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第十話

「よ、ジルじゃねえか」

「よお」

「身体は大丈夫なのか?」

「うん、おかげさまで」

 テントをすり抜ける際に、幾人と顔をあわせて、その度にジルは声を掛けられた。そうして必ず身体の心配をされる。

 仲間の身体の調子が悪い時、声を掛け合うのはこのサーカス団ではいつもの事だったが、それでも今のジルには、何だかそれが少しだけくすぐったい。

 後ろでラウルも、団員達とにこやかに会話を交わしているのを聞きながら、ジルは普段練習場として使われている、舞台の横の少し開けた場へと移動した。

 そこにはテントは張られていない。ただ雑草などを抜き、場合によってはマットを敷いた空き地みたいな所だ。テントに沿って、幾つか練習の際に使われる道具が組み立て式の棚に載せられている。

 その練習場には、あちこちに幾人かが広がって、練習やら柔軟に励んでいた。それを見ると、自分もきっちり練習しなければ、という思いになる。

 ジルにとってサーカスは、一生を捧げる程の思い入れがあるものなのだ。

「柔軟だし、端でいいよな」

「うん」

 二人は今日、出演する団員達の邪魔にならないように、練習場の隅に寄った。そうして、地面に直接腰を下ろして、柔軟を始める。

 それはほとんど毎日行っているものだったので、頭を回転させずとも、身体はしっかり覚えていた。足をしっかり伸ばしながら、練習場で共に練習している団員達の動きを眺める。

 彼等もおそらく、このサーカス団に広まっている噂は勿論耳にしているだろう。だからと言って、調整している動きはジルも知るいつものものだ。そこに手を抜いている事や、いい加減と言った雰囲気は見受けられない。

 彼らも、ジルの思いと同じで、サーカスという演目にそれだけ入れ込んでいるのだ。例えどんな噂が立とうとも、夜のひととき、違う世界を作り出す為だけに、それだけの為に彼等は尽力するのだ。

 そんな考えが浮かび、ふと、ジルの胸の内が熱くなるのが分かった。その想いが口から、そして目から溢れ出さないように堪えながら、ジルは柔軟を続ける。

 そうしていると、前から良く知る男が歩いてきた。他の団員達よりも僅かに年を取っているものの、身体に漲るその雰囲気が若々しくさせている男。団長だ。

「おう、ジルにラウルか、頑張ってるな」

「団長、こんにちは」

 大らかな笑みを浮かべながら、団長は二人に声を掛けてくる。ジルも柔軟の手を休めて、団長へぺこりと礼をした。

「そういえば、ジルは調子が悪かったんだって? もう動いても大丈夫なのか?」

「ええ、昨日一日休ませて頂いたら、大分良くなりました」

「そうか」

 ジルの言葉に、それは良かったと、団長は笑う。その笑みに、今まで様々な要因で強張っていた心がほぐれるていく感覚を感じる。

「それは良かった、最近あんまり良い話を聞かないからな、これは朗報さ」

「――あ」

 団長の言葉に、一瞬自分達の事が見つかってしまったのかと冷や汗をかく二人だが、団長の気配からしてそうでは無いらしい。

「何か、それで俺達の事もあんまり良くない噂が立ってるって言うしな、こりゃ早いところ、次の街へ移動した方が良いかもしれない、って思ってたところさ」

 団長はそう言って、あちこちへ跳ね飛んでいる頭を掻いていた。

「まあ、お前たちが気に病むことじゃないさ」

 良くある事さ、と彼はそう言い残して、二人の前から去っていく。

 彼の後ろ姿を見つめながら、ジルはふと、団長に出会った日の事がふと脳裏に浮かび上がっていた。


 あの日も、彼はにこやかな笑みを浮かべていた。

 ジルはまだ十歳ぐらいの、今よりもっと子供で、その癖もう既に両親はいなかった。捨てられていたのだ。

 彼が生まれ育ったのは、今よりもっと治安の悪い街だった。その中でも、最下層に近いスラムで、捨てられた者達が身を寄せ合って暮らしていたのだ。

 ジルはそれが当たり前だと思っていたし、この生活がずっと続くものだとも思っていた。

 そうして過ごしていた時、仲間のひとりが、サーカス団が訪れたという話を持ち込んできたのだ。

 ジルはある程度の読み書きは出来ていたから、サーカスというものが何かを知っていた。だが、それが何だとも思っていた。

 サーカス団が自分の街に来たところとて、それが金になる訳では無かったからだ。日々を過ごしていく事が精一杯だった彼等にとって、生きる糧を得るために、金が一番、最重要地位に立っていて、そして他のなによりもそれが大事だった。

