第七話
「いやー、すごいな」
ジルは目の前に建つ図書館を仰いで、思わず感嘆の声を上げていた。普段、滅多にこうした所に二人が立ち寄る事は無かったからである。
「何か、こんなに立派だと気後れしちゃうね」
ラウルも小さく肩を竦めて呟く。二人は、しばらく、図書館を眺めながら歩いていたが、やがてそれも終点にたどり着いた。図書館の正面玄関の前に到着したからである。
そうして、重厚な構えの玄関へと、二人はゆっくり歩いていった。既に図書館は開館していたので、入り口で止められるという事は無かった。二人はそのことに内心安堵しながら、中へ視線を走らせる。
その図書館は、外の構えに負けないくらい、中のつくりもどっしりと落ちついたものだった。そもそも図書館とは落ち着いたつくりが普通だ、とふかふかの絨毯を踏みながらジルはぼんやり考える。まだ朝早い事もあって、図書館の利用者はほとんどいなかった。どこか物珍しそうに、図書館の職員が二人を見てくるが、これは仕方ないだろう。
ジルはきょろきょろと視線を動かしていると、部屋の隅に新聞が置かれている棚を見つけた。
「あ、あった」
ラウルに小声でそう告げ、二人はその棚へと近付く。
「どのくらいあればいいかな?」
「……一週間分くらい?」
「そうだね」
静かな室内には、小声の会話も大きく響くように感じた。二人はひそりと会話を交わしながら、とりあえず今日から一週間前までの新聞をかき集める。
そうして、それを手に、近くにあったテーブルにそれを並べて席につく。ジルは早速今日の分から新聞に目を奔らせた。
事件の事は、探すまでも無かった。やはりそれは大きな事件らしく、一面にでかでかと載せられていたからだ。
その記事の見出しは、「連続殺人事件、止まらず」とあった。やはり噂と同じ事件の内容で、僅かに背筋が寒くなるような感覚に陥る。
「……ひどいな」
その記事に一通り目を通して、ジルはぽつりと呟きを漏らした。彼は孤児とは言え、サーカス団でそれなりに文字を習ってきたので、ある程度の読み書きなら出来ていた。それを駆使して読み進めていくと、そこに書かれていた内容は、思った以上にひどいものだったのだ。
どうやらその内容によると、大抵発見されるのが朝である事から、夜に起きているらしい。そして、狙われるのが、いずれも十六歳の、少年少女ばかりだという事だ。誰もが刃物で死傷に至る傷を与えられているらしい。昨日発見されたのは、一定の間隔を開けた場所に、二人。
そこまで読んで、ふと、昨日の昼間、目にした光景を思い出していた。今はそれは昨日よりかは薄れていて、ぼんやりと瞼の裏に映るのみだったが、それでも凄惨な光景だったという事ははっきりと覚えている。
それが、この内容の事件と一致するのか、と思い、それは確かな事だろうという確信を心のどこかで得ていた。
「……うん、これはシャルル兄がこれ以上首を突っ込むな、って言うのも分かる気がする」
「……ああ」
ラウルの言葉に、ジルも同意していた。昨日、テントに帰ってからのシャルルの言葉を思い返して、確かにここまでひどければ、シャルルが止めるのも仕方が無いという考えに至る。
「大抵の事件は、夜に子供が殺されて、朝、子供が住む家の庭で死体となって発見されるってあるよ」
「じゃあ、昨日のあの現場は、子供が住んでいた場所なのか」
「そうなるね」
ラウルの言葉に頷きを返しながら、ジルはぺらりと新聞を捲って、記事を読み進めていく。
そして、とある記事に目が止まっていた。
「これは……事件に踏み込むのなら、かなり真剣にやらないと駄目だね……」
目の前に座るラウルの言葉が、右耳からするりと入り込んで、左耳へと抜けていくような気がする。
周りの景色が、ちかちかと白く塗りつぶされていくような感覚に陥っていた。
それほど、目に留まった記事は、ジルにとって衝撃的なものだったのだ。
――その紙面には、三分の一ほどを使って、サーカス団と事件との関わりを緻密に記されていた。
