズマゴリア〉には《自動姓名システム》というキャラクターメイク時、ファミリーネームを自動的にランダムに作り上げてキャラクターネームに組み込む、特に意味のないおまけのような使用が存在しており、リューグに与えられた姓名が《フランベルジュ》であり、リューグはとっさにそれを名乗ったに過ぎないのだが、名を聞いたレオンハルトは「ほぅ……」と面白そうに眼を見開いた。
「フランベルジュか……古い言葉で『歩み続けるもの』という意味だな」という彼の言葉に、リューグは思わず「え、そうなんですか?」と驚きに目を瞬かせる。
リューグ――理宇のいた現実において、フランベルジュと言えば西洋に存在する波打つ刀身が特徴の両手長剣の名であり、その名の由来はフランス語の『炎』であったはず。
少なくともレオンハルトの言うような大仰な意味に直結するような名詞ではなかったはずと首を傾げるリューグに、レオンハルトは穏やかな笑みと共に言う。
「まあ、知らなくても無理はないだろうな。今ではほとんど使われなくなった、本当に古い言葉だ」
「……その本当に古い言葉を、どうして貴方は知っているんですか?」
それは当然の疑問だった。それを尋ねられた当人も理解しているのだろう。だからレオンハルトはすぐに答えを返した。
「父が読書家だった。そして酷い収集癖でもあったんだ。その父の残した書物の中に、古い言葉の辞典があった。私も興味本位で読んでいたのだが、ついついのめり込んでしまって、今でも覚えている――ということだよ」
自嘲気味に肩を竦めた後、レオンハルトは話を切り替えるようにその微笑を浮かべていた表情を一変させ、険しいものへと変えた。俄然、リューグのほうもそれ相応のものへと変わる。
こんな場所にわざわざ自分のような一介の旅人――ということにした――を呼び出したのは、決して世間話をするためではないはずだ。
「世間話はこの辺りにしておこう。此処に君を呼んだのは、頼みがあるからなんだ」
「そんな気はしてた」と、わざとらしく肩を竦めて苦笑して、リューグはレオンハルトの後に続く。
そんなリューグの態度に、レオンハルトはまるでその反応を予想していたように肩を震わせ、そして言った。
「まあ……単刀直入な話、君の力を貸して欲しいんだ」
「僕程度の力を借りるほど、貴方が困っているようには思えないけど?」
事実を口にする。実際、今のリューグはほとんど初期のパラメータのままなのだ。ゲーム時代のリューグであるならともかく、今のリューグは〈ファンタズマゴリア〉を初プレイして間もない頃のような乏しい能力しか持たない。そんな自分の力を、あのバーバリアン・オーガロードを瞬殺するような騎士の微力になるとすら思えない。
しかし、そんなリューグの胸中を知ってか知らずか、レオンハルトはその言葉を否定するようにかぶりを振った。
「そう謙遜するな。君は、君自身が思っているほど弱くはないはずだ」
「それこそ、買い被りってやつだよ」
微笑むレオンハルトに対し、リューグは呆れたように眉を顰める。しかし彼はにこやかに笑って告げる。
「強さとは、何も戦える力を持っていることを刺す言葉ではない。違うか?」
それは卑怯だ、とは流石に言わなかった。
ぐっと言葉を口にするのを堪えるリューグを見て、レオンハルトは「すまない。意地が悪かった」と微苦笑した。
どうにも目の前の騎士は、自分を戦力として迎えたいのだろう。
しかし、元の――ゲーム時代のリューグならともかく、今の自分のステータスは殆んど初期のものに近い。此処に来るまでに若干は成長していると言っても、現状ではこの村を襲っていたモンスターを相手に戦うのは困難なものだ。
「だが、やはり君は強いと――私は思う」
そんなリューグの胸中など露知らぬはずのレオンハルトは、部下らしき数名の騎士に指示を伝えた後、振り返りながらにこりと口元に笑みを浮かべていた。
何故? 言葉の代わりに首を傾げて見せると、金髪の騎士は困ったように肩を竦めて、
「君はあの時、見ず知らずの子供を助けるために必死になっていた。その心が、弱いわけがないと、私は思う」
「それは……」
違う、と言いたかった。
ほとんど無意識に体が動いていただけだ。目の前で、たとえ見ず知らずの人間であっても、無辜に命が奪われるのを甘受できない過去があるだけ。
善意でもなんでもない――ただの代償行為なのだ。
故に、理宇の行動は咎められこそすれ、賞賛されるものではない。
……無論、その理由を口にすることはない。だから、リューグはあえて答えを濁し、代わりに苦笑を浮かべて問うた。
「……初対面の人間を相手に、どうしてそこまで?」
信用できるのだろうか、というのはあえて言葉にしなかった。
しかし、レオンハルトにはその意味が通じたらしい。彼は楽しげに笑う。
「私が――いや、おれがそう信じたいんだよ。君は、目の前で困っている誰かを見捨てるような人間じゃない、とね」
予想していなかった騎士の言葉に、リューグは二、三目を瞬かせて彼を凝視し――やがて降参とでもいう風に溜め息を吐いた。
「お人よしですね、貴方は」
「よく言われるよ。でも、それでいいと思っている」
迷いのないその言葉。リューグはレオンハルトを見上げて……何故かとてもまぶし幾思えて、視線を逸らした。
自分にはとても真似できないな……そんな気がして。
でも、見習いたいとは思った。
だから……
リューグは腰かけていた椅子から立ち上がってレオンハルトを向くと、そっと右手を差し出した。
「微力でいいなら、力を貸すよ」
そんなことを口走ってしまった。
言ってから、言わなければよかったな……とも思ったが、それは後の祭り。
後悔は先には来ない。
だが、同時に思う。
此処で死んでも、きっと悔いはない。
そんなことを思いながら差し出したその手を見て、レオンハルトは本当に嬉しそうに表情を綻ばせて、
「ああ! ありがとう、リュー――」
差し出された手を取ろうとした、その瞬間だった。
何処からか凄まじい轟音が響き、レオンハルトの言葉を呑み込んだ。
◆ ◆ ◆
「リンセ、何があった!?」
集会場を飛び出したレオンハルトが、伝令所に駆け込んできたリンセを呼び止める。少女は息切れしているのも関わらず、肩を上下させながらそれでも騎士の問いに答えた。
「しゅ、襲撃です! 南から多数の敵影を確認! これまでで一番多いです!」
「本隊……というわけか」
得心が言ったように、レオンハルトは一人頷くと、続くように集会場から出てきたリューグを振り向く。
「レオン!」
「聞いての通りだ。君は避難する住民の護衛を頼む」
「アンタはどうする?」
「私はこのまま、隊を率いて迎え撃つ。どうやら――敵のほうも痺れを切らしたらしい」
「な……」
レオンから告げられた状況を理解し、リューグは言葉を失う。あのオーガロードですら主力でなかったというなら、一体敵の親玉はどんな上級モンスターなのか、リューグには想像もつかなかった。
そもそも、ユングフィから程遠くないこんな辺鄙な村に、モンスターの群れが攻め入ってくること事態、異常なのだ。
本来モンスターが絶対不可侵であるはずの《村》。そこにモンスターが侵入するということは、これは大掛かりな《襲撃クエスト》であるのは間違いないだろう。
しかし、長年理宇が親しんできたMMORPG〈ファンタズマゴリア〉には、そんなイベントは存在しなかったはずだ。
ましてや、バーバリアン・オーガロードなどと言うC級モンスターとなればなおのことである。
ユングフィ近隣で出現するモンスターの階級など、最高でもFが限界なのだ。なのに、現実にリューグが遭遇したモンスターはそれを遥かに上回っている。
最早何もかもが異常。自分の知りえる〈ファンタズマゴリア〉とは似て非なる世界。
――さて、何処までやれる?
