Act16:不協和音
9/17日 分割を一つにまとめました。
――秘密結社《魔王の玉座》。
その名の由来は『ゴエティア』と呼ばれる魔導書であり、別名『悪霊の書』は、グリモワールの一つ。日本では『ゲーティア』と呼ばれることが多いが、これはドイツ式ラテン語読みに近い読み方であるという。そしてゴエティアは『レメゲノン』――すなわちソロモンの鍵を成す五つの書の一冊で、つまりは強大な悪魔を従えるための術を記した書である。
その名を冠した秘密結社《魔王の玉座》は、〈ファンタズマゴリア〉という世界の歴史において、約一〇〇年前まで実在した魔術師集団であり、破滅思想を持った一団であり、歴史の最古から存在し、あらゆる王家や教団に根を張り、裏から世界を支配していた、いかなる秘密結社よりも強大な力を持った一大組織だった。
彼らの目的は、はるか古の時代に存在し、突如として世界から姿を消したある王国に眠るある力を得るためだったという。
実際、長き時を経て《魔王の玉座》たちは長らく求め続けていた王国を見つけるまでには至ったが、その後《魔王の玉座》はとある冒険者たちの手によってその首魁が倒され、またその残党は格国の精鋭たちで結成された討伐部隊によって討たれ、その目的を達することなく崩壊したと云われている。
「《漆黒の十字架》っていうのは、その《魔王の玉座》によって構成された武装集団――つまりは組織子飼いの軍のような役割だった存在なんだ」
椅子に腰かけたまま、リューグはなんでもなさそうにそう言い放つが、そんな彼の様子とは真逆に、その話を聞いていたヒュンケルたちの反応は文字通り言葉に詰まっていた。
一体何から問えばいいのか。
あるいは何処から理解すればいいのか。
その判断に困り、その場に集った面々は互いに顔を見合わせては神妙な表情で唸るしかなかった。
ヒュンケルは一人頭痛を堪えるように眉間を抑え、ノーナは眉を顰めて頭上に「?」を無数に飛ばしているようだった。ユウは頤に指を添えて沈黙し、フューリアはすでに考えるだけ無駄とでも言う風に肩を竦めて見せる。サクヤも皆の例の漏れずただあきれた様子でリューグを見て苦笑いする。
そしてウォルターはというと、唸る皆を代表するようにそっと片手を上げて言った。
「せんせー、質問があります」
「質問を許可するよ。なんだいウォルター君?」
「結局のところ、お前が何を言いたいのか全くと言っていいほど理解が出来ません!」
その発言にリューグは隠す気もなく失笑し、
「だと思った」
そう言い放つと同時に彼は手元をスライドさせてウィンドウを開き、そのまま淀みなく指を動かして操作しながら、子供に昔話を聞かせるような雰囲気で言う。
「簡単に言うとね、ウォルター。彼ら《漆黒の十字架》というのは〈ファンタズマゴリア〉の歴史上実在した組織だ。組織としての力も、軍としての実力も当時では屈指と言われた武装集団。でも、その親組織であるはずの《魔王の玉座》はもう存在しない。それが意味するものはなんだと思う?」
答えたのは、ヒュンケルだった。
「――支援者か」
「その通り」
リューグは笑みと共に首を縦に振る。
「かつては世界の裏側で暗躍し、表舞台を思うがままに操るほどの権力と財力を有した親組織である《魔王の玉座》が彼らにはあった。でも、その親組織は一〇〇年ほど前に崩壊し、今の彼らを後ろから支援してくれる存在はいない。『ガーディアン』の精鋭や……あのエスターヴァを倒すほどの戦力と装備を有するには並みならぬ費用と維持費がかかるはずだ。正直、ただの傭兵稼業では存続させることすら難しいと思う」
「だが、そやつらは確かに今も実在し、今《来訪者》を標的として暴れておるようだが?」
「聞いた話じゃ、結構な被害出てるみたいだぜ。大手ギルドたちも対処できないくらいの実力者揃いなせいで、皆が皆、ギルドのホームから出たがらないくらいにな」
サクヤの言葉を捕捉するように、ウォルターがげんなりとした様子でそう言葉を吐いた。「おかげでこっちは商売上がったりだ」と愚痴をこぼすことも忘れない。
リューグは微笑を返した。
「ユングフィに駐在するギルドの数は五〇を超え、そのうち十数のギルドは攻略組と比べても差し支えない程の猛者を抱えている。そんな彼らを震え上がらせるような連中なら、維持費も相当なものだろうね。なら、その財源は何かってことになるが――ゲームを模した異世界だろうが現実だろうが、何処にでもこういうことする奴っていうのはいるものらしいね」
話しながら、リューグは手元に新しいウィンドウを生み出してそのまま数度指で画面を操作すると、その手にひとつの瓶を取り出してそれを皆に見せた。
「それは……」
「あの時のか……」
現物を一度目にしているユウとヒュンケルが苦々しい面持ちでその瓶を見据えている。その瓶の中身を知らない面々にはただの回復薬入りの瓶にしか見えないために軽く機微を傾げる中、
「何を意味深に取り出したのかと思えば、ただのポーションじゃねーか。そんなのが資金源になるのか?」
ズカズカとリューグに歩み寄り、ウォルターはその瓶を掻っ攫うように手に取りながらまじまじと瓶を凝視する。そんな不用心な彼の様子に呆れ気味にため息を漏らしながら、リューグはその瓶の中身を簡潔に述べた。
「それ、中は麻薬と同じ成分のものだから。間違っても飲まないように」
サラッと放たれた言葉に、《十二音律》議会に出ることのない面々が目を剥いて言葉を失う。ウォルターに至っては、今まさに瓶の蓋を抜こうとしていたその姿勢のまま凍りつく始末である。
