毒婦の殉教
凍てつく泥漿が跳ね、鉄輪を軋ませる荷車の鈍い軋みが、鉛色の空へと吸い込まれていく。 北方の極寒境、オルウェン男爵領の館の一室には、粗悪な泥炭がパチパチと爆ぜる燻んだ匂いと、氷結した石壁が吐き出す湿った黴の気配が澱んでいた。 机の上に広げられた一枚の親書を、エリュシアは指先でなぞった。 王妃からであることを示す滑らかな手触りを持つ白百合貝の漉き紙。中央王室の文官のみが調合を許される、銀香油と乾いた竜脳の香りがかすかに鼻腔をくすぐる。それは、獣脂と泥の匂いに塗れたこの寒村とは、文字通り異なる次元から漂ってきた冷たい空気だった。
『――こちらは穏やかな日々が続いております。天蓋宮の温室に咲く氷光花が見事な盛りを迎え、陛下のお側で澄み渡る蒼穹を眺める時間は何よりの慰めでございます。私の愛する友 エリュシア、あなたの領地にもそろそろ初雪が舞う頃でしょうか。どうか肌を刺す風に身を損なわぬよう、温かくしてお過ごしください』
均整の取れた、まるで細密版画の教本のように美しい筆跡だった。 だが、末尾の署名――「シレネ」という紫青のインク溜まりの左側だけに、光の角度でわずかに浮かび上がる円い歪みがあった。涙が落ちて繊維を湿らせ、乾いた後、入念に布で擦りつけられた跡だ。さらにその紙の端には、指の腹を白くなるほど強く押し当てた爪の痕が、三日月となって紙の厚みを押し潰していた。
「……この癖は、変わらないのね」
エリュシアは低く呟き、手紙を自らの胸元へと押し当てた。 粗末な毛織のドレス越しに、紙の底冷えが肌の奥へ染み込んでくる。
一年前、父であるオルウェン男爵は、シレネの父親である子爵からの言葉としてこう告げたのだ。『失意の皇太子殿下にシレネ様が見初められ、真実の愛をもって迎えられた。あの方も喜んで輿入れを承諾された』と。下級貴族の身分では王族の婚儀に立ち会うことすら叶わず、エリュシアは胸を焼くような胸騒ぎを押し殺し、遠く北方から友の幸福を信じようとしていた。 だが、手紙の端に残されたこの三日月の痕を見た瞬間、エリュシアの中であまりにも美しい御伽話に抱いた疑念は確信へと裏返った。彼女は直ちに手持ちの金を叩き、王都の伝聞と情報屋を徹底的に洗い直させた。そして暴き出されたのは、「愛情に満ちた求婚」という美談の裏に隠された、おぞましい宮廷の真実だった。
手紙の送り主である、シレネ・フォン・シルヴェスタは大陸諸侯の法規において、王家に嫁ぎ得る最低境界線――小領を治める子爵家の令嬢だった。本来、現国王カリアンが皇太子であった頃、その隣に立つべき正妃として定められていたのは、建国七大貴族の筆頭であるハイヴェルク公爵家の長女、リュシエンヌだった。まばゆい黄金の髪、見るものを圧倒する気品、そして王家を凌ぐとさえ噂された強大な魔導鉱山利権。皇太子カリアンは彼女を狂信的に崇拝し、愛していた。 しかし一年前の晩秋、皇太子みずから手綱を引いた霊峰の狩猟の最中、リュシエンヌの騎獣が突然暴れ、バランスを崩したリュシエンヌは騎獣から落下、運悪く頭をぶつけそのまま死亡した。頭部の怪我以外美しいままの彼女の遺体を前に、皇太子は三日三晩血の涙を流して狂乱し、やがて水も喉を通らなくなって骨と皮ばかりに衰弱した。 国政の麻痺と玉座の断絶を恐れた枢密院が奔走し、ハイヴェルクの血を末端に引く各地の諸侯令嬢を片っ端から集めて病床の皇太子の前に並べた。その末席に控えていたのがシレネだった。 蜜を溶かしたような柔らかな髪のうねり、伏せたまつ毛の影、青みがかった灰色の瞳の揺らぎ。 「リュシエンヌが黄泉から戻った」 歓喜の絶叫を上げた皇太子は、シレネの華奢な手首を折れんばかりに掴み、そのまま新たな婚約者として王宮の奥底へと連れ去ったのだ。愛情などではない。死んだ婚約者の代用品を欲した狂気の執着にすぎず、一族の安寧と領民の盾となるため、シレネはその残酷な身代わりの役目を一人で引き受け、幸福を装って旅立っていったのだ。