自問自答が脳裏に過ぎる。
今の自分のステータス値は殆んど初期パラメータに等しい。これがゲームであるのなら、パラメータを成長させるまでクエスト進行を留めておけばいいが――それができるとは、とても思えない。
こんな夢とも現実ともつかない世界では、何をどうすればいいのか……自分の判断の正否すら定まらないのだ。もし間違ったらどうなるのか分からないような状況では、安易に選択することもままならない。
故に、レオンハルトの言葉は文字通り渡りに船だった。しかし、本当に彼の言葉通りにするのが正しいのか……それを決める判断材料が、リューグにはなかった。
「……分かった」
ただ、頷くことしかできない自分を歯痒く思いながら、しかしそれ以外の選択肢がない以上、そうするしかない。
リューグの返答に、レオンハルトは笑みを浮かべてこうべを垂れると、そのまま踵を返して走り出す。
その背に向けて、リューグは叫んだ。
「死ぬなよ!」
「無論だ!」
咄嗟の声に、しかし騎士はしっかりと応じて返すと、今度こそ振り返ることもせず周りの仲間を引き連れて走り去っていく。
その背を見送ると、リューグも遅れて走り出した。
自分に与えられた役目を果たそうと。
今自分にするべきことが、他に思いつかないから。
◆ ◆ ◆
「こいつは……一体どういう状況だ」
全身を漆黒の法衣で包んだその青年は、渋面――を通り越して、苛立ちを微塵も隠そうとしない不機嫌な表情のままそう誰にともなく呟いた。
深淵の如き暗闇を照らす真紅。炎が自分の周りを包み、悲鳴と轟音が不協和音を奏でる。
なんとも、不愉快だ。
長い銀髪を揺らし、青年は心の底からそう思った。ふつふつと湧き上がる感情を抱きするように舌打ち一つ。
逃げ惑う人々が視界に移る。そしてその後ろに追い縋るのは、異形の徒だ。
同時に、逃げる人々を遮るように、闇からのそり……と姿を現す子鬼共が「キキィ!」と嗤った。
悲鳴が再び。先ほどよりも大きく――より絶望に染まっているのが分かる。
見るに堪えない。
そう思った。
そう思ったから、黒衣の青年はゆったりとした動作で腕を持ち上げた。
その手に握られているのは鋼の塊。その手に握られる鋼の武具の表面を、鈍く……揺れる炎の光が反射する。
逃げ場を失った人々がその場にへたり込んだ。最早自分たちが助からないことを悟っての――諦念の表情が一層青年の不快感を加速させる。
何故諦めるのか。青年には理解できなかった。
今、この一瞬であれ彼らは生きている。生きているということは――まだ死んでいないということだ。
まだ死んでいないのに、生きることを放棄するなど、青年は心底理解ができなかった。
仕方がなし――とでもいう風に、青年が嘆息一つ。それに合わせて、鋼塊を握る青年の人差し指が――クイっ……と引き絞られた。
夜闇に――火花が咲いた。
同時にガァァァァァンという轟音が響き、何が空間を疾駆した。
夜の闇に紛れた鈍く輝く鉛の弾が、踊るように飛び跳ねていた子鬼の後頭部を見事に打ち抜く。
青年の視界に〈Back Attack〉〈Critical〉の文字が一瞬浮かんで見えた。
背後からの決定打。完全な致命傷だ。
それを証明するように、子鬼の身体が淡い光に包まれ――転瞬、爆発すると同時に鮮やかな光の粒子となって夜の闇を彩る。
そんな光景を無感情に見据え、青年は手にする鋼塊――銃の射線を動かし、次の標的を補足すると――再び人差し指を引いた。
銃爪が、引き絞られる。
再びマズルフラッシュの火花が夜の闇に弾け、銃声と共に銃弾が音速で飛ぶ。
撃ち出される前ならともかく、発射された後の弾丸を――しかも夜の闇の中で目視することなど、ただの子鬼如きにできるわけもない。
放たれた銃弾が、振り返ろうとした子鬼の側頭部を穿つ。着弾の衝撃で子鬼の身体が弾け飛ぶ。
此処でようやく、他のモンスターたちも異変に気付いたのだろう。取り囲んでいた人々のことを放置し、すべての視線が一斉に青年を射抜く。
敵愾心を取った。そう直感すると、青年は不機嫌そうだった表情に僅かな笑みを浮かべた。
口元がにぃぃ……と歪む。
銃爪を再度引き絞る。連続で四回。回転式弾倉の装弾数は六発。先の二発に合わせ、これで撃ち切りだった。
予備の弾丸はあるが……敵の数を考えれば弾がもったいないし、何より回転式弾倉では再装填に時間がかかりすぎる。
そう考えている間にも、子鬼と――後続の人狼が手に手に物騒な武器を携えて肉薄してくるのが見える。
このままでは銃は不利。別の手で迎え撃つ。
思考を切り替え、青年はアイテム窓を任意表示。手にする銃を仕舞い、アイテム欄をスクロール。
そうして装備する武器を選択――物質顕現化する。
光の粒子が青年の手に、あるいはその頭上に集束し、形を成した。
頭上に顕現したのは二冊の本。そして青年の手に握られているのは、柄頭に五〇センチほどの鎖が備わった、二本の投擲斧。
