「魔力ゼロの石ころ」と婚約破棄された歴史オタク令嬢、喜んで辺境の地下書庫に引きこもります
大理石の床を滑る豪奢なドレスの衣擦れが、不自然なほど静まり返った夜会の広間に響いていた。
「……婚約は、白紙とする」
冷ややかな王太子の声が、シャンデリアの煌びやかな光を切り裂くように落ちた。
周囲を取り囲む貴族たちの視線には、侮蔑と嘲笑、そして微かな安堵が入り混じっている。王国において、大気中の魔力を感じ取れない者など存在しない。ただ一人、侯爵家の長女であるエレノア・ヴァン・ルイスを除いては。
魔力を持たない彼女の存在は、権力者たちにとって目障りな汚点であった。ルイス家は代々、聖女を輩出する家系であった。元来、高い魔力量を有するルイス家は、その魔力量を国王に見初められ、一家に生まれる長女を『聖女』として王太子に嫁がせることで格を上げた一族だった。
しかしエレノアは、魔力を全く保有しない。
それどころか、見ることもできなければ、感じることもできない。
さながら、魔力のない別次元の世界で生まれたような、異常な存在であった。
魔力の過多によって値踏みされる貴族社会に置いては、目障りでしかない存在でもあった。
エレノアは王太子の言葉を受け、ゆっくりと瞬きをした。
血の気の引いた青白い横顔。感情を失ったような琥珀色の瞳。人々は彼女が絶望に打ちひしがれているのだと信じて疑わなかった。
しかし、エレノアの視界には、王太子の傲慢な顔も、彼に寄り添う魔力豊かな新しい恋人の姿も映っていなかった。
彼女の目は、王太子の背後、大広間の最奥に掲げられた巨大なタペストリーに縫い付けられていた。
(……絹の織り方が違う)
建国神話を描いたとされる、百年前の国宝。
だが、聖女の足元に描かれた白百合の紋章のステッチ。あの技法は、東方の小国が六十年前に開発した『綾刺し』の技術だ。百年前の王国の職人が、未来の技術を使えるはずがない。
(後世の修復……いや、意図的な改竄? なぜ? 聖女の出自を隠すため?)
エレノアの胸の奥で、小さく火が爆ぜた。
鼓動が僅かに早まる。彼女の頭の中では、すでに王室の系譜図と、東方の貿易記録が猛烈な勢いで交差していた。
婚約の破棄。家からの追放。そんなものは、歴史の深淵に比べれば、羽虫の羽ばたきほどの意味も持たなかった。
「……身の程をわきまえよ。貴様のような石ころは、日の差さぬ地下書庫の奥底で、埃に塗れて朽ちるがいい」
王太子の宣告に、エレノアは静かにドレスの裾をつまみ、深く、完璧な礼をした。
「……御意のままに」
床に伏せた彼女の唇が、歓喜に小さく震えていることに、誰一人として気づく者はいなかった。
王立図書館の最下層。そこは、建国以来のあらゆる禁書と未整理の古文書が眠る、王国最大の「歴史の墓場」だった。
数日後。
カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める地下書庫の冷たい石畳の上に、エレノアは這いつくばっていた。
燭台の微かな炎だけが、暗闇を切り取っている。
彼女の指先は、ひどく煤けた一巻の竹簡をなぞっていた。魔力を持たない彼女の指は、紙脈に宿る残留思念を感じ取ることはできない。しかし、彼女の眼球は、擦り切れた墨の跡から、記述者の筆圧、使用された顔料の成分、そして文字の跳ね方から、それが書かれた時代と地域の特定を試みていた。
「……やはり」
乾いた唇から、無意識のうちに熱を帯びた吐息が漏れる。
琥珀色の瞳孔が、猫のように大きく開いていた。
(初代王の側近、宰相クライヴの手記。間違いない。墨の膠の配合が第七期のもの。しかし、記述されている『大魔獣討伐』の年号が、公式の記録と十二年もずれている)
エレノアは竹簡を胸に抱きしめ、暗い書庫の天井を仰いだ。
背筋にゾクゾクと電流が走る。
歴史の矛盾。隠蔽された真実。これほどの極上の謎が、無造作に転がっている。
「……誰だ」
突然、冷たい刃のような声が静寂を切り裂いた。
エレノアが振り返ると、書庫の入り口に長身の影が立っていた。
黒地の外套。銀色の髪。そして、周囲の空気を凍らせるような、濃密で禍々しい魔力の気配。魔力を感知できないエレノアでさえ、皮膚が粟立つほどの重圧だった。