 だからその時、彼が考えていた事は、当たり前だが、金に関わる事だった。サーカス団が訪れたという事は、そこに沢山の人が集まるという事だ。

 上手くいけば、金が入るかとしれない。上手くいかなくても、飯のひとつにはありつくことが出来るだろう。

 あの日も、そう考えてサーカス団がテントを張っていると思われるあの場所へ歩いてきたのだ。

 そうして、そこで出会ったのだ。

 あの明るい笑みを浮かべる顔に――。


「ジル?」

 隣から僅かに声を掛けられて、ジルは我に返った。横を向くと、ラウルがきょとんとして首を傾げている。

「どうしたの? さっきから同じ動作しかしてないけど」

「あ? ああ――」

 ジルはそう言われて初めて、自分がひとつの柔軟しかこなしていない事に気がついた。ごまかし紛れに立ち上がってひとつ伸びをする。だが、ラウルにごまかした所で仕方が無い事に思い至り、小さく息を吐いていた。

「ちょっとな、団長と初めて会った日の事、思い出した」

「――なるほど」

 その言葉に、ラウルは納得したように頷いた。そうして彼も、思い返したように遠い目をする。

 団長と初めて会った日が、ラウルと初めて会った日でもあるので、きっとその日の事を思い返しているのだろう。

 その証拠に、ラウルはくすり、と小さな笑みを漏らした。

「ちょ、笑うなよ」

「いや、初めて会った日の事を思い出してね。随分丸くなったよね」

「誰のせいだと思ってるんだ」

「はいはい、むくれない」

 ラウルはそう言って、頬を膨らませて拗ねるジルを宥める。

「今日はお前に笑われてばっかりだ」

 ジルはそう言って、ひとつため息を吐いた。そうして、仰向けに寝転がる。

「休憩してやる」

「はいはい」

 ラウルは隣で変わらずくすりと笑みを漏らしながら、柔軟を続けているようだ。小さく筋がぱきりと割れる音が隣で響いてくる。

 透明な水彩を散らしたような、青い空。そこに白い雲が広がっていた。ゆっくりと音も無く流れていくその白い雲を何の気も無しに眺める。

 そうしてようやく、初めてジルはあの事件の事を口に出した。

「――やっぱり、止められちまったな」

「そうだね」

 ラウルはようやく初めてジルが事件の事を口に出した事に気がついたのだろう、にやにやと笑いを零すのを止めて、ジルへと顔を向ける。

 ジルはラウルへ僅かに視線を動かし、そうしてもう一度、空へと視線を動かしていた。

 そして、たった今、大らかな笑みを残して去っていった、団長の背中を思い出す。

「シャルル兄には悪い事してるなってのは分かってる。――それでも、俺は、やっぱり――何もしないでいる事は、無理なんだよ」

 そうして言葉にしてから、より自分の中でそれが事実として落とし込まれていた。

 この後悔も、そして罪悪感も、全てこのサーカス団の為のもの。好奇心や興味も勿論あるが、ジルがこの事件に仕組まれている誤解を何とかしなければ、と思うのは、やはりこのサーカス団の事が一番なのだ。