「何でも試したがる小学生か、貴様は……」
最早呆れを通り越して憐憫の視線を向けながら、ヒュンケルはウォルターから瓶を取りあげてそれをそのままリューグへと投げた。放物線を描く瓶に視線を向けることなく受け取りながら、リューグは瞬時にアイテム欄に収納する。
「どんな世の中にも、こういった物に需要と供給は生じるみたいだね」
諦観するような笑みと共に肩を竦めながら、リューグは視線をヒュンケルへと向けて訪ねる。
「で、頼んでた調べ事は?」
「疾うの昔に」
なんでもないと言う風に彼は即答した。「さすが」と楽しげに微笑むリューグに対し、彼はふん……と鼻を鳴らして見せる。
そんな二人のやり取りを見ていた一同は、完全に蚊帳の外に置かれている状況にはたと気づく。リューグとヒュンケルが二人だけで延々と話を進めていくが、これまでの話を聞く限りだと、自分たちがここに集まっている意味はあまりないように感じられるのだ。
もっとも、誰に召集されるでもなく自発的にこの場所――すなわちサクヤの店に集まっているだけなので、別に彼らの話からほっぽりだされても何の問題もないのだが、どうにも釈然としないのは確かだろう。
もっと簡潔にいってしまえば――面白くない。という一言に尽きる。
だが、この場で何か口を出してしまえば、それこそリューグたちの思うつぼだということを全員が理解していた。あの二人はあえてこの場所であのような会話を繰り広げているだということを。
二人は、自分たちが自ら首を突っ込んでくるのを待っているのだ。
――性質が悪い。
リューグとヒュンケル。この二人を形容する言葉に、これほど相応しい言葉はないだろう。
ムオルフォスの事件の時は状況的に断る理由が思いつかなかったのだが、今にして思えば、この二人は自分たちにNoといわせない状況を作っていたような気がしないでもない。もう一つ言うことがあるのだとすれば、あれだけの危険――言ってしまえば命の危機的状況にすら追い込まれたというのに、報酬らしい報酬は――自動配布されるドロップアイテムを除いて――一切貰っていない。
まあ……貰う確約をしなかったと言われてしまえばそれまでなのだが。
正直なところ、別に大きな報酬が欲しいわけではない。タダ働きはごめんだと豪語しているのはウォルターだけであり、フューリアやサクヤは別に手間賃程に貰えれば言うことなしという考えである。ユウに関しては、リューグたちにというより、ヒュンケル個人に何かしら要求する可能性が無きにしも非ずだが、それはまあ個人同士の問題と考えればいい。
とりわけ、このメンバーの中でウォルターは報酬を得ることに必死だった。
過去――というかほんの二週間ほど前は無理難題を投げかけられてほとんど強制的に参戦させられたとしては、その間出来なかった商売分の対価を得たいのも仕方ないだろう。もっとも、たかだか数日休んだところで彼の一日の商いで得られる金額はたかが知れているのだが、それは言わぬが花だろう。
兎にも角にも、今回ウォルターはリューグ、あるいはヒュンケル。あわよくば二人揃えて相応の報酬をふんだくろう打算していた。そして、その話をするべきタイミングを今か今かと待ち構えているのである。しかし――
「リューグ」
そんなウォルターの隣に立っていたノーナが、まるで親鳥に歩みよるひな鳥の如くトコトコと歩み寄り、彼の身に纏うコートの裾を引っ張っている姿を見て、魔祓師の青年はぎょっと両目を見開いた。
そんなウォルターの様子にはまったく気づくことなく、黒髪を揺らした少女は小さく首をかしげながらリューグへ問う。
「僕たちは……手伝えばいいの?」
「まあ、平たく言えばね」
「正確に言えば、これから起きるであろうことに対処できるように身構えていればいいんだがな」
にこりと微笑みながら首肯するリューグの言葉を捕捉するように、ヒュンケルはため息を漏らした。
同時に、ウォルターががっくりと肩を落とす。その理由は言うまでもなく、
「無論、お前たちにもな」
無表情に宣告されたヒュンケルの言葉に、ユウは口元に雅な笑みを浮かべて「もちろん」と二つ返事で応じ、それに続くようにフューリアも首を縦に振って了承する。
「どの道こちらが断れないような事情になるのだろう? ならば、最初から巻き込まれておいたほうが、気構えができてマシだわい」
ずぞぞ……と湯呑を傾けながらしたり顔で微苦笑するサクヤ。
その一連の、まったく隙のない了承の言葉の連続に、ウォルターは終ぞ機会を逃したと悟り項垂れながら、
「……やりゃーいいんだろ。やりゃー。どうせ拒否権なんて皆無なんだろ?」
「学習しているようでなによりだ」
苦し紛れの皮肉も暖簾に腕押しの如くヒュンケルに受け流され、ウォルターは最早言うだけ無駄だと悟り、せめてもの抵抗とでもいう風に不貞腐れ顔でその場に胡坐をかいた。
瞬間、皆が揃って口元を綻ばせる。仏頂面が基本のヒュンケルですら失笑していた。
その様子を見ながら、リューグは傍らのノーナの頭を撫でながら、一人周囲の空気から隔絶されたように、思い詰めた表情で窓の外に視線を泳がせ、そしてぼやいた。
「間違いであってくれればいい……そう思うのは、間違ってるのかな……」
◆ ◆ ◆
テオフラス・ホーエンハイムこと橘壮平の名前は、プログラム関係の業界ではかなりの知名度を誇る腕利きのプログラマー兼システムエンジニアとして知られている。
