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第2話 鏡屋

 駅前を通り過ぎ、電車通りと呼ばれた今はシャッター通りを俯いたまま、七瀬真琴はただ歩いていた。人通りは思った通りに少ない。店の無い商店街に用事のある人間はそう多くないようだ。


 時折辺りを見回すために少しだけ視線を上げると、直ぐに視線を足元に戻す。そうやってどれ位歩いてきたのだろう。太陽はやや西へ傾いている。 


 目標の鏡屋はまだ見つかっていなかったが、幸いなことにあれの姿が視界に写りこむことは無かった。




 だが、家を出る前にはあれほど感じなかった不安が、じわじわと滲み出すように胸に広がってきていた。よくよく思い出せば、この話を聞いたのは小学生の低学年の頃だっただろうか?

 立ち並ぶシャッターを横目で見ていると、そもそも店がまだあるのかすら疑わしくなってくる。


 せめてネットで検索でもしたほうが良かったんじゃないのか?


 滲み出した不安は次第に溢れ出し、止めようが無いほどの勢いで、胸の内を侵食していく。




 額にはびっしりと汗が浮かんでいた。この地域では珍しい、汗ばむほどの陽気のせいだけではなく、焦りの気持ちの方が大きかった。折角見つけ出した一本の救いの糸が、目の前でぷっつりと途切れそうな状況に、冷や汗がほほを伝い顎から地面へ落ちた。アスファルトが小さく黒く変色し、広がってゆく。


 足を止め、染み込む自分の汗が直ぐに蒸発してゆく様を見ていると、途端に手足が前に進む力を失った。表現のしようが無い恐怖が、心に広がってゆく。


 胸の辺に締め付けられるような圧迫感が広がり、同時に吐き気がこみ上げてくる。それを懸命に堪えながら、喘ぐように浅い呼吸を繰り返す。商店街の端はもうそこまで来ているのに。


 


 2、3分ほどそうしていただろうか。時折すれ違う中年達が訝しげに横目で眺めていたが、その内この熱気で熱中症にでもなったのだろうかと、声を掛ける中年の女性が現れた。真琴は何とか笑顔を作り「大丈夫です」とだけ伝えるが、その女性は鞄の中をガサゴソと探すと、やや溶けかかっている塩飴を手渡した。


「ちゃんと水分と塩分摂らなきゃダメよ!」と、軽い熱中症だと思い込んでいるのだろう、中年の女性はそう言うと、何度か彼女の方を振り返りながらその場から去っていった。


 苦笑しながら心の中で有難う御座いますとお礼を言うと、包装紙にへばりついた塩飴を少し苦労して取り出し口の中に入れる。甘じょっぱいなんとも言えない味が口の中に広がると、またおばあちゃんのことを思い出した。




 おばあちゃんの鞄の中には、若者は買わないであろう味の飴が必ず入っていたものだった。大根飴や黒飴、ニッキの飴。一緒に何処かに出かけたときや、宿題を終わらせたりテストで良い点数を取った時などには、優しい笑顔で今みたいに手渡ししてくれた。本当はもっと違う味の飴が欲しいなと思ったものだが、今になるとこれもいいものだと思えていた。懐かしい思い出に頬が思わず緩む。


 もう少し歩いて探してみよう。もう少しで商店街の端まで着く。どうせ他に当てなんて無いんだから。




 ころころと口の中で飴玉を転がすと、先ほどまでの不安は嘘の様に消えていた。


 


 商店街の端へと歩みを再開する。額にはまだうっすらと汗が滲んでいたが、今度は手の平でそれを拭う。足取りはまだ少し重かったが、確かに前へと進んでいた。


 


 やがて5分もしないうちに商店街の終端までたどり着いた。真琴はもう一度顔を上げると、辺りを見回す。


 すると本当に、商店街の終わりにある4階建ての雑居ビルの入り口の横に、小さく「鏡屋」と書かれた小さなプレートが見つかった。その看板を、眼鏡の無いぼやけた視界で苦労して見てみると、どうやら二階に店を構えているらしいことが分かる。その他の階に入居している店や会社などは無い様だった。




