Act15:漆黒の十字架
戦場跡――というのは、いつの時代、どの国であろうと悲惨であり悲壮である。戦いと戦いがひたすらに繰り広げられ、殺し合いが連鎖し続けた果て、そこにあった命というものを根こそぎ狩りとって不毛の地へと変えるのだ。
残されるものは幾万の不遇と幾千の無為。
そして幾万の無意味と、数えるのすら億劫になる屍山血河だけだった。
それはこの〈ファンタズマゴリア〉であっても変わらない。
その戦場に残されたものは何もない。意味ある死は何処にも存在しなかった。
ましてや血も流せず、死ねば肉体すら消滅するこの〈ファンタズマゴリア〉では、死んで残るものなど本当に僅かな残滓だけ。
その者が身に纏っていた装備だけが、その死者の残り香となって地に転がる。
そうして転がったものですら、最早所持者の失われた遺留品であり、それはつまるところ、ゲームのシステム上落し物扱いとなり、誰にともなく拾われていく。
だから、
――だから、その男の遺留品が残っていたのは、ある種の奇跡に等しかった。
エスターヴァ・カルナスの装備していた限定者装備。残っていたのはそれだけだったが、逆にそれだけが残されているという事実が、彼の死を多くの者に知らしめる結果となったというのは酷く皮肉だった。
その場に集った皆が騒然としたままに転がる装備品を遠巻きに見ていた。
リューグを始め、《十二音律》に連なる面々が来てからもそれは変わらない。むしろ、彼らがこの戦場に現れたことにより、《十二音律》の一人が欠いた事実を彼らは間接的に理解した。
皆が騒然とし、《十二音律》の一同が苦渋の表情で沈黙を保つ中で――
「……これは」
リューグ・フランベルジュだけが、地面に落ちたまま放置されているエスターヴァの装備ではなく、その戦場跡に突き立てられているそれを見上げていた。
長い鑓に括りつけられた、漆黒の布地に描かれた白い十字架。
この荒野のように荒れた地に不自然なほどその存在感を示す、風にはためいた漆黒の旗印。
何故、これが此処に存在するのか。
リューグの脳裏に浮かんだ疑問はそれだった。
リューグは知っていた。
その旗の存在を。
その旗に記された意味を。
その旗に込められた意志も、その旗を掲げる存在たちのことを。
――そしてその旗が、本来ならばこの〈ファンタズマゴリア〉には疾うに存在しなくなったはずの、隠匿されし者たちの証であることを……。
有り得ない。
そうリューグの頭が否定する。しかし、
「――『ガーディアン』の主力が――」
「――黒衣の刀使いが一撃で――」
「――真っ黒な衣裳の一団が――」
「――気味の悪い奴らだった――」
――真っ黒な衣裳の一団。
遠巻きに様子を見守る野次馬たちの会話の中から漏れ聞こえた言葉が、リューグの否定を否定し、同時に確信を抱かせる。
「……一体、何が起きてるんだよ」
内に憤る感情をぶつける場所を見つけられぬまま、リューグは頭上に揺れる旗を見上げながらそうぼやいた。
対して、漆黒に描かれた十字の旗は、まるで彼を――この場に集ったすべての人々を嘲笑うように揺れていた。
◆ ◆ ◆
ウォルター・グレイマンは半分苦笑い、半分呆れ顔でその客のために新しい麺を茹でていた。
目の前の席に座る剣士は、彼にしては非常に珍しい苛立ちの宿った顔で蕎麦を啜っている。そんな客の様子に、ウォルターは新しい麺を茹でながら、ため息一つこぼした後に呆れ顔で言い放った。
「お前さーリューグ。飯食う時くらい渋面浮かべるのは控えろよ……」
「余計な御世話だ」
口に含んだ箸を噛み砕かんばかりの勢いでガチガチと歯を鳴らし、リューグはウォルターの台詞をつっけんどんに一蹴する。
「まあ、お前が荒れんのも解からんではないがなぁー」
「そんな、荒れてる風に見えるかい?」
「まあ、それなりに――だな」
包丁を小気味よく振りながら、ウォルターは苦笑で応じた。
「ま、お前だけに限ったことじゃないさ。ヒュンケルの野郎だってそう。ユウにしてもおんなじ。他の客だって、心なしか震えてやがる。皆陰気な雰囲気で来るから、こっちだって鬱陶しくてかなわねー」
心底そう思っているのだろう。彼は心底疲れたとでもいう様子で肩を落とし、大きくため息を漏らす。
「まあ、仕方ないわな。誰だって、《十二音律》の一人だって死んでしまうなんて考えていなかっただろうしな。ましてや、ギルドホームに引き籠ってる『ガーディアン』の長様が――な」
――《十二音律》が第六番、〈審神者〉エスターヴァ・カルナスが死亡したという事実が判明してから四日。ユングフィの街にいる《来訪者》たちは大小違いはあれど、混乱と当惑に彩られていた。
それも仕方がないことといえば仕方がないことだろう。誰もが超越存在である《十二音律》が敗するなど考えたことはなかったのだ。
クラスや分野は違えど、《十二音律》の戦闘技能は他を圧倒する。それが後衛援護型である神官であっても変わらない。エスターヴァの武器は長杖であり、彼の戦闘スタイルはその長杖を用いた受け流しからの反撃魔術だった。相手の攻撃を完全にパリィし、そこに生じた隙を狙って無詠唱での下級魔術による迎撃である。
敵の攻撃を完全に見切る集中力と動体視力。即座に対応する反射神経。敵のHPがどれだけ多かろうと、ダメージの稼げない下級魔術を叩き込み、微々たるダメージを与え続けることに耐える忍耐力。そしてそれを維持し続ける根気に、僅かなミスも恐れぬ胆力。それらを併せ持ったエスターヴァだからこそできた戦術であり戦技だった。
その技の冴えは歌に聞くほどであり、ゲーム時代エスターヴァが戦った姿を見たことがあるウォルターも一度真似てみたことはあった。
そして実際に試してみたからこそ、迫って来る攻撃から生じる恐怖を抑え込んで何度も繰り出される攻撃を的確に受け流して、ほとんどゼロ距離で魔術を発動させることができたのは数回だけで、長時間の戦闘で行使できるものではない――というのが結論だったということだけは、ウォルター自身覚えている。
(そんなすごい奴でも、死ぬ時は死ぬ……っていう例になっちまったわけね)