「分かるよ」

 隣でそう呟くラウルの声が聞こえた。どさりと音がして、隣へ視線を動かすと、ラウルがジルと同じように、仰向けになって空を仰いでいる。

「分かるよ、ジルの気持ち。――だって、僕も同じだから」

「そうか」

 ジルはラウルの言葉にそっけなく言葉を返す。

 胸の内に今まで広がっていた苦いものは、完全に打ち消されていた。

 そうして二人は、同時に微笑を浮かべたのだった。

「そうと決まれば、今度こそ、シャルルに見つからないようにしなくっちゃね」

「そうだな」

 二人はそう頷き合うと、身体を起こす。そうして手を組んで、二人でやる柔軟を始めた。

 背を伸ばしながら、ふとジルは、シャルルに見つかる前に、ラウルと交わしていた会話の内容を思い返していた。

「そういえば――」

「うん?」

 手を離し、身体の位置を変えながら、ラウルにその時の会話を聞き返そうとする。

「シャルル兄に見つかる前、お前、何かあの教会を見て感じたって言ってたな」

「ああ――そういえば」

 ラウルもジルの言葉に、その時の事を思い出したらしく、背後でひとつ頷くのが気配で分かった。

「あの教会、何かおかしかったのか?」

「うん――事件と関係あるとは思えないんだけどね」

 ラウルはそう言って、微かに言いよどむような仕草を見せた。ジルは彼を急かすような真似はせずに、彼の意見が纏まるのを待ち続ける。

「何ていうか――、教会っぽくないなあ、ってちょっと思っただけ」

「教会っぽくない?」

 ラウルの言葉に、思わずジルは首を捻っていた。ラウルもジルが振り返ったのを気配で感じたらしく、横目で視線を送りながらひとつ頷く。

「特にステンドグラスに違和感を感じたんだ。なんていうか、雰囲気かな。禍々しいっていうか……」

「そうなのか……」

「うん、あんまり上手くは言えないんだけどね」

 そうしてラウルは再び口を閉ざす。ジルも、ラウルの言葉にそれ以上、言及するような真似はしなかった。

 向こうで、大きな玉を転がしている連中が見える。その玉はサーカスらしく、色鮮やかなものだ。

 自分も今、この色鮮やかな世界の中にいる。

 だからこそ――この世界を護りたい、と強く思った。たとえそれが子供の我侭だとしても、その思いを無視して前に進む事は出来ない、とも。




 柔軟を終えた二人は、その日はもうやる事が無かった。

 そもそも舞台自体が休みとされているのだ。柔軟が終わってしまえば、二人にはやる事が無い。

「夕食まで時間もあるし、少しテントに戻る?」

「そうするか」

 もう一度街に行く、という選択肢も勿論あった。だが今さっきシャルルに見つかったばかりの中で、もう一度街に出るという選択肢は好ましくない。せめて明日まで待たなければならない。

「柔軟やら準備やらで汗もかいたし、着替えてえ」

 ジルは湿った自分のシャツに手を当てながら眉を顰めると、隣を歩いていたラウルも、確かに、と小さく頷いていた。

 そして二人は、ざわざわと騒がしい団員達の隙間を縫って、自分達のテントへと戻っていく。

 テントの入り口を開けて中に入ると、そこには落ち着いた自分の部屋の空気が流れ込んできて、ほうと小さく息を吐いた。

「あー、やっぱ自分の巣はいいわ」

 ジルはぼそりと呟きながら、替えの衣装が入っている衣装箱へと手を伸ばす。

「ついでに身体拭く?」

 少し遅れて入って来たラウルが、どこから持ってきたのか、水の入ったバケツを提げてやってきた。

「ああ、うん。助かるわ」

 彼の心遣いに感謝の言葉を述べながら、そのバケツに入っている手拭いに手を伸ばした。ぎゅうとそれを絞って水気を取る。

 そして、シャツをひょいと脱ぎ捨て、ベッドの上に放り投げた。そうして、ラウルから受け取ったタオルで身体を拭いていく。

 タオルに含まれる水気が、ジルの心まで冷却していくようだった。汗がそのタオルに吸われる気持ち良さを味わいながら、ジルは口を開いた。

「さて、じゃあ、もう一度、事件を整理しようか」

「そうだねぇ」

 ジルより少し離れた場所で、替えの服を被っていたラウルは、もごもごと返してきた。ジルもタオルをバケツの中に放り込んでしまうと、衣装箱から引っ張りだした替えの衣装を頭から被る。

「うーん、と、メモはっと……」

 着替えを終えてしまったラウルは、いつも彼が愛用している椅子に腰を落ち着けると、ズボンのあちこちを探っていた。そうして、少しくしゃりとしたメモをポケットのひとつから引っ張り出してきた。

