Side4:Ruug
キィを叩くたびに文字が浮かび、複雑怪奇な形式を取りながら配列される。呼吸と呼吸の合間すら指を止めず、自分の瞬きの回数が普段の数十分の一くらいになる程度の集中力で、リューグはウィンドウに走る無数の文字羅列を睥睨し、望む形へと組み立てていく。
猶予時間はそれほど多くはないだろう。状況は刻一刻と悪化の一途を辿っている。少なくとも良くなる、ということはまずありえないと断言していい。
――これはプログラムへの介入だ。
今の状況は即ち、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉の仕様に存在しない現象が起きているということである。しかしこの世界がゲームの世界なのだとすれば、そんなことが起きるなどまず有り得ない。
既存のイベントを別のものへ変える、あるいは増やす場合、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉のシステム管理者――即ち運営側による情報更新が行われない限りまず起きえないことである。
確かに〈ファンタズマゴリア〉はプレイヤーの中にいるプログラマーの介入が許される特殊なシステムを利用したゲームだった。しかし、それはプレイヤーたちにとってゲームであった頃の話だ。
今はたとえ《来訪者》がプログラムを組み立てたとしても、それをアップするにも情報容量の制限という限界が存在する。それはリューグが何度も繰り返し、確かめた上で判明したことだ。リューグだけに留まらず、現在〈ファンタズマゴリア〉に《来訪者》として存在している名の知れたプログラマーたちが何とか新たな術式や新規道具のデータを組み立てた上で立証したことだった。
(……でも、今のこの状況は違う)
リューグはそう確信する。今の状況を生み出しているのは、この世界に居る《来訪者》の誰かが世界の法則への介入しているのだと。それもかなり大がかりな、大容量の情報量包したプログラムを起動していると予想できる。
だから、
(あと少し……!)
焦る気持ちを必死に抑えながら、リューグは自分の頭の中に想像している術式を再現するための情報式を組み立てる。
瞬間、視界の片隅を漆黒が彩った。
反射的に地を蹴り跳び退る。するとリューグが寸前まで立っていた位置を、漆黒の刃が襲った。
現れたのは、まるで深淵の闇から浮き上がったような漆黒の鎧に身を包んだ戦士。
――《漆黒の十字架》。
「――上だ!」
ヒュンケルの声が響く。まるでそれを待ちわびていたかのように次々と頭上から飛び降りてくる影の数はおよそ十近く。
ヒュンケルの声に皆が一斉に視線を上げ――同時に後ろを走っていたフューリアが血を蹴り、更にすぐ近くの壁を蹴ってなお高く宙へと舞い上がると、すれ違いざま一人の戦士へと短剣を叩き込んだ。
鮮烈な一撃が爆ぜる。そしてほとんど密閉された全身鎧に身を包んだ《漆黒の十字架》の戦士の顔面。仮面の隙間を縫うようにして叩き込まれた短剣を受けた漆黒の戦士はくぐもった悲鳴を一つ漏らし、空中で体制を崩すと頭から地面に落下すると、そのままポリゴンの粒子と化して消滅する。
仲間の一人が倒された。しかし《漆黒の十字架》は傭兵である。彼らは仲間の死に何の反応を示すことなく着地すると、自分から最も近い相手を狙って各々の武器を振るう。
剣が、槍が、斧が乱舞する。
対し、ヒュンケルは左手の銃で上段から放たれた斬撃を弾き、同時に右手の銃が白銀のライトエフィクトに彩られて火を噴いた。
拳銃下位アーツ・スキル《アーマ・ピアシング》。
標的の物理防御力を無視し、身に纏う鎧を粉砕する《防具破壊》の弾丸が立て続けに四発。分厚い全身鎧がまるで紙のように易々と破壊され、その奥に隠されていた肉体へと容赦ないゼロ距離射撃が叩き込まれると、大量の血飛沫が迸り、鎧の戦士は断末魔の悲鳴すら上げることなく、だらりと両腕を垂らし、膝から崩れ落ちると――鮮やかなポリゴンの嵐を残して消滅した。
その隣に立つユウは、落下してきた《漆黒の十字架》の身体へ、その大釜を掬い上げるように突き立てていた。鎧などまるで存在しないかのように易々と貫いた三日月刃を、鎧の隙間から零れ落ちた命の証が零れ、地面の血だまりを創りながら消滅する。
思わず――そして無意識のうちに、息を呑んだ。
可笑しい。有り得ない。そんな言葉が脳裏を巡る。
(血……?)