父親が有名なコンピュータの技術者であり、その父親の興味を引きたい一心で始めたのがきっかけだった。それを皮切りに父の手解きを受け、十代前半の頃には既に一流と呼んで遜色ないプログラミング技術を身につけ、壮吾自身プログラム言語を組み立て何かを作り上げるという作業にのめり込んでいた。何より十年程前に死を惜しまれた天才的なプログラマーに憧れを抱いた壮吾は、いつか彼のような技術者になることを夢見て邁進したのも功を奏したと言えるだろう。
二十代に踏みこむ頃には既に父の下を離れ、一人のプログラマーとしてその業界に名を知られ始めるほどの技量を誇り、その頃丁度、世界中のコンピュータ業界を震撼させた新型のOS、『ジ・アース』に標準搭載され、サービスを開始したMMORPG〈ファンタズマゴリア〉のシステムの一つである既存しないプログラムを公開することで、自分のプログラム技術力をアピールすることのできる仕様は彼にとって新しい挑戦を試みるのに打ってつけの場所だった。
そうして七年という月日を経て公開したプログラムの数は千を超え、MMORPG〈ファンタズマゴリア〉での壮吾――即ちテオフラスの地位は確たるものとなった。
また、現実においても自身の考案した新しいネットワークシステムの構築思想が高く評価されるなど、現実でも彼の本名、PCの名前共々その名を不動のものとしている。
だけど――
(そうではない……)
面白くない。
時折、そう思うことがあった。
別段プログラムを組んでいるのが面白くないというわけではない。プログラムを組んでいる楽しさも、ネットワークシステムを構築している時も、ただひたすらにコンピュータの画面を見すえ、キーボードに指を走らせている時間は何にもかけがえのない時間であることは今も変わらない。
プログラム言語を並び替え、式を組み立てて、形を成す。自分の手で何かを創造し、それを完成させた瞬間の歓喜は未だに至上のものだと思っている。
だが、それらを以てしても、壮吾は――テオフラスは時折物足りなさを覚えていた。
それがなんであるか長年分からずにいた。自分の中に生じた、言葉にし難い焦燥の正体。長い月日をかけてもわからなかったものが、ある日唐突に理解することが出来た。
リューグ・フランベルジュ。
MMORPG〈ファンタズマゴリア〉のサービスが始まって二年程したある時、唐突に新規のプログラムをアップロードしたのが彼だった。
一日に数百、多い時は千を超えるほどアップされる術式の中で、彼の組み立てたプログラムは一際テオフラスの目を惹いた。
それは一つの――いわば完成された式だった。
彼のアップロードしたプログラムは、まさにその言葉がふさわしかった。
小難しくもなく、意地の悪いわけでもない。
それは考えれば誰でも作れそうな、それでいてこれまで作られることのなかった簡易な術式だった。
それまで公開されてきた無数に存在するプログラムには、時に誰もが想像したこともないような天才的は発想を経て、当時多くのユーザーを驚嘆させるような凄い術式はいくつも存在していた。
それに比べれば、彼のアップしたプログラムなどそれほど驚くべきものではない。
だが、これまで公開されてきたどのプログラムよりも、リューグのアップしたプログラムは綺麗なものだった。
一切の無駄が存在しない、一つのタイプミスはおろか、一つとして無駄な指令文の存在しない、思わず言葉を失い、見とれるほど綺麗なプログラムに、テオフラスは愕然としたのを今も覚えている。
どのような才能に恵まれたものであろうと、完全なものを作り上げることなど有り得ないことだ。ましてやプログラムというのは無数の言語によって構成されていて、一分どころか一文字の違いで全く異なる物へと姿を変える。それゆえに、どれほど熟練した技術者であろうと、天才と呼ばれるプログラマーであろうと、何処かしらミスが存在したり、無駄があったりするものなのだ。
しかし、リューグのアップしたプログラムにはそれらしきものは一切存在しなかった。
少なくとも、テオフラスの持てる知識と技巧では、彼の組み立てた術式に僅かなミスも無駄も見つけることは適わなかった。
自分ですら、これほど統率の取れた、無駄のないプログラムを組み立てることは難しい。それを、このリューグという人物は揚々と成し遂げて見せたのである。
決して複雑怪奇なプログラム構築ではないが、だからと言って容易に組み立てられるような式でもない。
故に、何処かに小さな無駄が存在しても決して可笑しいことではないだろう。
だが、このリューグという人物はそれをしなかった。如何なる小さなミスも置かすことなく、このプログラマーはこのプログラムを完成させて公開して見せたのだ。
――興味深い。
暫くの間リューグの公開したプログラムを眺めていたテオフラスは、不意にそんなことを思った。
同時に、ある種の既視感を覚えたのだ。
リューグの組み立てたプログラムの凄まじさと鮮麗された式の形は、今は亡きとある天才の技巧を彷彿させた。
まるで彼の天才の再来を思わせるそのプログラマー。名前しか知らぬその人物。それもネットゲームの中でのPCの名前だけ。
俄然、興味が沸いた。
このプログラマーが何者なのか、テオフラスはさっそくその人物を探すべくあらゆる手段を使ってそのPCの足取りを追った。
その作業をしている間、これまで自分の中で燻っていた何かの正体にテオフラスは気づいた。
自分は求めていたのだ。