だが、死者の身代わりほど残酷な役目はない。次第に正気を取り戻したカリアンは、シレネの些細な振る舞い――スープの匙を運ぶ手の慎ましさ、騎獣の荒い息遣いに怯える瞳、控えめで穏やかな声の響き――そのすべてに「リュシエンヌではない」という現実を見せつけられ、憎悪を募らせた。 死を持って損なわれることがなくなった、更には美化されていくリュシエンヌと生者であるシレネとの差異を受け入れられず暴言を吐き続けた。
「偽物め」「なぜお前のような賎しい血筋の娘が、彼女の器を真似て私の前に立っているのだ」
宮廷の大貴族たちもまた、ハイヴェルク公爵家の養女とはなるもカリアンの様子に後ろ盾としての役割を放棄された名ばかりの公爵令嬢を徹底して踏み躙った。元々はリュシエンヌに仕えていたハイヴェルク派の侍女たちは元子爵令嬢という自分たちより低い爵位だったシレネに王室礼法の細部を教えることすら拒み、わざと夜会の作法を違えさせては、満座の面前で彼女を「不作法な田舎娘」と嘲笑の的にした。
手紙には平穏な様子以外何も書かれていない。だが、シレネの魂がすり減り、大理石の宮殿の片隅で干からびていく音が、エリュシアには確かに聞こえていた。
「待っていて、シレネ」
エリュシアは立ち上がり、燃えさかる暖炉の眩い炎を見つめた。 エリュシアの実家、オルウェン男爵家は、荒涼とした北端の岩山を細々と治める小貴族に過ぎない。中央宮廷の門をくぐる資格などなく、王都の貴族名鑑の末尾に小さく名を刻む程度の存在だ。 身分が足りない。金が足りない。権威が足りない。 何一つ持たない小娘が王妃の側近となるなど、定まった秩序の中にいる限り未来永劫あり得ない。
「ならば、秩序そのものを買い叩いて組み替えるまでよ」
エリュシアは冷え切った指先で、自らの漆黒の髪を梳き上げた。 シレネを救い出すためなら、聖堂の戒律も、淑女の誇りも、この肉体すらも泥沼に投げ打つ覚悟はとうに定まっていた。彼女の瞳の奥で、昏く澄んだ青い焔が静かに燃え上がっていた。
成り上がりへの最初の階梯は、腐臭漂う取引だった。
エリュシアが標的としたのは、南部の一大穀倉地帯を領有しながら、放蕩と賭博で家政を破滅寸前に追い込んでいた大貴族、ベルクハイト侯爵エドヴァルドだった。六十をとうに過ぎたその老人は、かつて前王の側近として栄華を極めたが、いまや肥満した肉体を豪奢な貂皮に包み、若い妾を館に囲うことでしか自尊心を保てない廃人同然の好色漢だった。しかし辿れば王家にも繋がる古きその家名は各所への影響力を十分に残していた。
エリュシアはオルウェン領の鉱山で採れるわずかな金紅石の採掘権を抵当に金を工面し、単身で侯爵の別邸へ乗り込んだ。 重苦しい紫ビロードの天蓋、熟れすぎた果実と甘ったるい麝香油、そして老人の加齢臭が混ざり合う密室。侯爵は、紫煙を燻らせ、酒の染みがついたガウンの胸元をはだけさせたまま、濁った目でエリュシアを舐めるように値踏みした。
「北方の寒村の小娘が、私に金を融通しに来ただと? 笑わせるな。お前のような貧相な娘の持参金など、我が夜の遊興の一席で灰になるわ」
「ええ、金だけでは足りませんでしょう。ですから、私自身を差し上げに参りました」
エリュシアは冷淡な声で言い放ち、着ていた外套の銀留めを外した。 絹擦れの音が部屋に落ちる。本来あるべきドレスはそこになく、秘められるべき薄い麻の下着越しに露わになったのは、無駄な贅肉の一片もない、雪のように白い肩と首筋だった。寒村の乗馬と鍛錬で引き締まった無駄のない肢体。だが、媚びるような微笑みは一切浮かべず、机の上に分厚い帳簿の束を叩きつけた。
「これは、閣下の領地における過去十年分の穀物横流しの記録と、代官たちの着服の証拠です。これを取り締まるだけで、年間の収益は三割跳ね上がる。そしてこちらは、王都の大金貸したちに対する借財の減免交渉案です。私を侯爵夫人として迎えなさい。あなたの乱れた帳簿をすべて正し、没落を免れさせ、社交界で誇れる若く美しい妻の役を完璧に演じて見せます」
侯爵はぽかんと口を開け、やがて脂ぎった唇を歪めて下卑た笑いを漏らした。
