第四話
* * *
ふわふわと漂うような感覚の中に、幾つかの見知った声が聞こえてくる。あれは――ラウルで、それと、近くから聞こえてくる低い声。どこか聞き覚えのある声だ。
誰だろう。そう思いながら、ジルはふと目を開いていた。まず目に飛び込んできたのは、灰色の染みがついた、白い天井。知らない場所だ。
そして、ひょこ、とラウルの顔が唐突に現れた。心配そうな表情は、ジルと目が合うと、途端に嬉しそうな表情へ変わる。
「あ、目が覚めた?」
ラウルは心底安堵したように息を吐くと、そう聞いてきた。ジルはひとつ頷いて、礼を述べようと口を開く。
だがそこから言葉が出ることは無かった。何故ならば、ラウルの言葉に続いて、よく知る声が聞こえてきたからだ。
「よおジル、具合はどうだ?」
「……――シャルル兄?」
たっぷり数秒沈黙してから、ジルはゆるりと首をラウルのいる所とは反対方向へ動かす。そこには、シャルルの姿があった。古びた椅子に腰掛けていた彼は、ひとつ小さく息を吐く。彼は滅多に笑う事のない人物で普段から仏頂面なのだが、今の彼は、ジルには何故か怖く見える。
その思考が伝わったのだろう、シャルルは片眉を上げた。
「別に怒っちゃいねえから安心しな。倒れたって連絡があったから保護者として来ただけさ。大丈夫か?」
「……うん」
僅かに苦笑したシャルルの表情に、ジルはほっと息をひとつ吐いた。さりげない優しさに、目元がじんわりと熱くなるのを必死に耐える。
「さて、もう少しここに残っていたい所なんだが、生憎ちょっと俺らには敷居が高いもんでね。ここを出なくちゃなんねえ」
「ここは――警察?」
再び仏頂面に戻ったシャルルの言葉に、ジルはこの場所を推測する。果たしてそれは当たっていたようで、彼の眉がひそめられた。どうやら彼の機嫌が良くないのは、この場所にいるからのようだ。
「とりあえず行くか。よいしょ、と」
「ちょ、シャルル兄!」
椅子から立ち上がったシャルルは、当然のようにジルの脇の下に手を入れると、ひょいと彼を持ち上げた。その行動は自然なものだったが、あまりにも自然だったのでジルはついていけず、声が上擦ってしまう。
「ん? まだ気持ち悪いか?」
「そーじゃなくて! 俺、歩けるって!」
先程よりかはかなり気分も良くなっているし、少し身体はふらつくが、それでも歩く事ぐらいは出来るだろう。そう思って主張したのだが、シャルルはジルの身体を抱え上げるのを止めなかった。
「また気分悪くしたらどうするんだ。とりあえず、テントに戻るまでは我慢しろ」
「って……俺、いくらチビだからって、これでももう十六なのに……」
シャルルは右腕にひょいとジルを抱えて、歩き出した。こうなったら彼を止める術は無い。ぼそりと呟きながらラウルへと視線を送るが、彼もただ肩を竦めるだけだった。それもそうだろう。ジルに止められないのなら、さらに押しに弱いラウルに止められる訳が無いからだ。
重さなど微塵も感じさせず、シャルルは片腕一本でジルの身体を支えている。何だかその事に、ジルは情けなさを覚えていた。確かにジルはラウルと並んで、この年にしてはかなり背が小さい。年齢を間違えられる事は当たり前だ。だが、その身体が小さいからこそ、空中ブランコという演目をこなすことが出来るのだ。だから普段は、あまり背が小さい事への劣等感などは無いのだが、こういう時に、その劣等感が顔を出す。
唯一、シャルルとは十歳年が離れていることだけが、僅かな心の拠り所だ。
「まあまだ担げる内に、大人しく担がれてろ」
シャルルはそう言って僅かに口の端を上げた。その言葉に、反抗する気持ちを全て持って行かれてしまったジルは、諦めのため息をつく。そうして、周りに視線を向けた。
どうやらジルが運ばれたのは、救護室のような場所らしかった。彼が寝ていたベッドの他にも、幾つかベッドが並び、鼻にはつんとアルコールの匂いが漂ってくる。
シャルルはもう片方の手で、半開きになっていた扉を開くと、薄暗い廊下へと歩み出た。そのまま迷う事のない足つきで、歩いていく。そこは、今までいた場所とは違って、どこか淀んだ空気に満ちていた。その空気を肌に感じて、これはシャルルが機嫌を悪くするのも仕方が無いとジルは感じていた。