己を打ち負かす者を。
自分自身が勝ちたいと思う相手を。
これまで天才と呼ばれ続け、さも当然の如く天才を自負していた自分の自信を粉砕し、その上で自分が対抗したいと思うその存在。
――好敵手。
とでも呼べばいいのだろうか。
そう。少なくともテオフラスにとって、リューグは気づけばそういう存在となっていた。自分より若い。しかし、自分を上回る才能を持つ、発展途上のその剣士を、テオフラスは常に意識していた。
そして、今も。
テオフラスはある場所に向っていた。
《十二音律》議会の際に手に入れたアイテム――あのHP回復薬に偽装した劇薬。おそらく接種すれば現実の麻薬接種と変わらぬ症状を引き起こすであろう薬物の入った薬瓶を掌中で転がしながら、テオフラスは大通りの右に曲がってその場所にたどり着く。
――ギルドホール。
それも、この都市――ユングフィに存在するギルドの中でも大手に類する初心者サポートを謳ったギルド……『ガーディアン』の。
「……誰も、想像しなかったことだろうな」
似非商人とも言うべき男――ロノロ・アクノムから受け取った薬瓶の出所を、本来はプロテクトのかけられている情報を強制解析することでプログラム内に保存されていた所持者データに書き込まれていた名前の幾つかは、このギルドに所属する者たちの名前で占められていた。
(初心者サポートを謳い、この都市に在する多く《敗者》たちの保護を行い、ユングフィの守り手と呼ばれるギルド……一転して違法アイテムの流通を担っているギルドに様変わりか――滑稽なことだ)
手の平で転がす薬瓶を弄び、テオフラスは歩きながらウィドウを開くと、それを手早く操作して目の前に聳え立つギルドホームの門を見据える。
――シュン……
という小気味良い音が耳を打った。
寸前までギルドホームの門前にいたテオフラスの身体は、一瞬の内に転移してホームの中へと移動していた。
本来、ギルドホームへはギルド内部からの許可がない場合、ギルドに属するメンバー以外が入ることは原則として許可されていない。PCそれぞれに存在する個別認識IDによる登録であり、運営側の厳しい監視システムによる制御があるため、従来の〈ファンタズマゴリア〉ではギルド部外者のPCが侵入することは不可能なのだが……現状の〈ファンタズマゴリア〉は運営側の監視及びGMによる警告も存在しない。
運営上の様々な制御システムなどは生きたままであるが、うるさい説教をしてくるGMもネットワーク管理者もいないのならば、システムへのハッキングで侵入不可領域であろうと、システム側権限の特別領域でもない限り、容易に侵入することが可能だった。
眼鏡のブリッジを右中指で持ちあげながら、テオフラスは皮肉気に笑みを浮かべる。
「まったく。幾ら運営側の監視がないからと言っても、これほど容易く侵入できるとは……もう少しプロテクトを強化するように、現実に戻ったらGMに進言するべきかもしれぬな」
呆れと嘲りの入り混じったぼやきと共に、テオフラスは一歩歩き出そうとして――不意にその足を引いて耳を澄ます。
幾つもの足音と、それに付随した金属同士のこすれ合う音。おそらくは身につけている鎧が走っている衝撃でぶつかっているのだろうと推測したテオフラスの眼前に、その音を引き連れた戦士が何人も姿を現した。
ギルド『ガーディアン』のギルドメンバーだ。突然の訪問者――否、侵入者の姿を確認した彼らは、言葉もなく険悪な表情で腰に吊るした剣の柄や、背に背負った槍に手を伸ばして侵入者であるテオフラスを警戒した様子で注視している。
そんな彼らに向けて、テオフラスは何を言うでもなくただ不敵に微笑んで見せ、身に纏う外套の衣囊に手を突っ込み、肩を竦めた。
と同時に、眼前に飛来する一陣の風に、テオフラスは眼鏡の奥の三白眼を鋭く細め――その風を一瞥する。
金の長い髪が揺れ、その間から覗く翡翠の相貌と視線が交差した。
その手に握られた魔法剣が首筋に当てられているのを驚いた様子もなく睥睨し、テオフラスは相手を見下ろし――そして鼻で笑う。
「金髪の魔法剣士――ユーフィニア・メーベか」
名を口にしたテオフラスに対して、剣士は鋭い視線を向けたまま時の孕んだ声ですごんだ。
「気易く私の名を呼ばないで貰えないか? 不法侵入者」
「そう言う台詞は、自分の腹に突き立てられている刃に気付いてから言って貰いたいものだ」
くく……と笑いながら告げられたテオフラスの言葉に、ユーフィニアはわずかにその目を見開き、視線を下へと移した。
するとそこにはいつ抜かれ、いつ突きつけられたのかも気づかない内に、一振りの短剣が軽鎧の継ぎ目に突きつけられていた。僅かでも力を込めれば、肉を割いて内蔵穿つだろうその短剣を見て、ユーフィニアは翡翠の相貌を驚愕に見開く中、テオフラスは小馬鹿にする様子で告げる。
「いちいち相手の言葉に惑わされるな。これが狂言であった場合、貴様は相手から注意を反らしたことになる。私が貴様の敵であるならば、その間に生じた隙を利用して貴様の剣を抑えて、その鼻頭を殴るところだぞ」
不遜な態度のまま矢次に飛んだ言葉に目を白黒させるユーフィニアから短剣を引き、同時に首筋に添えられた剣を無造作に払いながらテオフラスは歩き出し、数歩歩いたところでふと歩みを止めて、彼は手にする柄頭に手の平大の、石榴の輝きを放つほう玉を嵌めた、酷く意匠の凝らした刀身を持つ短剣をひらひらと揺らして見せながら言った。