青年はその鎖を摑むと、そのまま両手に握る投擲斧をクルクルと振り回し――やがて日本の投擲斧は大気を切り裂き凄まじい風切音を唸らせた。
そして回転によって凄まじい勢いを得た左の斧を、迫ってきた子鬼に向けて徐に振り抜く。
ズバァァアン! と。およそ小さな斧を振り抜いたとは思えない破裂音が子鬼の頭部から響いた。
頭を失った子鬼が力なく地面に倒れ――やがて先に銃弾を受けた子鬼と同じように光の粒子となって消滅する。
青年は斧を振り抜いた勢いを殺さず、むしろそのまま勢いに乗って前へ踏み出し、今度は右の斧を叩き込む。
更にそのまま身を捻り、一回転しながら左右の斧を振るい――迫り来る子鬼と人狼を容赦なくその斧で抹殺する。
あっという間に、化け物の数が一〇は減った。そうしてようやく、青年は斧を振り回す手を止め、パシッ……と斧の柄を握り直してモンスターを一瞥。
「ふむ……」まるで周囲を飛ぶ煩わしい蚊を見るような視線。同時に、青年の頭上に浮いていた二冊の書物――魔導書を紅い粒子が取り巻いていた。
取り巻く粒子が渦を巻き、そして――虚空に突如描かれる魔法陣。
詠唱の終了。
青年にだけ分かる、術式の完成を知らせる合図が脳裏に浮かぶウィンドウで明滅していた。
ならばあとは、発動させるのみ。
必要なのは言葉。その術式の――正しき名を呼ぶこと。
「――ファイアボルト」
起動鍵語となる魔術の名を口にした瞬間、虚空に描かれた魔法陣が一層強い輝きを発した。
赤光が爆発し、同時に無数の炎弾が夜の闇に疾る。
虚空に弧を描き、紅の軌跡を描いた炎が偉業を呑み込み――爆発。
断末魔すら飲み込む爆炎の中、異形が光となって消滅していく。
「……状況終了」
ぼそり……と、そう口にした青年は、まるで何事もなかったかのように法衣を揺らす。同時に虚空を漂っていた魔導書も、その手に握られていた二振りの斧も、まるで最初から存在していなかったかのように跡形もなく消滅していた。
そうしてわずかばかりの溜飲を下げた青年は、手近にいた呆然と立ち尽くしている男に歩み寄り、「逃げてるところ悪いが、一つ答えて欲しい」と声をかけた。
そして、尋ねられた男が返事をするよりも先に、青年は次の言葉を――問いを、投げかかる。
「……灰色の髪に蒼い瞳の剣士を探しているんだが、心当たりはあるか?」
◆ ◆ ◆
周囲にあるのは、悲鳴。慟哭。怨嗟と、殺戮に、死体。そしてそれらで積み重なる屍の山――まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
これが戦場。
これが殺し合い。
それが目の前に広がっている。
「くそっ!」
感情に任せて叫びながら、リューグは逃げ惑う人々の間を縫うようにして走り――そして、最後尾で今まさに老婆へ切りかかろうとしたゴブリンの間に割り込み、抜剣。
金属と金属が激突する音が辺りに四散するように響いた。
全体重を込め、押し込むような勢いの刃を斜に受け流し、すれ違いざまにゴブリンの脇腹を一閃。
臓物が飛び散るかのように赤い光が吹き出し、耳の傍元で異形の絶叫。
そして――爆発。
無数のポリゴン片が千々に弾け飛ぶ中で、リューグは剣を振り抜いたまま「逃げろ!」と叫ぶ。
頷き走り出す老婆を尻目に、リューグは周囲へ視線を走らせる――間もなく、次の襲撃。
コボルトの槍。
迫り来る穂先を剣で撃ち落とす。更に撃ち落とした槍の柄を思い切り踏みつけ、半ばから破壊する。
僅かに、爛々と輝く瞳が見開かれたように思えるが、そんなこと注視している暇などなかった。
迷わず、その体躯に剣を叩き込む。肉を裂き、骨を断つ感触が叩きつけた刃から手にする握り柄へと伝播するのを感じる。
一瞬でも気を抜けば、目の前のコボルトのようになるのが想像できるだけに、リューグの集中力はかつてないほど高まっていた。
全神経を最大限に発揮し、自分に向けられる視線も、殺気も知覚するかの如く注意する。
――迷うな。
今は、生き延びることだけを考えろ。
彼らを逃げ延びさせることだけを意識しろ。
そう自分に言い聞かせなければ、初めての戦場が齎す恐怖と緊張で、恐慌に走りかねないことを無意識に理解しているからかもしれない。
呑まれたら――それこそ終わり。
この状況では、一瞬の油断が生死を分けるだろう。たとえ相手が無名のゴブリンやコボルトであっても、だ。
こちらは今、なんの回復手段もないのだ。せいぜいHP回復薬が何本かだけ。他には何一つ援護もなし。
孤立無援もこの上ないが、贅沢は言っていられない。
今こうしている間も、レオンハルトたちはこんな小物のモンスターなどとは比べ物にもならない上級モンスターと対峙している可能性が高いのだ。
もしそちらに加勢しようものなら、今の自分などものの数秒で絶命するのは明白。
(死ぬのだけはごめんだ!)