辺境公爵、アレクシス。
『王国の剣』と称される最強の騎士でありながら、その精神は常に何かに蝕まれているような、危うい均衡の上にあった。
彼の左腰には、鈍い銀色の鞘に納められた長剣が吊るされている。
王国建国の折、勇者が魔王の右腕を切り落としたとされる『聖剣』。アレクシスの血統のみが扱うことを許された栄光と、そして何より、重圧の象徴。
それはアレクシスにとって、呪い以外の何物でもない。
アレクシスは無造作に近づき、床に座り込むエレノアを見下ろした。
「……公爵家の令嬢と聞いたが。随分と熱心なことだな」
彼の声には、深い疲労と、他者への無関心が滲んでいた。
しかし、エレノアの視線は、アレクシスの端正な顔立ちを完全に通り越し、彼の腰にある『聖剣』の柄に固定されていた。
(……あれは)
エレノアは立ち上がり、ふらふらとアレクシスに近づいた。
「おい、何をしている」
アレクシスの制止も聞かず、エレノアは彼の腰元に顔を近づけた。
柄に巻き付けられた古い革。鍔に刻まれた、微細なルーンの痕跡。
「……獅子、いや、違う。これは……双頭の鷲。そして、この鍔の反り角……」
エレノアの呼吸が荒くなる。
青白かった彼女の頬が、発熱したかのように赤く染まっていた。瞳には、狂気にも似た光が宿っている。
「触らせて」
それは、令嬢が口にするべき言葉ではなかった。
アレクシスが目を見張る間もなく、エレノアの白い指が、聖剣の冷たい柄に触れた。
「……っ!」
アレクシスが身を強張らせる。聖剣は、血脈を持たぬ者が触れれば、強烈な魔力の反発を生むはずだった。しかし、魔力を持たないエレノアには、何の衝撃も走らなかった。
彼女は、ただ無心に柄の彫金を指先でなぞった。
「素晴らしい……。伝承では、勇者の剣は『東の霊峰で鍛えられた鋼』とされています。しかし、この鍔の接合部に用いられているのは『青亜鉛』。霊峰の土壌では絶対に産出されない鉱物です」
「……何を、言っている」
アレクシスは動揺を隠せなかった。
彼女が剣に触れた瞬間、いつもアレクシスの頭の中で鳴り響いていた、剣からの「戦え」「血を流せ」というおぞましい呪詛の囁きが、ピタリと止んだのだ。
エレノアはアレクシスを見上げ、早口で畳み掛けた。
「この意匠、この製法。これは勇者の剣ではありません。恐らく三百年前、旧大陸の異端審問官が使用していた、首斬り用の『断頭剣』です。……だからでしょうか、鍔の裏側に、精神封じの呪符が刻まれている」
「断頭、剣……?」
「ええ。勇者の伝説は、王室の権威付けのために、複数の無関係な武勇伝と、他国の神話が意図的に混同されたものです。あなたが継承しているのは、名誉ある聖剣などではなく、ただの血塗られた処刑道具。……ああ、なんと皮肉で、なんと美しい歴史の歪み!」
エレノアはうっとりと目を細め、剣の柄を愛おしそうに撫でた。
「……勇者の剣など、最初からなかったのですよ、公爵様。これはただの、偽りの歴史なのですから」
アレクシスの眼球が震えた。
にわかには信じられないことではあったが、どういうわけか、エレノアの言葉は腑に落ちるものがあった。
いや、アレクシスは求めていたのかもしれない。
一族を縛り付けてきた誇りと、彼自身を苛み続けてきた呪いの重圧。それを無碍にする言葉を。
彼女の目は、アレクシスを憐れむでもなく、恐れるでもなく、ただ「純粋な真実」だけを映していた。
冷え切っていたアレクシスの胸の奥で、何かが静かに溶け落ちる音がした。
*
辺境の冬は、王都のそれとは比べ物にならないほどに鋭く、空気を刃のように研ぎ澄ませていた。
公爵邸の最奥に位置する大書庫。窓枠を震わせる吹雪の音を遠くに聞きながら、エレノアはインクの染みついた指先で分厚い羊皮紙の束を捲っていた。
暖炉の火はとうに消えかけているが、彼女の頬は熱を出したかのように紅潮している。
(……見事なものだ)
エレノアの目の前には、数百年分の辺境の記録が、山のように積まれていた。
彼女は今、この混沌とした古文書の海に、新たな秩序をもたらそうとしていた。書物名や年代での単純な分類ではない。政治、気象、地形、そして関与した人物の相関関係。それらの要素を無数の細い糸で結びつけ、必要な情報が瞬時に引き出せるよう、複雑な階層構造を持つ目録を再構築しているのだ。