「……生意気な牝狐め。だが、その白い肌は悪くない」
老人の湿った掌が、エリュシアの鎖骨を這い上がった。ヤニと饐えた息が顔にかかる。 エリュシアは眉一つ動かさず、ただ静かにそれを受け入れた。
手に入れた若い肢体に、夜ごと繰り返される老人との醜悪な交合。重い肉体が圧し掛かる間、エリュシアは天井に描かれた創世神話のひび割れを数え続けた。
(この程度の汚辱、シレネが味わっている日々の地獄に比べれば、ただの生ぬるい泥水だ)
半年後、婚姻は結ばれた。半年という限られた期間においてエドヴァルドが満足するだけの金への道筋と快楽を与えたエリュシアに、相応の権力を与えることをエドヴァルドが愉しんだ。使い捨てられ、何もなし得ないリスクを己が才覚で乗り越え、無事に侯爵夫人の座を手に入れたエリュシアは、引き続き休むことなく爪を研いだ。 領地の不正代官を容赦なく地下牢へ叩き込み、穀物の流通網を一手に掌握。浮いた巨額の資金で王都の大商人たちと結託し、精霊銀と魔導触媒の輸入独占権に投資した。 侯爵が毎晩のように強い蒸留酒と阿片草の煙に溺れ、脳卒中で急死したのは、結婚からわずか四年目のことだった。エリュシアは夫の葬儀で一滴の涙も流さず、喪服の黒いヴェールを被ったその足で、侯爵家の全財産と広大な領地を自らの単独相続とする遺言書を、買収済みの公証人たちに受理させた。
二十代半ばにして、エリュシアは王国でも指折りの富と、第一級の爵位を持つ未亡人――「ベルクハイト侯爵夫人」となった。
だが、宮廷の深奥にある内廷の門は、これでもまだ開かない。
侯爵夫人の身分があれば、公式の祝宴や儀礼に出席することは叶う。しかし、王妃の私室に日常的に侍り、彼女の盾となることは不可能だった。 当時の王宮において、王妃の周囲を取り仕切るのは「内廷」と呼ばれる閉ざされた女たちの世界であり、そこはハイヴェルク公爵家をはじめとする超名門の門閥貴族が、代々の世襲特権としてがっちりと牛耳っていたからだ。
シレネがカリアンの即位に伴い王妃となってからも、その孤立は深まるばかりだった。 ハイヴェルク派の女官たちは、シレネの居室から外へ送られる書簡をすべて検閲し、面会を求める者を「王室の格式に合わない」という口実で門前払いした。シレネは宮殿の奥深く、金箔と鏡で覆われた牢獄に完全に幽閉されていた。
「外側から扉を叩いても開かないのなら――」
エリュシアは王都の館の執務室で、埃をかぶった古法典の写本をめくりながら冷笑した。
「宮廷そのものの骨組みを、金と毒で組み替えるまでよ」
そこからの七年間は、冷徹な策略と底なしの腐敗の連続だった。
当時、王国は慢性的な財政赤字に苦しんでいた。隣国との無益な国境紛争、王族たちの際限のない浪費、そして大貴族たちの免税特権。国庫は底をつき、財務卿は毎月のように新たな通行税や塩税の導入を画策しては高等法院と衝突していた。
エリュシアが目をつけたのは、法官や徴税官の職そのものを競売にかける「官職売買」の制度だった。 金に困った王室は、司法官や徴税請負人のポストを富裕な商人に売り払っていた。エリュシアはこの仕組みを逆手にとり、王室の負債を買い取る筆頭債権者として名乗りを上げた。
「ベルクハイト侯爵夫人、またあなたですか」
財務卿の執務室。書類の山に埋もれた青白い顔の伯爵が、エリュシアの前に運ばれた重厚な木箱を見つめた。 蓋を開けると、ぎっしりと敷き詰められた白金貨の冷たい輝きと、金属特有の錆びた匂いが立ち込める。
「閣下、今月の近衛連隊への給与の支払いが滞っていると伺いましたわ。兵たちが武器を捨てて門を放棄すれば、あなたの首は明日にも王都の広場に晒されます」
エリュシアは象牙の扇子を優雅に揺らし、香水の香りで執務室の埃っぽい空気を塗り替えた。
「ここに十万ダカットの無記名為替があります。利子は国債の標準よりも三割低くて結構。その代わり……近衛隊の武具調達の独占権を、私の息のかかった商会に変えていただきたいのです」