 そうして彼は椅子に座りなおして、ジルへと視線を送ってくる。

「えっと、今のところ分かった事は、これだけだよね」

 そうして、メモをぺらりと捲った。そこには、午前中調べた事が一通り記されている。

「そういえば、あの教会の事はどうするんだ?」

 ジルは昼間に遭遇した教会の事を思い出す。ラウルもそれに思い至ったらしく、そうだね、とひとつ頷いた。

「とりあえず、この街の事をもっと詳しく調べてみる必要があるかもね」

 ラウルはそう言い、ぺらりとメモを捲る。そして、そこに書かれているものを見つけ、ジルは目を瞬かせた。

「お前、いつの間にこんなもの書いてたんだ?」

「ん? ああ、ジルが新聞を読んでる間にね」

 そうして、ラウルは部屋の隅からペンとインクを持って戻ってくる。最初の一枚には、主に事件の概要や、被害者の名前などが記されていたのだが、今出ているその一枚には、簡単な街の地図が描かれていた。

 大体円形に作られたそれは、外壁を頑丈な城壁で囲まれている。そして、少し東よりに街の一番賑やかな通りがあり、そして西に向かうにつれて、小さな家々が立ち並ぶ住宅街へと変わっていく。

 ラウルはインクを浸したペンを手にすると、そのメモを前に首を捻っていた。

「ええと、確か中心部の通りがここら辺だから……、あの教会があった場所は、ここら辺かな」

 ラウルはぼそぼそとひとり呟いて、西の、端の方に小さなチェックのマークを付けていた。

「どうせ地図があるんなら、事件の現場について、チェックしていっても良いんじゃないか?」

「……ああ、それもそうだな」

 ジルの言葉にラウルは確かに、と呟いて、一枚目のメモをぴり、と僅かな音を立てて破った。

「えっと、まずは……この場所は……?」

「うん? ……うーん……これは、一度街にいかないと駄目かもしれないね」

 ジルはメモに書かれていた住所から、被害者が殺された現場を割り出そうとした。だが彼等はここに住む人々では無い。おまけにこうした事件を調べることなんて初めてだ。つまり、住所がこの街のどこになるのか、見当がつかないのだ。

「あー、折角の名案が……」

 ジルが降参と両手を上げながら、テーブルにばたりと上半身を突っ伏す。向かい側に座るラウルもがくりと、首を傾げていた。

 しばらくそのままでいた二人だが、ラウルがとある事を思いついたらしく、がば、と伏せていた顔を上げた。

 そうして、きらりと企みを思いついた時の目を見せる。

「ね、さっき、シャルル兄達も事件の事を調べたメモ、持ってたよね」

 その言葉に、彼が何を考えているのか、一気に推察する事のできたジルは、ひ、と僅かに喉の奥で捻り潰したような声を出した。

「お前、何か思いついたと思ったら……なんて危険な事を……!」

 そうして、先程のシャルルの闇を孕んだ目を思い出して、ぶるりと身体を奮わせる。

「だってさ、どうせ街に行っても見つかる確率は同じだし。だったら、シャルル兄の部屋のメモをこっそり取りに行った方がまだ良いと思うんだけどなぁ」

「……それはそうだけどさ、危険すぎないか?」

 ラウルはジルを止めるどころか、更に思い切った発言をしてくる。その発言はある意味では的を得ているので、確かに、とジルは頷きそうになるが、そこでひとつ思い留まった。

 そして必死に、先程のシャルルが二人に向けてきた目を思い出せ、と念じてみる。あれをもう一度見るくらいなら、まだ街に行った方がまともな考えだろう。

 だがその念は、ラウルには伝わらなかったようだ。こういうところで、ラウルの怖いもの知らずは発揮されるのだ。

「だって、どんなに怒られたって、ちゃんとこことあの事件は関係が無いって事を証明するんでしょう?」

「まあ、そうなんだけど……」

 確かに、最初に覚悟を決めたのは自分だった。だがそれは履き違えてはいないか。

 しかし、ラウルの瞳には、既にシャルルの部屋に忍び込んで、メモをしっかりと見てくるという使命に満ち溢れているようだった。

 こうなれば、もうどうあがこうが、無駄な事を今までの付き合いでジルは思い知っている。

 ジルは仕方ない、と腰を上げた。

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