魔力に頼る王都の文官たちには到底理解できない、緻密で気の遠くなるような情報の編纂作業。しかしエレノアにとって、過去の記録が整然と繋がり、一つの巨大な真実を形作っていくこの過程は、何にも勝る至福だった。
「……また、徹夜をしたのか」
静かな声とともに、書庫の重い扉が開かれた。
アレクシスだった。手には、湯気の立つ香草茶のカップが握られている。
彼の左腰に、あの禍々しい『断頭剣』の姿はない。代わりに、辺境の騎士が用いる実直な鋼の剣が下げられていた。重圧から解放された彼の横顔は、以前の氷のような冷酷さが消え、どこか穏やかな疲労と、隠しきれない熱が滲んでいる。
エレノアは羽ペンを走らせる手を止めず、視線だけを彼に向けた。
「領地運営の要である過去の税収記録と、河川の氾濫周期の相関表を仕上げておりました。あと数刻で完了します」
「……私が命じたわけではない。体を壊されては困る」
アレクシスはため息をつき、エレノアの傍らに温かいカップを置いた。そして、吸い寄せられるように彼女の細い肩口から、机上の複雑な目録を覗き込む。
魔力という万能の力を持たない彼女が、ただの紙とインクだけで世界を俯瞰し、掌握しようとしている。その途方もない知の美しさに、アレクシスは無意識のうちに息を呑んでいた。
そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「公爵閣下。孤児院の視察記録を……あ、取り込み中でしたか」
入ってきたのは、灰色の髪を神経質に撫でつけた、酷く痩せた男だった。
ジュリアン。隣国から亡命してきた元戦術家であり、現在は公爵領に身を寄せて、戦災孤児たちの初等教育施設を管理している男だ。
彼の落ち窪んだ双眸には、常に暗い影が落ちている。
アレクシスが頷き、ジュリアンが視察報告書を机の端に置いた。
その瞬間、エレノアの羽ペンの動きがピタリと止まった。
「……孤児院の裏手にある、黒土の谷の地質調査書ですね。拝見しても?」
エレノアはジュリアンの返事を待たずに報告書を引き寄せ、琥珀色の瞳を細めた。
「あの谷は、私が隣国で指揮を執った『ルビアンの悲劇』の地形に酷似しています。……雨季になれば、当時のように崩落の危険がある」
ジュリアンの声は、自嘲と深い悔恨に染まっていた。
ルビアンの悲劇。五年前、ジュリアンが完璧な防衛陣形を敷きながらも、予測不能な土砂崩れによって自軍の半数を失い、「無能な敗将」として祖国を追われた忌まわしい戦い。彼を今も苛み続ける、決定的な過去の過ち。
「……私の無知が、多くの兵を殺しました。閣下、あの谷の孤児院は、早急に移設すべきです。私と同じ過ちを、この地で繰り返すわけには——」
「それは違います」
エレノアの冷たく、鋭い声が、ジュリアンの懺悔を切り捨てた。
彼女は報告書から顔を上げ、書庫の奥から一巻きの古い地図と、黒ずんだ気象観測の記録を引っ張り出してきた。
「ルビアン渓谷の土壌は、一見すると安定した岩盤に見えますが、歴史的記録によれば、特定の降雨量を超えた際、内部の地下水脈が破裂し、大規模な泥濘を発生させます。これは魔術による観測では決して検出できない、自然の摂理です」
「……だから、私が地質を見誤ったせいで」
「最後まで聞きなさい」
エレノアの強い語気に、ジュリアンは言葉を失った。
彼女は地図の上に、当時のジュリアンの布陣図を正確に書き込んでいく。その指先は迷いなく、微かな熱を帯びて震えていた。歴史の隠された真実を解き明かす、彼女特有の恍惚とした表情。
「当時の軍事教本に則れば、あなたは谷の底、最も平坦な場所に主力部隊を配置するのが『正解』だった。しかし、あなたの陣形は、教本を無視して斜面の中腹に主力を分散させていた。なぜですか?」
「……それは、風の匂いと、鳥の飛び方が……奇妙に思えたからです。論理的な理由はありません。私の、愚かな直感です」
否、ジュリアンは嘘をついた。
当時の彼は、明確な根拠をもって軍を動かした。
ここに陣を張るのは危険ではないかと、当時の状況を見て判断したのだ。