見間違い、ということはまず有り得ない。
あれほど鮮明な赤を見間違えるというほうが難しい。しかし、だからこそ可笑しいと断ぜざるを得ない。
ここはMMORPG〈ファンタズマゴリア〉の中であるはずだ。ならば、〈ファンタズマゴリア〉に出血という視覚表現が発生することは有り得ないはずである。そんな生々しいMMORPGなど、精神衛生面で見ても、倫理的観点から見てもまず承認されるはずがない。
どれほど現実的を追求しても、これほど生々しい表現などまず不可能だ。現実と虚構には絶対に超えることのできない壁がある。
だが、今目の前で噴き出たそれは、間違いなく人間の体の中を循環している血液そのものだった。
人間の身体の中を巡る、命の証明。最も克明に人の生命を示す真紅の血潮。
何より血溜まりが生じた瞬間、一帯に充満した鉄錆の臭いが、リューグにそれは本物なのだと認識させる。それがポリゴン片となって消滅するほんの瞬く間のことであっても。
死が、より一層現実味を帯びる。
リューグだけではない。この場にいた誰もがそれを感じ取り、硬直する。恐慌しなかったのは奇跡に等しいだろう。この〈ファンタズマゴリア〉に取り込まれて二年という歳月によって培われた死という 根本的恐怖に対抗する胆力があったからこそ、ただ驚愕するに留まったのだ。
だが、それすら今の状況では致命的なミスと言っていいだろう。
四散するポリゴンを憧憬するリューグの視線。その片隅で動いた漆黒の鎧。手にしる片手斧が持ち上がるのを捉え、リューグはその尾の使いの標的が誰であるかを悟る。
斧使いに背を向けたまま、未だ呆けたように地面を凝視しているノーナ。
斧使いとノーナ。その二つを認識した瞬間、リューグは考えるよりも先に手を動かした。
同時にウィンドウの中で動いていた無数の文字羅列が停止する。キィを叩いていたリューグの腕がタッチパネルから手を放し――代わりに左手が腰の鞘を握った。必然的に右手はその先――剣の柄を強く握る。
迷いも、躊躇いもなかった。
強く地面を蹴り一歩踏み込む。地鳴りと間違うような凄まじい音が響いた。
距離としてはそれだけで十分。ノーナ目掛け手にする斧を叩き込むべく振り上げる背に向けて、リューグは鞘に収まった《黄金獅子の剣》を抜剣し、抜き打ちの形でその背に斬撃を浴びせた。
「ぎゃあ!」と悲鳴が上がると同時に、鎧ごと断ち切った背中から噴水の如く血が噴出する。踏む込みの姿勢で剣を抜き放ったリューグの全身が、一瞬にして鮮血の色へと染まった。
温かい。
そう感じると同時に鼻腔を蹂躙する鉄錆の匂いに顔を顰め、目を細める。
(……これが、人を殺すということ)
自らの手で成したことだというのに、まるで他人事のように、客観めいた感慨を以てリューグは切り伏せた相手を見下ろした。が、それよりも早く、男の身体は絶命と共に白く明滅し、一瞬の間を置いて大量のポリゴン片となって周囲に粉散する。
リューグの全身を赤く染めた血液すら、一瞬の光芒を放って同じように細かな粒子となって散っていく。
まるで何事もなかったかのような、死の抹消される様子を見据え――そしてリューグは激昂するように声を上げた。
「ヒューゴ!」
友の名を叫ぶ。
すると、まるで停止していた時間が突然動き出したようにヒュンケルが動いた。両手の銃を持ち上げ、迷いなく銃爪を弾く。
銃声が轟く。その数は六。
一瞬にして六発の弾丸が、残っていた《漆黒の十字架》を襲う。すべての銃弾は時にまっすぐに、時に跳弾して標的の顔面を覆う仮面の隙間――目の部分にまるで吸い込まれるように飛び込んで、その奥に隠された頭部を粉砕する。
六つの全身鎧が『ガンッ!』という金属音をその兜の中から響かせ、一瞬痙攣して動きを止める。ゼンマイが切れた人形のように硬直した《漆黒の十字架》たちは、数秒の間停滞し――やがて先の仲間たちと同じようにポリゴンの奔流となって消滅した。
見事なまでの一撃必殺。
こんな状況でなければ称賛の拍手だって送りたい精確な射撃技術だったが、流石に今はそうは言っていられない。
リューグは鞘に剣を納めると、停止したままのウィンドウに視線を向けながら言った。
「……考えるのは後だ。今は生き延びることを第一に。この異常事態をどうにかすることを第二に考えよう」
「あのなー……それって後回しにして答えは返ってくるのかよ?」
疲労と困惑の入り混じった声でウォルターが後ろから問う。振り返りながら、リューグは「さあ?」と苦笑いした。
「少なくとも、僕は答えられないのだけは確かだね」
「言うと思った……」
諦観の溜め息と共に、ウォルターは肩に十字杖を担ぎ誰よりも早く歩き出す。
「とりあえず広い場所に行こうぜ? こんな狭苦しい場所にいつまでもいたら頭おかしくなりそうだ」
「元々可笑しいから平気じゃろ、お主は」
「にゃにおー!」
後に続くサクヤの皮肉に、ウォルターはわざとらしく抗議の声を上げた。すると鎌を構え直したユウが「うるさいわよ、ボンクラ」とヤジを飛ばす。
「お前ら……俺虐めて楽しいか?」
その問いに、サクヤとユウが、更にヒュンケルまでが声を揃え、唱和する。
『勿論』