皮肉るように、ウォルターは胸中でそう呟いた。
亡き人物のことを悪く言うわけではない。ただ生けとし生ける者の摂理を鑑みたようだったというだけ。
ただし、それがゲームの世界でなければ――であるが。
この世界で死んだら、肉体は消失し、意識は何処へと消え去る。死して、この世界に残るのは装備品と所持品および所持金だけである。死ねば身体はポリゴンの欠片となって砕け散る。だから死者を確認する方法は、その死に際を見るか、残されたアイテムから判断する以外の術はない。
ただ、死んでしまっているにしろ、実はそうでないにしろ、エスターヴァ・カルナスの死――それによる影響は大きかった。
混乱と当惑も多いだろう。しかしそれ以上にユングフィ全体を覆っているのは、虚無感と絶望であるのだろうと、ウォルターは思う。
攻略組以上に、《十二音律》というのは大多数の《来訪者》にとって希望の象徴のような存在だ。
通常のプレイヤーでは決してたどり着くことのできない、ゲームの領域を超えた技巧と能力を持った彼らは、多くの《来訪者》たちの憧憬と羨望を一身に集める英雄なのである。その英雄が潰える。それがどれだけの影響を及ぼすか、それは現状のユングフィを見れば一目瞭然だった。
混乱と当惑はもはや当然であり、そこから生じる無数の不安と恐怖。猜疑心が渦巻き、小さいものは喧嘩に始まり、大きいものではギルド同時の闘争にまで発展する暴動事件が多発していた。
更に今までスラムで燻っていた《敗者》たちが、その騒動に便乗して都市の各地で騒動を起こし出した始末である。
窃盗、恐喝、暴行に――果てには殺人。《来訪者》もAINたちも関係ない無差別な殺しまで起き、誰もが恐怖と隣り合わせの日々を過ごす羽目にまで陥ったのだ。
何より問題なのは、それら都市内部で生じた《来訪者》による事件を取り締まるユングフィの守護ギルド『ガーディアン』が、ギルドマスターの不在並びに、ユングフィ北で起きた謎の武装集団との戦闘によってその人数を大幅に減らしたことも相まって、組織としての機能の半分が失われていることにより、状況は悪化の一途を辿っている。
現状を鑑み、ウォルターは改めて溜息をつく。
「ったく……どうなんだよ、ユングフィは」
「さあね」
「しっかりしてくれよな、〈聖人〉さんよー」
「コレばかりは、僕にもどうすることはできないって」
他人事のように切り捨て、リューグはズルズルと蕎麦を啜った。と同時に、
「よう、オニーチャン」
ドカ……っと、リューグの隣の席に――というか、リューグを囲むようにして五人の男たちが何処からともなく姿を現した。
ウォルターは面食らった様に目を瞬かせて、唐突に表れたその男たちを観察する。
五人揃って似たような真っ黒のジャケットに袖を通し、ガニ股開きでイスに座るなり、リューグの背後に陣取ったりとしていた。
装備の質としては中の下。腰に帯びている短剣も、背に背負っている槍もDランクが良いところの代物。もしこの場にサクヤが居たら、怒髪天を衝くという言葉のままに怒鳴り散らしてしまうくらいに手入れが行き届いていない粗悪品。
(こりゃ駄目だわ……)
ウォルターは即座にそう断定した。同時に胸中で男たちに向けて合掌する。
しかし同情はしない。
絡む相手を間違えたというその点に関しては同情の余地は無きにしも非ずだが、彼らは間違いなく、自分の実力を自覚することなく、そして相手との実力の開きを推し量ることもできない愚図たちだった。ユングフィの現状に便乗して恐喝をしていることも含め、相手の力量を容姿だけで判断したこの男たちが、どう考えても完全に悪いのである。
さらに言えば、
(――こいつの食事を邪魔するとか、馬鹿の極みだわ)
そんなウォルターの思いなど露知らぬ男たちは、愚かにもリューグの肩に手を掛けて、やたら気迫だけは籠った声音で言った。
「随分と高そうな服着てるなぁ? 羨ましいねぇー。いまどきの若い連中はお金持ちで。それに――この剣」
続けて男たちが興味を向けたのは、リューグの背腰に括りつけられた一振りの剣。《十二音律》が一人、リューグ・フランベルジュが〈聖人〉の二つ名の由来でもある伝説級武具――《竜血に染まる法剣》である。
まさかこんな所で伝説級武具にお目にかかれるとは思っても見ないのだろう。男たちはそれがやたら高価そうな剣という程度の認識しかしていないに違いない。
……つくづく哀れな連中だった。
「ちょーっと、俺にも見せてくれよ」
そう言って剣に男が手を伸ばした瞬間、ついにリューグが動いた。
振り返り様に、腰の剣へと手を伸ばす男の横面目掛けて肘鉄を叩き込み、更にその勢いのままに立ち上がると同時に左の蹴足で顎をブーツの爪先で蹴り上げる。
そこからの動きも無駄がない。
突然の事態に茫然とする男たち目掛け、リューグは蹴り上げた男を盾にし、姿を隠して近づくと、一足飛びで男たちの頭上を飛び越え背後に降り立った。一人の後ろ首に手刀を打ち込んで意識を奪う。続けざまにその隣に立っていた男の襟首を摑みながら足を刈り、転倒する男の顔面を鷲摑みにして、そのまま渾身の力で地面に叩きつけた。
そこでようやく事態を呑みこんだ残りの二人が反応するが、リューグの動きはそれよりも早い。
男を叩きつけた体制のまま身を翻して反転すると、左に立つ男との間合いを詰めて頭突きを叩き込んで怯ませ、半歩後退しながら背後に立つもう一人の男を振り返り――
――ヒュッ……
右手で抜剣した《竜血に染まる法剣》をその喉元へと突き付けた。
更に左手で逆手のまま抜剣した愛剣、《黄金獅子の長剣》の切先を、寸前に頭突きをした男の首筋にぴたりと添えている。
「おー。お見事」
傍観に徹していたウォルターが、おざなりな拍手を送った。リューグは苦笑一つでそれに応え、しかし鋭い視線を男たちに向けたままに告げる。
「まだ、続けるかい?」
「……っ!?」
確認のその言葉を挑発ととらえたのか――激昂を露わにしたのは背後にいた男だった。