「し、しかし、それは現軍務卿の弟の工房が……」
「軍務卿の弟君が、隣国の密輸商人から精霊銀を安値で仕入れ、差額を着服している証拠の帳簿が、私の手元にございますのよ」
エリュシアは薄く微笑み、指先で一枚の羊皮紙を滑らせた。
男たちの欲望、横領、隠し子、裏取引。エリュシアは王都の地下街から買い取った情報屋たちを使い、宮廷を牛耳る大臣たちの弱みを徹底的に集め上げていた。彼女の金と脅迫は、蜘蛛の巣のように王宮の隅々まで張り巡らされた。 軍需物資の調達、塩税の徴税権、果ては王室礼拝堂の大司教補佐の推薦権に至るまで、エリュシアの息のかからない利権は存在しないほどになった。貴族たちは彼女を「美しき高利貸し」「王宮の毒蜘蛛」と陰で罵りながらも、資金繰りに行き詰まると屈辱に塗れて彼女のサロンへ頭を下げにやってきた。
エリュシアはそのすべての男たちに微笑みかけ、金を貸し付け、引き換えに彼らの権力の一部を切り取っていった。 頑迷な法務卿を籠絡するために、彼が執着する花街の踊り子を手配し、その密会の現場を押さえて意のままに動かした。またある時には、自らの美貌に魅せられた近衛隊長をサロンの奥の薄暗い寝室に招き入れ、甘い吐息と指先で男の野心を煽り立てて自らの私兵同然に仕立て上げた。
身体も、金も、名誉も、エリュシアにとっては単なる武器に過ぎなかった。武器を用い、駒を落とし、盤上を攻め入っていく。 鏡を見るたび、冷徹な女の顔がそこにあった。だが、その胸の奥底で脈打つ熱い塊――シレネという存在だけが、彼女を怪物になり果てることから引き留めていた。
そして、十一年の歳月が流れた。 エリュシアは三十代半ばを迎え、その美貌には大人の女としての冷徹な凄みが宿っていた。 時は満ちたのだ。
国家財政はついに破綻の危機を迎え、国王カリアンは貴族たちへの課税を審議するための「諸侯評議会」の招集を余儀なくされていた。宮廷は混乱の極みにあった。 その混乱の最中、エリュシアは財務卿、大法官、内務卿の三人を自邸の密室に呼び出した。
「【王妃家政総監】の職を、復活させなさい」
卓上に置かれた書類を見て、大臣たちは息を呑んだ。
「ば、馬鹿な! 家政総監といえば、かつての内廷の最高権力者……王妃の私室の出入りをすべて統括し、宮廷の人事にすら口を挟んだという悪名高き官職だ! そんな強大な権限を、臣下に与えられるはずがない!」
「与えるのではありません。私が買い取るのです」
エリュシアは冷え切った茶のカップをソーサーに戻した。カチャリと硬い磁器の音が室内に響く。
「王室が抱える直近の短期債務、四百万ダカット。すべてベルクハイト侯爵家が一括で引き受け、棒引きにいたします。……もし拒否されるなら、明日朝一番にすべての手形を回収に回しますわ。明日の夕方には王室の金庫は完全に空になり、宮殿の警備兵の食事すら配給できなくなるでしょうね」
大臣たちの顔から血の気が引いた。彼らの弱みはすべてエリュシアの手中にあった。 拒否すれば、王室の破滅であると同時に、彼ら自身の政治的・社会的な死をも意味していた。
「……国王陛下には、何と説明するおつもりですか」
内務卿が震える声で尋ねた。
もはや受け入れたと同義の質問に、エリュシアは冷酷に微笑んだ。
「『王妃陛下は度重なる心痛により居室に引き籠もりがちであり、内廷の規律が乱れている。これを正し、王妃の身辺を厳格に管理するため、絶大な権威を持つ総監を置き、王妃を外部の悪意から厳密に隔離・保護・監視する必要がある』――そう上奏なさい。国王にとっても、疎ましい身代わりの妻を黙らせておく都合のいい監視役に見えるはずです」
宮殿の奥深く、豪奢な回廊と広間を抜けた先にある王妃の居室。 そこは、外界の喧騒から完全に切り離された、息の詰まる沈黙の世界だった。壁にはくすんだ薔薇色の絹織物が張られ、磨き上げられた床には貴重な獣毛の絨毯が敷かれている。だが、その部屋の空気は、冬の霊廟のように冷え切っていた。