しかしその自信は、兵を半数失ったことで打ち砕かれ、その後の心内言葉で霧散した。
だが。
「それが、軍の半数を救ったのです」
エレノアは地図の斜面部分を、インクのついた指で強く叩いた。
「教本通りの『正解』の陣形を敷いていれば、地下水脈の破裂による土砂崩れで、軍は完全に全滅していました。あなたの無意識の直感が、主力部隊を唯一の安全地帯へと逃がしていた。犠牲が出たのは、あなたの指揮が劣っていたからではありません。むしろ、歴史上どの将軍も成し得なかった、最悪の状況下での『奇跡の生還』です」
静寂が、書庫を満たした。
ジュリアンは呆然と、エレノアの描いた図面を見つめていた。
五年間、誰からも罵られ、自らの魂さえも呪い続けてきた自責の念。それが、魔力も持たない異国の令嬢によって、ただの「客観的な史実」として鮮やかに裏返された。
「……奇跡……私が……」
ジュリアンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
頭の中には、これまでに浴びせられた数々の罵詈雑言が、木霊していた。
誰ひとりとして、彼の判断を認めるものはおらず、教本通りに指揮を取らなかった故の悲劇であると、否定されてきた。
「……これで、孤児院の地盤強化に必要な計算式が立てられます。ジュリアン殿、この地形と気象データの相関性、大変興味深いサンプルになりました。感謝します」
エレノアは泣き崩れる男に慰めの言葉をかけるでもなく、ただ純粋な知識欲を満たした喜びに瞳を輝かせ、再び羊皮紙に向かって羽ペンを走らせ始めた。
他者の感情の機微よりも、歴史と記録の正合性にのみ情熱を燃やす。
その徹底した冷たさと、知識に対する無邪気なまでの熱狂。
アレクシスは、狂ったように数式と古語を書き連ねるエレノアの細い横顔を、ただ静かに、射抜かれたような目で見つめ続けていた。
外の吹雪の冷たさなどとうに忘れるほどの、静かで、決定的な熱情が、辺境の公爵の胸の奥で確かに燃え上がっていた。
*
辺境の短くも厳しい冬が終わりを告げようとしていた矢先、空は突如としておぞましい紫色に染まった。
王都の方角である東の稜線から、どす黒い雲が脈打つように広がっていく。それは自然の気象現象などではなかった。大気中に満ちていた清謐な魔力が、泥水のように濁り、狂乱しながら辺境へと押し寄せているのだ。魔力を感知する器官を持たないエレノアの肌でさえ、空気がひび割れるような奇妙な振動と、舌にまとわりつくような鉄の味を感じ取ることができた。
公爵邸の城壁の上で、外套を風に煽らせながら立つアレクシスの横顔は、険しく強張っていた。彼の背後では、ジュリアンが血の気を失った顔で早馬の報告書を握りしめている。
王都からの急報は、絶望的な事実を告げていた。
王太子が、王家の正当性を誇示するために、建国神話に伝わる『聖女の遺物』――大聖堂の地下に封印されていた巨大な魔石の起動儀式を強行したのだという。
エレノアを追放し、国政に不満を抱く貴族たちを押さえ込むための、焦りに満ちた愚行。歴史的な背景も、遺物に込められた真の構造も理解しないまま、ただ莫大な魔力を注ぎ込んだ結果、王都の地下に張り巡らされた魔脈が暴走を引き起こした。
王都は今、溢れ出した瘴気によって一部の建築物が崩壊し、狂乱した魔獣たちが防壁を越えて雪崩れ込む地獄と化している。そしてその余波は、確実にこの辺境へと向かっていた。
「……愚か者め」
アレクシスが低く唸るように吐き捨てた。彼の視線の先、紫色に染まる地平線から、おびただしい数の影がうごめきながら接近してくるのが見える。瘴気にあてられ、理性を失った魔獣の群れだ。
「閣下、防衛線を前倒しにすべきです。このままでは領民の避難が間に合わない」
「ああ。騎士団を三隊に分ける。ジュリアン、後方の指揮は任せるぞ」
死地へと赴く男たちの緊迫したやり取り。しかし、防壁の石段を静かに上ってきたエレノアの瞳には、迫り来る魔獣の群れへの恐怖は微塵も浮かんでいなかった。
彼女の琥珀色の瞳は、ただ東の空の異常な色彩だけを冷徹に観察し、脳内で無数の史料と照らし合わせていた。