彼は首筋に添えられていた金色の長剣を素手で摑んで制止させると、反対の手を持ち上げて口を開く。同瞬、彼の周囲に光の奔流が迸った。魔術の詠唱を示す魔力の集束の証。
「っと――そいつは往生際が悪い、ってやつだぜ?」
そうぼやきながら、ウォルターはその手に愛用の十字杖――《灰者の十字架》を翳して魔術を発動させた。習得しているスキル効果を伴って、男の魔術よりも数段速く発動した下級魔術の光弾が男を穿つ。
安全地帯である都市内部ではダメージは与えられないが、その衝撃は相手をひるませるには十分な威力を宿している。
予想外の方向から放たれた光弾を受け、男の体を衝撃がモロに貫いた。と同時にリューグが男の側頭部に上段回し蹴りを叩き込み、蹴りつけた反動を利用して剣の腹を残った一人の頭へ叩き込む。
残った二人も意識を失い、地面に横たわる男たちを見下ろしながら、リューグは二刀を鞘に収めると、
「ちょっとその辺に捨てて来る」
そう言って男たちの襟首を摑んだ。
「おーう」
対して、ウォルターは投げやりな返事を返すだけだった。
――閑話休題。
「あー……蕎麦が美味い」
「あんがとさん、と」
戻ってきたリューグは、まるで何事もなかったかのように蕎麦の残りを口にしていた。ウォルターも、先ほどの乱闘など最初からなかったように穏やかな表情で蕎麦を茹でている。
ちなみに、先ほどまで地面に寝転がっていた男たちはというと、リューグの手によりもれなく近くにあるごみ捨て場へ頭から投げ込まれてきた後である。
蕎麦を食べ終え、汁まで飲み終えたリューグは箸をどんぶりの上に置いて「ごちそうさま」の言葉と共に手を合わせた後、しみじみとした様子で言った。
「次は牛丼が食べたいな」
「此処蕎麦屋だよ!?」
「なら秋刀魚の塩焼き定食で」
「人の話を聞けよ! 此処は蕎麦屋だ!」
「……使えない」
「俺が悪いみたいに言うんじゃねぇー!」
「お後がよろしいようで」
「よろしくねーよ!」
一連の流れに淀みはない。リューグから投げかけられる言葉に対し、ウォルターは的確な突っ込みを次々と返していき、突っ込みを終えた頃には肩で息をするくらいには全力だったらしい。
ぜぃはぁぜぃはぁと深呼吸をするウォルターをカウンター越しに見上げ、リューグは微苦笑しながら言った。
「お疲れ様」
「お前のせいだよ!」
肩を怒らせながらウォルターが吠えるが、その表情は疲れながらも笑っていた。その表情を見て、リューグもつられた様子で微笑を洩らす。
「……ありがとう。気を遣わせてしまって」
「気にすんな。こっちが勝手にやっただけだ。自分の作った物食べてる奴が不機嫌面してたら、誰だって気に掛けるって」
熱い茶の注がれた湯呑を渡しながら、ウォルターは微苦笑と共にそう告げた。それに対して、リューグは何を言うでもなくただ黙ってその湯呑を受け取って口を付ける。
そんなリューグに向けて、ウォルターは自分の分の湯呑に口をつけながら言った。
「まあ、お前が苛立つのも解からないわけじゃないぜ? 《十二音律》の一角、ギルド『ガーディアン』の長が死んだとなりゃ、誰だって動揺するし、そのせいで皆が不安がるのも仕方がないことだろ?」
そう言って視線をリューグに改めると、彼は何かを考えているように四千をさまよわせて――僅かに間をおいてからそっと首を横に振る。
「……別に、僕は彼が死んだから苛立っているわけではないよ。彼には悪いけどね」
「じゃあ、なんでお前はそんなにイラついてんだ?」
当然の質問をウォルターが投げかけると、リューグは暫し考えるように口を閉ざし、数秒ののちに語った。
「――僕が問題視しているのは、エスターヴァの死でも、彼の死による影響でもない。問題なのは、彼を殺した一団のことだ」
「……確か、黒装束の一団――って話を聞いたなぁ……で、そいつがどうかしたのか?」
何時になく真剣で、同時に言葉の端々に苛立ちと懸念の色が残るリューグの様子に、ウォルターは我知らずの内に語気が重くなった。
そんな彼に向けて、リューグは一拍置いて言った。
「奴らの名前は《漆黒の十字架》。本来なら、この〈ファンタズマゴリア〉には存在してはいけない――滅んだはずの軍団だよ」
何故だろうか。リューグの口から告げられた一団の名。一度として聞いたことのないはずのその名前を耳にした瞬間、ウォルターは底知れぬ恐怖に襲われ、返す言葉もないまま茫然と目の前の青年を見つめた。
対するリューグはというと、ウォルターの反応を見て――まるでそれが当然だといわんばかりに苦笑を洩らして肩を竦めて見せた。
そして「ごちそうさま。それと――気をつけて」と言い残すと、彼はカウンターに硬貨を置いてその場を後にしたのである。
残されたウォルターは、空になったどんぶりを言葉なく回収しながら、去っていく青年の背中を見送り、諦観した風にため息を漏らす。
「……ああ、くそ。また面倒事がやってきたってことかよ」
自分の吐きだした言葉が、そう間もない内に現実になるだろうという予感をひしひしと感じ取りながら、ウォルターは諦め顔でどんぶりを洗い始めた。
◆ ◆ ◆
「ちぃ……所詮はこの程度か」
漆黒を身に纏った男は、舌打ちと共にそう言葉を吐き、手にする刀を血振いする。刀身を濡らしていた血と脂を払うと、男は黒髪の間から覗く深紅の相貌で周囲を瞠目した。
彼の周囲を彩っていたのは、無数の光の粒子、砕け散ったポリゴンの残骸が、彼の姿を呑みこむほどの量と勢いで周囲を染め上げていた。
それは即ち、この場でそれだけの量の命が死散したことを意味する。人一人とその周辺が見えなくなるほどの量のポリゴン片の奔流――それは果たしてどれだけの命の数がその手によって奪われたのか――一見すればその幻想的風景は、見る者に感動を促す情景とは裏腹に、想像するだけでもおぞましい光景だった。
その四散し、霧散していくポリゴン片の奔流を見上げながら、男は不機嫌そうに眉を顰める。
「――《来訪者》。異世界から訪れし、救済の光……その割には大した実力も持たない雑魚ばかりじゃねーか。つまらねぇ……」
