第六話
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翌朝、ジルはいつもよりも早く起床し、ひとりで食事用のテントに向かった。いつもラウルと共に食事を取るので、朝食を配っている団員の奥さんからは不思議な目で見られるハメになる。だが仕方が無い。他の団員、とりわけシャルルやルイに見つかる訳にはいかないのだ。
ジルはそそくさといつものように、パンやらスープやらウインナーやらを受け取ると、幾つも並んでいるテーブルの中で、一番人目に付かなそうなテーブルを選び、身を縮めるようにして席に着く。椅子に座ってから、しまった、ひとりの方が余計目立つかもしれないと思ったが、今更移動するのもおかしいので、諦めることにした。幸い、まだ団員達の朝食をとるピークの時間では無いため、ジルに注目するものはいない。
さっさと朝食を終えてしまおうとパンをちぎり、口の中へ放り込んだ。いつもと同じ味な筈なのに、どうしてか味気が無いような気がする。
ここに入った時から、いつも傍らにはラウルがいたせいだろうか。ラウルは拾われたジルと違って、生まれたときからサーカス団にいた。だが入った時から、いつも一緒にいてくれたのだ。いつも一緒にいるから忘れがちだが、こうしてひとりの時ほど、彼がいてくれることの大切さを思い知る。
そうして、だからこそ、ジルはとある覚悟を決めていた。
例え、シャルルやルイに見つかって大目玉を食らおうとも、きちんと最後まで事件を調べ上げて、サーカス団に降りかかっている噂の霧を晴らすのだ。
そうして、もう一度ラウルの笑顔を見るのだ。
昨日、あのラウルの言葉を聞いて、ジルはそう決めていた。それが、自分を拾ってくれたサーカス団に出来る、唯一の恩返しだ。
そうしてウインナーにフォークを指すと、目の前がふっと暗くなった。
「ん……?」
誰かが目の前に座った事に気が付いて、顔を上げると。
そこには、どこかいたずらめいた笑みを浮かべている、ラウルが座っていた。
「……! ごほっ、ごほごほっ!」
いつの間にか座っている彼に、ジルは飲み込みかけていた食事を思い切り喉に詰まらせてしまう。ごほごほと大きく咳を幾度か繰り返し、胸を叩いた。ラウルがコップを差し出してくるのを勢いをつけて受け取り、水を喉に通してなんとか急死に一生を得る。
「だ、大丈夫……?」
「だ、だいじょ、ぶ」
何とかラウルの声に応えて、空になったコップをテーブルの上に置いた。そうして顔をラウルへと向ける。ああ、今一瞬、花畑が見えたような気がする。
「ど、どうしたんだ?」
こんな朝早くから、という意味を言外に匂わせてジルは聞いた。その言葉に、ラウルは真面目な顔のまま、片眉を上げる。
「それならジルだって。どうして今朝はおいていったの?」
「そりゃ、だって、早く起きちまったし、ラウルはまだ気持ちよさそうに寝ていたから……」
その言葉に、今度はあからさまにラウルの表情が曇った。
「あれ? 早く起きた方が、まだ寝てる方を起こすって約束じゃなかったっけ?」
その言葉に、ジルは再びパンを喉に詰まらせそうになった。何とか回避するべく、スープを口の中に運ぶ。今日は自分が一番好きなコーンスープなのに。勿体無い、という考えがジルの頭に浮かんでいた。
「いや、その……」
やはり、長年一緒に過ごしていただけあって、誤魔化すのは難しいようだった。ジルが言葉に詰まると、ラウルは小さくため息を吐いた。
「まあいいや。ジルのことだから、ひとりでケリつけようって思ってたんでしょ?」
「……ああ」
やはりラウルには全てお見通しだった。ジルが諦めてひとつ頷くと、ラウルはやっぱり、と呟いてスープを一口飲む。
そうして、ジルを真っ向から見つめた。
「なら、僕もそれに混ぜてくれない?」
「……え?」
予想していなかった言葉に、ジルは目を瞬いていた。ラウルはジルと二人でいる時、大抵はストッパー役になるので、今日もジルは止められるのか、と思っていたのだ。そう予想していたので、それとは反対の事を告げられ、思わず間抜けな言葉が口から零れ落ちる。
ラウルはジルの反応を予め予想していたのか、小さく息を吐いた。
「ジルは僕にも迷惑掛けたと思っているんでしょ?」
「……あ、ああ」
「ジルがそう思っているように、僕だってジルにそう思ってるって事だよ」
「……え?」
再び間抜けな音が口から零れ落ちる。
「……僕だって、やっぱり子供だって事を思い知らされただけさ」
そんなジルにラウルはそう告げて、再びスープ皿へと視線を落としていた。ジルはたっぷり数秒間そのまま硬直して、ラウルの言葉を反芻する。
ラウルは、ジルにそう思っている、と言った。それはつまり――、ラウルもあの時の事件について、自分がラウルに幾重にも重ねて後悔の気持ちを抱えたように、自分にもその気持ちを向けていたという事なのだろうか。
「それに――やっぱり僕らは、二人揃ってなきゃ、ね?」