廊下の端まで歩いていくと、今までの淀んだ空間とはうって変わって、質素ながらも温かい装飾に満ちた空間が現れた。シャルルの足が、床に敷かれた上等な赤茶の絨毯を踏む。彼は仏頂面のまま歩きながら、左右に視線を送っていた。彼の視線は誰かを探しているようだ。果たしてそれはジルの予想通りで、ひとりの警官に目を留めると、ジルを抱え上げたままシャルルはその警官に歩いていく。
警官は三人が近付いてくるのを知ると、あからさまに眉根を寄せた。その表情は、食わず嫌いの食べ物を目の前にしたようなもので、自然ジルの胸の内が重くなる。
「こいつも大丈夫そうなんで連れて行きます。お手数おかけして、すみませんでした」
シャルルはそう言って、ぺこりと頭を下げた。警官は眉根を寄せたまま、口を開いて何かを言おうとしていた。だが、シャルルからそれを押さえるように強い視線が流される。その視線を受けてか、警官の口が一度閉ざされた。そうしてもう一度開かれた時、その口からはあたりさわりの無い言葉が流れ出る。
「そうですか。お大事にしてくださいね」
「……はい。すみませんでした」
抱え上げられたジルはそう言って小さく頭を下げた。シャルルは用は終えたとばかりに方向を変えて、さっさと歩き出す。隣のラウルも俯いたまま、シャルルに続いていた。
ジルは抱えられながら、自然と唇を噛んでいた。ラウルが俯いたままなのも、シャルルがここに用は無いとばかりにさっさと歩いているのも、全ては。
周りから向けられる視線のせいなのだ。幾つもの好奇と侮蔑とそして憐れみの視線が、ここに出てから三人へ突き刺さる。それはほとんど、制服を着込んだ警官から発されていて、それが意味するものが何かをジルは肌で感じ取っていた。
思わず舌打ちをしそうになるのを堪えた。それをした所で、シャルルに余計迷惑を掛けるだけなのだ。シャルルは嫌な事は放置せずにきっちりとケリをつける人間だ。その彼でさえ、この状況を放置しているという事は、ジルにもどうしようも出来ない。
大人のシャルルでさえ適わない事に、子供であるジルが適う事など、無いのだ。
ただそれが、ジルには無性に腹立たしかった。
シャルルは警察を早足で出たまま、通りを右へ曲がる。そうしてようやく警察の建物が目に入らなくなった所で、彼は大きく息を吐いた。そうして幾分か苛立たしく髪の毛をかきあげる。
「ラウル、平気か?」
そうしてシャルルは斜め後ろを歩いていたラウルに振り向いて声を掛けた。警察から出てきても、俯きがちに歩いていたラウルは顔を上げると、弱々しい表情で微笑んだ。その表情に、ジルは心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちに陥る。
ラウルはどちらかというと荒っぽいジルに比べて、優しい性格の持ち主だ。その分、人の感情に敏感に反応する。
自分のせいで、何よりもラウルの気持ちが落ち込んでしまったと思うと、さらにジルの気持ちが落ち込んでしまっていた。
そんな二人の感情を読んだのだろう、シャルルはがしゃがしゃとジルの髪の毛を乱暴に撫で回した。
「ちょ、何すんだ!」
「はは、若いって良いねえ、って思っただけさ」
「シャルル兄も十分若いと思うんだけど……」
シャルルの揶揄に、僅かにラウルの頬が緩む。それを見て、少しだけジルの気持ちが浮上していた。
「まあ、今回は仕方ねえよ。二人も気になって、朝あんなに早く街を出たんだろ?」
「……ごめん」
「それにしても、ラウルよりも鈍い精神の持ち主のジルが気持ち悪くなるなんてねえ。一体何見たんだ?」
「……」
シャルルは軽い口調でそう問いかけてきたが、ジルは返す言葉に詰まり、口をぱくぱくと開け閉めしていた。
「それは……」
何とか言葉を紡ぎ出そうとするが、シャルルにやんわりと制止される。
「今はいいや、また気持ち悪くなっても困るしな。テントに帰ってからゆっくりと聞かせてくれ」
「うん」