吐きだされた言葉に込められた不満と失望の念。ただただ強さを追求する男にとって、弱者と戦うことほど苦痛なことはなかった。
求めるのは強い者と戦うこと。そしてその相手を完膚なきまでに打ち倒すこと。
それだけが望みだ。
故に、ほんの数分前まで相手をしていた《来訪者》たちは、男にとって相手をするのも億劫になるような、刀の錆にする価値もないような弱者ばかりだった。
「結局、異世界の連中だろうがなんであろうが、俺には到底及ばない雑魚共ばかりというわけだったみたいだな?」
黒い髪を揺らしながら、男は背後を振り返ってそこに立つ人物へと尋ねた。しかしその当人はというと、男の言動に眉一つ微動だとせず、逆に――
「随分と浅はかですね、貴方は」
男の侮りに、その人物はそう言って失笑を漏らした。
当然――男の眉間に皺が寄り、その柳眉が僅かに吊り上る。途端に男の全身から殺気が膨れ上がり、圧力となって周囲を圧倒する。しかし、それだけの殺気を目の当たりにしても、対するその人物は眉一つ微動だとせずに佇んだままだった。
威圧したところで無駄と分かりながら、男は鬱憤の欠片でも発散したいのか、腰におさめた刀の鯉口を切ってみせる。
その様子を見て、相手は肩を竦めながらかぶりを振った。
「そんなに脅したところで意味がないことですよ。そして、先ほどの話の続きですが――」
いつの間にか、相手の手には柄の長い魔法石で装飾の施された杖が握られ、その杖の先で、からかうように男の刀の柄頭を叩き、言った。
「貴方が相手をした《来訪者》たちなど、末端の末端。そのような人々ばかりを殺して自分が最強などと吹聴するには――貴方はまだ、《来訪者》を侮りすぎていますよ?」
「……なに?」
男の眉が、ぴくりと上下する。その反応に、相手がにこりと微笑んだ。
「貴方は《来訪者》という存在を知らな過ぎる。あなたがこれまで相手にしてきた人々では到底足元にも及ばない超越者たちを、貴方はまだ知らない」
「超越者――だと?」
「ええ、彼らは総じて、そう呼ばれています。あるいは――至高存在とね」
諭すような口調で告げられたその呼び方に、男の背筋がぞくりとするものが走った。そんな男に向けて、対者はつらつらと楽しげに言葉を連ね語る。
「彼らは貴方が思っている以上に強いですよ。《十二音律》――そこに名を連ねる十二人の超越者たち。すべての《来訪者》たちの羨望を一身に受け、〈ファンタズマゴリア〉に存在する英雄とすら呼ばれる者たち――特にその中でも、第一番の〈荒人神〉と呼ばれる《来訪者》最強と謳われる刀使い――草薙・タケハヤと、第九番〈聖人〉と呼ばれる竜殺しの剣士――リューグ・フランベルジュは別格です。《来訪者》の中でも、戦闘に関してこの二人に及ぶ者はほとんどいない。即ち――」
朗々と歌うように告げられたその話に、男は「くっ――」と笑いを洩らして続きを阻み、そして、にいぃ……と口角を釣り上げ、
「――そいつらを殺れば、俺がこの世界で最強というわけだな。くっくっく……くははははははははははははははははははははははははははー!」
くつくつと笑いを漏らしながら、男は対者の言葉を引き継ぎ言い放った。その声音は何処までも楽しげで、何処か恍惚感すら漂っている。
剣鬼が嗤う。
幽鬼が哂う。
――笑う。嗤う。哂う。
笑い声が木霊した。すべての音が消え失せ、この世のすべてが男の嬌声によって包まれたかのように、周囲の音は、すべてその男の笑い声によって塗り固められていく。
笑い声が木霊し、木霊が反響して音を肥大化させ、大きく広まった反響が再び木霊となって新たな反響となり、その笑い声を拡大する。
ただ一人による笑声の大合唱。まるでそこに宿る狂気が伝播するが如く、男の笑いは何処までも響き渡り――
――斬。
抜刀の一閃が一文字を描いた刹那、そのすべては瞬く間に静まっていた。
笑い声もない。
木霊もなく、ましてや狂喜も存在しない――ただ音のない静寂の中で、男はゆっくりと抜刀の姿勢から無行の位へと構えを解き、対者を振り返って問うた。
「そいつらには――何処に行けば戦える?」
その言葉に、相手は満面の笑顔で告げた。
ただ一言、
「お教えしましょう」
と。
◆ ◆ ◆
「《漆黒の十字架》――か。何者なのだ、そいつらは?」
相も変わらず書籍の山に埋もれたような状態のまま、ヒュンケルは視線を一切相手に向けようともしないまま質問を投げた。
「一言でいえば、秘密結社だよ」
少し離れた場所で、立った姿勢のまま本のページを捲りながらリューグはおざなりに答えを返す。
「――秘密結社……?」
そこでようやく、ヒュンケルが本から顔を上げて視線をリューグへと向けた。リューグは本を閉じながら頷いて見せた。
「そう。僕らのいた現実にも存在した、〝シオン修道会〟や〝イルミナティ〟のような――その秘密結社さ」
「その秘密結社様たちに、あのエスターヴァが敗れたって言うのか?」
眉目秀麗な顔立ちに反する渋面しか浮かべぬ友人に向け、リューグはそっと首を横に振る。
「正確には、秘密結社の私設軍隊だよ。〈ファンタズマゴリア〉に存在した最大最悪の秘密結社――《魔王の玉座》のね」
まるで何かを懐かしむようにしてその名を口にしたリューグの様子に、ヒュンケルはふと違和感を覚えた。生じたのは――言ってしまえば僅かな疑問。しかしそれがなんであるのかヒュンケル自身よく分からなかった。
「……」
だから生じた疑問に関して、ヒュンケルは自然と口を噤む。
眉を顰めるヒュンケルの様子に、リューグは「どうかしたのかい?」と軽く首を傾いだが、ヒュンケルは「なんでもない」とかぶりを振った。
「エスターヴァとあの男率いる『ガーディアン』を容易くねじ伏せるだけの戦力――《漆黒の十字架》に、それらの戦力を所有する秘密結社《魔王の玉座》か……笑えないな」
皮肉気な笑みを浮かべながら、ヒュンケルは適当に言葉を投げた。すると、
「そう……本当に笑えないんだよ。だって彼らは存在しないはずなんだから」
げんなりと疲弊した様子で、何気なく吐き出されたリューグのその言葉に、今度こそヒュンケルは目を剥き、友人を凝視する。
