第八話
教会の中へと足を踏み入れると、かさり、と思った以上に大きな足音が響いていた。その事に一瞬驚くが、そこに広がる天井の高さに、納得の感情を抱える。
静寂の空間に少しでも馴染もうと、黙り込んだままその天井を見上げた。ここに入る前に見た時、天高くこの教会が聳え立っていようと、その向こうには晴々とした青空が広がっていた。
だが今はどうだろう。天井を見上げると、ほとんど黒に近い闇が見えるのみだ。窓が極端に少ない為、中に光が入らないのだ。
それを確認しながら、視線を下へ下ろす。そうして、そこに広がるものに小さく息を呑んでいた。
この教会に足を踏み入れる前に、ステンドグラスがある事に気がついてはいた。そして、ジル自身の背、ほとんど現時点で、太陽が空に昇っている事にも気がついていた。
だが、ジルの足元に広がるのは、その予測を吹き飛ばしてしまうが如くの光景だったのだ。
目の前には円形の、それは美しい花畑が広がっていた。
良く目を凝らすと、何らかの幾何学模様が広がっているので、厳密には花畑では無い。
だが、ジルの目には、まるでその模様が花畑を成しているように映ったのだ。青や赤や紫などの、色とりどりの極彩色が広がっている。
その美しい色使い。それは、まるで異国の、違う世界のような光景に見えた。それは、――まるで、夜になると、違う世界へと誘う、自分達のような。
「ここは――」
ラウルは、あちこちを見上げながら、ぼそりと呟いている。
「どうした?」
「いや――何か違和感があるような――」
「違和感?」
ジルが首を傾げると、ラウルはそう考える程の事でも無い、と緩やかに首を横に振った。
「いや、ちょっと前に、教会に来た事があったんだけど、何かちょっとそれと違和感を感じたから」
「ああ、その違和感ね」
ラウルは後ろのステンドグラスを振り返って見上げながら、口中で小さく何かを呟いた。
「多分、宗教の違いからかな」
「そういうもんなのか?」
「うん――良くは分からないけど」
ラウルがそう言った時、小さな足音が彼等の前からやってきて、二人は少し身構えた。かつ、かつ、とその足音は続く。前も暗闇に覆われていたので、誰かが来ている事しか分からなかった。
ジルは僅かに身を固くしてその来訪者を待つ。暗闇から、ステンドグラスの光を浴びて現れたのは、ひとりの男性だった。三十歳程の、ジル達よりかは遥かに大人だ。
彼は、柔和そうな顔立ちをしていた。そうして二人を認めると、その柔らかい顔立ちに似合った、優しげな笑みを浮かべる。
「こんにちは」
「っ、こんにちは」
ジル達は慣れない場所に訪れていたので、思わず強張りながら挨拶を返す。どうやら男性は、二人の緊張には気がついていないようで、にこやかな表情のまま二人に話しかけてきた。
「失礼、あまり見ない方ですから――こちらには観光ですか?」
「え、ええ、はい、そうです」
突然目的を問われ、思わずどもってしまう。そうしながらも、内心では舌打ちをしていた。こうした事はジルはどうも苦手なのだ。隠し事には向かない性質らしい。
ちらりと視線をラウルへと向けると、彼はひとつ瞬きをして、合図をジルへ返してきた。その合図に思わず安堵してしまう。その合図は、この後はラウルが引き受けてくれる、という事を示していたからだ。
「街でパンを買った時に、この教会の事を教えて頂いたんです」
ラウルが紙袋を軽く揺さぶりながら言う。男性はそうですか、と小さく瞬いた。
「この教会は最近出来たばかりなのですが――すっかりこの街に溶け込んでいますからね。私達の誇りでもありますし」
彼は先程の、パン屋の店員とはまた違う感情を抱いているらしい。先程の店員の言葉とは正反対の印象を思わせる言葉に、ジルは胸の内で疑問を抱いていた。
「そうですか。確かに素晴らしい建物ですよね」
ラウルがにこりと微笑みを浮かべると、その男性も嬉しそうな表情を浮かべる。
「そうでしょう。私もこの建物が出来たばかりの頃は、少しばかり疎ましくも思っていましたがね、エイルマーさんにお会いしてからは、すっかりこの建物がお気に入りの場所になってしまいました」
「……エイルマーさん?」
男性の会話に現れた言葉を復唱すると、男性はああ、と小さく呟く。
「この教会の神父さんです。私も今お会いして来たばかりなのですよ。よろしければご案内致しましょうか?」
「良いんですか?」
「ええ。まだ仕事も休みの時間ですし。あ、私はアントナンと言います」