思わずジルは叫び出しそうになったが、ここで大声を上げてはいけないと思い直す。落ち着け、と自分に言い聞かせて、ジルはその記事を追っていった。そこに書かれていた事は、実際に所属している者からすれば、殆どがありえない事だった。だが、間違いなくそれには、昨日の昼に、あの場所で気分が悪くなってしまった事が原因だと思われる事が幾つか描かれていた。そして、それと、二日目の夜での公演で、見つかった死体との関連性が、よくここまで邪推できる、というレベルで描かれている。
ああ、やはり自分はこうして迷惑を掛けてしまっているのだ。昨日から抱えている後悔が、またひとつ、上塗りされていくような気分に陥る。
「ジル?」
目の前が暗く、黒く塗り替えられそうになった時、ふいに、ラウルに声を掛けられて、ジルの意識は浮上した。はっと顔を上げると、ラウルがきょとんと、ジルの顔を覗きこんでいる。
「どうしたの? 何か気になる事でもあった?」
「え? あ、いや――」
ジルは彼の言葉に、なんて答えようか考えを巡らせたが、かえって、その考えの時間がラウルにジルの戸惑いを伝えてしまったらしい。ラウルはひょい、と身を伸ばしてジルが手にしていた新聞を取る。
「あ」
止める間も無く、ラウルの手に新聞が渡ってしまった。だが、どうもラウルには隠し事をする事が昔から苦手だったジルとしては、いずれ伝わってしまっただろう。
仕方なく、ラウルがその記事を読み終えるのを大人しく待つことにする。静かにラウルへ視線を向けていると、ラウルの表情が手にとって分かるように変化していくのがわかった。
数分掛けてラウルは、サーカス団と事件の因縁について推察されている記事を読み終え、ゆっくりとそれをテーブルの上に置く。
「……読んだ?」
「……うん」
ジルはおそるおそるラウルへ尋ねたが、ラウルは彼が思っていたよりもしっかりとした返事をしてきた事に、少し驚いた。
「これは……昨日の俺の事も原因、だよな」
ジルは小さく息を吐きながらそう言うと、ラウルがゆっくりと、だが確かな表情で首を横に振る。
「ジルだけじゃない、僕もだよ」
「……でも」
確かにあの場には、二人でいた。だが、直接見つかるような原因を作ったのは、間違いなく自分なのだ。
あの場で、もっと気をしっかり持っていれば、倒れる事も無かっただろう。その考えを口の端に上らせようとしたジルは、だが目の前にある顔を見て、その口を噤んでいた。
「あの時あそこに居合わせたのがきっとシャルルだったら、もっと上手く出来たと思ってる。僕はあの時慌てていたから、上手く立ち回ることさえ出来なかった」
ラウルは静かな表情のまま、そう話す。
「だから、僕は。――今度こそ僕の手で、この事件に立ち向かおうと思うんだ」
「……そっか」
その言葉には、既に覚悟のようなものが漂っていた。そしてそれは、長年共に過ごしてきたジルには、彼の行動を止める事は出来ない、という事を思い知らせる響きを持っていた。
だが、勿論、ジルもここで止まるつもりは毛頭無い。
「とりあえず、団長から大目玉を食らう覚悟だけはしっかり決めていくか」
ジルがそう言って口の端を上げると、ラウルも優しげな笑みを浮かべて、ひとつ頷いた。そうして決意を新たに、新聞に目を戻す。
「とりあえず、調査して分かっている事を書き留めていった方が良いかな」
ラウルはそう呟くと、ポケットから使用済みの紙を束ねたものを取り出して、そこにさらさらともうひとつのポケットから取り出したペンを使い、分かった事を書いていく。
「えっと、まず、この事件は、連続殺人事件、と」
ジルもラウルの言葉に耳を傾けながら、新聞に目を落とし、分かった事を伝えていく。「あとは、そうだな――殺されている人は皆子供であるってこと、か」
「……子供の年とか分かる? 名前とかも必要かな」
「うん? ちょっと待って」
ラウルにそう尋ねられ、ジルは机の上に広げられた新聞を広げていく。
「えっと、昨日起きた事件は、十二歳って書いてある。名前は――」
ジルは新聞をひとつひとつ辿りながら、被害に遭った子供達を順に追っていった。そうして、それをラウルがひとつひとつ、メモに書き留める。
しばらくの間、ぺらりと新聞を捲る音と、時折ジルが伝える言葉、そしてラウルがそれを書き留めていくペンの音のみが、その場に残る。