 本当にあった。




 それだけが頭に浮かんだ。

 真琴は安堵のため息を吐き、雑居ビルへ入るためにガラスドアを開くと、ひんやりとした空気が流れだし、汗ばんだ首筋をさらりと撫でた。不思議と心地が良いその空気に誘われるように、雑居ビルの中へと足を進める。


 「故障中につき使用禁止。階段を使用してください」と書かれたエレベーターを一瞥し、通路の奥に見える階段を昇り二階へ上がろうとした時、何かから呼ばれたように入り口のほうへと目が向いてしまった。




 そこにはあれが居た。ガラスドアを隔てて10メートルもしない距離で、道路の真ん中に俯くようにしてただ立っている。




 今までで一番近い距離だった。最後に見たときは未だ50メートル以上は離れていた記憶があるが、その俯いた顔を上げてしまえば、目鼻立ちがはっきりと分かってしまうほど近付かれていた。




 気づくと声も出せず金縛りのように身体は固まり動かなくなっていた。動かせない視界の中で、自分の目がその姿をしっかりと捉えている。




 足元から膝下の辺りまでは相変わらず黒く塗りつぶされ影のような姿だったが、膝上からその黒は薄れていて、だらりと伸ばした腕や胸の辺りは、間違いなく人だと分かるようにまで色が付いていた。眼鏡が無いはずなのに、何故かハッキリと見えている。




 視線が何かに取り憑かれたように、その顔の方へと向かう。




 肩の辺りまで髪が伸びているのが分かった。直感的に女性だと理解する。やや乱れているものの素直なストレートのその髪は、風に揺れるようにして少しだけ靡いている。前髪は長いためその顔が隠れていたが、強い風が吹いたのなら直ぐにでもその顔が見えてしまいそうだった。恐怖で叫びだしてしまいたがったが、口を開けることも声を出すことも出来ない。まるで金縛りにでもあったかの様に。




 助けて。




 そう声にならない声で叫ぼうとした時。






 かたん。




 


 階段の上の方から、何かを硬いものを床に落としたような音が聞こえてくる。




 反射的にそちらを向くと、体が動くようになっていた。 


 


 真琴は自分で思っていたよりもしっかりとした足取りで、階段を一段ずつ飛ばしながら駆け上がると、目の前に現れた藍色に白抜きで鏡屋と書かれた、小さい暖簾が掛かっているドアを見つけた。何かを考えている暇などは無く、そのドアを勢いよく開け中に飛び込んだ。




 ちりんちりんちりん……、と涼やかな鈴の音が後ろ手に閉めたドアの辺りから聞こえてきた。




 助かったんだ。そうつぶやくと目を閉じドアに背中を預け長い息を吐いた。


 背中の辺りは汗でシャツがへばり付き、額の冷や汗もまだ止まらなかった。手は小刻みに震えている。




「いらっしゃいませ」




 不意に店の奥から男性の声が聞こえてきた。思わず身体が飛び跳ねる。


 真琴は慌てて目を開けると店の中を見回した。広さは十坪程度はありそうだが、真ん中辺りから奥の方はボードで仕切られており。良く見えなかった。見える範囲の店内には大きな本棚が二架とソファ、テーブルが置かれている以外に目を引くものは無く、レジの乗ったカウンターが窓際にあるだけで、商品を販売している様には見えなかった。




 そういえば私の今の状況を一体どうやって説明すればいいのだろうか?


 はた、と気づき青ざめる。ここまで来たのは良いものの、普通に考えてみれば精神の病気やオカルト、ホラーの領域だ。もしここが一般の、たとえば普通の会社だったりしたら警察とか呼ばれるんじゃないだろうか?




 そもそもだ。ここ、何屋さん?