「ついでに言えば、この剣は伝説級武具《真理を秘せし錬剣》だ。貴様ら如きの鎧など造作なく破壊するぞ」
その名を聞いた瞬間、ユーフィニアを含めた『ガーディアン』の一同がぎょっと目を剥き言葉を失った。
伝説級武具《真理を秘せし錬剣》と言えば、クラス錬金術師たちにとって喉から手が出るほど求めて止まない秘宝中の秘宝である。
アゾットとは、伝説の錬金術師パラケルススが常に所持していた、錬金術の秘奥である賢者の石を柄に嵌め込んでいたと云われる短剣であり、その剣の名を冠する《真理を秘せし錬剣》は、保持するだけで錬金術師のクラススキルである《鎌金》の成功率を大幅に向上させるという効果を始め、様々な補正効果を及ぼすポテンシャルを秘めた短剣である。
また、伝説級武具保持者があまり多くないという理由からあまり知られていないことだが、伝説級武具は退陣戦闘において圧倒的な有利性を持っている。
武具、そして防具には等しく弱点というものが存在し、そこを攻撃命中させた場合相手の武具防具の耐久値を大きく削ることができるという特性が〈ファンタズマゴリア〉のシステムに存在した。そして、そのシステムは伝説級武具での生じた場合威力ははるかに高まりS級以上の武具防具でもない限りその耐久値をほとんどゼロにすることができるのである。
先ほどのテオフラスの言葉は、ユーフィニアを始め、『ガーディアン』一同の武具防具がBからA級であるのを見抜いた上での発言だ。そのランクの装備ならば、《真理を秘せし錬剣》だけでどうにでもなるとテオフラスは判断したのだ。
半ば茫然とする『ガーディアン』たちを置き去りにし、何の弊害もなく奥へと足を進めるテオフラスの背をしばし呆然と見送っていたユーフィニアは、暫くしてから我に返って、慌てて歩き去ろうとするテオフラスの後を駆け足で追う。
「ま、待て! 貴様は何者で、『ガーディアン』にいったい何の用があって侵入したのだ!?」
「私はテオフラス・ホーエンハイム。此処へはあるモノを探してきた。以上」
ユーフィニアの言及をおざなりに受け流し、簡潔に説明する間も彼の歩みは止まらなかった。
「テオフラス……《十二音律》の《計測者》が、一体『ガーディアン』で何を探すというんだ!?」
怒号のような鋭い減給だったが、テオフラスはその声を無視して目指すべき場所へと一目散に歩みを進める。ユーフィニアの苛立ちが高まり、その眉間の皺が深くなるのも気にせず、現代の錬金術師はただただ目的の場所へと至る。
そこはギルドマスターの部屋だ。即ち、今は亡きエスターヴァ・カルナスの権限でのみ入出の許される場所だ。彼亡き今となっては、新たにギルドマスターを選出するまで誰ひとりとして入出することのできない不可侵領域と化した部屋である。
「……ふむ」
しかしテオフラスはそんな部屋の扉を一瞥すると、無造作に両手を翳し、自身の眼前に具現したウィンドウのキィを目にも止まらぬ速さで動かして、数秒ののちに動作執行を決定する。
かちゃ……という軽い金属音と共に、目の前の分厚い扉がゆっくりと開く様を目の当たりにしたユーフィニアが言葉を失っているうちに、テオフラスはその部屋へと侵入してしまう。
「お、おい!? 貴様、今のは一体――」
「五月蠅い。耳障りだ、口を閉じていろ。無能」
「むの……!?」
「少しは考えて発言しろ。ただ質問を投げて答えをもらえるのは子供だけだ」
勝手すぎる罵倒の言葉に思わず絶句するユーフィニア。その間も我が物顔で部屋の中を睥睨するテオフラスは、徐にウィンドウを操作して画面に3Dモデリング化した部屋の設計図を見据え、やがてある一点へとその視線を固定した。
「本棚か……随分と古典的な場所を選んだな」
テオフラスは此処にはいない部屋の主に向けてそう嘲笑すると共に、目的の場所へと通じる虎穴を射抜くように見据えてキィを叩く。
――術式が走る。
この世界の――MMORPG〈ファンタズマゴリア〉における絶対不変の物質に無数の亀裂が生じ、物質を構成する情報に数多の乱れ(ノイズ)が駆け巡った。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ……
無意識のうちに嫌悪感を呼び起こす不快な音が室内全体に反響し、テオフラスは眉を顰め、ユーフィニアは思わず耳を塞いで小さく悲鳴を上げる。
走らせた術式が悉く阻まれ、プログラムの進行を拒否し、その本棚を形成する骨組を崩せない。
止まぬ乱れ。その原因が何であるのかを悟り、テオフラスは不快そうに目を細めた。
「――聖人君子面してた割には、随分と小賢しいことをしているじゃないか」
忌々しげにそう呟くと、テオフラスは新たに現出させたウィンドウのキィを乱打した。
本棚にかけられているのは何重にも強化された強固な防壁だ。それも通常のコンピュータデータに施されるような簡素なものではなく、個人によって徹底的に強化を施された強化術式型。ただのゲームプレイヤーである《来訪者》が施せるようなものではないし、一介のプログラマーでもここまで上等なコードを組むことはできないだろう。
テオフラスの口角が不敵に吊り上げ、愉悦する。
「なかなかに良いコードだが……この程度なら児戯の領分でしかないな――〈審裁者〉よ!」
嘲りの言葉を投げ、それ以上に万感の思いを込めて決定キィを強打した。
刹那、紫電が廻った。
本棚目掛け、四方に具現した術陣から巨大な光芒が爆ぜ迸る。光の奔流に込められた多大な情報量が本棚に施された多重の防壁を侵食し、本棚を構成する情報を破壊してゆく。
