Side11:Theophras Side12:Nona
人ならざる身――そう、人狼の姿になってから、テオフラスは現実では到底有り得ない知覚能力を得た。その最たるものが嗅覚である。
イヌ科の動物の嗅覚は人間の数千倍から数万倍の臭いをかぎ分ける能力があると言われている。実際、何を基準として人間の数千数万倍の嗅覚なのかと現実にいた頃は疑問に思っていたが、〈ファンタズマゴリア〉に迷い込んでその意味を何となくだが理解した。
たとえば、人間の視覚は三色型と呼ばれる色覚を持ち、鳥などの紫外線を認識する四色型は、人間であれば稀にしかいない。
つまりは、そういうことである。
テオフラスが辿り着いた結論は、強靭過ぎる嗅覚は視覚と大差ない――ということだ。
空気中に蔓延する無数の臭気が混在し、停滞する大気はまるで色分けされたかのような――それこそ絵の具がぶちまけられたかのような醜悪な世界が広がっている。
そして今テオフラスがいる場所に蔓延しているのは、大量の腐臭。
誰も踏み入らぬということは、誰も管理もしておらず、ただただ古い死体が埋葬され――放置されていたということを意味する。
さすれば必然的に、古いものも新しいものも例外なく死体は腐敗し、やがて朽ち果てていく。
地下だけにカビの匂いや土の匂いがしても可笑しくないだろうが、それらの匂いを容易く呑み込んで消し去ってしまうほどの腐敗臭。
この地下墓地は――死の匂いしかしていなかった。
だからこそ。
その死が蔓延しているこの場所だからこそ。
――生者の匂いは酷く目立っていた。
匂いを追う――ということをするまでもない。
目の前のたくさんの色が混ざりに混ざって濁り切った色の中を、鮮明に輝くような生きた色の残滓は、まるで童話の中の道標のように。
あるいは、草木の生い茂る中で人が踏み歩いたかのように――くっきりと痕が残っていたのである。
急ぐことをせず、テオフラスはあえてその後をゆっくりと追っていた。足音だけがしっかりと響くように、わざと踵を鳴らしながら。
人の身でないが故に強靭となったのは何も嗅覚だけではない。
頭部に生えた二つの獣耳がそうであるように――聴覚もまた、人間のそれを遥かに超えていた。
洞窟の中で響く音は幾つもある。
自分の足音に然り。
遠くで響く剣戟の音に然り。
あるいは地上で繰り広げられている激闘の残滓に然り。
仲間を奮い立たせようと鼓舞する戦士たちの声に然り。
そして――逃げ惑い息を切らす、一人の神官の息切れと足音も然りだ。
地下に張り巡らされた蜘蛛の巣の如く入り組んだ地下道であっても、テオフラスの得た獣の五感がそのすべてを見通す。
故に、追跡は容易。
何より、テオフラスに標的を逃がす気は更々ないのである。
ましてや今のテオフラスの身体は人間のものではなく、獣の姿形をしているのだ。
獣らしく――標的を追跡して狩猟するだけ。
ぐるる……と喉が唸りを上げた。意図的ではなく、極々自然に。まるで自分が狼そのものになったかのような錯覚を覚えるほどだ。
まるで自分が――橘祥平が薄れ、本当にテオフラス・ホーエンハイムとなっているような既視感。
(なにを莫迦なことを……)
そう自分に言い聞かせるが、同時にその考えを否定できない自分がいることもまた、テオフラスには自覚があった。
――二年。
言葉にすればほんの一瞬だが、体感した時間は言葉に比べれば圧倒的な長さだ。普通に生きていた時ならばまだしも、自分の知らぬ世界――ゲームの世界に似た異世界に、自分の身体ではない、自分の作った疑似的肉体となっているのだ。
性別を偽っていた物もいるし、そもそもテオフラスのように亜人種を選択していた者はたまったものではない。
本来の自分とは異なる性別。
本来とは異なる生体。
そんな身体で二年もの歳月を生活していれば、当初の弊害は払拭できても、新たな異常がきたすのもまた必然。
この言い知れぬ感覚に脅かされているのは、テオフラスだけには留まらないはずだ。きっと多くの《来訪者》が揃ってそうであることだろう。
自分が本当に橘祥平であるのか。
それとも本当はテオフラス・ホーエンハイムという人間であるのではないか?
