第十二話
空を煌々と照らしていた太陽が、赤く色を変えながら、街の西へと落ちていく。その赤い色に、西から今、ジル達がいる場所にかけて、全てを赤い色へと染め上げていく。
陽が暮れる。そして、夜がやってくるのだ。二人の居場所が、華やかに光を浴びる、夜の世界が。
だがその二人は、光を浴びる筈の場所にはいなかった。ジルは灰色のフードを目深に被り、先にランプを持って立つラウルの後ろをやや小走りでついていく。
「なあラウル。本当に、次の現場が分かったのか……?」
小声でおそるおそる尋ねると、顔だけこちらに向けたラウルは、僅かに目だけで頷いてみせる。
「うん。詳しくは、現場の近くで話すよ」
「ああ」
まだ空は明るいが、もうすぐ完全に黒い闇がこの街を覆ってしまうだろう。そうなってからでは遅いのだ。明るいうちならば、街の地図を頼りに移動する事は難しくないが、暗くなってだと、目印などが分かりにくくなるからだ。
あれから、穏やかな笑みを見せていたと思ったラウルだったが、急に額に皺を寄せたかと思うと、メモを前にして考え込んでしまった。
そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、不意にジルへと視線を向けて、強い眼差しを向けてきたのだ。
「うん――やっぱり、今日しかない」
「……ラウル?」
「僕――次の事件が起きる場所、分かったかもしれない」
そう告げて、今の行動に至るのだった。
サーカス団内では、ジルはまだ体調が本調子でないという事になっているので、おそらく今日テントから姿を見せなくても文句を言われる事はないだろう。
だが、団員達に怪しまれなくても、事情を知るシャルルとルイには十分に怪しまれる恐れがある。それだけは避けたかったのだ。
そうして、今日は、夕食を早々に終えると、完全に陽が落ちる前に、そろそろとテントを抜け出していく。
「えっと、ここを右だ」
ラウルが傍らのメモを確認して、分かれ道を曲がる。そうしてしばらく小走りで歩いていると、ついに目的の場所に到達したらしく、ラウルはそこで足を止めた。
「……着いたのか?」
「うん」
確認の為に問うと、やはりそのような返事が返って来る。ジルは周りをきょろきょろと見回して、そして街灯の近くに隠れるのに良さそうな塀が並ぶ家を見つける。
「ここなら大丈夫そうだ」
ジルはそう告げて、その塀の傍へと身を隠していた。子供二人分ほどの背ならば、おそらくこの暗がりで、相手に見つけられる事はないだろう。そう考えて、ようやく僅かに乱れた息を吐いた。
ジルの横で同じく身を潜めている筈のラウルからは、乱れた息などの気配が見受けられない。
「俺よりもひょろい癖して、体力あるんだな」
その事が些か頭に来て、思わず口から文句が零れ落ちる。その言葉に、ラウルがくすりと笑みを零した。
「そりゃあ、ジルは短距離型だけど、僕は長距離型だからね。得意分野が違うんだよ」
「まあ……そりゃあそうだけど」
そう言われてみればそうだった事を思い出す。どちらかと言えば、ジルは、瞬間的に力を出すのが得意で、ラウルは長い間、一定して力を使い続けるのが得意なのだ。それはサーカスの演技にもよく現れている。
それでも、何だか負けた気がするのは否めなくて、言葉にこそしなかったが僅かに頬を膨らませた。だがそれでも、ラウルには分かってしまうらしい。
「まあまあ、拗ねない拗ねない。人には見合ったものがあるってことさ」
「分かってるよ」
それ以上拗ねていても仕方が無いので、ジルはこの感情を胸の内に収めて、とりあえず目下の目標に携わる事にした。
「それで……どうしてここが次の事件現場になるんじゃないかって話をしたいんだけど」
「ああ、そうだね。うん。えーっと」
ラウルはポケットに押し込みかけていたメモ帳を取り出すと、地図の部分をジルに見せてきた。ジルはそれを覗き込み、そうしてそこに書かれていたものに、思わず目を瞬いてしまう。
「……何だ、これ」
「うん……この四つの地点を見て、思いついたんだ」
ラウルはそう言って、人差し指で教会を指差した。
その紙面には、教会を基点として、幾何学的な模様が描かれていた。三角形を幾つか重ねたような形。その三角形の頂点は、全て事件の犯行現場と重なっていた。
「教会で、ステンドグラスを見たでしょ?」
「ああ」
その言葉に、ジルは昼間の教会での記憶を必死に呼び戻す。確かに目にした、ステンドグラス。それは極彩色で、そして異様なまでに全面を幾何学模様が覆っていて……。
「あ」
そこで、ジルも初めて気がついた。
ステンドグラスに細かく描かれていた幾何学模様は、このメモに記されているものと酷似しているではないか。
「気がついた?」
「……ああ」
ラウルは、なぞるようにその模様を辿った。
「僕が教会でおかしいと思ったのは、ステンドグラスに描かれている模様が、ほぼ全てこの模様だったからなんだ。もしかしたら見当違いかもしれないけど、それでもあまりにも現場と一致しすぎているように感じてね」
「確かに、な」
教会の薄暗い闇を思い出し、僅かに背筋が冷えるような感覚を思い出した。そして、教会に行く前に聞いた、パン屋の店員の言葉。
(そうさね、あの教会が出来てからおかしくなっちまったのかな)