男性――アントナンはそう言って、くるりと背を向けた。そうして奥へと歩いていく。二人も彼に遅れないように、暗闇の中を静かに歩いていった。太い丸柱が、均等に二人の横を過ぎて行く。そこには、丁度背よりも少し高い位置に、銀の細やかな装飾が施された、燭台が備え付けられていた。恐らく、ステンドグラスの灯さえ通さない夜にそれは使われるのだろう。
そうして歩いていくと、不意に目の前が、文字通り明るくなった。左右の壁から光が入ってきている。視線を上に上げると、そこには正面玄関とは違うタイプのステンドグラスが嵌めこまれていた。細長い形をした窓。中央に女性のを象ったそのステンドグラスは、中央にある窓に負けないくらいの極彩色を放っていた。
「アントナンさん。どうしましたか?」
ジルがそのステンドグラスに目を捉われている時、前から声が響いてきた。前に視線を返すと、うっそりとした光の中に、ひとりの長身の男が佇んでいるのが見える。そして、その後ろに控える、大きな祭壇。
「いえ、ちょっと旅行の方がいらしたものですから、ご案内をと」
前を歩いていたアントナンの柔らかな声が響いた。そうして、ジルも左右の窓が作り出す、ステンドグラスの中へ入り込む。
そうして、祭壇の前に佇む男性の姿が、はっきりとした輪郭を持ってジルの目に入り込んできていた。
見た目からして、シャルルと同じくらいの年代の男だろうか。思った以上に線の細そうな、一見すると鋭利な印象を抱かせる。細い銀縁の眼鏡を掛けているせいだろうか。
「こんにちは」
アントナンに紹介され、恐る恐る二人が挨拶をすると、その男性――エイルマーは、鋭利な印象をふ、と一息で和らげるような表情を浮かべていた。
「旅行の方、なのですね。ようこそ、お忙しい所いらして下さいました」
そうして、彼の口から、思った以上に柔らかな声がするりとその空間へ滑り出た。それが、最初に受けた、鋭利な印象を全て払拭してしまう事に驚く。
「神父さん、なんですか?」
隣で、ラウルがきょとんと首を傾げた。ラウルの言葉に、ええ、とエイルマーは頷いた。
「他の宗派と違い、服などは特に決められていませんから、分かりにくいかもしれませんね」
エイルマーは自らそう述べて、自分の身体を見下ろしていた。確かに彼は、そのよくある独特の装飾が施された服では無かった。普通の、街行く人々が身に付けるような衣服だ。
「確かにそうですね」
ラウルはエイルマーに合わせて、こくりとひとつ頷く。そうして目の前の祭壇を彼は見上げた。ジルもつられてそれを見上げる。
「あれは、ここの神様なのですか?」
「……ええ。神様というよりも、母というものに近い存在でしょうか」
「母?」
ジルはその言葉を思わず聞き返していた。大掛かりな祭壇が拵えられて、そして全てに控えめながらも美しい、金で装飾が施されているその中央には、一体の女性を象った彫刻のようなものがあった。
エイルマーは右手に持っていた本を胸に抱え直して、そうして女性を象った彫刻を見上げる。
「そう――全てを受け入れる海のような、聖なる母。それが、私達が信仰する神なのです」
「ふふ、こうして眺めているだけで、穏やかな気持ちになりませんか?」
ラウルの左に佇んでいたアントナンが、静かに問うてきた。彼に視線を向けると、彼の目も、祭壇の中央へと向けられている。その目は細められ、そこから漂うのは、崇拝の気配だ。
「母――ですか」
ぽつりと、疑問でも無く、ただそれがそこにあるかのように呟くラウル。そんな彼に、エイルマーは小さな一説を述べた。
「ええ。我らの全ての悩みを抱え、浄化する聖なる母。その聖なる力に掛かれば、清らかな願い事さえも叶える事ができる」
その呟きは、うっそりと、薄暗い教会の中へ溶け込んでいく。ジルはその聖なる母を見上げながら、エイルマーの言葉を飲み込むだけだ。
「ここは信仰の場でもありますが、この街の重要な観光の場でもあります。どうぞこの教会内でしたら、ご自由にお回りください」
「――ありがとうございます」
最後にエイルマーがそう述べると、僅かに含みを持たせた響きで、ラウルが彼に礼を述べる。そうして小さくジルに、目で合図をして、二人はくるりと祭壇に背を向けた。
「少し、壁際を見ていかない?」