 声を掛けられた方を恐る恐る向くとそこには30代位の男が立っていた。


 白いワイシャツにグレーのスラックスを穿き、少し厚めの黒縁眼鏡をかけた優しそうな笑顔でこちらを眺めている。顔はまぁ、良くも無ければ悪くも無いだろう。いたって特徴の無い普通の一般人顔だ。テレビに出ればエキストラ役が関の山だ。


 だが、その男には一つ特徴があった。




 病的なまでの色白さである。前に読んだ本に出てきたアルビノのような白さだった。だがその本で得た知識によると、皮膚は白すぎて血管が透けて見えるためやや赤み掛り、体毛、つまり髪やまつげ等にも色素が無く白色で、瞳孔も赤く見える筈だったと記憶している。


 目の前の男の髪は真っ黒で眉毛やまつげ、瞳にも色が付いていた。


「ああ、私色白なんですよね。別に変な病気とかは持っていませんのでご安心下さい」


 もうそのやり取りには慣れてしまっているのだろう。顔色一つ変えずにそう言うと頭を下げた。


「いえ!こちらこそ突然お伺いした上に失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした!!」


 真琴は慌てて頭を下げると、早口で言い訳をするようにそう言った。男は本当に何も気にしていないように「お気になさらずに」とだけ答えるとソファーのほうを手で示す。


「どうぞ御掛け下さい。今お茶を入れてきますので」


 返事を待たずに男はそう言うと、ボードで仕切られた奥の方へと戻って行く。一人残された真琴は仕方なくソファーに腰掛けると、居心地悪そうに辺りを見回す。先程までの恐怖感や緊張感は無くなり、もはや諦めにも似た心境に達していた。


 どうせこのままじゃ遠からず、あの影女に取り付かれて死んでしまうのだろう。たとえ直接的に殺されなくても、精神的に病んで死んでしまいそうなのは変わりない。


 それに比べれば、もし今日あった人間に変人扱いされたところで、痛くも痒くも無いだろう。どうせ元々友達だって少ないのだ。残念なことに。


 それよりもここが空振りだった場合、次はどうしたら良いのかが問題だった。そもそも影女がまだビルの入り口にいるのなら絶望的だ。ぼんやりと考えていると、かちゃ、と目の前で何かが置かれる音がした。




「お待たせいたしました」




 いつの間にか男はソファーまで戻りテーブルの上にお茶を置いていた。玄米茶だろうか。香ばしい香りが漂っている。



「冷たいほうがよろしければ遠慮なくお申し付けください」

「いえ、こちらでけっこうです」


 真琴はそう言うと玄米茶に口を付けた。気づけば渇ききっていた喉に、熱いとは言え飲み物を頂けたのは幸いで、行儀が悪いとは思いながらも口を付けると止められず、一度に飲みきった。


「ご馳走様でした」


 流石に少し恥ずかしくなったのか、小さい声でそう言うとぺこりと頭を下げる。


「後でもう一杯入れてきましょう。残されるより嬉しいですよ」


 男は本当にそう思っているのだろう、真琴に笑いかけた。その仕草は不思議と平々凡々なその顔を、とても魅力的に見せた。意外とこの人もてるんだろうなぁと、その笑顔に若干顔を赤くしながら曖昧な笑顔を返した。




 ……いやいや、こんなことをしにここまで来たわけじゃないでしょう。




「あ、あのっ」




 意を決して真琴が話を切り出そうとしたところ、それをさえぎるようにして男は古い台帳の様なものをテーブルの上に置いた。とさっ、と渇いた音が店内に響くと、思わず次を続けられなくなってしまう。


 それはところどころに破れや変色が見られた。かなり昔から使っているのだろう台紙は、何度も丁寧に補修をしたような跡が見て取れた。


「失礼ですが、お名前をお聞きさせていただいても宜しいでしょうか?」

「は?え、はい。七瀬真琴といいますが……」

「有難う御座います。少々お待ち下さい」

「あ、はい」


 なんと言うか、うまく切り返され思わず名乗ってしまった。なんとなく納得がいかない様な気がして口を尖らせては見たものの、男はすでに台帳を開き何かを探し始めていた。


「はい。川村サク江、――つまりおばあさまである七瀬サク江様よりご依頼頂いております。お話をお伺いさせて頂きますので、お手数では御座いますがこちらへどうぞ」


 男は深くお辞儀をした後あの笑顔で、伝えた覚えの無い祖母の旧名まで含めた氏名を言うと、ボードに仕切られた奥の間へと私を案内した。

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