「――これで最後か?」
「とりあえず一週間分はそうだろうね」
そのテーブルに持ってきた、最後の日付の新聞に目を通して、ジルはひとつ息を吐いた。そうしてその向かい側で、ラウルはジルが告げた言葉をひとつひとつ書いていく。
「よし、書き終わりっと」
ラウルはきゅ、と最後の文字までしっかり書いて、ペンを置いた。そしてそれをじいと眺め、眉根を寄せる。
「――ん?」
「どうした? 何か間違いでもしたのか?」
その表情に、ジルは首を傾げた。ラウルは小さく唸り声を上げて、そしてメモをジルへ渡す。何かおかしな事でも書かれていたのだろうか。ジルは疑問を抱えたまま、そのメモを覗き込んだ。
「ね、これって偶然、かな?」
「――ああ……」
ラウルは何、とは言わなかったが、彼が伝えたかった事は暗に伝わってきた。その事に、ジルは小さく声を漏らす。
「偶然にしては、出来すぎてるよね、やっぱり」
向かい側で、ラウルの確信めいた言葉が響いた。ジルはそれに返事をする事は無かったが、心の中では彼の言葉に同意を返していた。
そこには、事件の簡単な概要と、そして、被害者の名前と年齢などの簡単な概要が書き連ねてあるだけだった。
だがそこには、決定的な同意点がひとつ、あったのだ。
それは――被害者が全員、十六歳である、という事。
*
二人は、新聞を丁寧にたたんで元の棚に戻すと、用事は済んだとばかりにそそくさと図書館を後にした。図書館の利用者は朝に比べるとぐっと増えていたが、あまり長居をする訳にはいかない。職員に変な目で見られる訳にはいかないし、あの場は何より静か過ぎて、長々と会話をするには向いていないからだ。
そうして二人は、昨日と同じ喧騒に包まれ始めた街を朝よりゆっくりとした歩調で歩いていった。
「これからどうしよっか。これだけじゃ、分からないよね」
ラウルはメモに目を落としながら歩いていた。その横をジルも歩いていく。
「そうだなぁ、後出来る事といったら、何だろう、な」
ジルは道行く人々に目をやりながら、考え込む。自分達の目的は、サーカス団とこの事件が繋がっている、という世間の誤解を解く事だ。
確かに今の自分達には覚えのなこの事件、それを訴えることは簡単だ。だが、それを果たして受け入れてもらえるかどうか。ジルは昨日、シャルル達と共に警察を出たときに、幾つも受けた不審な視線を思い出す。
おそらく、自分達に懐疑的な視線が向けられている以上、このまま向かっても無駄に違いない。おまけに自分達は子供だ。おそらく、相手にもされないに違いない。
せめて、シャルルが味方だったら。彼の、暴力的なまでの威圧的な視線を思い返して、ジルはひとつため息を吐いた。
「どうしたの、ため息吐いて」
「ああ、あれだ、シャルル兄が俺達の味方だったらな、って思っただけさ」
「なるほどねぇ……」
ラウルもその言葉で、ジルが言わんとすることに気がついたのだろう。ゆるりと空を見上げて、彼も小さくひとつ息を吐いていた。
「今からお願いに言っても……こっぴどく叱られるだけ、だろうな」
「間違いなくな」
二人は苦く口の端を上げる。普段でさえ怖いシャルルなのだ。その彼が、本気で怒る時といったら、団長に大目玉を食らった時と同じくらいの怖さなのだから。
「まあ、シャルル達に手助けを願うのは無理だとして……本当にこれからどうしようか」
「そうだなぁ。折角街に出てきているんだから、もう少し情報収集したいよな」
「そうだね」
そうして二人は、どちらともなく、街の中心部へと歩いていく。
空は、澄み切った青い色のまま、二人を見下ろしている。その陽の光を浴びているのを感じながら、ジルは頭を回転させていた。
「とりあえず、事件について人にそれとなく聞いてみる、とかかな」
ラウルはポケットにメモをしまうと、きょろきょろと左右を見回した。ジルもラウルにつられて目をやり、そうしてそこで固まる。
「あれ、シャルル兄じゃね?」
「うわ、ほんとだ」
丁度、ジルの斜め横から、シャルルと思しき人影が、俯きながら歩いてくるのが目に入ったのだ。彼は俯いているからか、こちらには気がついていないらしい。
