第1話 何故
北海道にある田舎町。季節は短い夏を迎えていた。
牧草が青々と生い茂り、あちらこちらで虫はその短い命を次の世代に残そうと、精一杯の声で鳴いている。学生は駅前の商店街でひと夏の思い出を残そうと、短い夏休みを謳歌している。大人はといえばその暑さに辟易しながら次のバスをベンチに座りながらただ待ち続けていた。
何処にでもあるいつもの夏の光景だった。
七瀬真琴は最近睡眠不足に悩み、苦しんでいた。一ヶ月ほど前に友人と三人で廃校になって間もない小学校へ悪乗りして肝試しに行った後から、まるで幻覚でも見ているような黒い影が、視界の端に映りこむようになっていたからだった。いや、正確に言うと映りこんでいるのではなく、しっかりと見えるようになってきていた。
肝試しで友人とはぐれ、一年一組の表札が残る教室にいた彼女がみた黒い影。それが一体何なのかはいまだにわからないが、それが自分について来てしまった。そうとしか思えない状況に精神をすり潰されていた。
それは肝試しが終わった後一週間ほどは姿を現すことは無く、不快な思いと珍しい体験をした多少の高揚感を覚えるだけでいたが、ある日からその影は昼夜を問わず時折視界の端に現れ、あの夜最後に見てしまった小首をかしげるような姿で、こちらを眺めていた。そしてそれは徐々に自分の方へと距離を狭めているように思われた。
本当に一歩ずつ。気をつけなければ分からないほどの歩みで近づいてきていた。それだけでも恐怖だったが問題は次だった。初めは真っ黒だった影に若干だが色が混ざってきていたのだ。
人型の輪郭の中を真っ黒に墨汁で塗り潰したようだったそれは、今ではぼんやりとだが肌色が見えてくるようになっていた。もちろん徐々に近づいてきていることも、詳細が分かるようになってきたのも原因なのかもしれないが。
いずれはその顔を見てしまうのが恐ろしくなり、生活を送る上では不自由ではあるが、彼女は眼鏡を外していた。根本的な解決にはまったくなってはいないのだが、真綿で首を締め上げるような恐怖を、僅かにではあるが、和らげることに貢献しているようだった。
きっとあの顔を見てしまった時に、何処かに連れて行かれてしまうのだろう。そしてそれはきっと死を意味しているんだ。まったくリアリティのかけらも無い話ではあるが、何故か確信に近い物を感じながら疲れきった体をベッドに投げ出していた。
会社にはお盆休みのため暫く行く必要が無いのが幸いだった。外に出て、遠くを見ることが苦痛だった。
気づくと視界の端にいるそれが、見えていないときに近づいていない保障は何もなかったが、正面切って見てしまうよりはまだマシだ。そう気づいてからここ二日間、ほぼ自宅に閉じこもる生活が続いている。
一人暮らしのためもちろん時々は外に出る必要もあったが、そんなときはなるべく下を向き遠くを見ないようにしてコンビニで用事を足し、同じようにして早足で帰路に着いた。
友人とはあの日以来連絡は取らず、会うこともやめていた。友達が多いとは言えない彼女が持つ、数少ない友人ではあったのだが。
スマホを横目で見ると着信等の連絡通知が光っている。確かめることはしていないが、もともとこのスマホに連絡が来ること自体が(残念ながら)極めて少ない。で、あるならば、きっとあの二人からの連絡であるのは間違いないだろう。別に縁を切るつもり迄はないため、連絡を取ること自体ををやめているわけではないのだが、気分的になんとなく触れられずにいた。
きっと何も知らない人が今の私を見たら、気が触れたように見えるんだろうな。そう自嘲気味に頭の中でつぶやくと涙がこぼれていた。肝試しなんかをした私が悪いことは分かっている。
でも何で私が。何故。
頭の中でぐるぐると同じ言葉が回っていた。貴重なはずの連休の間、その言葉だけが頭にこびりついて離れなかった。何をするにも憂鬱な気持ちが体の芯に深く埋め込まれたようで、食事も余り喉を通らない。きっと体重は2、3キロは減っているだろう。それだけは悪い気はしないのだが、その後に死んでしまったら意味が無い。