こんなわけのわからない世界で、理解の及ばぬ状況で、何も知らないまま無意味に死ぬなど、絶対に嫌だ。
そんなことでは、生き残った意味がないのだから。
ざっ……と地面を踏みしめる音が耳朶を叩き、振り返る。視線の先に立っていたのは、ゴブリンよりワンランク上の、鎧に身を包んだゴブリン――アーマード・ゴブリンだ。
黄ばんだ歯が並ぶ口をにたりと歪める子鬼の姿に、しかしリューグは臆することなく睨み据える。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!」
咆哮と共に剣を構え、脳裏に描くスキルウィンドウからスキルを選択。手にする直剣が青いライトエフィクトに彩られ――その剣を手に一歩、強く踏込む。
片手剣下位アーツ・スキル、《ハイランダー》。
下段からの渾身の切り上げ。深く身を沈め、勢いをつけて跳躍し、剣を振り抜く。切り付けた相手を上空に打ち上げる単撃が、見事アーマー・ゴブリンを頭上吹き飛ばす。
(まだ!)
此処で終わらない。
脳裏に描かれたスキルウィンドウが明滅する。そこにはスキル《ハイランダー》から枝分かれのように伸びた先で、二つのスキル名が彩られている。
――《連撃》。
下位のアーツ・スキルから連続してより上位のスキルへ繋げるコンボ。MMORPG〈ファンタズマゴリア〉の醍醐味ともいえるシステムは健在。
それを知った刹那、リューグは迷うことなく次なるスキルを選出――同時にリューグの手にする剣を、新たなライトエフィクトが包み込む。
片手剣中位アーツ・スキル、《エアーバニッシュ》。
中位アーツ・スキルの中では割と早い段階で覚える、空中にいる敵に対して放つ対空剣技。
ライトエフィクトに包まれた剣が、リューグの頭上をなぞるように弧を描く。剣閃と共に撃ち出された剣圧が、落下してくるアーマード・ゴブリンを真一文字に両断する。
断末魔を上げることすらせず、鎧に身を包んだ子鬼は花火のように空中で爆散し、光の粒子となって消え去っていく。
「……はぁ……はぁ……」
肩で息をし、僅かでも呼吸を整えながら辺りを警戒するが、今のがこの辺りに現れたモンスターのラストだったのか、他にそれらしい影は見当たらなかった。
終わった……のだろうか?
なら、レオンのほうはどうなっているのだろう?
いや、それよりも村の人たちは逃げ延びたのか?
いろいろな疑問が脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返し、思考が定まらない。
自分が次に何をすればいいのか見当がつかず、ただその場で棒立ちになってしまう。
そんなことではいけないというのに、それでもほんの数分の間に繰り広げた激戦で昂ぶった身体と意識が此処に至って鎮まり……困惑から脱することができないのだ。
殺し合い。
命の奪い合い。
そんなものは、平和な日本生まれの日口理宇には縁遠い世界のはず。
しかし、今自分は確かに殺し合い(それ)をしていた。そのどうしようもない理想と現実の違いに、打ちのめされていると言ってもいいだろう。
だからだ。
「ぼーっとするな、ド阿呆」
爆竹を何十倍にも凝縮したような炸裂音と共に耳朶を叩いたその声が、現実のものと思えなかった。
ぱちくりと目を瞬かせて、声の聞こえてきた方向に視線を向けると、そこには全身を黒衣に包んだ銀髪の男が立っていた。
その手に握られているのは、硝煙を銃口から吐き出した状態の銃が一丁。
「後ろががら空きだろうが? 戦場で気を抜くとは、お前らしくないな」
長い銀髪の間から覗く真紅の双眸が、酷く不機嫌に歪む。そうして何事のなかったかのように銃を黒衣の中にしまい、逆の手ですぅ……とリューグの背後を指差した。
促されるがままリューグは振り返ると、調度弩を手にしたコボルトが光となって爆発する瞬間が見えた。
「討ち漏らしだな……」と、銀髪の男が言う。そのまま彼は億劫そうに手を振り、手元にウィンドウ開く。
此処に至って、リューグはようやく彼が自分と同じ元MMORPG〈ファンタズマゴリア〉のプレイヤーであることに気づいた。
しかし、どう反応すればいいのか分からず、ああでもないこうでもないと考えを巡らせ、行き着いたのが、
「……ええと、君は誰?」
という問いだった。
すると、劇的な変化が生じた。
銀髪の男が、真紅の瞳が零れ落ちそうなほど見開いてリューグを見ると、「信じられない」とでもいう風にかぶりを振った。
逆にそんな反応を見せられて困るのはリューグのほうである。まさか、言ってはなんだがこんな不審者まがいな全身真っ黒な衣装に身を包んだ人が、自分の知己だとはとても思えない。
そんなリューグの心境を理解したのかは分からないが、銀髪の男は盛大に溜め息を吐いて、ねめつけるようにリューグを一瞥し、言った。
「……信じられんな。それこそ、長年築いてきたお前との友情を疑いたくなるくらいに……」
「……え?」男の言葉に、思わず間抜けな声を出すリューグ。すると、男は「もういい」とでもいう風にかぶりを振ると、手元のウィンドウを数度操作して、
「これで分かるだろ、クソが」
科白と共に、リューグの目の前に突如ウィンドウが表示された。
突然のことに目を剥くリューグだったが、それ以上に驚くことが、そのウィンドウには記されていた。
件名:フレンド申請
From:ヒュンケル
表示されていたのはそれだけだが、それこそがリューグにとってこの日最たる驚愕を与えた。
ヒュンケル。
その名前をリューグは知っている。その名は、かつて数少ないリューグのフレンドリストに登録されていた名前であり、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉のβテスト時代から行動を共にしている人物であり、リューグこと、日口理宇の現実の友人でもある、我妻向悟のPCである。
そして、今目の前にその名前がある。
つまり、
ということは、