スープを啜ったラウルは、そう言って顔を上げると、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、自分達が舞台で、空中ブランコの間をひゅうと飛んでいる時に見せる笑顔だった。
その表情に、言葉に。ジルの中で凝り固まっていた気持ちがじんわりと解きほぐされていくのが分かる。
「――うん」
ジルはゆっくり頷いて、コーンスープへ手を伸ばした。
それは、温かくて、どこか優しい味がした。
*
朝食を終えた二人は、こそこそと準備を整えると、誰にも見られないように街へと向かっていた。昨日と同じ道を通ると、必ずサーカス団の誰かに見つかると思ったので、少し遠回りで歩いていた。
隣をそそくさと歩くラウルは、時折ジルの顔へちらりちらりと視線を向けては、噴き出しそうになるのを堪えているようだった。
始めの内は、昨日の負い目もあり、見なかった事にしていたのだが、もうすぐ街へ入る頃になっても未だ噴出しそうになっていたので、ついにたいして大きくもない堪忍袋の尾が切れる。
「ラウル。お前笑いすぎ」
「ごめ、んっ。くっ」
「……それ以上人の顔見て笑うんだったら、俺はひとりで行動するぞ」
「分かった、分かってるんだけど……! あまりにも眼鏡が似合わなさ過ぎて……!」
「……はぁ」
最後に腹を抱えて歩いているラウルを横目でじとりと睨むと、ジルは大きくため息をついた。そして、ラウルを笑わせる原因となっている眼鏡のフレームに触れる。
その眼鏡は至って普通の眼鏡だった。ステージ用に誰かが誂えたけばけばしい眼鏡では無く、さらに団長が時折掛けるような、野暮ったい老眼鏡でも無い。ラウルが普段から使っている眼鏡だ。
昨日の今日とあって、このままの顔で街に出る勇気は起きなかったので、二人はさりげなく小道具を使って変装したのだ。だが、ジルにはやはり眼鏡が似合わないらしい。自分で鏡を覗き込んだ時もそう思って落胆したのだが、先程からラウルに笑われっぱなしだったので、余計に落胆の気持ちが大きくなっていく。
これをラウルが掛けた時は、そんな事無かったのにな、と小さくジルは毒づいた。ラウルは時折眼鏡を掛ける必要がある。その時のラウルは、いつもの優男と眼鏡の相乗効果をもたらして、かなり良い男に見えるのだ。
どうやら、自分は目鼻立ちがはっきりしているのが原因のようだった。特に目は、女かと思うほどぱっちりした二重なので、眼鏡との相乗効果で余計目が大きく見えるのだ。こればかりは仕方が無い。
「やっぱり眼鏡は外しとこうかな……」
ジルがため息を付きながら呟くと、ようやくラウルが笑いを引っ込めた。そうして顎に指を乗せて、考え込む仕草を見せる。
「うーん、でもそっちの方が、まだ印象は薄くなるかもしれないよ。普段のジルって、結構印象的な顔立ちだからねえ……」
「そうなんだよなぁ……」
ジルは帽子の鍔に手を掛けて、もう一度それを深くかぶり直した。ごわごわとした素材のそれは、長時間の移動時によくかぶるものだ。美醜はともかく、彼自身も、自分が目立つ顔つきをしているのは承知していたので、首を捻る。
「ごめんごめん。もう笑わないから。それは掛けときなよ」
「……頼むよ、ほんとに」
ラウルは真面目な顔つきで、ジルの言葉に小さく頷いた。そういう彼は、浅くかぶった帽子に、普段使いの眼鏡を掛けている。それだけで別人に見えるのは、ある意味彼の才能だろう。
「ところで、街に出てきたは良いけど……どう動こうか?」
ようやくジルの顔が見慣れてきたらしいラウルは、思い出したかのようにそう聞いてきた。ジルも気持ちを切り替えて、前へと視線を移す。
昨日よりも早いこの時間。街はまた違う様相を二人の前に繰り広げていた。昼よりも道には上品なつくりの馬車が行き交い、がらがらと車輪の音と、馬が立てる蹄の音が街中に響いている。そして、二人とすれ違うのは、皆忙しそうに、目的地を目指して歩く人々の姿だ。おそらくこれから仕事に向かうのだろう。
ジル達の仕事時間は専ら夜なので、何だかこの光景は二人にとって、新鮮に見えるものだった。
その中を二人も歩いていたので、自然と早足になっていく。
「そうだな。まずは情報収集、か」
「そうだね。事件を調べる第一歩、だね」
「情報収集ね……やっぱり新聞だな」
「今日だけじゃ、多分駄目だよね」
「そうだな」
二人は頷き合うと、足早に歩いていく人々に混ざって、進路を変えた。そのままゆるりとした坂道を登っていく。彼等の横には、同じ高さで揃えられた建物が並んでいた。一階部分は大抵カフェだったり、まだ開いていない店があり、そして二階以上はアパートとなっている。アパートの窓は開いていたり、閉まっていたり、まちまちだ。
その均等に作られた建物に混じって、ジル達の斜め前に、ひと際豪華に作られた建物が見えてきた。それは高さは低いものの、上等な石で作られた壁といい、細かく施された装飾といい、他の建物とは一目見て一線を画していると分かるものだ。
そこに建っているのは、そして二人が目指している建物は、この街一番の大きさの図書館であった。