ラウルは僅かに含みを持たせた響きのまま、そう聞いてくる。彼が何かを考慮している事はその言葉の響きと、僅かな表情の違いから読み取る事が出来た。だが、それが何かまでは読み取る事が出来ないジルには、ただラウルの問いに頷く事しか出来ない。
彼は一体、何を思ってそう聞いてきたのだろう。ジルは先程の会話で、そこまで考えが至らない自分が少し歯痒かった。これでは、本当に、ただ観光をしに来ているだけだ。だが、心のどこかで、ここにラウルが一緒にいてくれて良かったという安堵の思いもある。
二人は、祭壇まで来る時には通らなかった、右端の壁際を通った。中央部分には全く窓が無いので、光がほとんど通らなかった。だがこうして右端によると、様々な色合いの光が落ちてくる。そう、両側の壁は、石造りの壁と、高いながらも光の入らない天井の分の採光を繕うかのように、びっしりとステンドグラスが嵌めこまれていた。その形は祭壇付近を照らしていたステンドグラスとほとんど同じだ。ただ違うのは、それが入り口の上に嵌めこまれていたものに酷似した模様で埋まっていた事だ。
ラウルはそれを興味深そうに、ひとつひとつ視線を送る。ジルも彼に習って、そのステンドグラスを見上げた。そこから、彼が何を考えているのかを見つけ出す事は不可能だったが、それでも、こうしてひとつひとつ、じっくりと記憶する事は可能なのだ。寧ろ、それくらいしか出来ないのだから、これくらいはしっかりと役目を果たさなければ。
「――行こうか」
やがて、ラウルがぽつりと呟いたのを合図に、二人はその薄暗い空間を後にしていた。一歩、足を眩しい空間へと踏み出せば、ひんやりとした空気から開放される。
街に溢れている温かい空気を身に浴びて、ジルは塞がっていない方の片腕でひとつ大きく伸びをした。彼は筋肉が常人よりも柔らかいのと、身体を張る仕事をしている為に、普通の人よりかは身体の反応に敏感だ。思ったよりも身体のあちこちの筋肉が強張っていて、あの閉塞的な空間が、思った以上に自分を緊張させていた、と思い知らされる。
ジルは、未だ黙ったままのラウルをそっと盗み見た。彼もまた、ジルと同じように体のあちこちをほぐしている。その表情も、おそらく他の団員が見たならば、いつもと変わらないように捉えられるだろう。
だがジルには、そんな彼の変化の中に、僅かにだが、いつもと違う表情である事を見てとる事が出来た。
それは、戸惑いのような、緊張のような、何か。
例えるならば、サーカスの新しい技を練習しているような、そんなものだ。
「――ラウル、あの教会を見て、何か感じたのか?」
「――うん」
ジルが単刀直入にそう切り出すと、ラウルも少しの沈黙の後、小さく頷いた。そうしてさらにそれが一体何なのかを歩きながら問おうと考えながら、一歩を踏み出す。
「――それで、一体それは」
ジルはそう問いかけた所で、言葉がぷつりと途切れてしまった。ラウルも、そのまま足を止めている。
ジルの目の先、教会の斜め前あたりに、ひょろりとした人影が通り過ぎるのが見えたのだ。それは、少し前に見たことのある人物の影に酷似していた。
「なあ――あれ、シャルル兄だよな」
「うん――そう見える、よね」
おそるおそるジルが尋ねた言葉に、ラウルもこくりと頷き返す。間違いない。二人で同じ人物を見るという事は、彼等の前を歩くのはシャルルなのだ。
「……なんでこんな所にいるんだろ」
二人はとっさに、教会の影となっている部分に隠れながら、こそりと呟いた。ラウルの言葉に、ジルも首を傾げるばかりだ。
「分からないな……」
そうして二人が首を傾げている間にも、シャルルは二人の視界からゆっくりと過ぎ去っていく。ジルはそれをじいと眺めて、そしてそろそろとラウルへ視線を送る。ラウルも、ジルをそっと見返してきて、そして二人はそっと、ひとつ頷いていた。
そうして示し合わせたかのように、二人はそろそろとシャルルの後ろを歩いていく。シャルルは教会の正面を通り過ぎて、そして教会横の小道へと入っていった。ジル達も、彼等に見つからないように、そして彼等を見失わないように距離を空けて、二人の後を追っていく。
シャルルは坂道をゆっくりと降りていくと、そこで進めていた歩を緩めていく。
「……?」
何かを探しているのだろうか。ジルが心の中で首を捻った時、その小道と繋がっている、横の小道からひとりの男が現れた。その人物も、二人のよく知る人物だったので、ジルは驚きに目を瞬かせる。
少し距離を空けているので、やや聞こえにくいが、それでも二人の会話は漏れ聞こえてきた。