テオフラスの放った術式が次々と本棚を虫食んでゆく。ポリゴンに張りつけられたテクスチャが次々と剥がれ、まるでテレビの砂嵐のように形を成していた情報が虫食まれる。
――そして、それは唐突にして爆散した。
甲高い破砕音と共に無数のポリゴン片が部屋一面に四散すると共に、鎮座していた巨大な本棚が完全に消滅し、そこにはぽっかりと口を開いた大穴が姿を見せる。
そんなところに秘密の通路があるなどとは思ってもみなかったのであろうユーフィニアが絶句する横で、テオフラスは好戦的な笑みを口元に浮かべた。
「地獄の入口とご対面……さて、その奥底には何がある?」
一人ごちるようにそう言葉を口にし、テオフラスは特に警戒した様子もなくその穴の中へと入り――そしてそれを見つける。
ギルドマスターの部屋の隣は、一種の隠し部屋となっていた。そこに積み上げられているのは大量の積箱と、乱雑に置かれた大量の薬瓶。その部屋の中を見回し、テオフラスは無造作に手近にあった瓶を手に取ってぽんぽんと弄びながら瓶を指でクリックし、ポップウィンドウを表示する。
そこに表示される情報は滅茶苦茶で、ほとんどの文字が文字化けしていて読めるようなものではない。テオフラスは更に手元にいくつかのウィンドウを表示し、瓶の中身の構築データのコードを表示して黙読する。
高速で流れる無数の文字列を高速で視認し――やがて目的の文字を見つけた。
――C11H15NO2
「ビンゴ」
不敵な笑みと共に、テオフラスはそう言った。そんなテオフラスの背に向けて、遅れて隠し部屋に入ってきたユーフィニアが理解の及ばないという様子で目を見開いたまま、誰にともなく言葉を口にした。
「……なんだ、これは?」
その問いに対し、テオフラスは何でもないという風に肩を竦めながら答えを投げた。
「《十二音律》にとっては確信――『ガーディアン』にとっては悪夢の決め手となるだろう代物……と言ったところだ」
答えを返しながら、テオフラスはいくつものウィンドウを閉じると同時にメール作成のウィンドウを開く。即座に対象に向けてメールを一斉送信すべく文面を起こそうとした――その矢先、
巨大な爆発音が何処からともなく響き渡った。
テオフラスとユーフィニアが目を剥き、慌てて隠し部屋の入口からギルドマスターの部屋へと移って音の出所を探し、ふと視線を窓の外に向け――そして絶句する。
立ち昇っていたのは、無数の火柱だった。
しかもそれは、二人が窓の外を眺めている間も次々と数を増していく。更に爆発音の間隙を縫うようにしてかすかに漏れ聞こえるのは、爆発音より更に多数の悲鳴……。
二人が半ば愕然とする中で、開け放たれたままの部屋の入口から一人の剣士が飛び込んできた。息も絶え絶えと言った様子で飛び込んできたその剣士は、呼吸も整わないうちに顔を上げ、ユーフィニアを見上げて言う。
「副団長! 緊急事態です! 都市内に、都市内のモンスターが多数出現! 《来訪者》もAINも関係なく襲撃してます! 更に黒ずくめの一団も現れて、都市内は大混乱です!」
「なんだと!?」
突然の報告にユーフィニアが驚愕する隣で、テオフラスは忌々しげに舌打ちをする。
「先手を取られたな……」
「貴様、何か知っているのか?」
「知っていたところで、こうなっては最早手遅れだ。貴様はとっとと自分の役目を果たせ」
「ぐぅ……!」
またも正論と皮肉のコンビネーションに負かされて悔しげに唸るユーフィニアだったが、テオフラスの言っていることは何一つ間違っていないため、大人しくその言葉に従うように剣士を引き連れてギルドマスターの部屋を後にする。
その背を見送ったテオフラスは、改めてメール作成ウィンドウを開き、手短に文面をしたためると見直しもせずに一斉送信のボタンを押した。
メールを送り終えたテオフラスは無造作にウィンドウを閉じると、眼鏡を外して窓の外を睥睨する。
未だに立ち昇る火の手は止まない。むしろ被害はより酷いものと化しているようだった。
「……これも、貴様の仕業ということなのか」
誰に問うでもない。それは意味もないただの独り言だ。
それでも、そうでなければいいと微塵ほどには願っていたのもまた嘘ではない。
しかし真実は明るみとなった。最早疑う余地は何処にもない。
ならば、せめて――
「せめて《十二音律》として、我々の手で終わらせるべきなのだろう!」
唾棄するように言葉を吐き、テオフラスは《真理を秘めし錬剣》を手に、『ガーディアン』のギルドマスターの部屋を後にした。
◆ ◆ ◆
それは漆黒の軍団だった。
黒衣。
黒鎧。
黒装の騎獣――そのすべてが漆黒へと染め上げた一団が一堂に集った光景は、圧倒的な威圧感と存在感を放っていた。
深淵の如き暗闇の中。しかして彼らの姿は暗むことなく、そこに気迫と闘気――そして何よりこの空間に満ち溢れる殺気にも似た気配を以て、その漆黒の一団は自らが存在することを証明している。
そしてその中でも特に――その場に集う数百に及ぶ気配の中にいて尚、圧倒的な存在感を放つ影がゆらりと漆黒の面々を睥睨していた。
長い黒髪。その間から覗く双眸は深紅。肩にかけるようにして羽織るのは、漆黒に白地の十字の意匠を施した外套。その間から覗く刀の柄頭に左手を乗せ、男は幽鬼のように立ち上がり、一同を見回した。
――ディミオス・アルア。