「……どういう意味だ?」
「ん、なにが?」
「存在しない――という部分だ」
「ああ、それね」
ヒュンケルの言葉の意味を送れて理解したリューグは、物知り顔で肩を竦め、隠す様子もなくあっけらかんと返答する。
「《魔王の玉座》って組織はね――この世界の、現在の時代の百年くらい前に壊滅してるってことだけど……それがどうかした?」
まるで当たり前のようにリューグは言ってのけるが、ヒュンケルはそのような話は初耳だった。この〈ファンタズマゴリア〉でも随一の知識人――〈賢人〉の二つ名を与えられたヒュンケルですら知らない情報。
それを、この灰色髪の剣士はさも当たり前のように知っている。その事実に眉を顰めるなというのが無理な相談だった。
(……何処でそんな情報を手に入れてるんだ。こいつは)
思わず頭痛を覚え、ヒュンケルは眉間を指で抑えてかぶりを振る。その様子に、リューグは訝しむように首を傾ぐが、そのキョトンとした表情が余計にヒュンケルの癇に障った。
(……一度、問いただす必要があるな)
そう胸中で決意したのだが、それよりも先にリューグが視線をヒュンケルからそっと廊下へと向ける。彼の左手が腰に吊るした剣の鞘に添えられると、同じようにヒュンケルもその漆黒の外套に隠れた太腿に括りつけている銃帯に手を伸ばし、深紅の相貌を細め――息を顰めた。
この家の最奥。この本に埋もれるヒュンケルの巣へと通じる廊下は一つしかなく、二人の意識はその狭い通路へと集中する。
「数は?」
簡潔にヒュンケルが問うと、リューグはいつものように淡々と答えを返す。
「十が精々。ただし、随分と手練」
「個人のホームにはプロテクトがあるだろう?」
「本来なら。でも、様子が可笑しい」
個人が所持する家には、当然ならが出入りを制限する認証プログラムが組み込まれている。当然、ホームの所有権を持つ人物が許可をした人間以外は、そのホーム内に入ることが出来ないように作られているのだが――どうにも今回の来客は、そのプログラムを破って不法侵入する気でいるらしい。しかも団体様で。
「またハッキングか?」
「かもね」
通路の出入口の傍らに立つリューグとは反対の側に立ったヒュンケルが、壁に背を預けながら鬱屈したように問うと、間髪入れずにリューグは肯定した。
「でも、個人のホームに組み込まれているセキュリティプログラムって、個人情報並みに固いはずなんだけどなぁ」
「そういうことをすぐ口にできるってことは、前科有りか?」
「さて、なんのことだか?」
言葉を濁して、はぐらかすようにリューグが微笑する。そんな彼を半眼で睨みつけるヒュンケルだったが、今は追求するべきではないと判断を下し、ため息一つ洩らしてかぶりを振りながら尋ねる。
「お前、投擲用の武器は?」
「スローイング・ダガーが五本。スローイング・ピックが五本。以上」
「ストックは?」
「残念ながら」
リューグはかぶりを振った。短い問答で正確に情報をやり取りする。実際、ダンジョンへの探索やクエストへの挑戦に向うのならばいざ知らず、都市にいる時に装備を万全にしていることは少ない。
「こうなると知ってたら、もう少し予備を用意しておいたよ」
「仕方あるまい。後悔は先には来ないのだからな」
「有難いお言葉をどうも」と皮肉気に返しながら、リューグは左手に二本のスローイング・ダガーを指に挟みながら様子を窺った。同じように、ヒュンケルも《竜牙の黒銃》を手にして廊下を覗き込む。
刹那、破砕音が室内へ飛び込んだ。木製の玄関扉が、外からくわえられた衝撃で見事に木端微塵となる。
その事実に、リューグとヒュンケルは声にならない悲鳴と共に、驚愕に目を見開いた。
ホームの扉は都市の一部である。従って、その扉もまた破壊不能オブジェクトであることに変わりはない。故に、どれだけの衝撃をくわえられようと、如何に強力な魔術を叩き込もうと、破壊不可能である扉が壊されるということは絶対にありえないはずなのである。
それが物理的に破壊されたとなれば、MMORPGの〈ファンタズマゴリア〉を基準に世界を認識しているリューグたちが驚くのは至極当たり前のことだった。
そして、その想定していなかった事態に直面した二人の反応はわずかに遅れる。
しかし、それはこの状況では致命的なミスといっても過言ではない。生じた一瞬の間は完全な隙となり、粉砕された衝撃で舞う粉塵の中から、無数の矢が次々と室内へと雪崩れ込んできた。
廊下を覗き込んでいた二人があわてて顔を引っ込めて、焦った様子で声を荒げる。
「だーくそ! 人の家の扉ぶっ壊すとか何様のつもりだあいつら! というか、何で破壊不能の扉が壊されるんだ!」
「そんなの僕が知るか! いいから応戦してくれ! 僕のじゃ無理だ!」
「お前に言われるまでもない!」
叫びながら、ヒュンケルは廊下に銃を握った腕だけを出して銃爪を引いた。マズルフラッシュが爆ぜ、銃口から次々と弾丸が発射される。廊下の彼方から僅かな呻き声が聞こえたようにも思えるが、真横で爆音のように轟く銃声のせいで正確に把握することは適わなかった。
銃弾が放たれる間、わずかに矢の勢いが留まるも、ヒュンケルが弾奏を取り換えるわずかな隙をついて矢が弾幕の如く室内に放たれて来る。
床に剣山のように乱立する矢を忌々しげに睨みつけながら、ヒュンケルは再び銃を撃ちながら叫んだ。
「くそが! 何処のどいつだ!」
「それならもう判明したよ!」
いつの間にか無数のウィンドウを開いてタッチパネルを高速で叩くリューグがヒュンケルの愚痴に大音声で返すと、その声の大きさに負けないくらいの大声でヒュンケルは問うた。
「誰だ?」
銃弾を打ち切り、新しい弾奏を取り出すヒュンケルに、リューグはため息交じりに答える。
「さっき言ってた奴らだ。《漆黒の十字架》」
「どうして分かる?」
「これ」
帰ってきた言葉に、リューグは投げやり気味に足元に刺さっている矢を指差した。つられて突き刺さっている矢に視線を落としたヒュンケルは、そこで改めてその矢を見て、思わず目を瞬かせた。
