第三話
「……なるほど。それで、『不幸を呼ぶサーカス団』なんだね」
「ああ。これじゃあ、昨日の事もあっという間に広まってるだろうな」
ラウルは些か暗い表情のまま、辺りをくるりと見回した。そこには一見すれば、連続殺人事件が起きているようには到底見えない。どこにでもある、ありふれた、賑やかな街だ。だが、その奥にはおそらく、闇を抱いているのだろう。そもそも、闇とはそういうものなのだから。
二人はしばらく黙したまま、通りを歩いていた。常人よりも優れた柔軟性を持つ足は、二人分の足音を見事に消している。長い間、同じところを歩き続けていたので、いつの間にか、通りの端まで歩いて来ていた。
「これからどうしようか」
ジルより幾らか遅れて、ポップコーンを食べ終えたラウルは、けばけばしい色で塗られたそのカップをぐしゃりと潰した。ジルはそれを見ながら、首を捻る。
「とりあえず、せっかくだし、その事件についてもう少し調べてみるか」
「そうだね。俺達が何も知らないのもおかしいしね」
二人はひとつ頷くと、とりあえず役所に向かおうと歩き出す。通りを抜けると、喧騒は三分の一ほど押さえられていた。通りをゆっくり歩いて様々なものを見物していた人々は、次の目的地に向けて足早に歩き出す。
二人もそれに乗ろうと角を曲がった所で、先程のポップコーンを売っていた場所のように、人が沢山集まって小さな山を作っている場所に出くわした。
「……なんだ、あれ」
「分からない。行ってみるか」
二人は目配せを交し合うと、どこかそろそろと抜き足差し足で現場へと近付く。何故だかは分からなかったが、とにかく悪戯をしている時のような気分だったのだ。
近付くにつれ、集まっている人々の顔が良く分かってくる。そこに集まっている人々は、ほとんどがジル達からみて、大人と呼ぶような年代だった。そこの顔に浮かぶ表情を見て、思わずジルは眉をひそめそうになる。
彼等の顔は、皆暗いものだった。まるで葬式の一団に出くわしてしまったかのような気分だ。本能的に、「ここに子供がいてはいけない」という感覚に襲われるような。二人は再び顔を合わせてその感覚を共有しあうと、視線を飛ばして、できるだけ身を隠せるような場所を探す。そこは先程の通りまでとはいかなかったが、それでも馬車が通るには十分な大きさの通りだ。その分、障害物も少ない。これでは近付く事ができないと、ジルが思わず舌打ちをしそうになった時、ラウルがくいくい、とジルの袖を引いていた。
「……あれなら大丈夫じゃない?」
ラウルの細い指先が、道の端を指した。そこにあったのは、丁度二人程の大きさの者達を隠すのに十分なスペースがありそうな高さの垣根だ。
ジルは黙ってひとつ頷くと、小走りに道を横切って、その垣根の近くまでやってくる。垣根の下は幾重にも枝が絡まっていてくぐる事は難しそうだった。仕方なしに垣根の切れ目を探していく。家の入り口からそれを見つけて、家の者達に見つからないようにこそこそと入り込んだ。
「……まあ、本当?」
「これはひどい……」
目的の場所まで歩いていくと、ひそひそとささやく声が聞こえてくる。それだけを聞いているだけでは、何が起きているのかは分からないが、漏れ聞こえてくる声のトーンはどれも低かった。
二人はその敷地の家主に見つからないように這いつくばりながら進んだ。やがて垣根は、家を取り囲むように曲がる部分に差し掛かる。二人はそこで止まったまま、垣根の隙間から外を覗き見る事にした。
丁度垣根の向こうには、隣の敷地が見えていた。その庭には、同じ服を着込んだ大人が忙しそうに動いている。
「警察だ……」
ラウルは、彼等が着込んでいる制服を見て、そう言葉を漏らしていた。ジルも声こそ漏らす事は無かったが、同じ驚きに満ちている。
どうしてこんな所に、警察がいるのだろう。その驚きは、だが彼らに一瞬にして、とある事実を理解させていた。
ここで、何らかの事件が起きているのだ。幾人も警察が動き、そして野次馬がこの家を取り囲むほどに重大な。
「ここも……」
そうなのか。ジルはその前の光景に、ぽつりと呟きが漏れていた。
がさりと茂みの葉に半分以上覆われた穴の向こうでは、警官達がメモを片手に、庭を歩き回っている。幾人かは、集まってきた野次馬に、ここに留まらないようにと注意を促しているようだった。住民達は聞いているフリをしているようで、そこに出来ている人だかりが減る事は無い。