この場に集った一団――即ち、《漆黒の十字架》を束ねる若き団長は、真一文字に結んでいた口元を僅かににぃ……と不敵に歪め、そしてゆっくりと腰かけていた岩から身を下ろし、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「よく集まった――亡霊共。生けることを望まれない、過去の遺物たちよ」
同時に、静寂……と一同が静まり返り、ディミオスの言葉に皆が注視する。その様子に、ディミオスは小さく笑いを漏らした。
この場に集った者たちは、別に彼の仲間だというわけではない。彼に忠誠を誓っているわけでもなく、別に彼に行動に共感しているわけでもない。
ましてや、友人などでも有り得ない。
――同種同類。
あるいは、戦という血肉に飢えた獣……。
それが彼――ディミオスと、彼ら――漆黒に彩られた数百名に、最も相応しい共通した言葉だろう。
《漆黒の十字架》とはつまるところ、そういう人間の集まった集団なのだ。
戦いを渇望む者。
戦いに餓える者。
得物を手に、敵をただ駆逐することだけに執着する者たち。
圧倒的な強者と相対じ、その魂が朽ち果てる瞬間まで戦いに臨む者たち。
そこに正義も悪も存在しない。
戦って、戦って、戦って、その果てで命尽きることを本望とする、ある種狂気にも似た願いを望む者たち。
剣に生き、剣に死ぬ。
そう望み、そのために戦場へ臨む者たち。
――戦闘狂。
それこそが《漆黒の十字架》の本質であり、ただひとつの統合意識だ。
「戦いの失われた時代。それによって置き去りにされた存在――それが俺たちだ。いや、俺たちだった」
百年前、《漆黒の十字架》を従えていた《魔王の玉座》は壊滅した。かつては《魔王の玉座》の策略によって、戦火と闘争に満ちていた時代は終わりを告げた。
戦場を生き場所にして死に場所にしていた《漆黒の十字架》は、それと同時に自らの存在意義を失うこととなった。
しかし、
「だが――俺たちはこうして存在し続けている。戦場を求め、戦いを求めて今なおこうして息づいている」
《漆黒の十字架》は存在を維持し続けた。組織の軍から一個の傭兵団と名を変え、形を変えて、百年という歳月を経て尚、その組織を存続させて――今、こうして彼らはこの場所へと集結した。
「そして今、俺たちは新たな戦場を見つけた。新たな標的を見定めた」
気配が色濃くなる。ディミオスの言葉に、その場に集った一同が多かれ少なかれ喜色に染まり、愉悦にその口角が吊り上がり、失笑があちらこちらから零れた。
同じくらい、ディミオスも笑みを浮かべる。不敵で、空恐ろしいほどの愉悦と享楽に染まった三日月が暗闇に映える。
「――この世界に異変が訪れる時、異界の地より力持つ者召喚されたり。
彼の者たち、その身に培う力を以て、救済の光とならん。
異界の地より訪れし者たち――その名《来訪者》と呼ぶ……協会の連中が謳う、愚かな御伽噺だ。お前たちも幾度も耳にしただろう。そして、その姿を拝んだことだろう」
そう言って、ディミオスが嗤った。
同時に、その場に集ったすべての者たちもまた、不敵に笑いを浮かべるのを見て、ディミオスは告げる。
「そうだ。今回の獲物は奴らだ。俺たちにとって絶好の獲物。狩るに相応しい、名ばかりの驕った英雄たち。俺たちの狩り場に迷い込んでくれた、ありがたい獲物たち……」
ディミオスは胸中でほくそ笑む。
実際、彼ら《来訪者》の多く歌に謳われるほどの実力はない。称賛に値する実力者など指折り。他の大多数は微々たる力しか持たぬ烏合の衆だ。
故に、彼らは羊なのだ。この広大な世界に突如として迷い込んでしまい、何をどうすればいいのかも分からず迷いながら必死にもがく、哀れで滑稽な仔羊たちだ。
だからこそ、ディミオスは気に入らない。
弱い者たちが、まるで自分たちが絶対の強者あるかのように往来を闊歩することを。
弱者が強者の影に隠れて、虎の威を借る狐の如く佇むことを。
ディミオスは――《漆黒の十字架》たちは、それを許容しなどしない。
故に、ディミオスは宣告する。己が同胞たちを見回しながら、その腰に帯びる刀の柄を叩き、
「あの英雄気取りな余所者たちを――」
静かな――されとてこの空間全土に染み入るような声音で、幽鬼は亡者たちに餌を投げ与える。
「――お前たちの手で、淘汰しろ!」
すらり……と長刀を抜刀し、ディミオスは己が得物を頭上に掲げた。
同時に空気が震撼するほどの歓声が空間を支配した。
漆黒の一団が一斉に己の得物を頭上に掲げ、ディミオスの宣言に悦楽するように方向を上げる。
同時に、一団の背後に衝撃が走り、暗闇の中に生じた亀裂から幾つもの光の帯が空間に飛び込んでくる。
その光の亀裂に向け、ディミオスは刀を突きつけながら宣言した。
「狩りの狼煙は上がった――総員、出撃しろ!」
「オオ!」という呼応の声と共に、最後尾に並んでいた一団がその場で反転。彼らはそのまま手にする得物を構え、その亀裂目掛けて駆け出し――そしてその亀裂へと思い切り得物を叩きつけた。
亀裂が瓦解する。
漆黒に身を染めた戦人たちが都市へと躍り出す。
かつて、世で最も恐れられた死を振り撒く戦士たちはこの時を以て解き放たれた。
解放されたその大穴から、次々と漆黒の兵団が外へと躍り出、その力を振るうべくかけ出す姿を見送りながら、ディミオスは手にした刀を器用に回転させ――刀の刀背で己れの肩を叩き、にぃ……とその口元に笑みを浮かべた。
「――さあ、楽しい殺し合いの始まりだ!」
誰にともなく宣言し、ディミオスもまた刀を手に歩き出す。
求める存在は多くない。だが、殺すべき存在はごまんと溢れている。
