第十三話
冷やりとした冷気が肌を撫でていく。そして同時に感じる、動かしにくい体。
「ん……」
もぞりと動いて、そしてジルは目を開けた。周りはどうやら、最後にいた場所よりも暗い場所にいたらしく、目を開けてもあまり周りを認識する事は出来なかった。
そうして何とか身体の状態を確かめようと、全身に意識を集中させる。その瞬間、頭に痛みが奔って、ジルは思わず眉を顰めた。
「いてっ」
後頭部にじいん、と痺れが起きる。どうやら殴られた場所のようだ。だが、幸いと言うべきか、気分が悪いなどという事は無い。殴られた事による後遺症などは無さそうである。
そうしてこめかみに手を当てようとして、腕が動かない事に気が付いた。どうやら後ろ手で縛られているようだ。手首が強く圧迫されている感覚を感じている。
「……縄、か」
そうぽつりと呟いた時、ジルのすぐ後ろから、聞き覚えのある声がした。
「あ、ジルの声がする」
「お、ラウルか? 何かすげえ近くにいるっぽいな」
そうして後ろを振り返ろうとした時、指先に生暖かい感触が触れた。
「うわっ?」
思わずジルは驚きの声を上げるが、丁度ラウルも同じ時に驚きの声を上げていて、その事にジルはぱちりと目を瞬かせていた。
「……ん? もしかして、これ、ラウルか?」
「あ、そうかもしれない」
もう一度その生暖かいものに恐る恐る触れて問うと、ラウルの声が返ってくる。どうやら二人は背中合わせに縛られているようだった。
そこまできて、ようやく目が闇に慣れてきたようで、おぼろげに自分達がいる場所が分かってくる。
人の気配が無い事は、起きてすぐ察知していた。肌に感じるその感覚は、妙に埃くさい。それに僅かな視覚が加わると、自分達はどうやら、小さな部屋のような所に入れられている事が分かってくる。視界を確保する光は、遥か上にある天窓からの光のみだ。そこから、青白い月光が入り込んでくる。
そして、その青白い月光が壁を照らしていた。その光に、ごつごつとした壁の材質が反射している。どうやら石の壁らしい。
そこまで確認して、ジルは背中を少し倒した。すぐそこに、温かい重みを感じて、ほうと息を吐く。
どうやら背中の重みに安堵したのはジルだけでは無かったようで、背中からもひとつ、安らぎが混じった息が聞こえてきた。
「……なんかさ」
「ん?」
今、全く状況を捉える事が出来ないこの場において、本来の自分だったならば、体中が恐怖で塗り込められているに違いなかった。
だが今、確かに未知なるものへの恐怖は感じていたが、背中に感じる重みに、同時に勇気も涌いてきていた。
「俺、お前と会えて、本当に良かったって思うわ」
「何か遺言みたいで嫌なんですけど」
毎日共にいるから、面と向かって言えなくなってしまった言葉をぽつりと落とす。そうすると、後ろから苦笑交じりにそう返され、確かにそうかもしれない、と思ってしまう。
「俺、ひとりだったら、何にも出来なかったかもしれない。今回の事だって。――だから言える時に言っておこうと思って」
昔も、確かに仲間とは毎日つるんでいた。だがそこに、今のラウルと共にいる時に感じる安心感や、信頼感は皆無だった。彼等は仲間では無く、共犯者だったのだから。
だが、団長に拾ってもらって。ラウルと出会って。
自分はこうしてかけがえの無いものを手に入れる事が出来たのだ。
その事をこうしていると、改めて実感する。
「それは僕も同じだよ」
「そっか」
後ろでラウルがぽつりと呟いて、ジルは僅かに口の端を上げた。きっと、今の自分たちは同じ表情をしているに違いない。ジルの視界は相変わらず暗いままだったし、ラウルは背中の重みしか感じる事が出来なかったが、ジルはその事を確信していた。
「さて、感傷に浸るのはここまでにして。とりあえず、どうしようか」
「そうだな」
ジルが縄の感触がどうなっているのかを確かめようとした時、ぎい、と右側から音がした。そこへ顔を動かすと、小さな扉から誰かが入ってくるのが見えた。
そこに現れた人物に、ジルは小さく息を吐く。
「ああ――そういう事なのか」
そうしてぽつりと、言葉を吐いた。
* * *
シャルルはその晩、次の公演に向けて、ナイフの手入れをしようと思い立っていた。そうして口に煙草を咥えながら、準備用のテントに足を踏み入れる。普段ならば、滅多にそういった事をしないシャルルにとって、今日の行動は珍しいものだと自分でも感じていた。