目の前にある事実に、リューグは思わず絶叫した。
「ヒュン……ケル……――――――……って、向悟ぉぉぉぉおお!?」
「現実の名前叫ぶんじゃねぇよ、このバカ理宇が!」
リューグの絶叫に、銀髪の男――ヒュンケルは憤慨の大音声で応じた。しかも膂力の籠った渾身の拳骨のおまけつき。
頭頂を思い切り殴りつけられたことで涙目になるリューグに、ヒュンケルは呆れたと云わんばかりの渋面でこちらを見下す。
「こんな辺鄙な村まで探しに来させておいて随分なご挨拶だな……呆れて溜め息しか出ないぞ」
「いやいやいや。よく僕が此処にいることが分かったな?」
「割と目立つんだよ、お前の背格好は。後は地道な情報収集と《索敵》スキルのおかげだ」
「よくやるよ……」
淡々と繰り出される返答に、脱帽の意を込めて肩を竦めるリューグ。
《索敵》スキルとは、その名の通り隠れているもの、隠されている物を探し出すスキルのことである。しかし、このスキルには隠れているアイテムやモンスターを見つけるだけではなく、任意の人物を探し出すこともできる……無論、限定的ではあるが。
「そうして追いかけてきてみれば、お前のいるであろう村から火の手は上がるわ。住民は逃げてくるわ。モンスターは現れるわ……お前呪われているんじゃないだろうな?」
「……貧乏くじ引くのは昔からだ」
皮肉に皮肉を返し、リューグは肩を竦めると、ヒュンケルは鼻を鳴らしつつ問う。
「で、この状況はなんだ? 何が起きてる?」
「簡潔に説明すると……明らかにこの近辺に顕れるはずのないD級のモンスターが暴れてて、NPCの騎士様の依頼でそれに加勢しているところ」
「お前バカだろ?」
身もふたもない一言だが、最もな意見である。
ヒュンケルが言いたいのは、恐らく現状のリューグのステータスパラメータのことだ。言わずもながら、こんな初期値と大差ないパラメータでD級モンスターの出現するクエストを受託するなど、自殺行為以外のなにものでもない。
「仕方ないだろう……なんていうか、断りづらかった」
「一度死んで、そのバカを直してみるか?」
「じゃあ、君は死ねるかい?」
「いや、無理だな」
リューグの返しに、ヒュンケルは迷いなく首を横に振る。
「こんな生身の実感がある体で死ぬなんて、『もしかしたら生き返るかも?』なんていう可能性に賭けるのは冗談でも御免だ」
その通りだと、リューグも思う。
もしこの世界がMMORPG〈ファンタズマゴリア〉のそれであるならば、死んで生き返ることもあり得なくはない。
だが、それを確かめる勇気は流石になかった。もし試して本当に死んだら、それこそ最悪と言っていい結末だろう。
「そういうのは、何処かのバカが試してくれるだろう」
「ヒューゴ」
リューグが不謹慎な友人の科白を注意するように名を呼ぶ。しかし、ヒュンケルの態度は冷ややかだった。
「どの道、遅いか早いか……だ。お前のように、古都から外に出た奴は他にもたくさんいる。そいつらが、自ずと証明するだろう」
「そう……かもしれないが……」
「お人よしは健在だな」言葉に迷うリューグの様子を見て、ヒュンケルはやれやれと苦笑した。
「まあいい。とりあえず、お前が受けたクエストをどうにかするとしよう……」
「ああ。そうだね」
無理やり話題を変えたヒュンケルに便乗する形で同調するリューグだったが、ふとある異変に気付く。
――やけに、静かだ。
嫌な予感がした。
「ヒュー……ヒュンケル。《索敵》できるか」
「もうやった。向こうだ」
にやりと……昔馴染みが意地悪く笑う。何故だか無性に悔しくなったが、それを顔に出すのは負けな気がして、
「……先導してくれ」
リューグはそう口にするしかなかった。
◆ ◆ ◆
「この先だ」
突きあたりの建物を指差しながらそうヒュンケルが告げるのと同時、視界の先で凄まじい爆発が生じた。
猛火と衝撃が目の前を通過し、リューグとヒュンケルは衝撃で吹き飛ばされないようにその場で踏ん張るのが精いっぱいだった。
やがて炎が消え去ると、二人は慌てて舗装もほとんどされていない街路に飛び出し――息を呑んだ。
「なんだ……これは……」
辛うじて、ヒュンケルがそれだけの言葉を口から漏らす。しかし、心境としてはリューグも同じ。
目の前には、無数の装備が転がっていた。
剣や槍、鎧や盾。それら一式が無数に転がっている情景は、間違いなく異様だ。
そしてそのどれもこれもが、リューグには見覚えがあった。
それは少し前にレオンハルトが率いていた騎士たちが身に着けていた装備だ。レオンハルト程ではないにしろ、間違いなくリューグより遥かに高いステータスパラメータを保持していたであろう騎士たちの装備。
それが転がっているという意味を悟り、リューグは絶句しながらふたりと落ちている剣に歩み寄り、剣を指先でクリックした。
目の前にポップウィンドウが浮かび上がる。そこに表示される情報の一つを捜し、そして『所有者/なし』 という項目を見た瞬間、自分の推測が正しいことを理解した。
全滅――したのだ。
レオンハルト率いる騎士たちは、皆死んだ。目の前に墓標の如く転がる装備の山は、彼らが存在したという、その残滓。
「……一体……なにが……!」
慟哭にも似た声が零れる。
それと同時、また何処からか爆音が響いた。それも、かなり近く。慌てて視界を持ち上げ、耳を澄ます。意識を集中し、音の発した方向を探り――駆け出す。
ヒュンケルもそれに続いた。
音の発した場所はすぐ近く。通り一つ向こう側だ。
全力疾走で建物や木々の間をすり抜け、目的の場所へと迫り――そして、それを見た。
「嘘だろ……」
「……笑えないぞ」
背後でヒュンケルが舌打ちをする。しかし、それも当然だ。
二人の視線の先には、巨大な影が一つ君臨していた。そして、その姿が何を意味するのか、二人は瞬時に理解したのだ。
C級悪魔系モンスター、固有名称、《レッドアイズ・デーモン》。
深淵の闇が凝縮したような体躯の中、その爛々と輝く真紅の双眸だけが酷く際立って見えた。