「なんだ……こりゃ?」
「矢だよ」
「それは見て分かる。俺が聞いているのは、どうしてこの矢はこんな真っ黒に染まっているのかという話だ」
ヒュンケルが言う通り、床に突き刺さった矢は鏃から矢羽根までの徹頭徹尾が漆黒に染め上げられていた。
対して、リューグはたいして興味もないように肩を竦めながら答える。
「さあ? ただ、彼らはその全身を漆黒の武装で固まるからね。武器も防具も衣裳も全部黒。唯一別の色が存在する場所は、背中に背負う十字の印だ。それだけ拘るんだから、矢だって黒くても不思議に思わないよ」
「わけのわからん」
「厨二病なんじゃないか?」
阿呆らしいと言外に吐き出すヒュンケルの様子に苦笑を洩らしながら、リューグは軽く指を鳴らして《索敵》スキルを発動させる。
「なんで指を鳴らす?」
「見栄だよ」
軽く言葉を返すと、リューグは自分の目前に表示された小型ウィンドウに表示された点を数え、同時に位置データをヒュンケルの下へ転送する。
「数――十四。位置情報は?」
「届いた」
「狙えるかい?」
その問いに対し、銀髪の魔術師は不敵な笑みと共に言った。
「誰に物を言っている?」
「そいつは失礼」
リューグは微苦笑しながら肩を竦め、右手で腰の長剣を抜き放ち、左手に握るスローイング・ダガーを構えると、
「じゃあ、援護よろしく」
「任せろ――突っ切るぞ!」
宣言。同時に二人が廊下へと飛び出し、疾駆する。姿勢を可能な限り低くした状態でリューグが前へ出、その後に追随するようにヒュンケルが二丁拳銃を構えて銃を乱射した。
弾雨の向こうから僅かな悲鳴が聞こえ漏れる。小型のウィンドウに表示された点が点滅し、ダメージ判定を知らせる。
同時に銃弾の勢いが収まる。ヒュンケルの銃が弾切れを起こしたのだ。
銃弾が止んだ一瞬を見抜き、相手が動いたことをウィンドウが知らせる。同時にリューグの左手が閃いた。
握っていたスローイング・ダガーが大気を切り裂いて矢を番えた二人の射手目掛けて吸い込まれるように飛び、二本のダガーはそれぞれの標的を捉え、ダガーに撃たれた二人が弓を手からこぼれ落とす。
その間に、ヒュンケルが二丁の弾奏の交換を終え、再び銃弾が玄関の向こうへと躍る。
(後五メートル……三……一!)
的確に的の勢いを削ぐように銃を撃つ。その弾雨の中、身をかがめたままのリューグが必死に駆け抜け、そしてゴールである玄関口へと辿り着くと、彼はそのまま躍り出るようにして剣を突き出しながら外へと飛び出し、ブーツの底が石畳の地面を捉えた瞬間、
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
裂帛の気迫と共に廊下を駆け抜けながら溜めていたアーツ・スキルを発動させた。
――片手剣上位アーツ・スキル、《ウェルテクス・ボイド》。
リューグが剣を振り抜いた刹那、リューグを中心としてその周囲に薄闇色の渦が具現した。半径にして四メートルほどの闇渦の剣圧陣。
外で待ち構えていた一団が、突然の事態に驚愕し慌ててその剣圧陣の中から逃れようとするが、それは適わない。
上位アーツ・スキル《ウェルテクス・ボイド》は、自分周囲の空間を剣圧で捻じ曲げてそこに捉えた標的を拘束し、発動中連続ダメージと一定確率での麻痺効果を及ぼす技である。代償として、技の発動中は常時MPを消費し続けるものの、接近戦――特に一対一の戦いを主とする剣聖クラスにおいて、全方位に連続ダメージと絶対拘束を及ぼすスキルはMP消費を考えてもかなりメリットの高いスキルである。
更に――
「――貫け!」
宣告と共に、リューグの姿が一瞬掻き消え、次の瞬間――彼の姿は男たちのはるか頭上へと移動していた。
まるで瞬間転移したのではと錯覚するほどの瞬間移動。実際は彼らの視認速度を上回るスピードで頭上へと跳躍したのだが、そんな事実を知る由もない漆黒の衣装に身を包んだ戦士たちは、驚愕に目を見開き、茫然とした様子でリューグを見上げていた。
そんな彼らを見下ろし――転瞬リューグは逆手に握り直した闇色のオーラを纏う剣を、着地するのと同時に地面へと突き立てる。
突き立てた際に生じた剣戟の衝撃が地を伝播し、一瞬の静寂が辺りを包み――そして次の瞬間、リューグが剣を突き立てた場所を中心に、地面から薄闇色の突起が全方位へと撃ち出されたのである。
放たれたのは、《ウェルテクス・ボイド》の派生スキル――《ウェルテクス・ランツェ》。
直前に放たれた《ウェルテクス・ボイド》の剣圧を剣へと凝縮し、それを別の形――鋭利突起状の物質へと変化させて全方位に向け解放し、足元から強襲するアーツ・スキルである。
リューグの放った《ウェルテクス・ランツェ》。事前の《ウェルテクス・ボイド》によって行動の自由を奪われ、挙句アーツ・スキルの効果で麻痺のステータス以上に陥っていた彼らに、その一撃を凌ぐ術は何一つ存在しなかった。
無数の穿撃に貫かれた黒衣の戦士たちの身体が中空に舞うのを見て、リューグは彼らの末路を見定めることなく地面を蹴って駆け出す。
顛末を見ていたヒュンケルは、離れた位置で待機していた射手たちを牽制しながらその後に続く。
「こんな人気のないところに居を構えるからこんなことになるんじゃないか?」
走りながら、リューグは周囲を索敵しながら後続のヒュンケルに言うと、彼は軽く舌打ちを返す。
「ああいうところにひっそりと暮らすのはロマンだろう」
「……君も十分厨二病の罹患者だよ」
呆れた様子で、リューグは肩を竦めた。そんな友人の様子に、ヒュンケルは銃面のままため息を一つ洩らす。と同時に――
――……ぞわり
背中を空寒いものが駆け抜けた。
拙い――と自分の中の何かが警鐘を鳴らす。その正体は分からないが、それはすぐに姿を現した。
前を走るリューグの、そのさらに向こう。路地裏から姿を現した十人程度の黒衣の集団。その中でも特に――ゆらり……と、まるで幽鬼の如く姿を現した漆黒の人影。他の面々とは全く異なる気配を醸し出すその影法師。
(――こいつか!?)