そして、庭では警官達が一定の場所を開けているようだった。彼等は庭を我が物顔に歩いているのに、その場だけ明らかに避けている。警官達がそれぞれ話し合っている言葉は届かないので、ジルは仕方なく視界だけを忙しなく移動させて、そこで何が起きているのかを収集しようとする。
特に、警官達が集まっていながらも、決して誰も立ち入っていない場所に注目した。だが、狭い場所に、幾人もの警官が入れ替わりに歩き回るので、中々見る事が出来ない。ただでさえ、庭の垣根と、隣との家を区切る鉄格子で視界が狭まっているのだ。
「ラウル、見えた……?」
「ううん……全然見えないや」
隣でジルと同じように苦労しているラウルに小さく尋ねるが、彼もまた、眉を潜めながら首を横に振るのみだ。
これでは駄目かもしれない。ジルは半ば諦めていた時、不意に視界が晴れた。
そして、彼は見てしまったのだ。
「ひっ……」
喉の奥から、すっかり喉の壁にはりついて、音にならない音が零れ落ちる。温度が下がった訳でもないのに、背筋がぞくりと震えた。
視界がぐらりと揺れる。その先には。
丁寧に刈り込まれた緑の芝。ただそれは、赤黒い何かに浸食されて、すっかりどす黒いそれへと色を変えていた。
血だ――。それに気がついた瞬間、ジルの鼻に、今まで感じなかった腐臭が漂ってきているような気がしていた。そして、同時に届く、鉄と生臭いものが混じったような匂い。それは彼の胃を強く圧迫し、思わず喉のあたりがぐっとせり上がりそうになる。今まで良く、この中で平気でいられたものだ。ジルは食道の辺りをぐっと押さえながら、そう考えていた。
そして、同時に目に入る、不思議な物体。
「――?」
普段ならば決して見ることのないもの。見慣れないものだが、ジルは昨日からそれを連続して見ていた。
だが、こんなにはっきりと見たのは始めてだ。
「……ジル?」
頭の中が酔ったようにぐるぐる回る。その奇妙な酔い埋め尽くされそうになった時、隣からそっと声を掛けられて、ラウルは我に返った。
「ん?」
首を傾げながらそう問い返すが、ラウルの表情は強張ったままだ。
「大丈夫? 顔色……悪いよ?」
そう言われて、思わずジルはああ、とため息を漏らしていた。確かにそうだろう。たった今、あの庭の惨状を目にして、顔色が悪くならないのは、おそらくあの付近で忙しくしている警官ぐらいのものだろう。
「ああ……ちょっと、気持ち悪いかも、しんない」
ラウルとは幼い頃からの付き合いだ。今更強がっていても仕方が無い。ジルは正直にそう申告した。その症状を口にした途端、気持ち悪さが現実のものとなって襲い掛かってきたような感覚を覚える。
ぐうと再び胃を圧迫された感触に襲われ、ジルは思わず口元を押さえていた。
「だ、大丈夫……じゃないよね。ちょっと……離れようか」
「悪い……」
ラウルに片腕を支えられるようにして、よろよろとその場を離れようとする。だが足が縺れて、上手く動いてくれない。
駄目だ。今ここで倒れたりしたら、ラウルに迷惑を掛けてしまう。ラウルとは、良く悪戯もするし、一緒に怒られる事も日常茶飯事だが、それは全て、サーカス団内での事だ。ここで倒れたりしたら、間違いなくあそこで働いている警察達のお世話になってしまう。そう思い、自身を強く叱咤しながら、足を必死に前へ進めた。ラウルはジルの不調を敏感に察知したようで、支えられる腕にぐっと力を込められる。
「もう少し、もう少しだよ」
「ああ」
ラウルに優しい声音で励まされ、目尻が何故か熱くなるのをぐっと堪えていた。そうしながら、ぐらりと揺れる足を一歩、一歩前へ進める。そうして何とか、道へ出たところで、心が安心してしまったのだろう。ぐらりと足元が崩れていくのが分かった。そして同時に、視界が白く染まっていく。
「ジル!」
ラウルの声が、どこか遠くに、壁一枚隔てたところから響いてくるように、耳に届いた。もう立つ事も不可能で、辛うじて残された体の感覚が、地面に自身が打ち付けられるのを感じていた。
そうして、薄れていく意識の中、ジルはとあることを思い出していた。
そうだ、ついさっき目にしたあの不思議な物体。暗い、赤と黒が混ざり合ったような色が全体的にまぶされ、ふわりとしたレースの布地で覆われた、肌色のそれ。
あれは――そうだ。
首のない、胴体だ。