シレネは、窓辺の安楽椅子に座っていた。 三十代を迎えた彼女の顔立ちには、若き日の可憐さは失われ、代わりに透き通るような青白さと、すべてを諦めきった虚無が張り付いていた。 彼女の耳には、外の世界の情報はほとんど届いていなかった。 手紙は厳しく制限され、面会に来るのは事務的な用件を伝える官吏か、彼女を監視するハイヴェルク派の女官たちだけ。 ただ、最近になって宮廷が何やら騒がしく、女官たちが「内廷の綱紀粛正のため、恐ろしい権限を持つ新たな女官長が送り込まれてくる」「冷酷非情なベルクハイト侯爵夫人が、王妃の監視役として内廷を牛耳るつもりだ」と怯え混じりに噂していることだけは知っていた。
(また、新しい看守が来るのね……)
シレネは自嘲気味に目を伏せた。 国王カリアンは、彼女の顔を見るたびに眉をひそめ、リュシエンヌの命日には決まって酒に溺れて彼女を罵倒した。宮中の女官たちは陰で彼女を「お飾りの偽物」と囁き合い、必要な儀礼の連絡すらわざと遅らせて恥をかかせた。 誰にも心を許せず、誰にも助けを求められないまま、十年以上の歳月が過ぎ去っていた。 世継ぎを設ける役割すら果たせないうちに側妃が何人も送り込まれ、気まぐれにカリアンが渡った結果、王女と王子が誕生している。もはやシレネはカリアンが未だ真に愛するリュシエンヌの生家であるハイヴェルクに恩恵を与えるため、王妃の座を与えられた人形でしかない。唯一の心の支えだったエリュシアからの手紙も、いつの間にか途絶えていた。きっと、北方の穏やかな地で誰かと結婚し、自分のような呪われた存在のことなど忘れて平穏に暮らしているのだろう――そう思い込むことで、シレネは辛うじて自らの絶望を押し殺していたのだ。
重々しい足音が、私室前の回廊に響いた。 普段の女官たちの軽やかな足音ではない。硬い革底が床を踏み鳴らす、威圧的な響き。
バタン、と両開きの豪奢な扉が左右に押し開かれた。
「王妃家政総監、ベルクハイト侯爵夫人閣下のお入りです!」
典礼官の甲高い声が響き渡る。
シレネを取り囲むように控えていたハイヴェルク派の女官たちが、怯えたように一斉に身を引いた。 部屋に入ってきたのは、深い濃紺の式服を纏った一人の貴婦人だった。腰には王家から下賜された黄金の鍵の徽章が燦然と輝き、漆黒の髪を完璧に結い上げたその姿は、冷徹な威厳そのものだった。
シレネは機械的に立ち上がり、王妃としての礼をとろうとした。
「総監閣下、ようこそ……」
言葉が、喉の奥で凍りついた。
歩み寄ってきた貴婦人が、ゆっくりとヴェールを上げたのだ。 切れ長の強い瞳。引き締まった唇。右の眉の端にある、幼い頃に北方の岩場でつけた小さな古傷。
「……え……?」
シレネの喉から、掠れた空気の塊が漏れた。 見間違いだ。そんなはずはない。北方の寒村で、共に粗末なパンを分け合い、草を食む家畜を追っていたあのエリュシアが、どうしてこんな――宮廷の頂点に君臨するような衣装を纏って、ここに立っているのか。
エリュシアは無言のまま、シレネの前まで歩み寄った。 そして、周囲を取り囲む女官たちを、氷のような視線で一瞥した。
「これより、王妃陛下の家政、身辺の警護、謁見の許諾に至るすべての権限は、国王陛下の勅許に基づき、この家政総監が直轄します」
エリュシアの声は、かつてないほど低く、凛として部屋の隅々まで響き渡った。
「ハイヴェルク公爵家からの女官は、全員即刻この部屋から退去しなさい。私物の持ち出しは一切禁じます。これより私室の警護は、私の配下の警衛隊が担当します」
「な、何を無礼な! 私たちは代々王妃様にお仕えしてきた誇りある――」
突然の宣言に首席女官の伯爵夫人が色をなして抗議しようとした。それにエリュシアは冷ややかに目を細め、腰の帯から一通の封書を取り出して女官の胸元に突きつける。
「昨日付で、あなたのご夫君が管轄する王立造幣所の金塊着服に関する調査書が、大法官府に提出されましたわ。……今すぐ自らの足で立ち去るか、警衛兵に引きずられて要塞の地下牢へ向かうか、どちらがお好みかしら?」