「やべっ。今見つかったら……」
「あの仏頂面から雷が落ちるね……」
二人は顔を見合わせてひとつ頷くと、街のあちこちを見回した。事件の調査の前に、隠れる場所を探さねばならない。シャルルの雷が落ちた時の怖さは、頭よりも体に染み付くほど覚えているからだ。
図書館で大分時間を費やしていたので、街に佇んでいる店は、ほとんどが営業を始めていた。二人の焦燥も知らずとばかりに、光が降り注いでいる。その店から漂う独特の気配が、ジル達を昼の世界へと誘うのだ。
ラウルはとある店へ目を付けた。それは、焼きたての自家製パンを売っているパン屋だ。おそらく、そこに目を付けた理由の半分は、パン屋から漂う芳ばしい匂いだと思われる。だがジルもそれを咎める事はしなかった。何故なら、彼自身もその匂いに惹かれていたからだ。
二人はこそこそと店の中へ入り込んだ。入り口の中に入って、外を振り返る。丁度ここからだと、シャルルの姿は見えないようだった。その事に安心して、ふたりはひとつ、ため息をつく。
店では恰幅の良い男性が、ぼうと宙を見つめながら店番をしているようだった。
「あのー、すみません」
ラウルはパンを幾つか選びながら、その店員へと話しかけた。少年達の声を掛けられた店員は、きょとんとした瞳をこちらへ向けてくる。
「いらっしゃいませ、どうしましたか?」
「あ、これとこれを下さい」
ラウルが指差して、ジルの好みも含めた分のパンを選びながら、店員へとさりげなく話しかける。
「そういえば、ここら辺で物騒な事件が起きてるって聞いたんですけど、それって本当ですか?」
ラウルの問いに、店員は今更何を聞くのか、という表情を浮かべた。
「そうですよ。ここら辺では有名でね。お客さん、ここら辺に旅行でもしに来たのかい?」
「――ええ。家族で観光に来たんです」
彼の答えに、店員はなるほど、と首を竦めた。
「そりゃあお客さん、残念な時に来ちまったねえ。この街も普段なら、あんな物騒な事件なんぞ起きない、平和なところだったんだけどねえ」
「そうですよね。こうして昼間の間の街を見ていると、まるで嘘みたいですし」
ジルは、ラウル達の会話を黙ったまま追っている。店員は袋のパンを入れながら、ラウルの言葉にそうでしょ、と嬉しそうに頷いた。
「そうなんだよ。本当なら事件も起きない、俺達にとっては自慢の街だったんだけどねえ……。そうさね、あの教会が出来てからおかしくなっちまったのかな」
「教会?」
店員の言葉に、ジルが首を傾げて見せた。新聞には、自分達サーカス団と、事件の関連性についてはある事無い事事細かに記されていたが、教会という文字はひとつも出ていなかった筈だ。
「ああ、最近、この街の観光名所のひとつになってるんだけどね。この街の外れに教会が出来たのさ。何でも、ちょいと変わった宗教みたいでねえ」
「変わった宗教?」
ラウルも疑問を口にした。彼らが住んでいるこの国は、基本的に、この創ったといわれる、創生の神ハヴァスが奉られた、ハヴァス教がほとんどを占めている。ラウル達のサーカス団は基本的に無宗教なのであまり気にしたことは無かったが、ここに住む人々の生活には、それが根付いている筈だった。
「ええ、そうさ。何でも最近出来たばっかりの小さな宗教らしくてね。教会は立派なんだけどねえ……」
店員のため息混じりの言葉に、思わず二人は顔を見合わせていた。そして、代表してラウルが尋ねる。
「あの、その教会の場所を教えていただけませんか?」
「ああ、良いよ」
店員はしばしきょとんとして二人を見た後、メモ帳を一枚破り、簡単な略図を書いて二人に寄越していた。二人は礼を述べると、袋につまったパンを抱えてそのパン屋を後にする。分厚い扉の天井に付けられた鈴が、からん、からん、と軽やかに音を鳴らしていた。
二人は道を歩きながら、メモを覗き込む。
「……ふうん。教会ねえ。新聞では何にも書いてなかったけどね」
ラウルの言葉に、ジルもひとつ頷いた。
「確かにな。まあだが、ここに住んでいる人の意見ほど、大事なものは無いだろうしな」
「そうだね」