自分の直感が告げる危機の正体を黙視し、ヒュンケルは舌打ちをしながら銃を構えた。瞬間的に、ヒュンケルは自分のすべきことを理解し、銃爪を引く。
その影法師の周囲に並ぶ戦士たちを牽制するように銃弾の雨を叩き込みながら、ヒュンケルは前を走るリューグの背に向けて、心の中で叫んだ。
(露払いはしてやるが――頼むから、深入りはするなよ!)
しかし、その願いはどうしようもなく無駄であることを、ヒュンケル自身が理解していた。
前を走るリューグが、その手に握る長剣を構えた。
相対するように、漆黒の影も腰を落としてその腰に差す刀の柄に手を添える。
金色と銀色。
二つの剣閃が激突した。
◆ ◆ ◆
――ぎぃぃいぃぃぃぃぃぃぃん
剣と刀が衝突した刹那、金属同士が搗ち合ったとは思えない音が辺り一帯へと響き渡った。
柄を通じて全身に伝播する衝撃を、全身のバネを使って全力で受け流しながらリ、リューグは目の前の剣士の実力に感嘆する。
剣術を極めるというのは、言ってしまえばその基本動作に要する動きの無駄を極限まで廃棄することでもある。リューグ――そして現実における日口理宇は、ごく当たり前のようにそれを教えられ、そしてそう認識している。
だからこそ、目の前の剣士の実力――その完全なまでに無駄を排した超神速の居合の一撃に、微苦笑を浮かべる口元とは真逆に、その胸中は驚嘆と焦燥で一杯だった。
振り下ろすリューグの剣と、男の薙ぎ払う刀が鬩ぎ合い、金切音が狭い路地に木霊する。
両者の剣圧が爆ぜ、粉塵が舞った。その衝撃に乗じて二人が僅かに飛び退り、半呼吸分の間をおいて再び間合いを詰めて、剣を、刀を、己の持てる技量の最大で、自身の繰り出せる最高の速度で、自らの限界に挑むかの如く一撃を打ち込む。
金属音。金属音。金属音。
二合三合と剣と刀が激突し、閃く金と銀の軌跡の一つ一つが虚空で火花を散らす。
四合目の末、黒衣の男が地を蹴り、更に狭い路地の壁を足場にして中空に高く舞う。見上げるよりも早くリューグも地面を蹴って男を追い、降り迫る男に向けて剣を右から切り上げた。
対して、男は壁を蹴って飛び下りる姿勢のままに刀を上段から振り下ろす。
レイドアタックとエリアルアタック。
二刀が激突し、そのまま空中で鍔競り合う形になった。
衝突した二人は同時に両手で握る得物に力を込めて剣を振り抜く。膂力の限りの斬撃が互いを弾き飛ばし、リューグは地へ、男は再び空を舞う。
相手としてこの上なく厄介な部類だと、リューグは胸中で舌を巻く。
人間にとっての最大の死角の一つは頭上である。その頭上を、この男は狭い路地の壁を利用して完全に己の支配下に置いている。制空権の奪取。相手の実力が自分と同等――あるは上を行く可能性は先の数合で把握できた。
膂力。瞬発力。判断能力。更に純粋な剣術の腕に、常識にとらわれない柔軟な――悪くいえば型破りな戦闘スタイル。どれも自分の数段上を行く――その実力は、リューグの知る限りこれまでであった誰よりも強い。
故に、このまま頭上を取られ続けている不利をどうにかしなければ確実にこちらが殺られるとリューグは本能で理解している。ただでさえ不利な状況に資格を取られっぱなしではいけない。
だから――イチかバチかの賭けに出る。
決断と同時に、リューグは地面を蹴って宙高くに飛ぶ。脚力の許す限りの全力跳躍。更に男と同じように壁を蹴って三角飛び。その距離を左右の壁を器用に蹴って宙を舞っている男に迫った。
にたり……と男が嗤う。
まるでこちらの行動を楽しむように。向かって来い――そう言われているような気がした。
望むところ。
リューグの口角が軽く持ち上がった。
男の刀が閃く。いっそ見惚れるほど鮮やかな袈裟の一撃。そしてそこに孕んだ禍々しい殺気。S級モンスターを相手にした時以上の威圧感。
――臆するな!
――呑まれるな!
