ブラックエクスチェンジ
乱子さんに「入れ替わらないか」と持ちかけられたのは、つい四時間前の塾帰りのことだった。
「久しぶりに人間の世界にも混じってみたいのよ、あたし。なに悪いようにはしないよ、一日夜遊びさせてもらうだけ。明日の朝にはあたしもあんたも元通りさ」
そういって妖しい笑みを浮かべた「乱子さん」は黒髪をとんでもない長さ(おそらく、身長より長い)まで伸ばして目に被せている、「人」、ではなかった。人ではなくて幽霊だった。分かりやすく宙に浮いていたし、白襦袢を着ていたし、いかにもお化けというように足が透けていた。そんな、見るからに妖しい幽霊が持ちかけてきた取引になんで応じてしまったのか、そのときは分からなかった。でもつい、乱子さんの勢いに流されてしまったんだろうか、四時間前のあのとき私は乱子さんの問いかけにうなずいてしまった。
「わ、分かったわ。じゃあ、朝にハチ公の前で待ち合わせで」
「了解。それじゃ、入るわね」
どひゅん! という効果音が私を貫いて、すると次の瞬間には目の前に「私」がいた。
「ふむふむ。あー久しぶりだわ、生身の身体。適合率も申し分なし! あなた本当にあたしと相性がいいのね、見込んだ通りだよ。あら、幽霊姿も似合ってるじゃない、あなた。すごく可愛い。抱きしめちゃいたいくらい。人間と幽霊じゃそんなことできないけれど。――それじゃ、また朝ね。日の出にハチ公で会いましょう。せっかくだからあなたも幽霊生活を楽しんでみたらどうかしら? たぶん一日で飽きるけど、なかなか楽しいとは思うわよ?」
じゃあねー。「私、」もとい私の体の中に入った乱子さんは一息にそれだけ言うと、ばいばいの形に手を振りながら夜の闇に消えてしまった。まだ身体の感触に慣れてないのか、すこしよろけて走って制服のスカートを大っぴらにめくりあがらせちゃったりして。少し可愛かった。
ああ、いつ死んだんだか知らないけど、きっと乱子さんは、自分の着てるその制服が私立のお嬢様学校のものだってことにも気付いてない。それが、手に提げてる通学カバンにでかでかとプリントされた学園のマークでばればれだってことにも、私立お嬢様学園の生徒が夜遊びなんてしたら、即座に退学になっちゃうことも気付かずに、夜を楽しんでくれる。
くれるんだろうなあ、とそのとき、私はぼんやりと考えていた。
それから、四時間が経った。私は今、高い高いビルの屋上の淵に座って、まだぜんぜん眠る気のない渋谷の街を見下ろしていた。日付が変わった、午前二時。ネオンと騒ぎ声につつまれた夜の中、私はけっきょく一人ぼっち。……ここまでの四時間で、分かったこと。幽霊はほかの幽霊にはほとんど会えないこと。何人、もとい何霊か道すがらにすれ違ったけど、どうにも人の姿でなくなってるモノが多かったし、そうでなければおじいさんおばあさんだった。唯一お兄さんの幽霊が一人私を気にかけてくれたけど、怖くなって私が逃げ出してしまった。
もう一つ、幽霊になっても全然楽しくなんてないこと。ふわふわした感触は楽しいけどすぐに飽きる。壁をすりぬけてみるのも五分で飽きたし、私は女だから覗きをする趣味も無い。どうやらぎゅっと眉間にしわを寄せて集中すれば人の一人くらいは呪えるようだけど、あいにく呪いたいような人もいなかった。
大体、私には友達もいなかった。
「そうよね。コミュ障でぼっちで学校と家をただ往復するだけで、休み時間にはずっとケータイか参考書を開いて、誰とも関わってこなかった――こんな私に、こんな世界が楽しめるわけがないんだわ」
今なら分かる。私は乱子さんの申し出を断れなくてこうなったんじゃない。自分から、喜んで申し出を受け入れたのだ。大嫌いな自分を壊してほしかった。幽霊と入れ替わって、自分の体で自分の意志とは関係なく、自分には到底できないことをしてもらって。それで何かが変わるきっかけになればなんて、都合のいいことを考えてしまったんだ。
結局、そんなんで変われるわけがないのに。私が私である限り。
「……日の出まで、あと四時間、かぁ」
だから今、私はほんの少しだけ勇気を出してみようと思っている。ビルの屋上からじっと見つめる私の視線の先にいる、派手で私にぜんぜん似てない女の子。きっとあの娘が、ううん、あの娘の身体が教えてくれる。入れ替わるなら、あんな娘が良い。ちょっとにんまりと笑いながら、私は作戦を練ることにした。
名前は、乱子ということにしておこう。
ずっと前から死んでいて、久しぶりに人間世界を味わってみたい、とか、動機としてはいいんじゃないだろうか。
ふわりとビルから飛び降りて、少女の元へと私は向かった。
なんとなく、成功する気がしている。だって、さっきの子だって、成功していたんだもの。
さあ、「私」の交換だ。