Side:Ruug
――時、同じくして。
リューグ・フランベルジュは、古都ユングフィから遠く離れた辺境地に足を踏み入れていた。
最果ての地、コルセイト。
第一大陸の南の果てに位置する、瓦礫と砂に埋もれた古き廃街だ。〈ファンタズマゴリア〉舞台となる以前の時代では、この場所も多くの人々が行き交い、繁栄していた――と言われているが、今はその名残ひとつ見当たらない。
せいぜい半壊した幾つか大きな建造物が鎮座している――ただそれだけの風景が広がっている。
そんな風景を見回し、闊歩しながら、リューグは手元に幾つものウィンドウを表示しては消し、消しては表示してを繰り返し、画面上に走るコードの羅列に見入っていた。
リューグの知る限り、この世界は現実におけるMMORPG〈ファンタズマゴリア〉の中と言うのが現在この世界に存在する《来訪者》たちの共通意識だ。
しかし、その証明に至った事実は今のところない。
そもそも誰かがそれを解明しようとは思わないだろう。誰もが皆、現実への帰還だけを最終にして最大の目的と据えている。それ自体は間違いではない。だが、
(……本当にそれでいいのか?)
以前から胸の奥にそんなしこりはあった。
確かに、この世界は日口理宇の良く知るゲームの世界そのものだ。しかし、だからと言って此処がMMORPG〈ファンタズマゴリア〉の中であると決めつけるには早計だったのではないか――と、今になって思う。
いや、思ってはいたのだ。ただ、疑問にはしなかっただけ。
そしてその思いが完全に疑問へと移り変わったのは、あの《漆黒の十字架》との戦いの最中に再会した、日口理宇の弟を名乗る存在、日口海理が口にしたあの言葉。
――本当は気づいているんだろう?
――この世界の正体に。
手を無造作に振って、リューグは眼前のウィンドウを閉じる。ブォン……という音と共に重複して開かれていた幾つものウィンドウが消え去り、代わりにリューグの視線は砂塵と瓦礫に埋れたコルセイト跡地へと向けられる。
「……この世界の正体、ね」
靴底が砂を噛む音が耳朶を叩く。
微かな風の音と、風に煽られて舞い上がる砂の音と重なり合う。
しばらく無言で歩いた後、リューグはすらり……と腰に帯びている金色の片手長剣――《黄金獅子の長剣》を抜いた。
そのまま足を止め、半壊した煉瓦で造られたのであろう建造物を凝視する。
建物。つまりそれは、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉のシステムによって保護されている、破壊不能建造物だということ。
その、決して壊すことのできない建造物――否、ポリゴンとテクスチャの集合体に向けて、
「――吹ッ!」
リューグは無造作に、しかし渾身の力を込めて剣を振るった。神速の斬撃が、半壊した建物へと吸い込まれていく。
ぎゃりぃぃぃん
と、耳を劈く剣戟音が辺りに反響した。
本来ならば、剣を叩きつけると同時に建造物の表面に張られたテクスチャにノイズが走り、次の瞬間そこに【Immortal Object】の文字が表示される。
しかし、どういうわけか、リューグの振るった剣は刀身の半ばまで煉瓦造りの建物に食い込んでおり――そして、いくら待ってもメッセージが表示されることはなかった。
有り得ないことが、また一つ起きている。
これまで従来の〈ファンタズマゴリア〉に忠実に再現されていた世界が、徐々にだがその根底を覆し始めていた。
先の戦いだってそうだ。
これまで人を斬っても傷つくことはなく、血を流すことはなかったのに、《漆黒の十字架》が古都ユングフィを攻めて以降、リューグたち《来訪者》の身体は現実の肉体と何一つ遜色ない――つまり、斬られれば肉が裂け、刺されれば穴が開き、そして血を流す――そんな身体になっていた。
これまでダメージを受けても傷を負うこともなく、ただ紅いエフィクトが走るだけだった《来訪者》たちの身体に起きた決定的な変化。
それはこれまでこの世界が『ゲームの世界』と思うことで、辛うじて戦いに身を投じることが出来ていた多くの《来訪者》たちに致命的な衝撃を走らせた。
現在では、依然と比べても攻略に奔走する《来訪者》の数は三割近く減少したと草薙が言っていた。
それは攻略組の最前線を維持するにはあまりにも大きい損失だった。
戦力の三割減となれば、軍事作戦で考えれば作戦の続行は不可能なほどの損失である。必然的に、攻略組の勢いは以前に比べても格段に下がったらしい。
攻略組の戦力が元の状態に戻るまで、果たしてどれだけの時間が必要か、まるで想像もつかなかった。
ヒュンケルなどは「早くて半年。長く見積もって一年以上」と言っていたが、今の《来訪者》たちにとって、その時間はあまりにも長い。
ただでさえ二年と言う月日をこの世界で過ごし、多くの犠牲を生み、幾つもの弊害を経て辛うじて保てていた平常が、此処に至って次々と瓦解している。
「どれだけ維持んだろうな……」
小さく零しながら、リューグは壁に食い込んだ剣を抜いて一、二度振るってから鞘に納めた。
そして、リューグは無造作に腕を振るい、ウィンドウを立ち上げる。そしてプログラムデータフォルダを選択し、その中で無数に並ぶファイルをスクロールさせ、やがて一つのファイルに辿り着いた。
この世界に迷い込んだ時、すべてのデータは初期化されていた。
ステータス。スキル熟練度。アイテムにフレンドリストも然り。そして無数に更新した術式もだ。
だというのに、どういうわけか一つだけ残っていたデータファイルがあった。
まるでそのデータだけ見逃されたように。
このファイルだけが、何者かに守られていたかのように。
たった一つだけ、リューグが〈ファンタズマゴリア〉を始めた時からコンバートさせたテキストデータだけが残されていた。
どう考えても、あの事象を鑑みるにこのファイルも
しかし、だとすれば誰が、何のためにこんなテキストデータを残すよう細工したのか。そこにある意図は果たして何か。
リューグはそれが分からず、この二年ずっと疑問に思いながらも考えないようにしていた。
だが、やはり考えなければいけないのだろう。きっと自分たちがこの異世界に身を置くことと、このテキストデータが残っていた理由も、決して無関係ではないだろうから。
「まったく……作為的というか、なんというか」
一体何の目的を持って、このファイルだけを残したのか。
もしこの犯人が愚弟であったのなら随分と楽だが、これまでの様子を見るからに、カイリはこのファイルのことは知らないだろう――そして、その背後にいるだろう、何者かすら。
特に理由はないが、何となくそう思ったに過ぎない。それは確信ではなく、単なる勘だ。
そのまま暫く、リューグはウィンドウの中に一つだけあるそのテキストデータを見据え、黙考する。
誰が、何時、何のためにこのファイルだけが残留するように仕向けたのかは、今のところ手がかり一つない。
ただ、一つ分かることがあるとすれば、このデータが残るように仕向けた存在は、このデータの中身を熟知しているということだろう。
でなければ、このデータを残そうとは思うまい。
このデータは、ずっと昔リューグが呼んだ冒険小説をスキャンしてデータ化した物だ。世界でもその所在数は少なく、現在では百冊あるか否かと言われている希少本。
かつて日口理宇の父が手に入れ、愛読していたそれを、自分もまた惹かれるように読んでいた。
そして皮肉にも、その物語のタイトルはのちに日口理宇が熱狂的にのめり込むこととなるMMORPGと同じ名前。
「――『交響想歌幻想譚』」
それが、そのテキストファイルに記されている物語の名前だった。