どうしてだかは分からない。だが、頭のどこかが警報を鳴らしているのだ。はっきりとは分からない、その、何か。
舞台用のテントに入り、乱雑に散らばっている椅子に腰掛けた。周りではそれぞれ、次の公演の準備をしている者達、それを手伝っている者達と、公演がある日に比べては少ないながらも、幾人かがテントで各々の仕事をこなしている。
自分も仕事を済ませなければならない。ひとつ息を吐いて、手にしているナイフを取り出した。公演の際に使って、適当にまとめてひとつの袋に入れておいた、細長いナイフを一本一本、磨き粉を付けた布で綺麗に拭いていく作業だ。
そうしてナイフがすっかり抜けて、空になっている袋を見つけ、それを引き寄せた。それをひっくり返し、中にはいっている布を一気にテーブルの上に出してしまう。
そうしてナイフを布に巻いていく。だがその根気強さが必要な作業は、盛大に集中力が散っているこの場面において、その作業はかなり辛いものだった。特にひとりでは続きそうに無い。
誰かに手伝ってもらおうか。そう思い、真っ先に頭に浮かんだのは、弟分でもあるジル達の姿だ。確か今日は、まだ休みにされていた筈だ。昨日はここにいて、皆の準備を手伝っていたから、おそらく今日もいるだろう。そう思い、周りを見回す。
そしてそこで、初めて違和感に気がついた。
あの二人が、いないのだ。舞台よりも更に暗いこのテントの中、見落としたのかと思いつつもう一度目をあちこちに走らせるが、やはり二人の様子は見受けられない。
確かにいなくてもおかしいことは無いのだ。二人は休みとされているのだから、準備を手伝う必要は無い。まだ若いとはいえ、既に見習いは卒業しているのだ。休みの時にどう行動しようが、それは二人の勝手だ。
そう何度も自分を納得させようとするが、それでも頭の隅で、随分前から鳴っていた警鐘は鳴り止む事が無い。
一体どうして、何がこんなに自分をざわめかせるのだろう。そう思えば思うほど、いてもたってもいられなくなる。
ナイフはまだ半分以上残っていたが、シャルルはそれをそのままにして、その場に立ち上がっていた。
「……あれ、シャルル、どうしたの」
その時、丁度準備用のテントにルイが入って来た。彼も何かの準備をしようと思ったのだろう。真っ直ぐにシャルルの所まで歩いてくる。
「ああ、いや、ちょっとな」
この警鐘の事をどう説明すれば良いのだろう。そう思ってごまかそうとするが、ルイに誤魔化しても意味が無い、と思いなおす。
「……ん?」
「ん、あ、いや。……ジルとラウルの姿を見なかったから、気になってな」
素直にそう告げると、ルイもああ、とひとつ頷いて、あちこちへ視線を送る。
「あれ、奇遇だね。実は俺も、ジルに髪を結って貰おうと思って探してたんだけど、いないんだよね」
ルイの口調はあくまでも穏やかだ。だが、そこにはふざけた雰囲気が微塵も感じられない事から、ルイもシャルルと同じように、気にしている事が伺える。
「……そうなのか?」
「うん」
二人はそこで、僅かに沈黙したまま、お互いの視線を交わした。シャルルはルイの穏やかな中に秘められた、冷たいそれを読み取って、袋の中に手を伸ばす。
そして、何本かナイフを手に取ると、サーカスの時と同じように腰にぶら下げた。
「俺、ちょっと行ってくるわ」
「俺も用事を済ませたら、直ぐに追いかける」
「ああ」
二人は僅かに会話を交わして、そして直ぐに、テントの入り口へと足を向けた。
テントから一歩外に出れば、そこに広がるのは闇の世界。シャルルが最も好む時間帯だ。
耳元を風が切っていく音を聞きながら、シャルルは住居部分のテントが幾つも張られている場所へと歩いていく。僅かな星明かりと、テントの入り口に付けられた華奢な装飾のランプが、彼の足元を照らしていく。
そうして彼は、自分のテントではなく、ジルとルイが寝床としているテントへまず向かった。そこにいれば特に問題は無いのだ。
彼等のテントの入り口でも、ゆうらりとランプの明かりが揺れている。それを目を細めて見てから、シャルルは一息にテントの入り口部分を捲った。
「……!」
中は、やはり真っ暗だった。人がいる気配も無い。つい数分前までそこにいた、という訳でも無さそうだ。
シャルルは小さく舌打ちをすると、踵を返した。そうして自分のテントに戻ると、舞台用の衣装をひとまかせに脱ぎ捨て、普段着へと着替える。