有り得ない遭遇に二人が戦慄する。本来地下迷宮などの特定のダンジョンマップ以外に現れることがない化け物が目の前にいるという現実が受け入れがたかった。
呆然と立ちすくむ二人。
だが、異形の視線は此方を向いてはいなかった。全く別の方向――そこにいる誰かを凝視しているように見える。
そう気づいた次の瞬間、剣閃が閃いた。
黄金の軌跡が三つ、四つ。次々と炎に照らされた夜闇の中に弧を描き、あのレッドアイズ・デーモンへ叩き込まれていく。
よく見れば、表示されているHPバーが半分近くなくなっていて、イエローになっていた。
「マジか……なんつーNPCだよ」
「レオン……」
驚嘆の声を漏らすヒュンケルの隣で、リューグは中空を駆る騎士の名を口にする。
彼はレッドアイズ・デーモンの攻撃を紙一重で回避し、その都度的確な反撃を打ち込んで悪魔のHPを確実に削っている。
超然とし、一歩も引こうとしない勇猛な姿に、思わず陶然と見上げるリューグとヒュンケル。
「兄さん、援護するわ!」
しかし、それも一瞬のこと。彼方から聞こえてきた第三者の声で、二人の意識は現実へ回帰する。
声の主を捜し、視線を巡らせた。そして――レッドアイズ・デーモンを間に挟んだ向こう側に、その声の主はいた。
リンセだ。細剣を手に、レオンハルトと対峙する悪魔に向かって猛然と突進する少女の姿が見えた。
「駄目だ、逃げろリンセ!」
悪魔の攻撃を回避しながら叫ぶレオンハルトだが、すでに手遅れだった。
突然の闖入者の敵意に、レッドアイズ・デーモンがその紅い視線を向ける。恐らく敵愾心を取ってしまったのだ。
GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
紅眼の悪魔が咆哮を上げた。ただそれだけで衝撃波が発生し、棒立ち状態だったリューグたちはたたらを踏んでしまう。離れていた二人でさえそうなのだから、近距離にいたレオンハルトとリンセはその非ではない。
「きゃあ!」
リンセの悲鳴が耳朶を叩いた。見れば、悪魔の発した咆哮に気圧されたのか……手にしていた剣を取り落し、その場に尻餅をついて悪魔を見上げている。その表情は恐怖と絶望に染まっていた。
無理もない。目の前にいるのは、騎士たちを屠った今この地に顕れたモンスターの中でも最悪と言っていい存在だ。それを目の前にして、恐怖で全身が動かなくなるのはある種必然。
悪魔が――にたり、と嗤ったように見えた。そしてその剣のような牙の並ぶ口を開き、リンセへと飛び掛かる。
――殺られる!
誰もがそう思ったはずだ。リューグもヒュンケルも、そして今まさに喰われんとするリンセだってそうだ。
しかし、そうは成らなかった。
霞むような速度で飛び出してきたレオンハルトが、座り込むリンセを思い切り突き飛ばし
――代わりにレオンハルトの身体に、悪魔の牙が深々と突き刺さった。
「レオン!」
「兄さん!」
リューグとリンセの声が重なる。そんな二人の声を聞いたのか、悪魔の瞳が卑しく歪んだ。まるでこの瞬間を楽しんでいるような、そんな下卑た変化だ。
そして、金色の光を放つ剣がその瞳へ突き立てられたのは、次の瞬間だった。
GYAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
再び悪魔が声を上げた。今度は悲鳴ではなく、絶叫。突き立てられた剣による痛みに悲鳴を上げ、その牙にかけた騎士を取りこぼす。
リューグは慌てて駆け出し、落ちてくる彼の身を受け止めると、すぐにその場を離脱する。距離にすればほんのわずか。しかし、今の悪魔に追撃することはできなかった。
「レオン、生きてるか!」
名を呼ぶ。すると、金髪の騎士は咳き込みながらも「……辛う……じてな」と返してきた。
木陰に飛び込み身を隠すと、彼の背を木の幹に預けるように下ろすと、すぐにアイテム欄から回復薬を取り出して差し出す。
「早く回復を! このままじゃ死ぬぞ!」
しかし、レオンハルトはそれを受取ろうとはしなかった。ただ黙って首を横に振り、言う。
「もう……手遅れだ。私は、助からないよ」
「リューグ……無駄だ」
そう言ったのは、ヒュンケルだった。手に銃を握ったまま、悪魔の報を警戒しつつ、そう提言する。
「その傷はポーション程度ではどうにもならん。せめて高位の癒し手くらいでなければ無理だ!」
「そんな!」
「彼の……言う通りだ……」
悲痛な声を上げるリューグを諭すように、レオンハルトは痛みに耐えるようにして笑みを浮かべて見せる。それが余計に辛く、リューグは唇を強く噛んだ。
レオンハルトの腹部から下半身にかけて、幾つもの風穴が空いている。恐らく、これは部位破損判定が生じているだろう。しかもこれだけの数となると自然治癒は望めないし、低ランクの回復薬では意味をなさないことは分かっている。
だけど、それでも……
「……にい……さん」
いつの間にか、リンセがすぐ傍まで来ていた。レオンハルトの姿を見て、その表情は蒼白に染まっている。
そんな妹に向け、レオンハルトはうっすらと笑って見せた。
「泣く……な……リンセ……お前が無事で……なに……よ……だ」
そう諭すように告げるレオンハルトだが、リンセは感極まったように目尻に涙を浮かべ、その場にうずくまってしまう。時々漏れ聞こえる嗚咽が、一層この場の凄惨さを物語っているように思えた。
「リュ……グ……頼みが……ある」
そんな中で、レオンハルトが絞り出すように、そう口にした。呆然としたままレオンハルトを見ると、彼はにぃ……と無理に笑いながら、言う。
「やつを……あの悪魔を……倒しくれ」
「冗談じゃないぞ」
リューグより先にヒュンケルが返答した。
「今の俺たちでは、あんな化け物を相手にするだけの力はない。そんな犬死はごめんだ」
「はは……そう……だろうな」
レオンハルトは肯定する。実際、彼も分かっているのだろう。自分が無理難題を課そうとしていることを。
そして、それを承知の上で、彼は言っているのだ。