傍目にもわかる勢いで女官の顔から血の気が引いた。彼女は震える手で封書を握りしめると、他の女官たちに目配せをし、蜘蛛の子を散らすように部屋から逃げ出していった。
扉が重々しく閉ざされると、エリュシアの手により内側から閂が下ろされる。 部屋には、シレネとエリュシアの二人だけが取り残された。
シレネの身体は、小刻みに震えていた。
「……エリュ、シア……? 本当に……あなたなの……? ベルクハイト侯爵夫人って……王妃を監視するために送り込まれたっていう、恐ろしい女官長と言われるのが……あなた……?」
エリュシアは仮面のような冷徹な表情を崩さないまま、ゆっくりとシレネの足元へと歩み寄った。 そして、裾を踏むことも厭わず、冷たい大理石の床へ深く膝を突いた。
「監視役、ええ、その仰るです」
エリュシアは顔を上げ、シレネを見上げた。 その瞳から、張り詰めていた氷のような冷たさが急速に溶け落ちていく。代わりに溢れ出してきたのは、十一年間、ただの一瞬たりとも絶えることのなかった、友への慈愛だった。
「あなたを傷つけるすべての悪意から、あなたを守り、監視し、この世の誰一人としてあなたに触れさせないための――あなたのための番犬です」
「エリュシア……っ!」
シレネはその場に崩れ落ちるように、エリュシアの首にしがみついた。 豪奢な絹の布地越しに、エリュシアの体温が伝わってくる。懐かしい、北方の雪の日のような、清冽で強い匂い。
「どうして……どうやってここまで……十一年よ!? ベルクハイド侯爵夫人が社交界でどれほど恐ろしい悪名を着せられていたか、私にだって聞こえていたわ! 魔女だとか、高利貸しだとか、男を破滅させる毒婦だとか……!どうしてそんな泥にまみれてまで……!」
シレネの涙が、エリュシアの肩を濡らす。 エリュシアは愛おしそうに腕を回し、シレネの背中をきつく抱き締めた。十一年分の空白を埋めるように、少しの隙間も許さぬように。
「十一年前、あなたから送られてきた手紙に、爪の痕がついていました」
エリュシアはシレネの耳元で囁いた。
「あなたは泣くのを我慢する時、いつも紙の端を指で潰していた。……あの手紙を見た日から、私の人生の目的はただ一つになりました。あなたをこの鳥籠から助け出すか、さもなくば、その鳥籠の鍵を私がすべて奪い取ると」
「でも……代償が大きすぎるわ! あなたの名誉も、若さも、すべて私のために犠牲にして……!」
「私の名誉など、あなたの一粒の涙ほどの価値もありませんよ」
エリュシアはシレネの両頬にそっと手を沿わせ、その濡れた瞳をじっと見つめた。
「見てください。もうあなたを嘲笑う女官はいません。国王ですら、私の財政支援がなければ軍を動かすこともできない。この宮殿において、あなたを偽物と呼ぶ者は一人としていなくなりました。私が、すべてを跪かせたのです」
シレネは息を呑んだ。 目の前にいる親友は、かつて野原で笑い合っていた無邪気な少女ではなかった。血と金と欲望の海を泳ぎ渡り、怪物の皮を被って宮廷の頂点へと這い上がってきた修羅だった。 けれど、その修羅の瞳の奥で揺れている光は、あの寒村の暖炉よりも温かく、絶対の純度で自分だけに向けられていた。
「……恐ろしい人」
シレネは泣き笑いのような表情を浮かべ、エリュシアの額に自らの額を押し当てた。
「本当に……恐ろしくて、愛しい人」
その日から、二人の奇妙で濃密な生活が始まった。 エリュシアは家政総監の権限を振るい、シレネの周囲を完全に掌握した。食事の毒見から寝台の整頓に至るまで自らの息のかかった者だけに任せ、国王カリアンが気まぐれにシレネの居室を訪れようとすれば「王妃陛下は御不例にございます」と冷然と追い返した。 宮廷の誰もがベルクハイト侯爵夫人を恐れ、王妃はその冷酷な女官長に完全に籠絡・支配されているのだと噂した。 財務卿、大法官、内務卿の三人でさえ、エリュシアが王妃の権力を用い王宮を我が物とするためにこの役割についたのだと思っていた。だが、閉ざされた扉の向こう側で、二人はかつてのように手を取り合い、温かい茶を啜りながら、他愛のない昔話を囁き合っていた。それは、嵐の前の静けさの中で咲いた、細やかな幸福だった。