(空の変色、地鳴り、魔獣の狂乱。……第四紀の『大禍』の記録と完全に一致する。やはり、あの遺物は聖女の祈りなどという曖昧なものではない。地下魔脈の圧力を抑え込むための、古代の魔力排気弁だ)
エレノアは手すりに触れ、冷たい石の感触を確かめた。
王太子たちは、排気弁の役割を持つ装置に、あろうことか外から魔力を注ぎ込んだのだ。破綻するのは当然の理だった。歴史の真実から目を背け、耳障りの良い神話だけを盲信した代償。
その時、城門の向こうから、魔獣の群れとは別の、統率の取れた一団が姿を現した。
王室の紋章を掲げた、白銀の甲冑に身を包んだ近衛騎士団だった。彼らは魔獣の攻撃をやり過ごしながら、公爵邸の門前に陣取ると、拡声の魔術を用いて声を張り上げた。
「辺境公爵アレクシスに告ぐ! 王太子の命により、エレノア・ヴァン・ルイスを即刻引き渡せ! 彼女は『聖女の遺物』の真の起動呪文を知りながら隠匿し、王国を危機に陥れた大罪人である!」
その傲慢な声が響き渡った瞬間、アレクシスの周囲の空気が凍りついた。
自らの無知が招いた惨劇の責任を、追放したはずの令嬢に押し付けようという魂胆。あわよくば、歴史に精通する彼女の知識を暴力で奪い取り、事態の収拾を図ろうという醜悪な足掻きだった。
ジュリアンが唇を噛み、アレクシスは無言のまま、腰の鋼の剣の柄に手をかけた。
王室の軍勢を斬れば、明確な反逆となる。しかし、アレクシスの背中は一切の迷いを捨てていた。呪いから自分を救い出し、この凍てつく辺境に静かな熱と光をもたらしてくれた、たった一人の女性。彼女を差し出すくらいなら、王国そのものを敵に回す方がはるかにマシだった。
「……アレクシス様」
エレノアの静かな声が、一触即発の空気を縫うように響いた。
アレクシスが振り返ると、エレノアはいつものように無表情のまま、しかし、その瞳の奥にはかつて見たことのない、氷の刃のような冷酷な怒りが渦巻いていた。
彼女の怒りは、自身の命が狙われていることに対するものではない。
彼女が愛してやまない、静謐な歴史の探求。真実を紐解き、過去の者たちの声を拾い集める尊い時間が、無知と保身にまみれた王太子の手によって踏みにじられようとしていることへの、底知れぬ憤悪だった。
エレノアはゆっくりと歩み寄り、アレクシスの腕にそっと触れた。
「剣を抜く必要はありません。彼らが欲しているのは、歴史の真実です。……ならば、与えて差し上げましょう」
エレノアの言葉に、アレクシスは目を見張った。
「エレノア、まさか行くつもりか? 奴らは君を……」
「ご安心を。私はただの、魔力を持たない石ころです。石ころが一つ、王都へ転がり戻ったところで、誰も気には留めないでしょう。ですが……」
エレノアはドレスの隠しポケットから、古びた羊皮紙の束を抜き出した。それは、この辺境の地下書庫で見つけ出し、彼女が数ヶ月をかけて解読と裏付けを完了させた、王国の建国神話の『原典』だった。
「……間違った歴史の上に建つ砂上の楼閣は、正しい史実の重みに耐えられず、必ず崩壊します。彼らは自分の足元が、最初から存在すらしていなかったことに気づくでしょう」
エレノアの唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
それは、これから始まる破壊を予感させる、残酷なまでに美しい笑みだった。
剣も魔法も必要ない。ただ一つの『真実の記録』が、千の軍勢をも凌駕する刃となる。
「アレクシス様、ジュリアン殿。私と共に、王都へ参りましょう。愚かな権力者たちが、歴史という絶対の真理の前にひれ伏す様を、一番特等席でご覧に入れます」
魔力を持たない令嬢の、静かで鮮烈な宣戦布告。
アレクシスは、その燃えるような琥珀色の瞳から目を逸らすことができなかった。呪いに縛られていた己を救った、あの絶対的な自信と知識。それが今、王国全土を覆すために振るわれようとしている。
彼の胸の奥で、恐れにも似た深い敬愛と、抗いようのない執着が、再び熱く脈打っていた。
*
紫色の濃霧が地を這い、枯死した街路樹が苦悶するように歪んだ枝を空へ伸ばしている。
王都へと続く石畳の街道は、すでに人間が足を踏み入れるべき領域ではなくなっていた。