そしてメモから顔を上げると、二人はきょろきょろと周りを見回した。店員が書いてくれた地図によると、今二人がいる、街の中心部から西に向かって歩いた所にあるらしかった。
「少し歩くね。……テントとは正反対の場所らしいから、仲間にばったり合う必要性は無さそうだけど」
「そうだな」
ジルは手に抱えている白い袋を見下ろした。その袋を透かして、焼きたてのパンの芳ばしい匂いが漂ってくる。
「どうしよっか……どこか座って、食べてから行く?」
「そうだなあ……」
ジルは僅かに、その袋と今の自分の状況を振り返りながら、首を捻った。そうして、答えを出す。
「今食べても一向に構わないが……どうせなら、一仕事終えてからの方が美味く感じないか?」
ジルがそう言って口の端を上げると、ラウルもジルの気持ちを見透かしたように、にいと笑みを浮かべていた。
お互い、若いながらも仕事をこなしている身だ。大人が感じる、仕事の後の一杯の美味さをその身を持って知っているのだ。
そうして二人は、その紙袋を大事そうに抱えたまま、西に繋がる小道へと足を踏み入れていった。そこは、今まで彼らが歩いていた、サーカス団が泊まっているテントから街の中心部のように、なだらかな道とは正反対の道だ。急な階段が目の前に立ちはだかる、馬車では到底通る事の出来ない道だ。
二人は、持ち前の身の軽さを生かして、一歩一歩弾むように歩いていく。どうやらこの街の西部は、丘が幾つも重なりあって出来ているらしかった。
「ここは、訓練にも使えるかもしれないね」
「ああ」
二人は、今度は目の前に聳え立つように現れた、急な階段を一歩一歩昇っていく。サーカスと言えど、基本は足腰の筋肉を強化する事だ。二人は上半身をも鍛える必要があったが、それでも足だけでブランコにぶら下がる事も多い。普段から旅が多いため、足腰の運動は不足している事は無いが、それでも時折、こうした場所を使って訓練する事も多いのだ。
「街の治安も悪く無さそうだしな」
ジルは階段を持ち前のリズムで上りつつ、周りの家々を見回す。その急な階段の横にそびえるようにして立ち並ぶ家々。どれも入り口に、その家独特の装飾を施してあって、暖かな雰囲気が漂っている。
それを見る限り、旅行者達にも歓迎されている街なのだ、という事が分かる。
二人は半ば観光気分で、その坂道を軽やかに進んでいく。そうして最後に階段を上りきった時、それは現れた。
「……これが……」
ジルはそこに現れた建物を見上げたまま、その場で絶句する。隣に並んだラウルも何かを言うような節は見られなかった。
二人は言葉を見失うほどに、その建物は予想以上の壮麗さだった。
灰色の石で作られたその外壁は、ジルが首を命いっぱい動かしてようやく目に入るほどの大きさだ。正面入り口の周りには、幾重に渡って石の彫刻が刻まれている。それは、数人がそれぞれ何かを捧げ持っていたり、何かを祈っているような彫刻だ。どうやらそれを見る限り、ある一場面が描かれているようであった。
そして、その彫刻の上には、円形に作られたステンドグラスがある。それはこちらからでは何が描かれているのかは分からないが、おそらく中から見れば良く分かるのだろう。
「……すごい……」
しばらくして、ようやくラウルがそれだけ発する。ジルもそれを耳にしたまま、ただ傍を風が通り抜けるのに任せていた。
片腕に抱え込んでいた白い紙袋が、腕の動きによってかさりと微かな音を立てる。その音に、ジルはようやく自分が、黙り込んでいる事に気がついた。
我に返りながら首を巡らせる。ラウルもジルと同じく、その紙袋の音で我に返ったようで、ジルへと視線を向けてきていた。
そうして二人は、おそらく同じ瞳に、同じ感情――戸惑いを乗せたまま、交錯しあった。その沈黙の数十秒間がしばらく続き、二人は覚悟を決めて小さく頷く。
「よし――行ってみようか」
「うん」
そうしてひとつ頷いた二人は、同時に教会への足を踏み出していた。
その一歩に、丘となっていたその場所に吹き付けてくる、小さな風が絡まる。それはまるで、彼等のこれからを暗示しているような、そんな風だった。