そんな考えが、唐突に脳裏に過ぎる――不快感と違和感。
もう一度、今度は意図的に喉を鳴らした。
ぐるる……
閉鎖的な地下道では、その音が反響し、空気を震わせる。遥か彼方で「ひぃ!?」という声が聞こえた。
ああ――何かが背中を走った気がする。続々と走る感慨に酔いしれそうになる。
思わず、短剣を握る手に力が籠る。
何故だろうか。どういうわけか、テオフラスは高揚していた。
いや違う。
これは、恍惚としているのだ。
◆ ◆ ◆
踏込み。
上段蹴り。
そして蹴り上げた足を引き戻す動作の延長で一足飛びに後退。
間髪入れずに再び踏み込んで跳躍。
振り抜かれた大鎌の一撃のような、鋭い蹴足が打ち出される。まるで斬撃と思えるかのような蹴りが異形へと殺到した。
(ぬうっ!)
打ち出した本人は胸中で舌打ちを零す。
まるで靄か霧。手応えのない存在を相手にするのがこれほど苦痛と思っていなかったノーナは、普段変化の乏しい表情をこれでもかと渋面しながら着地し、瞬時に敵の間合いから離脱する。
一瞬遅れて異形の追撃。
槍のように変化した腕が寸前までノーナの立っていた地面を派手に抉った。
まるで爆撃されたかのような破砕痕が刻まれるのを中空で身体を捻りながら一瞥し、屹然と攻撃の主を見定める。
ぬたり……と。
タール油に全身を浸らせた、巨鬼のような姿をしたその異形と目が合った。深淵そのもののような双眸がこちらを見据えている。
ぞわり……と背筋に嫌なものが走るのを感じた。
それこそ、何か言いようのない狂気を感じたような気がする。
だが、それも一瞬のこと。
その異形と目が合った次の瞬間、その異形の頭頂から両断する斬撃が走った。更に斬り下ろしに追随するもう一つの剣閃が頭部を十字に切り裂く。
そしてその斬撃を追うようにして、異形の背後からリューグが疾風を引き連れて姿を現した。
剣を振り抜いた勢いのまま地面に着地し、地を滑って勢いを殺しながら異形を振り返る。そのどの所作にも無駄はない。
まるでダンスしているかのような優雅さすら感じさせる体捌きに息を呑むノーナの前で、彼は普段通りの苦笑を浮かべて異形を見上げていた。
「まったく……これだけ切っているのにまったく切った気がしないのは、HPバーが見えないからかなぁ」
「感触がないのも……辛い」
「確かに」
同意するようにリューグが肯定する。
表面上には出さないが、やっぱり彼も手応えのなさには辟易しているのだろう。言葉と同時に嘆息する辺り彼の気持ちが見え隠れしている。
剣を手の平の上で回転させているのは、きっと苛立ちを隠そうとしているようだ。だが同時に、その表情からは微かな自信が感じ取れた。
それは一体何故なのかノーナには分からず、問う。
「……どうすればいいの?」
「分かれば苦労しないね……」
そう言って再びリューグが地を蹴った。
暴風のような勢いで突き進み、二刀が目にも留まらぬ速度で振り払われる。
一瞬で振るわれたのは七つの剣閃。
霧のような身体に斬撃が走る。刀身を包むライトグリーンのライトエフィクトが爆発した。
二刀流アーツ・スキルの何かだろう。残念ながら、ノーナはそこまで〈ファンタズマゴリア〉のシステムに精通していない。リューグのように、あるいはヒュンケルのように自分の精通しているスキル以外のことを逐一記憶しようとは思わない。
一体どんな脳の情報許容量をしているのだろうか。一度確認してみたいものだが、今はそんなことを追及しているところではないだろう。
今するべきことは一つ。反撃の暇も与えず、思いっきり――
「――ぶん殴る」
単純明快。
言葉にすると同時、リューグを追うようにノーナもまた駆け出す。同時に脳裏のスキル欄からスキルを選出。
左右の手甲が真紅のライトエフィクトに覆われる。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!」
踏込み、そして撃ち出す。
格闘下位アーツ・スキル、《ダブルレッド》。
紅蓮の如き光を放つ拳打が異形を穿つ。左の軽拳から続く右の渾身打。爆発のような衝撃が打ち出され、僅かに――本当に僅かにだが、何かを捉えたような手応えがあった。
――これか!?
本能的に理解する。
リューグが何故飽きもせず攻撃を繰り返すように提言したのか。恐らく、リューグは初手でこの微かな――本当に微かな手ごたえを感じ取ったのだ。
彼から感じ取れたわずかながらの自信の正体を理解し、ノーナは瞠目する。
そして同時に、気づけなかった自分に歯痒さを覚える。
これが、自分と彼との差。二人の間にある決定的な実力の開き。
超越存在たる彼と、ただの一プレイヤーにして《来訪者》に過ぎない、リューグと自分の隔絶。
悔しい。
彼と同じ領域にいれない自分が。
ズルい。
自分よりずっと彼方へいる彼が。
ああ。
でも、それでも――
(今は――気づいた!)