ぎぎぎぎぎぎ……とその手に握る刀が鳴いた。白銀の刀身に、僅かだが淡い朱の陽炎が纏わりつく。
それを一瞥し、ディミオスは楽しそうに笑いを漏らしながら刀に語る。
「我鳴るな……すぐに喰れてやるさ。お前の喰うべき獲物は、此処には山ほど存在するのだからな……」
そう……不吉な言葉を残し、ディミオスもまた深淵の如き暗闇から日の光に満ちた地上へとその姿を躍らせた。
そうして、賽は投げられた。
戦場となった大陸の名は第一大陸。
そして都市の名は――古都ユングフィ。
◆ ◆ ◆
かつん……と杖の石突が石畳の地面を叩く。
その瞬間、杖の疲れた場所を中心として、円周上に無数の光芒が駆け抜け、地面に幾十幾百もの光の奇跡を生み出し、それはやがて巨大な一つの魔法陣を描いた。
そして、それはまるで伝播するかのように数を増していく。
地面に描かれた極大の魔法陣に引き続き、虚空に向け四方八方へ新たな魔法人が描かれていった。
一つが二つへ。二つが四つへ。四つが八つへ。八つが十六に……それは倍々ゲームのように大小問わず増殖していき、その数は瞬く間にして三桁を超える。ようやくその勢いを止めた頃にはその数は千にも届くほどの数へと膨れ上がっていた。
神々しく、そして同じくらい恐ろしく思えるほどの魔法陣の群衆。その真中で、その人物はくつくつと笑い声を洩らす。
「さすがにこれほどの術式を同時に起動したことはなかったのですがね。もしゲーム時代であったなら、間違いなく容量負荷で凍結すること間違いなし……なんとも皮肉なことです」
これほどの大規模の術式を同時に――即ち多重起動しようものなら、個人の持つようなコンピュータでは容量が足りず、確実に処理落ちしたこと間違いなしだろう。
しかしゲームではない、異世界と化した今ならばその心配もなかった。重要なのは、展開した無数の術式を、自分の脳で――意識下で如何に間違うことなく正確に扱い切れるかというその一点に尽きる。
人間の脳の情報処理能力には限りがある。正直なところ、これだけ同時多重起動したプログラムを人間の二つしかない目で正確に黙視し、一つしかない脳で完全に制御するなど、人間の限界に挑むに等しい行為だろう。
しかし、彼にはそれができる自信があった。
自分の望みを成すためになら、この程度の困難など唾棄するに値する些事に過ぎない。
――この程度のことが出来なければ、それ以上に困難な己の望みなど、到底かなえることなど出来はしないのならば、
「たとえ不可能と言われようと、可能にしてみせますよ」
男の口元が不敵に歪む。
手元に具現する十を超え、百をも上回る無数のウィンドウを無数の記号が人間の視認速度を上回る勢いで、下から上へと駆け抜けていくのを冷静に見据えながら、十本しかない両手の指がそのさらに上を行くような速度でキィを叩く。
淀みも迷いもない。
正確に、そして的確に十の指がキィを叩き、そうして続々と術式へ指令を送り続ける。
一つ、また一つと術式が光を放つ。
一つ一つと魔法陣に宿る光が、連鎖するように中央の地へと描かれた巨大魔法陣へと伸びていく。
描く物は魔法陣。そして、魔法陣の連なりが描くのは、より巨大な魔法陣だった。
小さな無数の魔法陣を繋げることで、より巨大で強力な魔法陣を描いていく。個々の小さなプログラム同士が連動し、より大きな物へと形を組み立て直していく。
千もの魔法陣を構成するプログラムが連鎖し、そうして生じた巨大な魔法陣がそうして完成すると、魔法陣が発していた光芒はとうとう目を開けていられぬほど強大なものとなり、最早瞼を閉じていても目を焼くほど強力な光源と化していた。
しかし、その光の中央に座す男はまるでその光が心地良いものであるかのように恍惚な表情を浮かべて酔い痴れる。
術式は完成した。
何の弊害もなく、これまでの常識を逸脱した組み方で成されたそれは――まさにこれまでの〈ファンタズマゴリア〉には決して存在しない――まったく新しい術式。
「……これが狼煙。この異世界の捕らわれた我々を開放する――転機の告げる狼煙となる!」
無数のウィンドウが停止し、男の目前に表示されたウィンドウが明滅する。
その男は、愉悦するようにそのままウィンドウに表示されたキィをタッチした。
――――構築プログラム、異常なし。
――――術式、起動。
システムアナウンスが認証を知らせ、同時に彼を囲っていた無数の魔法陣が超新星の誕生を彷彿させるような爆発の如き光を放った。
無数のウィンドウが目まぐるしく明滅し、そこに書き記された幾億ものコードが駆け巡り、プログラムの正常起動を知らせる。
男は歓喜にほくそ笑んだ。
これで目的の手順は完成した。最早何者も、自分の目的を阻むことなど出来はしない。
愉悦に、口角が吊り上がる。
静謐の如き双眸。その奥底に宿る狂気が燃え上がった。
かつての彼を知る者ならば、到底記憶の中の彼とは決して結びつかぬであろう、その歪んだ表情は、まさしく狂人と呼ぶに相応しい風貌と化していた。
かつて聖人君子の如く呼ばれた、十二の旋律に名を連ねる聖職者
誓約を掲げる右腕が決定したのは、すべてを滅ぼす悪魔の如き所業。彼の組み立てたのは、生ける命を貪る召喚の指令。
金髪の麗人――〈ファンタズマゴリア〉に存ずる《来訪者》の中で、最も尊き神官。
「――皆で、帰りましょう。我々の、あるべき世界へ!」
エスターヴァ・カルナスは、冷たい微笑みと共に誰の耳にも届かぬ言葉を口にした。