馬車の車輪が、結晶化した瘴気を無機質な音を立てて砕いていく。
先触れとしてエレノアを捕縛しに来たはずの近衛騎士たちは、今や恐怖に青ざめ、アレクシス率いる辺境の軍勢の中心で、ただ震えながら歩を進めるだけの抜け殻と化していた。大気中に充満する高濃度の魔力異常は、魔力を持つ者から順に理性を削り取り、狂乱へと追いやる。
しかし、魔力感知という器官を生まれつき持たないエレノアにとって、この絶望的な汚染領域は、ただ少しばかり鉄の匂いが強いだけの、静かな空間に過ぎなかった。
揺れる馬車の車室。
ランプの頼りない光の下で、エレノアは膝の上に広げた『原典』の記述と、窓の外に流れる崩壊した地形の痕跡を、熱を帯びた瞳で交互に追っていた。
(……やはり、合致する。王都周辺の隆起した岩盤層の年代と、第四紀の地殻変動の記録)
彼女の指先が、古びた羊皮紙に記された『聖女』という単語を静かになぞる。
王国の誰もが信じて疑わない、魔王を封じ、この国に安寧をもたらしたとされる奇跡の存在。だが、エレノアが膨大な史料から削り出し、辿り着いた真実は、あまりにも冷酷で、そして歴史学的には極めて魅力的なものだった。
『聖女』など、最初から存在しなかったのだ。
記録にあるのは、局地的な部族抗争を治めた名もなき巫女、火山の噴火を鎮めるために人柱となった少女、そして数百年後に法典を整備した冷徹な女王。
後世の権力者たちが、自らの正当性を強化し、民衆を統治するための求心力として、時代も背景も全く異なるそれら複数の女性の伝承を意図的に継ぎ接ぎし、一つの『美しい神話』として捏造したもの。それが、王国が奉る聖女の正体であった。
(異なる伝説の融合。為政者にとってこれほど便利な隠れ蓑はない。……けれど、土台が偽りであれば、それに連なる儀式もまた、意味を持たないただの滑稽な舞踏に過ぎない)
エレノアの唇から、甘い吐息が漏れる。
歴史の矛盾を暴き、隠された事実の骨格を撫でるこの瞬間だけが、彼女の氷のような心臓に火を灯す。窓の外で魔獣の咆哮が響こうが、馬車が激しく揺れようが、彼女の意識はただ、数百年前の人々が残した真実の鼓動にのみ深く沈み込んでいた。
馬車に並走する黒馬の上で、アレクシスは時折、窓越しにエレノアの横顔を見つめていた。
世界の終わりを思わせる惨状の中にあって、彼女だけが、恐ろしいほどの静謐さを保っている。いや、静謐という言葉では足りない。彼女の瞳は、未知の遺跡を前にした探求者のように、爛々と輝きすら放っていた。
狂気と隣り合わせの純粋な知的好奇心。
その熱量に触れるたび、アレクシスの胸の奥で、甘い痺れのような執着が深く根を張っていくのを感じた。
やがて一行は、崩落した城壁を越え、王都の中心部へと足を踏み入れた。
大聖堂の荘厳なステンドグラスは砕け散り、色とりどりのガラス片が惨劇の跡のように床に散乱していた。
祭壇の奥。空間そのものを歪ませるほどの莫大な魔力の中心で、巨大な黒い石球が、まるで心臓のように不気味な脈動を繰り返している。それが、王太子が起動を強行した『聖女の遺物』だった。
「……遅い! 遅すぎるぞ、辺境の犬ども!」
祭壇の柱の陰から、血走った目を剥き出しにした王太子が這い出てきた。
豪奢な衣装は汚れに塗れ、その顔にはかつての傲慢さの代わりに、死の恐怖と見苦しい焦燥だけが張り付いていた。
「早く、早くその女に呪文を唱えさせろ! 遺物の暴走を止めなければ、王都が、私の国が終わってしまう!」
喚き散らす王太子に、アレクシスは冷たい視線を向け、静かに腰の剣を抜いた。彼の背後で、ジュリアン率いる辺境の騎士たちが、大聖堂に雪崩れ込んでこようとする魔獣の群れを食い止めるべく陣形を組む。
「……呪文、ですか」
エレノアは、護衛の騎士たちが立ち入るのも躊躇うような高濃度の瘴気の中を、ただの散歩にでも出かけるような足取りで歩き出した。
魔力を持たない彼女の肉体は、暴走する遺物が放つ圧力を一切感知しない。
「貴様! 何を悠長に……っ、早くその遺物を鎮めろ! 聖女の祈りを捧げろ!」
王太子の絶叫を背中で聞き流しながら、エレノアは黒い石球の目前で立ち止まった。