二人はおそらく街に向かったに違いない。シャルルにとってはそれは推測だが、隣に立つルイの雰囲気から、その推測は確信として、彼の中にあった。長年共に過ごしてきたシャルルならば、一目みただけでそれが分かる。
「あー、くそ」
腰に、ナイフを入れたベルトを提げながら、小さく悪態をついた。それにしても今回は本当に面倒な事になった。まあ仕方が無いとも言えるだろうが、それでも面倒だ。
準備を素早く捉えると、シャルルは素早くテントから飛び出した。そうして街の入り口へとひた走る。
舞台に使われているテントからは、相変わらず熱気が零れ落ちていた。それを肌で感じ取りながら街への道へと向かう時、彼の前に団長の姿を捉える事が出来る。
「おお、シャルル」
「団長」
シャルルは走る速度を緩めて、団長にひとつ礼をした。団長は相変わらずの笑みをその顔に浮かべていた。
そうして団長の横を通り過ぎようとした時、彼は真剣な声音を出していた。
「悪いな、頼むぞ」
その言葉に、彼の横を通り過ぎていたシャルルは足を僅かに止めて、素早く振り返った。そこからは、団長の背中しか見ることが出来ない。
「――必ず」
シャルルはその背中にそれだけ告げると、再び足を速めた。
今日は半月。空は快晴で、街の通りに出ると、等間隔で備え付けられている街灯のお陰で、ランプも要らない明るさだ。
その中を足を止める事無く、持てる限りの速度を使って走っていく。
向かう場所は、決まっていた。東から、街の中央へと走り抜けて、そうして幾つもの丘から成り立っている西地区へと足を踏み入れる。
階段を変わらない速さで駆け抜けながら、シャルルは半月の月光に照らされたその建物を見上げる。
それは、月光の下で、昼間とは違う様相を見せていた。尖った尖塔に、僅かに浮かび上げる鐘の輪郭。
幾つもの装飾が施された外壁は、くすんだような、それでいて月光独特の青光りした色合いを浮かべている。
それを睨みつけるように見上げながら、シャルルはそこに向かう最後の階段を駆け上った。そうしてその前で、ひとつ息を吐き、乱れている呼吸を整える。
そうして、シャルルはもう一度、西地区の果てに立ち並ぶ教会を見上げた。入り口の上にあるのは、慈愛の笑みを浮かべた女性の姿。それが上から青白い光を受けて、静かにそこに佇んでいる。
「……へ、慈母、ねえ」
シャルルは皮肉るようにひとつ笑みを浮かべると、ぎい、と今は閉じられている協会の扉を押し開けた。
鍵が掛かっていなかったそれは、彼の一押しで、呆気なく開いていく。ぎい、と扉を全開まで開いて、ゆっくりと中に足を踏み入れた。
教会の中は、外よりも黒い闇に覆われていた。それは、闇の中で生きていく筈のシャルルでさえも、圧力を受けるほどの大きなものだ。
その濃密な闇の床。そこに、月の光を受けて、異様な程に極彩色の輝きを映し出している、ステンドグラスからの光がある。
そこにある、幾何学模様のそれを見て、ぐ、とシャルルの喉が押し潰されるような感覚を覚える。
それに目をやりながら、シャルルはその黒い革靴の底を鳴らしながら、一歩、また一歩中へと歩いていく。
そうして中へ歩いていく内に、彼の前に、人の気配を感じた。濃い闇の中では、その人物の姿さえ捉える事は不可能だったが、足を進めるごとに、それはステンドグラスからの光を受けて、はっきりとしてくる。
背格好からして、若い男性の姿だった。彼はシャルルに背を向けて、何かを見上げるような仕草を見せている。
その視線の先を推測しようとして顔を上げて、シャルルはああ、と内心で納得していた。その男が見ていたのは、入り口にもあった、優しげな女性の像だったのだ。
わざと革靴の底を鳴らしながら近付けば、その男はそれを受けて、ゆっくりとシャルルへと振り返った。
「夜遅くにすみません」
「――申し訳ありませんが、夜はこちらは開放していないのですが」
その若い男――エイルマーは、シャルルの言葉に、申し訳無さそうに眉を潜めていた。
「いや、別に観光に来た訳じゃねえよ」
「そうですよね――昼間にもお会い致しましたし。では尚更、申し訳ありませんが、お引取り願いたいのですが」
「ああ」
シャルルは口の端を歪に曲げて、そうして腰のベルトに手を当てていた。それを一挙動で抜き取り、エイルマーへと突きつける。
「じゃあ、ついでに、うちの弟分も引き取らせて頂くわ」
彼が手にしているナイフが、月光を浴びて、青白く光を帯びていた。