ジルは小さく頷くと、そっと目を閉じた。耳からは街の雑音が幾重にも折り重ねられて入ってくるが、それは全て右から左へとすり抜けていく。
目は暗闇の筈なのに、気を失う前に目にしたあの光景が、瞼の裏にこびりついたようで、それが鮮明に映し出されている。
鼻につくあの匂いが無いからか、先程のように気分が悪くなる事は無かったが、それでも、あの光景は目から離れる事が無い。
ジルの様子を知ってか知らずか、その後、シャルルは一言も発する事無く、ジルを彼等の拠点まで連れ帰った。
彼等が拠点としているテントは、街の奥、一番賑やかな場所から少し離れた場所にある。そもそもサーカスは、見世物用のテントも、そしてそれ以外に団員が生活するテントも必要だ。その為、ある程度の大きさが必要なのである。その為、大抵の場合、彼等がテントを張る場所は街外れの場所が多いのだ。
シャルルは、ジルとラウルが二人で使っているテントの中に真っ直ぐ向かい、重さをまったく感じさせない動きで、ジルをベッドの上に下ろした。
「……ありがと」
ジルがぼそぼそと礼を述べると、シャルルは僅かに口の端を上げる。そうして手近にあった椅子に彼は腰掛けていた。シャルルの隣に、ラウルもちょこんと座る。
「……それで、一体どうして気分が悪くなったのか、理由を聞かせてもらうかね。単に体調が悪くなった訳じゃないよな?」
シャルルは僅かに口の端を上げたまま、強い視線でジルを射抜いた。その眼差しの強さに、ジルはひとつため息をつく。これでは誤魔化す事は不可能だ。そうして、ジルは小さな声で、朝テントを早くに抜け出してからの経緯を説明した。彼等が、事件現場を見つけるまではシャルルも予想通りだったようで、その表情を微塵も動かす事は無かった。だがジルが、隣の庭から見たものについての部分に至ると、やはり驚いたのだろう、眉根を上げていた。
「つまり、それを見たから、気分が悪くなった、って事か」
「見たからという事もあると思うけど、何よりも、それを見た瞬間にひどい匂いがする事に気がついて……」
「なるほどな」
「そうだったの? 僕は全然感じなかった……」
ジルの告白に、ラウルは驚きの声を上げた。
「まあそれはきっと、視覚と結びついてはっきりとそれが鮮明になったんだろうな」
シャルルは顎の辺りを撫でながら、そう呟く。ジルも彼の言葉にひとつ頷いた。
「うん。あれは多分、イメージからくるものが大きかったと思うな」
「それにしても……どうもこの辺りは面倒な事になってるな……」
シャルルはひとつため息を吐いた。そして、ベッドの上に横たわっているジルと、シャルルの隣に座っているラウルへと目を向ける。
「今日の事で分かったと思うが、どうも俺達は警察にはっきりと疑われているらしい。まあ、そんな事はちょくちょくあるが、今回は特にそれがひどい」
「……うん」
ラウルは僅かに俯いて、ひとつ頷く。その表情に、再びジルの気持ちが降下していくのが分かった。僅かにその片鱗を覗いただけのジルでさえ、あんなにひしひしと敵意を感じたのだ。一番警察と接触していたラウルは、それ以上に色んな視線を向けられていただろう。
シャルルは俯いたラウルの頭をひとつ軽く叩いて、いつもよりか優しげな声音を出した。
「お前らももうすぐ大人だし、行動を制限させようって訳じゃねえ。だが、この事件にはこれ以上足を突っ込まない方が良い」
「……」
「分かったな?」
優しげな声音に潜む真剣さと、念を押すようなその強さに、ジルはこくりと頷きを返す事しか出来なかった。
「……うん」
「じゃあ俺は、練習に戻るから。今日はお前達はゆっくりしてろ」
「うん……」
シャルルはくしゃりとジルの頭をかき混ぜると、立ち上がってテントの外へと出て行った。その後姿を見送りながら、ジルの胸の内が黒くなるのを感じる。
また迷惑を掛けてしまった。
後悔が胸の内をゆるりと侵食していく。やはり自分はまだ子供なのだ。こんな簡単な事にも考えが至らないなんて。
布の上に落とした腕の力がぐらりと抜けて、手首がころりとベッドの外へと転がり出ていた。