襲い来る威圧感に負けぬよう自らを鼓舞し、リューグは賭けの一撃を放つ。
振り上げたのは、右手に握る剣閃――ではなく、飾り布に覆われた左足。
ぎゃりぃぃん! と甲高い金属音が辺りに響き渡り、同時に男の相貌が驚愕に見開かれかれた様子を視線の先に捉え、リューグはしてやったりとほくそ笑みながら、刀を受け止めた左足を軸に身を捻り、
「ぅらぁっ!」
渾身の切り下ろしを男へと叩き込んだ。
文句なしの的中。剣先が捉えた手応えと、眼下に叩き落とした男を見下ろしながら、リューグはわずかに安堵の吐息を洩らす。
リューグの左足に巻かれている飾り布の一部が、先ほどの一撃で裂けており、その中から覗くのは、薄水色がかった脚甲。
(……ミスリル製で助かった)
並みの金属で出来た防具だったら、間違いなく脚甲ごと左足が断ち切られていただろう。部位破壊されたら目も当てられないとか、そんな考えはなかった。
本当のイチかバチかの賭けだったが、結果として上手くいったのだから御の字といった所。
だが、終わったわけではない。着地すると同時に、リューグは下段に剣を構えながら男の次の行動を待つ。
しかし、男は地に伏して黙したままだ。だが、
「くく……くははは……くははははははははー!」
起き上がりながら、男が唐突に、まるで壊れた人形のような狂笑を上げた。 その様子に、リューグは眉を顰める。
しかし、そんなリューグの様子など気にも留めず、男は愉しげに笑いながら刀を構え、リューグを見据えた。
「……最高だ。お前は最高だ。これまで出会ったどんな奴よりも強い……愉快だ。こんな愉しい気分は久しぶりだ」
くるくると刀を指先で器用に回しながら、男は歯を剥き出しにして三日月を描く。
「――俺は《漆黒の十字架》の団長、ディミオス・アルアだ。名乗れ……〈聖人〉」
男の――ディミオスの言葉に、リューグはわずかに沈黙したのち、剣を構えたまま静かに口を開いた。
「……リューグ。リューグ・フランベルジュ」
「ふはは……その面、覚えさせてもらう」
「出来れば忘れてほしいね。面倒事は嫌いなんだ」
不敵に笑むディミオスに対し、リューグはむすりと顔を顰めて肩を竦めると、ディミオスは一層その笑みを深いものにする。
「安心しろ。またすぐに会うことになる……」
「……何?」
言葉の意味が分からず、リューグは思わず尋ねるが、ディミオスは答えることなく、ただ笑みを浮かべるのみ。
そして、
「退くぞ。挨拶はすんだ……」
ディミオスがそう宣言すると同時に、ヒュンケルを相手にしていた黒衣の一団や、他にも周りの建物の影に隠れていた幾つもの気配が去っていくのを感じ、リューグとヒュンケルが瞠目する。
「これだけいたのか……」
「洒落にならない数だ」
「よく言うな」
二人の言に、ディミオスは失笑を洩らす。
「貴様ら相手では、これでも足りんだろう?」
その言葉に、二人は揃ってかぶりを振り、
「僕は弱虫なんだ」
「俺は臆病者なんだ」
二人は揃って軽口を叩いた。
「戯言だな」
ディミオスは悠々とした態度で二人の言葉を断じながら、軽やかな動きで身を翻して歩き出す。
その背に向けて、
「……ひとつだけ聞きたい」
リューグが呼びかける。ディミオスの足がぴたりと止まり、彼は振り返ることなく言った。
「質問するのは自由だ。答えるかは別だがな」
くくっ……と笑うディミオスの軽い口調に反比例する圧力にも眉一つ動かさず、リューグは静かに口を開く。
「お前たちは……滅んだはずの――《魔王の玉座》なのか?」
その問いに、ディミオスはわずかに目を見開き……そして笑いながら答えた。
「そいつは、自分で確かればいい」
その言葉を最後に、ディミオスは二度と立ち止まることなく去って行った。その背を、リューグとヒュンケルは黙って見送り、その姿が見えなくなると――ようやく安堵したように脱力のため息を漏らした。
「なんなんだあの男……他の連中も大した技量だが、奴は完全に別格だ」
「ああ。というか、間違いなく草薙と拮抗を張れるくらいの実力者だ。負けないようにするのが精一杯だったよ」
剣を鞘に納めながら、リューグは苦笑しながら言って自分の手を見下ろした。ディミオスが去ったにもかかわらず、未だ僅かに震えているその右手の様子に、ヒュンケルははっきりと分かるくらいその両目を見開く。
そんな友人の様子に、リューグは微笑してかぶりを振る。
「腕は大丈夫。ただ、少し気圧されただけだ」
「それが一番の問題だと思うがな……」
ヒュンケルが渋面でそう呟く。リューグは軽く笑った。
「今は捨て置こう……それよりも――」
リューグはそこで言葉を切って、最早影も形も消え失せた漆黒の一団の――ディミオスの去った彼方へと視線を向け、
「また、変なのに目をつけられたものだよ」
「まったくだ」
その言葉に、ヒュンケルは苦笑と共に首肯する。
「一応、追跡することもできなくはないが?」
「止めておこう。どうにも痛いしっぺ返しを食らいそうだし」
「何故そう思う? スキルは俺たち《来訪者》の特権のようなものだぞ。それをNPCであるAINが認知しているとは思えない」
「――どうして、彼らがAINだけだと思うんだ?」
ヒュンケルの言葉を、リューグはその一言で断じた。同時に、彼の紅眼が「まさか……」とでも言うように瞬く。
そんな彼の驚いた様子に、リューグはくくっ……と笑った。
「彼らの背後に誰かがいる……《来訪者》側の何者かが……多分ね」
「曖昧だな?」
ヒュンケルの問いに、リューグは曖昧な笑みで肩を竦める。
「……カイリって可能性も、ないわけじゃあないからね」
「言うほど思ってないだろう?」
「まあね」
にやりと笑むヒュンケルに、リューグは誤魔化すようにかぶりを振って徐に歩き出す。
「どうするんだ?」
「とりあえず、姐さんのところに行こうか。皆いそうだしね。その後にでも、草薙にメールしてやればいい」
「それもそうだ」
納得顔でヒュンケルは頷き、前を歩くリューグの後に続く。完全に丸投げしているといわれても文句は言えないが、別に《十二音律》に属しているからと言ってその長である草薙の言葉に従う義務も意味も、二人には存在しない。
だから連絡をするのが後になろうと、それを咎められる謂れはまったくないのである。
そうして一仕事終えたような気分で、やがて並び歩く二人。と同時に、リューグの隣を歩くヒュンケルは、ふとあることを思い出して隣の友を見下ろし、思った。
――結局、話を聞き逃したな。
知らざることが多すぎる中で、皆が知らぬ何かを知っているリューグに向けて、ヒュンケルは結局尋ねることが出来ずじまいだったということを。
そしてもう一つ。
――カイリでないのならば、一体誰なのかということを。
お久しぶりです白雨です。結局7月に入ってからの更新となりました。まあ、相変わらずの遅筆っぷりはお許しくださいww
最近もういろいろいっぱいいっぱいな状況が続いて困惑と当惑にさいなまれつつちょっとイー・ハー! って気分です。
ビクビクもしてます。そして7月と言ったら期末試験……敗色濃いですわ。
では皆さま次回『Act16:不協和音』の更新でお会いしましょう。ノシ