彼の見ていた物に気づいていなかった、さっきまでの自分ではない。
今この瞬間から、自分は彼と同じ物を見ているのだ。
だから、
「――攻める!」
自らを鼓舞するようにノーナは叱声を上げ、スキル欄に描かれた無数の枝分かれの――技連樹式に表示されるスキルを選出。
振り抜いた右腕の先が、赤光からスカイブルーのライトエフィクトに彩られた。同時に地を踏み締めて身体を反転させ、全身運動と共に右の拳を打ち上げる。
格闘中位アーツ・スキル、《プルス・ブロウ》。
純粋なる拳打の意。全身全霊の拳撃が、霧の化け物を天高く打ち上げると云わんばかりに殴打する。
再び、微かな手応え。そしてそれは、確かな手応えだ。
この機を逃してなるものか。
自分の内側から自分へ向けられる叱声に応えるかのように、ノーナは更に攻撃の手を続ける。
さあ、何を選ぶ。
一打か。乱打か。
拳打か。蹴足か。
否。そのどれでもない。ノーナが選んだのは、格闘系のアーツ・スキルでありながら、拳撃でも脚撃でもない。
「うあああああああああああああ!」
咆哮と共に、ノーナの両腕から膨大な光が噴出する。吹き出した光は奔流となって弧を描き、少女の両腕に備わったかのように輝き携わる。
格闘上位アーツ・スキル・《グランツ・リーズヴィエ》。
格闘系のアーツ・スキルの中でも希少にして稀有な《斬撃》の一手。上位の不定形モンスターの中身は打撃の通じぬものがいる。そしてその多くは斬撃などに弱いのだ。《グランツ・リーズヴィエ》は、そういう状況のために存在する対抗手段として考案されたのだろう。
闘気によって腕から具現する刃で敵を斬断する――上位の拳聖ならば習得必須の絡め手。
疾く鋭い、目にも留まらぬ駿足で踏込み両腕の刃を叩きつけるノーナ。
そして、此処に来て初めてあの霧のような化け物が小さい呻きを漏らす。今までどれだけ攻撃を叩き込んでも手応えらしいものがなかった異形からの確かな反応。
しかし、それでも少女は止まらない。
そんなものでは満足しない。してはいけない。
異形を振り返り、ノーナは最後の詰めに転ずる。
連撃――スキルの選出。同時にノーナの全身が金色の輝きに呑み込まれ、光と共に無数の稲光が迸る。
バリバリバリ……その身に雷鳴を伴ったノーナが、全身全霊の踏込みで異形へと迫る。稲妻の如き踏み込みで、最早常人では目視も適わないような速さで敵へと迫ったノーナの右足が地面を噛むのと同時――大きく振りかぶった拳を、鉄槌の如く異形へと叩き込んだ。
格闘奥義アーツ・スキル、《トール・ムジョルニア》。
振り抜かれた拳が異形を捉えた瞬間、黒霧の化け物が極光を伴った大爆発に呑み込まれる。
その一撃はまさに雷神の鉄槌そのもの。まるで雷が目の前に落下してきたかのような爆音を響かせ、そしてそれ以上に凄まじい衝撃が周囲を震撼させ、
――GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
その凄まじい爆音を切り裂くかのような絶叫が、異形の口から吐き出された。
そしてその絶叫を間近で耳にしたノーナは、その絶叫にも負けぬような大音声で彼の名を叫ぶ。
「リューグ、スイッチ!」
少女の言葉に対しての返事はない。
だが、
その代わりに、ノーナの放った《トール・ムジョルニア》すら呑み込むような金色の閃光が目の前を疾り、目の前で絶叫する闇霧を瞬く間に呑み込んでいく。
金色の光塊のその彼方。霧の異形は一瞬で地下墓地の隅まで吹き飛ばされていた。
代わりに目の前に立つのは、銀色の外套に翠碧の襟巻を巻く剣士だ。
彼は金色の輝きを放つ二本の剣を手にしてノーナを振り向くと、軽く口角を持ち上げて言う。
「さあ、一気に畳みかけよう」
「――うん!」
二刀の剣士――リューグの言葉に、ノーナは力強く頷いて見せると、手甲に包まれた両手を持ち上げ、咆哮を上げて向かってくる異形へ向かって鋭く踏み込んだ。
割りと早めの更新です。どうも白雨です。
そろそろ二章も佳境。このAct17:超越者たちもだいぶ長くなりました。1Actだけで四五〇〇〇文字の50ページ超えとか頭悪いだけですね。
おそらく次か、その次でこの話も終わり。
5月終わりには三章『始まりの幻想譚』がスタートできるといいなという希望的観測を残して、では次回ノノ