三人ともやたら真顔だった。それが一層、ウォルターへの精神的攻撃になると知ってのことだろうから性質が悪い。
「……こいつら悪質すぎる」
そう項垂れている背中からは哀愁が漂うが、恐らくこの暗澹とした雰囲気を払拭するためにウォルターがわざとやった挙句の仕打ちなのだから、こればかりは甘んじて受けるしかないだろう。
失笑しながら、リューグはまだ何処か忘我しているらしい少女の下へ歩み寄り、声をかける。
「ノーナ」
「……リューグ?」
振り返った表情はいつも見慣れた無表情――ではなかった。いや、表情こそ大した変化はない。ただ、その双眸の奥に確かな怯えの色が垣間見え、リューグはゆっくりとかぶりを振ってその頭を撫でた。
「大丈夫かい?」
「……分からない」
リューグの言葉に、少女は伏し目がちにそう言葉を返す。そんな少女を宥めるように、リューグは出来る限り優しくその頭を撫でる。
ノーナの反応はごく当たり前の反応だ。普通、人が大量の血を流して死ぬ場面に直面して、冷静でいられる人間のほうが常識的に可笑しい。
たとえそれが生死を分かつような戦場に二年近く身を投じている者たちであっても、それは変わらない。
これまで《来訪者》にとって、死の恐怖とは確かに身近なものだっただろう。しかし、それはあくまでMMORPG〈ファンタズマゴリア〉という世界にシステムに則っての認識である。
しかし、此処に着てその常識が覆った。
より鮮明に、生々しい形で生じた死という事象。血を流し、もしかすれば臓物すら撒き散らしていたかもしれない、あの死に様は、これまで耐え忍べた死という恐怖を克明なものへと変える。
たとえ最終的にはポリゴンの残滓となるのが分かったとしても、血を流し、息絶える死の様相。それに耐えられる者が、果たしてどれだけ存在するだろうか。
状況がどう転ぼうと、この先の《来訪者》たちに変化が起きるのは明白だった。
きっと、これまで以上に攻略というものが厳しくなる。それどころか、ほとんどの人間が攻略を諦める可能性が高くなるのが目に見えてしまうほど。
諦念と絶望。
その二つが《来訪者》を襲う日はそう遠くはないだろう。今日のこの事象はその契機に過ぎない。
急がなければと、リューグは思う。現実への帰還を早急に目指さないと、事態はきっと最悪のものとなる――そんな気がリューグにはしてならないだ。
だから、そのためにはまず……
「さっさと終わらせないと……ね」
このふざけた惨劇を。
視線をノーナからウィンドウへと移す。そこに表示されている無数の文字羅列はもう、その構築式の終着点へと及んでいた。
指が自然とスライドする。同時に幾つものウィンドウが消失し、代わりに大きな画面が浮かび上がる。そ子に表示されたコードを凝視し、一切の不備がないのかを確認する。同時にシステムが不備を検出。引っかかる失態は何処にもない。
同時に、リューグ自身もそれを確認した。自分の頭の中に描いた術式を顕現させるために組み立てたコードは、確かにリューグの望むものを生み出す形を成している。
リューグは即座に指を動かし、今まさに作り出したばかりの術式をこの世界に顕現するべく、キィを叩いた。
同瞬、組み立てたコードに検査が走る。
そして数秒後――
――術式の起動に問題なし。
〈ファンタズマゴリア〉メインサーバーより認証――術式起動。
視界の片隅に表示されたメッセージが、リューグの術式を世界が受け入れたことを知らせる。
同時にリューグは前を歩くヒュンケルへ叫ぶ。
「――準備完了。反撃に出るぞ」
すると、前を歩くヒュンケルは、振り返ると同時に不敵な笑みを浮かべ「待っていたよ」と高揚した風に声を上げた。
「なら、こっちは盛大に暴れておいてやろう」
「もう思う存分目立ちまくってくれ――あと、ノーナ借りてくよ」
そう言うと、返事が返ってくるよりも早く、リューグは「え?」と疑問符を浮かべるノーナの手を取って来た道へと引き返す。「好きにしろ」という後ろ聞こえた声に軽く手を振って見せながら、リューグは起動した術式の様子を確認していると、ノーナが歩みを合わせてリューグの隣に並び、見上げながら問うた。
「皆は良いの?」
「ああ、皆はこれから派手に囮になってくれるからね」
意地の悪い笑みを浮かべながら、リューグはそう答えた。告げられた言葉に込められた糸を捉えきれないノーナは、驚いた様子で目を瞬かせる。
そんな少女に向けて、リューグは一層笑みを深めた。まるでとっておきの秘密をばらそうとする子供のように。
「皆が囮をしているその間に、僕らは大元を叩くんだよ。こんな阿呆な事態は、さっさと終わらせないと」
目的など分からない。いや、想像はできる。だが、結局やっていることはあのムオルフォスと大差ない。
たとえどれほど高尚な言葉を並べ飾り立てようと、何も告げず、無作為に《来訪者》を混乱に陥れ、更にこの世界に生きるAINすら巻き込んでいる。
そして命を奪っている。
故に、止めなければならない。
「だから期待してるよ、僕らのアタッカーさん」
胸中は決して穏やかではない。そして、そんな自分を誤魔化すように、リューグは隣を歩く少女に片目を瞑っておどけてみせた。