彼女は祈るために膝をつくことも、天を仰ぐこともしなかった。ただ、ドレスの袖をわずかに捲り上げると、石球を支える巨大な台座の基部へと滑り込んだ。
(……聖女の遺物。祈りで魔を封じる奇跡の石。そんな非論理的な機能が、数百年も維持できるはずがない)
エレノアの手が、台座の表面に彫られた緻密な装飾をなぞる。
それは宗教的な文様などではない。第四紀の建築様式における、大規模な気圧調整弁の設計図そのものだった。
王都の地下に蓄積する魔脈の圧力を、物理的に外部へと逃がすための巨大な排気システム。それを、魔法という不確かな力に頼り切った現代の人間が、神話というベールで覆い隠し、あろうことか『外部から魔力を注ぎ込む』という逆の操作を行ってしまった。排気口に蓋をして熱を送り込めば、暴発するのは自明の理である。
「……見つけた」
エレノアの瞳が、狂喜に細められた。
台座の裏側、分厚い埃と酸化した金属の下に隠されていた、物理的なロック機構。
彼女は迷うことなく、持参した古文書の挟み革を外し、その鋭い金具を機構の隙間にねじ込んだ。
カキン、と。
魔法の力など一切介在しない、ただの金属と金属が弾き合う乾いた音が、大聖堂に響き渡った。
次の瞬間、黒い石球の脈動がピタリと止まった。
台座の底から、重々しい歯車が噛み合う音が鳴り響き、床の石板がゆっくりとスライドしていく。閉じられていた地下の排気口が物理的に開放され、大聖堂に充満していた致死量の瘴気が、本来の循環経路へと一気に吸い込まれていった。
空間を歪めていた圧力が霧散し、大聖堂に静寂が舞い降りる。
「……な、何をした……」
呆然とへたり込む王太子を見下ろし、エレノアはドレスについた埃を払いながら、微かなため息をついた。
「祈りなど必要ありません。ただ、開閉弁の噛み合わせを直しただけです。……歴史の事実を知らぬまま、見栄えの良い神話に縋り、無知な魔力を注ぎ込むからこのような事態を招くのです」
エレノアの声は、冷徹な真実そのものだった。
建国の正当性も、王家の威信も、聖女の奇跡も。すべてはただの幻であり、この窮地を救ったのは、彼らが「石ころ」と蔑んだ魔力を持たない令嬢の、物理的で泥臭い『歴史の知識』のみ。
自らの拠り所が最初から存在しなかったことを突きつけられ、王太子は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
静まり返った大聖堂。
エレノアは再び台座に向き直り、今度は恍惚とした表情で、露出した内部の歯車構造を指先で愛おしそうに撫で始めた。
「ああ……素晴らしい。この合金の配合率、やはり旧大陸の技術が流入していた決定的な証拠……! 殿下、もうしばらくこの大聖堂を封鎖してください。図面を引き写すのに三日はかかります」
世界の危機が去った余韻など微塵も感じさせず、ただ目の前の歴史的遺物に頬をすり寄せる勢いで興奮するエレノア。
その狂気的で、それでいてひどく愛らしい背中を見つめながら。
アレクシスは、自身の剣を静かに鞘に納めると、抗いようのない熱い吐息とともに、深く、柔らかく微笑んだ。
*
王都の空を覆っていた紫色の瘴気が完全に晴れ、陽光が大聖堂の砕けたステンドグラスを透過して、冷たい石床に幾何学模様の影を落としてから一月。
辺境の公爵領にも、ようやく遅い春の気配が漂い
始めていた。
公爵邸の地下書庫。
天井付近の小窓から差し込む柔らかな光の帯が、空中に舞う細かな埃を黄金色に照らし出している。
エレノアはインク瓶の並ぶ重厚な樫の机に向かい、王都から半ば強奪するように持ち帰ってきた膨大な史料の山に埋もれていた。
「……やはり。第三王朝期の叙事詩は、意図的に五十年分の空白期間を作っている。この記述のズレ、たまらないわ」
琥珀色の瞳が、羊皮紙の上を滑るように動く。
彼女の頬には微かなインクの染みがついていたが、本人は気にする素振りもない。権力者たちが捏造した『聖女の神話』が物理的な証拠によって完全に崩壊し、王太子が国家反逆と歴史隠蔽の罪で北方の監獄へ送られたという激動の事実すら、今の彼女にとっては「すでに終わった過去の事象」でしかなかった。
彼女の情熱は常に、まだ見ぬ歴史の深淵にのみ注がれている。