あの悪魔を倒せ――と。
彼の願いを拒むことは、決して間違ってはいないだろう。常識的に、そして理論的理性的に考えても、此処で彼の願いを聞き入れるのは自殺行為だ。
だが頭でそう理解していても、感情まではそう単純じゃない。
ましてや、リューグには――日口理宇には、そんな簡単に割り切れるものではないのだ。
強く……強く腰の剣に手を伸ばし、柄を握りしめる。
その仕草が彼の目にどう映ったのか。あるは、どう感じ取ったのかは分からない。
ただ、
――うっすらと浮かべていた笑みに、ほんのわずかだけ安堵が浮かんだ。
そして、それが最後だった。レオンハルトの全身が淡い光を帯びる。その光は徐々に強くなり、やがてレオンハルト自身の姿が見えなくなると――ぱりぃん……という硝子の砕け散るような音と共に、消滅した。
彼の存在を証明するものが、一瞬にして掻き消える。ただただその残滓として硝子片のように細々とした光の粒子が虚空に浮き上がり――やがて、それすらもなくなり、跡形もなく……消え去った。
「あ……ああ……!」
リンセが、消えていく名残を逃すまいとでもするように虚空へ手を伸ばすが、しかし最早そこには何もない。
彼の存在を証明するものはもう――何処にも、ない。
「う……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
リンセの絶叫が――絶望の悲鳴が響く。
そして、それが合図だった。
考えるよりも先に、リューグの身体は動いた。本能のままに、闘志と殺意に導かれて、その歩みは、一直線に悪魔のもとへと向かう。
背後からヒュンケルの静止する声が聞こえたが、止まる気など――ない。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
自らを鼓舞する大音声。魂を奮い立たせるかのように声が昂ぶる。
悪魔はそこにいた。レッドアイズ・デーモン。先ほどまで挑む気にすらならなかった、今のリューグでは勝てる可能性などほとんどない強敵。
だが、今は畏れなどなかった。
あるのはただ、こいつを倒すという意志――ただそれだけ。
PCのパラメータを超えた早駆けで、一気に距離を詰めながら剣を抜く《ショートソード》。初期装備の片手剣。こんなもの、目の前の悪魔にしてみればオモチャの剣に見えるだろう。
だが、引くつもりは――ない。
望みはある。
レオンハルトが命を賭して繰り出し続けた剣によりダメージは相当のもので、特に最後の一手となった瞳への一撃は痛恨だったのだろう。目の前の悪魔のHPバーは七割を切り、色はイエローからレッド――瀕死状態を意味する。
それでも、今のリューグのパラメータではあまりにも遠い数値だった。
果たして何十、何百と剣を叩き込めばそのHPを削り切れるのか。下手をすれば先にリューグの剣の耐久値がゼロになるかもしれない。
その前に、一撃でも喰らえば死ぬ可能性のほうがはるかに高い。状況は、リューグにとって何一つとして好転していないのだ。
だが、それでもやらなければならない。
この悪魔だけは、今倒さなければいけない!
「りゃあっ!」
一撃。
すれ違いざまに煙るような速さで腕を振るい、剣が横一文字に疾る。
レッドアイズ・デーモンのHPはダメージを受けたことによって生じた震え以外僅かの変化もない。だが、それは確かにダメージの通っている証明だ。ならば、続けるのみ。
地を滑り、靴底で大地を削りながら斬り返しの二ノ太刀。
袈裟に一刀。更に右払いと繋げ、渾身の刺突。
瞬く間に四連撃。しかし、この程度では悪魔はびくともしない。
咆哮が上がった。悪魔がその血のように紅い瞳でリューグを見下ろす。敵愾心が取れたのだ。
(……さあ、此処からだ)
息を呑み、緊張で渇いた唾を潤すように唾を嚥下する。
一撃必死。文字通り、この悪魔の攻撃を一撃でも喰らえば死ぬと思え。
そう自分に言い聞かせ、意識を集中し、全神経を研ぎ澄ます。
――来る!
まるで時速一〇〇キロで走るトラックが迫り来るような感覚だった。自分の身体より二回りは太い腕が、大気を切り裂き迫り来る様子は恐怖以外のなにものでもない。
紙一重でなんとかその一撃を回避し、反撃の一撃。
片手剣下位アーツ・スキル《ランペルト》。
迅雷の如き三連突きが、異形の脚へ叩き込まれる。
アーツ・スキルは攻撃時に補正を受けるため、通常攻撃と比べても遥かに高い威力を発揮する。たとえそれが下位のスキルでも変わらない。先の四連撃に比べても、遥かに高いダメージが叩き込まれ、ようやく、目に見えてHPが僅かだが減少する。
時間にすれば一分か二分。しかし集中力の極まったリューグにはその何倍にも感じられる時間の流れ。
果たして、どれだけ保てるか。
それが勝敗を分ける。
だが、負けるわけにはいかないのだ。レオンハルトの死を、無駄にしないためにも。
休む間もなく剣を振り抜く。
無駄を省き、最少最短最良の動作を意識し、より強く、より疾く剣が空を切り裂き、異形へと吸い込まれていく。
その最中に、銃声が響いた。
一瞬、その方向に目を向ければ、苦い顔をしながら銃を構える友人の姿があった。
「テメェ、俺が死んだら責任とれよ!」
やけくそ気味の声が聞こえてくる。思わず、リューグは声を上げて笑った。
「じゃあ、僕が死んだら責任とってくれよ!」
からかうように言葉を返す。それだけで、何故だろう――生き延びれる気がした。少なくとも、ヒュンケルがいる以上、自分は背中の心配をしなくて済む。
つまり、目の前の敵を斬ることだけに集中できるのなら、あとは全力を尽くすだけ。
彼方から聞込める銃弾は止まない。弾雨が次々と悪魔を襲い、その意識が――注意が拡散する。
その間に、リューグもこれでもかと剣を叩き込む。いくつものアーツ・スキルを駆使し、悪魔の命を削りに削っていく。
徐々に、だが確かにレッドアイズ・デーモンのHPは減っていく。そしてついに――残りが一割を切った。
これで終わらせる!