破滅の足音は、宮殿の地下を揺らしながら、確実に近づいていた。
エリュシアが内廷を完全に掌握してから一年――彼女が成り上がりの階段を登り始めてから、十二年の歳月が流れていた。 王国全土を襲った長年の飢饉と重税により、王都の街には飢えた平民が溢れかえっていた。王室の借財をエリュシアが肩代わりしたところで、特権階級の搾取が生み出した社会の歪みが治るはずもなかった。むしろ、貴族たちの無能と奢侈に対する怒りは、限界を超えて沸騰していた。
「天蓋宮を焼き払え!」 「王家の血を吸う偽りの王妃と、宮廷の毒蜘蛛を広場へ引きずり出せ!」
街中に貼り出された檄文には、国王含む大物貴族たちと並んで王妃シレネと女官長エリュシアの名が記されていた。シレネは「国庫を食いつぶす偽物の象徴」、エリュシアは「民の骨肉をすすり上げる強欲な魔女」として、憎悪の的となっていたのだ。
そして、寒風が吹き荒れる冬の朝、ついに均衡は崩壊した。
飢えた数万の民衆が、農具、仕事道具、削り出された槍など武器になりそうなものを手に王都から天蓋宮へと押し寄せた。 宮殿を取り囲んでいた正規の警衛兵たちは、民衆の圧倒的な人数と圧力の前に次々と武器を捨てて逃亡した。かつて栄華を極めた大理石の回廊を、泥まみれの長靴を履いた群衆が駆け上がってくる地響きが、宮殿全体を揺るがしていた。
「閣下! お逃げください!」
エリュシアの配下である護衛隊長が、肩から血を流しながら私室に飛び込んできた。
「正門の青銅扉が破られました!防壁は完全に突破されています!裏の納骨堂に通じる隠し通路なら、まだ小型の馬車が一台通れます!早く、早くお逃げを!」
遠くから、ステンドグラスが粉々に砕け散る炸裂音と、怒号、そして逃げ惑う廷臣たちの悲鳴が響いてくる。国王カリアンはすでに礼拝堂の回廊で民衆に包囲され、王子、王女すら捕縛されたという叫び声も聞こえていた。
せめて足止めをと再び飛び出していく護衛隊長の背が消えると、エリュシアは扉に閂をかけた。そんな中、シレネは立ち尽くしていた。 その瞳には、かつての虚無ではなく、激しい焦燥と恐怖が宿っている。だがその恐怖は、自らの死に向けられたものではなかった。
「エリュシア!」
シレネは駆け寄り、エリュシアの両腕を掴んだ。
「逃げて!今すぐその隠し通路から逃げるのよ!あなたの領地へ、あるいは港へ行って海を渡りなさい!」
エリュシアは静かに首を傾げた。その表情には、周囲の地獄のような喧騒が嘘のように、一片の動揺もなかった。
「聞いて、エリュシア!」
シレネは必死に叫んだ。涙が彼女の白い頬を伝い落ちる。
「民衆が憎んでいるのは玉座よ!標的は私なの!子爵家の身代わりだろうと何だろうと、私はこの国の王妃として冠を戴いてしまった……逃げられるはずがないわ!でも、あなたには関係ない!あなたはただの臣下よ!金をばらまいて女官長になっただけの、侯爵未亡人じゃないの!今ならまだ、財産を使って国外へ逃げられるわ!」
「関係ない、ですか」
エリュシアは静かに微笑んだ。その声音の穏やかさが、シレネの焦燥をいっそう掻き立てた。
「そうよ!私のためにあなたが命を捨てる必要なんて、最初からなかったのよ!十二年も……苦労をして私のそばに来てくれた。この一年の平穏をくれた……もう十分よ!私のためにこれ以上死に急ぐのはやめて!お願いだから、生きて……生きてちょうだい、エリュシア!」
シレネはエリュシアの腕にすがりつき、必死に懇願した。 外からは、木製の重い扉が鉄の槌で叩き割られる激しい破砕音が響いてくる。すぐ隣の広間まで暴徒が雪崩れ込んできていた。
エリュシアは、自らに縋りつくシレネの細い肩を抱き締めた。 そして、ゆっくりとその身体を引き離すと、信じられないほど優しく、穏やかな笑みをその唇に浮かべた。
「あなたは本当に、何も分かっていらっしゃらない」