邪推かもしれないが、この教会とは大きな関わりがありそうだ、とジルは予感を抱いた。
「それで、ここに張り込んでどうするつもりだったんだ?」
「うん――」
ラウルに問うと、そこでラウルは言い淀む気配を見せた。どうやら、ラウルはそこまでの考えは持ってこなかったらしい。
彼は、ジルより遥かに頭が回るくせに、こういう所は抜けているのだ。昔からそうだった事を思い出し、ジルはひとつため息を吐く。
「ごめん」
僅かに俯いて、すまなそうな視線を向けてくるので、ジルは肩を竦めてみせた。
「いつもの事だろ。――確かにシャルル兄の言う通り、俺達にはこれは荷が重過ぎるだろう。とりあえず、キリの良い所まで後つけたら、警察に連絡、だな」
「うん、そうだね」
二人は小さく頷き合って、そうして沈黙を保っていた。
そうしている間に、ゆるりと、確かに東から、二人がいる所まで、闇がその存在を主張してくる。
すぐ近くにあるガス灯に灯りが付けられる。二人は手にしていたランプの火を消し、ただ沈黙したまま待ち続けた。
そうして、昼のどこか騒がしく、だが陽気な気配がすっかり消えていく。二人のすぐ隣を幾つもの馬車が足早に通り過ぎ、昼の代わりに、騒がしいが、どこか気だるげな雰囲気を二人の傍に連れてくる。
それは二人も良く知る気配だ。
そうして、完全に街中が夜の気配に完全に包まれた頃、それはやってきた。
*
二人がガス灯と、空にゆるりと昇っている上弦の月の明かりを頼りに、通りに目を凝らしていると、通りの向こうから人がひとり、ゆるりと歩いてきた。
「……ん?」
先程から幾人もの人が、この通りを歩いていたので、ジルは今回もそれの一員だろう、と軽い気持ちでそれを見やっていた。
だが、そこへ視線を向けている内に、その人物がいつもとは違う行動を示しているのに気がつく。
明かりが乏しいので良くは分からなかったが、恰幅などから見て取ると、それは男のようだった。
街の人だろうか。彼は手元に何か紙面のようなものを持ち、ひたすら辺りを見回している。
二人は思わず目を見合わせて、そしてジルは更に息を殺して、その男の様子を見守る事にした。
男はひとりのようだった。ふらりと一軒一軒、家の前に立っては、何かを確認しているようだ。
そしてそれを何度か繰り返すと、とある家の前でぴたりと足を止める。そうして、紙面とその家の番地とをしばらく確認するような仕草を見せたかと思うと、音も立てずに門を開けていったのだ。
だが二人が目にする事が出来たのはそこまでだった。二人が潜んでいる場所からは、門の向こうは視界が遮られてしまい、良く見る事が出来ない。
「……どうしよう」
ラウルがぽつりと呟く中、ジルは無い知恵を必死に搾り取る。
「とりあえず、あそこまでは障害物が何も無い。無闇に動くのは俺達まで危ない」
「……だけど」
「……もう少し待っても出てこなかったら、そうしたら動こう」
「……うん」
二人は会話を交わすと、再びじいと待つ体勢になった。正直、こういった我慢比べのような事は、ジルは不得手だ。むしろラウルの得意分野だろう。
だが今は、それに耐えなければならないと思った。そうしなければ、事件の切れ端さえも掴む事は出来ないのだから。
そうして数分、悶々とした時間を過ごす。すると、がちゃりと僅かな音をさせて、男が入っていったが開かれた。それに続いて、男が姿を現す。
男は――背に、誰かを背負っていた。
「――!」
素早く二人でもう一度視線を交わす。男は二人に背を向ける形で歩き出したので、少し距離を置いてから、二人も物陰から飛び出した。
男から、僅かに見えるか見えないかの距離を保ち、男の行く先を追いかけていく。
二人がいたのは、サーカス団のテントに近い東の場所だった。男は、中心部を迂回するように北へと足を進めていた。
「……どこへ行くんだろう」
「とりあえず、あれが止まる所までは追いかけないと」
男が気を配って道を選んでいるせいか、辺りは奇妙に静かで、心臓の鼓動が妙に鮮明に耳に届いた。それが男にまで聞かれていないのは分かっていたが、どうにも落ち着かない。
そうしてつかず離れずの距離を保って歩いていくと、男は分かれ道の前の、小さな溜まり場のような所で一旦足を止めていた。
そうして、誰かを探しているかのように、辺りをきょろきょろと見回している。
誰か、知り合いと待ち合わせでもしているのだろうか。
そう考えながら二人が足を止めようとした時、不意に、がつん、と頭に衝撃が奔っていた。
「が、はッ……!」
頭の中が真っ白に塗りつぶされるような感覚に襲われる。しまった、と思った時には既に遅く、足元がぐらりと揺らいでいた。
「くっそ、ラ、ウ……」
言葉が喉元につまって出てこない。耳元をざあざあと、血液が流れていく音が埋めていく。
その中で、ジルは確かにその言葉を聞いていた。
「あの人の計画に先回りするとは、中々見上げたものですね。それだけは褒めてあげましょう」
その声は、ひどく柔らかいくせに、体の芯まで凍らせるような冷たさを持っていた。
褒めてもらいたくなんかねえ、と悪態をつきたかったが、それさえも許されない。頬が冷たくなる。おそらく、地面に付いたからだろう。
意識は、そこでぷつりと途切れた。
最後に耳にしたその冷たい声は、聞き覚えのある声だった。