そう思って叩きつけた剣。それが、いっそ清々しいくらい子気味の良い破砕音を響かせて砕け散った。
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、砕け散り、消滅していく剣を見て、ようやく気付いた――危惧していたことが起きたのだ。
武器の耐久値。その限界が、此処に至って訪れたのだ。
「くそっ!」
思わず毒ずく。このままでは自分はおろか、共に戦っているヒュンケルすら危うい。振り返れば、ヒュンケルも舌打ちをしながら手にする銃を地面に叩きつけている。
向こうも此処に至って残弾が尽きたのだ。
万事休す。
唸りが、頭上から聞こえた。見上げると、そこには隻眼となった悪魔が我が意を得たりとでも言う風に卑しい笑みを浮かべているように、リューグには見えた。
紅い瞳の悪魔が、ゆっくりとした動作で腕を振り上げた。それを振り下ろされたら、逃れるすべがない。逃れるタイミングはもう逃した。今からでは間に合わないことを、リューグは悟る。
今日何度目かにして、最も濃厚な死の気配を感じ、固唾を呑んだ――その瞬間、異形の側面から、翠碧の閃光が疾り、悪魔の身体を貫いた。
リンセだ。
その手に細剣を握り締め、涙で濡れた顔で、少女が悪魔へと挑みかかったのだ。
渾身の、そして攻撃動作の最中への攻撃。強烈なカウンターとなった刺突を受け、悪魔の身体が僅かに傾ぐ。
「リューグ、跳べ!」
瞬間、ヒュンケルが叫んだ。それが何を意味するかを理解するのと、リューグが血を蹴って飛んだのはほぼ同時。
傾ぐ悪魔目掛け、全身全霊の跳躍。そして手を伸ばす――悪魔の左目に刺さる、金色の剣目掛け。
それはレオンハルトの剣だ。彼が命掛けで妹を守り、その上でなお突き立てた――あの剣。
レオンハルトほど高位の騎士が扱っていた剣だ。到底、パラメータの低い今のリューグでは、手にした時点で《装備不可》の判定を下されるのが定石。
しかし、それを理解しているうえでなお、リューグはその剣を手に取った。
頼む、レオンハルト――今だけでいい!
願い、祈り乞うように、その剣を握った。
判定は――ない。
瞬間、
「うぁぁぁあぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁ!」
叫び、振るう。逆手に握った金色の長剣を、そのまま悪魔の頭を足場に一気に振り抜く。
眼球を切り裂き、肉を断ち、頭蓋を砕く。ただの斬撃。それだけのはずなのに、その一撃は万物を斬るかの如く悪魔を斬断する。
金色の剣閃が、夜の闇の中で色鮮やかな弧を描いた。
同時に、レッドアイズ・デーモンの頭上に表示されていたHPバーが無色に――ゼロに、なる!
一瞬の静寂が、辺りを包んだ。
しかし次の瞬間、悪魔がけたたましい断末魔を上げ、その身体が爪先から浸食されていくかのように光の断片となって四散していく。
やがて、その身体のすべてが光の断片となって消え去る。
誰もが、その様子を見据えて――光の粒子を追うように空を見上げる。
「勝ったぞ……レオンハルト」
いつの間にか炎と夜は消え去り、東の空が、僅かに白み始めていた。
◆ ◆ ◆
丸一日が過ぎた頃には、村は落ち着きを取り戻していた。犠牲になった数は、騎士たちの奮闘により数名でとどまったらしい。それだけでも、彼らが命を賭した価値があると言えるだろう。
無論、手放しに喜べることではなかったが、レオンハルトを始め、名も知らぬ騎士たちの健闘を讃えるには、十分すぎる成果だった。
そして、最早ミラに留まる意味を失ったリューグは、村のはずれでリンセと顔を合わせていた。
その手には、レオンハルトの振るっていた一振りの剣が握られている。
「本当に、僕が貰っていいのか? 君にとっても、この剣は――」
「いいんだよ」すべてを言い切るよりも早く、リンセはリューグの言葉を遮ってにこりと笑って見せた。
「兄さんの形見は、何もそれだけってわけじゃないし……私としては、出来ることなら貴方に使って欲しい。きっと、兄さんもそれを望んでると思うし」
リューグの手にする、鞘に収まった長剣を見て彼女はうっすらと笑みを浮かべていた。流石に、そこまで言われて断るのも無礼だろう。
「……分かった。有難く、貰っておくよ」
「……大事に使ってね、その剣」
「勿論。レオンに恥じないように頑張るよ」
それじゃあ、とリューグは少女に右手を差し出す。リンセはその手を取り、二人はしっかりと握手を交わした。
「ありがとう、村を救ってくれて」
「こっちこそ、世話になった。またいつか、何処かで」
「うん、何処かで!」
そう最後の言葉を交わし、リューグは一本の剣と共に、村を後にした。
◆ ◆ ◆
あれから、一年以上が過ぎた。
馴染みの店となっている武器屋の片隅を駆り、愛用の剣の手入れをしているリューグに、店主であるサクヤが問う。
「お主、いつもその剣だけは私に研磨の依頼をしないな……」
「え? ああ、そうですね」
言われて、リューグは納得した。彼が手にしているのは、金色の輝きを放つ流麗な片手長剣である。
「銘を聞いたことがなかったな。誰の作だ?」
「貰い物ですよ――《黄金獅子の長剣》と言います」
「ほう! 随分と立派だと思えば……そんなに私に研磨させるのが嫌なのか? 私が信用ならんか?」
意地悪い笑みを浮かべるサクヤに、リューグは困ったように頬を掻いた。
「嫌というか……そういうわけではなく、ただ――これだけは僕がしないといけない気がするんですよ。僕なりの、この剣と、この剣の前の持ち主に対しての、敬意……みたいなものです」
そう言うと、サクヤは驚愕したように目を見開いて、自分の作業を一端止めてリューグを振り返る。
「お主にそこまで言わせるとはな……どんな御仁なのだ? 前の持ち主とは」
問われたリューグは、暫し逡巡して言葉を探した後、ゆっくりと、朗々と語った。
「僕の知る限り、彼は最も偉大な騎士でした。最も高潔な騎士でした。騎士という言葉が誰よりも相応しい……そんな騎士でした」
出会った日のことを思い出す。
交わした言葉は、そう多くはなかった。だけど、どうしてか彼の雄姿だけは今でもはっきりと思い出すことができる。
決して忘れることのないであろう、気高き騎士のその背中。
命を賭して、誰かを守ろうとしたその信念も、そしてすべてを託して死んでいったときの、あの穏やかな笑みを。
そして恐らく、この世界で初めて――そう思えた人物。
「この世界に来て、始めて出来た――《来訪者》でない友人からの、大切な送り物です」
友人などと呼んで、彼は怒るだろうか。もしかしたら気を悪くするかもしれない。
でも、あえてリューグは彼をそう呼んだ。
そしてもしも、彼がそう思っていてくれたのなら、嬉しく思う。
そう言ってリューグは、微笑と共にその剣をそっと掲げて見せた。
――金色の剣身には一片の曇りもなく、託されたあの日と変わらぬ形のまま――嘗てこの剣を手にしていた騎士のように輝いていた。