エリュシアは自らの腰から、燦然と輝く黄金の鍵の徽章を外し、大理石の床へと放り捨てた。カランと乾いた金属音が響く。
「私がなぜ、あの好色な老人に抱かれたと思いますか? なぜ、豚のような大臣たちに金をばらまき、脅迫し、宮廷の毒蜘蛛と呼ばれるまでになり上がったと思いますか?」
シレネは目を見張った。
「あなたを助けるため?ええ、最初はそう思っていました。だけど、違ったのよ」
エリュシアはシレネの頬に手を添えた。その指先は、まるで壊れやすい薄氷に触れるかのように繊細だった。
「シレネが私以外のものに奪われ、私以外の者のために傷つき、私以外の者の前で魂をすり減らしていることが、私は何よりも許せなかった」
「エリュシア……」
「だから、取り戻しに来たの。あなたの運命のすべてを。あなたの孤独も、あなたの苦痛も、あなたが背負わされた呪いも、すべて私のものにするために」
私室の扉が、ドォンと凄まじい衝撃を伴って軋んだ。 荒削りの鉄刃が扉の木目を突き破り、ギシギシと音を立てて亀裂が広がる。隙間から、松明の赤黒い煙と、血と酒の混ざり合った獣のような熱気が流れ込んできた。
死が、扉一枚を隔てた向こう側で牙を剥いている。 だがエリュシアは、その扉に背を向けたまま、ただシレネの瞳だけを見つめていた。
「あなたが光の頂にあるのなら、私はその足元にあり続ける影になりたかった。そして今――あなたが世界の底に叩き落とされ、全世界の憎悪を浴びて滅び去ろうとしているのなら」
エリュシアはシレネの手を取り、自らの胸元へと導いた。 式服越しに、エリュシアの心臓が力強く、誇り高く鼓動を打っている。
「あなたが最も苦しんでいるその時に、私があなたのそばを離れるはずがないでしょう?」
「……っ!」
「逃げないわ。死ぬ時も、裁かれる時も、冷たい処刑台に首を乗せる時も――あなたの隣に立つのは、あの愚鈍な国王でも、死んだリュシエンヌでもなく、私よ」
エリュシアの瞳に宿っていたのは、ある種の神聖な静謐だった。 十二年間、自らの魂を削り、泥にまみれて手に入れた唯一の報酬。それはシレネと運命を共にすること、その一点だけだったのだ。
シレネの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。 恐怖は、完全に消え去っていた。 自分は身代わりの人形などではない。誰かの代用品として一方的に選ばれ捨てられた哀れな女などではない。世界で最も気高く、最も恐ろしい魂を持ったこの女に、命のすべてを賭けて愛された、唯一無二の人間なのだ。
「……本当に、救いようのない人」
シレネは涙を拭い、ふわりと笑った。 かつて北方の冷たい風の中で見せていた、あの誇り高く無邪気な笑顔が、十二年ぶりに彼女の顔に戻っていた。
「私の命なんて、あなたを道連れにするほど価値のあるものじゃないのに」
「何を言っているの。世界中のすべての財宝を集めても、あなたの指先一本にすら届かないわ」
バギィン、と凄まじい音を立てて、分厚い扉が内側へと弾け飛んだ。 粉塵と煙が立ち込める中、槍や鉄棒、粗末な刃を手にした暴徒たちが部屋へと雪崩れ込んでくる。
「いたぞ!」「王妃だ!」「ベルクハイトの毒蜘蛛も一緒だ!」
熱狂と怒りに狂った民衆の叫び声が、私室の壁を震わせた。
だが、暴徒たちの先頭が、思わず足を止めた。
そこにいたのは、恐怖に怯えて涙ながらに慈悲を乞う無力な女たちではなかった。 手を取り合い、互いに寄り添い、押し寄せる明らかな死の波を前にしてなお、舞踏会の始まりを待つかのように美しく、穏やかに微笑み合う二人の貴婦人だった。
エリュシアはシレネの手を固く、決して解けないように握り締め、暴徒たちへ向かって凛と顔を上げた。 そして、愛する人の耳元へ、最後の誓いを落とした。
「共に生き、共に死ぬために――私はここにいるのよ」
吹き荒れる嵐のような怒号の中、二人は互いの温もりを確かめ合うように強く手を握り合い、恐れることなく、その一歩前へと踏み出した。