静かな足音とともに、書庫の重い扉が開かれた。
振り返らなくても、その足音の主が誰であるかは分かっていた。かつて彼を縛り付けていた、あの息の詰まるような重く暗い魔力の残滓は、今はもう欠片も残っていない。
「また徹夜をしたのか、エレノア」
アレクシスだった。
漆黒の外套を脱ぎ捨て、飾りのない白の軍服を纏った彼の姿は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
呪いという名の強迫観念から解放された彼の眼差しには、もう過去の幻影に怯えるような暗い影はない。ただ、目の前のインクまみれの令嬢に対する、深い熱だけが宿っていた。
「……公爵閣下。ちょうど王都の地下水脈の古い測量図と、現在の魔脈の歪みの相関性を証明できたところです。これで、あと百年は王都の地盤も安定するでしょう」
「私は、君の主治医からひどく怒られているんだがな。君の睡眠時間を管理できていないと」
アレクシスは苦笑しながら歩み寄り、エレノアの手からそっと羽ペンを抜き取った。
抗議しようと顔を上げたエレノアの唇を、彼の人差し指が優しく塞ぐ。
「王都の再建会議は終わった。私の役目は、歴史の修復に憑りつかれた愛らしい婚約者を、書物の海から引きずり出すことだけだ」
そう言って、アレクシスは懐から一つ、見慣れない意匠の革袋を取り出した。
机の上に置かれたそれから、微かに乾いた土の匂いが漂う。
「ジュリアンからの報告でね。領内の東部、雪解け水で崩れた斜面から、未知の遺跡への入り口らしきものが見つかったそうだ。これは、その扉に嵌まっていたという装飾品の欠片だが……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エレノアの目の色が変わった。
無表情だった顔にさっと血の気が昇り、琥珀色の瞳孔が猫のように丸く見開かれる。彼女は弾かれたように革袋に手を伸ばし、中から青銅製の小さな欠片を取り出した。
「っ……! これは、旧大陸の初期に使用されていた星図の刻印……!? なぜ、東部の斜面から……いや、第四紀の地殻変動を考慮すれば、かつての交易路が地中に埋没していてもおかしくはない。素晴らしい、完璧な歴史の矛盾です!」
呼吸を荒くし、青銅の欠片を様々な角度から光に透かして見つめるエレノア。
その恍惚とした表情、歴史の謎を前にしたときの無防備で狂気的なまでの熱量。周囲のすべてを忘れ、ただ一点の真実だけを追い求めるその横顔を、アレクシスは愛おしくてたまらないというように見つめていた。
「今すぐ行きましょう、アレクシス様! 調査隊の編成を! スコップとランタン、それから拓本用の紙を大量に用意しなければ!」
椅子から立ち上がろうとしたエレノアの細い腰を、アレクシスの力強い腕が引き寄せた。
「あっ……」
不意にバランスを崩し、彼の広い胸にすっぽりと収まってしまう。
見上げると、すぐ目の前にアレクシスの端正な顔があった。その瞳に浮かぶ、逃げ場のないほどに甘く、重い執着の色に、エレノアはようやく己の置かれた状況に気づき、ほんのりと頬を染めた。
「遺跡には、明日出発する。馬車の準備も、調査隊の手配もすでに済ませてある」
「で、では……」
「だが今は、私をこれ以上待たせないでくれ」
アレクシスの大きな手が、エレノアのインクで汚れた指先を包み込み、その一つ一つに口づけを落としていく。
くすぐったさと、魔力とは全く違う次元の熱が皮膚を伝い、エレノアの背筋を震わせた。
「君が歴史の真実を愛するように。……私は、君という存在そのものに狂わされている」
囁くような声とともに、アレクシスの唇がエレノアのそれに重なった。
冷たい地下書庫に、春の陽光がどこまでも柔らかく降り注いでいる。
埃っぽい古文書の匂いと、彼から香る爽やかな香草の匂いが混ざり合い、エレノアの思考をゆっくりと溶かしていく。
魔力を持たず、ただ過去の真実だけを追い求めてきた歴史オタクの令嬢。
彼女の瞳が次に捉えるのは、色褪せた羊皮紙の文字ではなく、彼女をどこまでも深く愛し、共に未知なる遺跡の扉を開くことになる、たった一人の男の熱を帯びた微笑みだった。