時計を眺めると昼の12時を指していた。昼食は摂る気にならなかった。ベッドのそばに置いているスポーツドリンクを手に取ると一口喉に流し込む。
いつもは若干不快に感じるほどの甘さも感じない。はは、と乾いた笑いが自然にこぼれた。
あんな訳の分からないものに、訳の分からないところに連れて行かれて死んでしまうなら、いっそこのまま干からびて死んでしまおうかとも考えるのだが、無遠慮に訴えてくる空腹や喉の渇きには耐えることも出来ない。結局、最低限度の栄養補給は行いながらただ家の中で怯える生活を送っていた。
ふと時計の横のカレンダーを見た。コンビニがくれる動物の写真がでかでかと載った実用的に乏しいカレンダーだ。
「あ、おばあちゃんの誕生日だ」
思わず声が出た。まったく意識をしていなかったのだが、思い返すと確かにそうだった。
「おばあちゃんが生きてれば相談に乗ってくれたのかなぁ。絶対に怒られるけど」
亡くなる直前まで元気だったおばあちゃんの姿が脳裏に浮かんだ。約束を破ってしまったことをおばあちゃんはきっと怒るんだろうな。そう考えると怒っている姿までが脳裏にはっきりと浮かび、久しぶりに笑顔が浮かんだ。
「あー…。何か寝れそう…」
気持ちが緩んだのか、不意に襲ってきた眠気を感受しようとゆっくりまぶたを閉じる。精神的にはもう限界が来ていたのだろう。僅かな時間で静かな寝息が部屋に聞こえてくる。
そのまま深い眠りに落ちようとした所で突然体を震わせた後、飛び起きた。
「鏡屋。電車通りの鏡屋さん」
頭は完全に覚醒していた。不意に頭に単語が浮かびそれと同時におばあちゃんとの思い出が蘇える。
――困ったことがあったら電車通りを南に下って商店街の端まで行きなさい。鏡屋さんってお店があるの。おばあちゃんも昔困ったことがあって、助けてもらったことがあるのよ。真琴ちゃんはもしかしたらお世話になることもあるかもしれないから、おばあちゃんお店の人によろしくって言っとくからね。お店の名前忘れちゃダメだよ?
何で突然思い出したのだろう。おばあちゃんの誕生日だから?
困った事ってお化けのこと?そもそも鏡屋ってなに?鏡売ってんの?
疑問が次々と浮かんでくるがもちろん答えは何一つ出なかった。そもそも件の鏡屋についても全く心当たりはないし、他の誰にもそんな店があることも聞いたことが無かった。
「……まぁお化けがいるくらいなんだから、それくらい突然思い出したからっておかしくないよね。このままバッドエンドの映画なんてあったら何一つ楽しくもないし」
次々と浮かび上がる疑問に答えを求めることは止めていた。大好きなおばあちゃんが教えてくれていた通りにしてみよう。そう心に決めていた。これは何かの鍵になる。
確信めいたものを感じ、ベッドから立ち上がると動きやすい格好に着替え、髪を手櫛で整える。化粧ポーチをちらりと見たが時間がもったいない。
女子としては、もう少し考える時間があってよかったかもしれなかったが、電車通りの商店街にはそこそこの年齢の人間しかいないのだ。若者は最近出来た隣町の複合型商業施設にいることだろう。化粧に気合を入れることも無い。
不思議と外に出る不安も消えていた。今ならあれが出ても大丈夫だ。そんな気持ちが不思議と湧いていた。
スマホと財布を小さいかばんに叩き込むと、肩に掛ける。次に習慣で眼鏡を手に取ると一瞬迷ったが、ケースに入れてかばんに丁寧に仕舞う。玄関のドアノブを回す前には流石に一瞬手が止まり、小刻みに震えている自分の手が見えた。
深呼吸をすると手の震えは幾分収まっていたが、まだ震える手でドアノブをつかみ、ゆっくりと回すと熱気がドアの隙間から入り込んでくる。
ああ、夏なんだな。そう思いながら思い切ってドアを開ける。
その先には何時も通りの光景が広がっていた。あれはいない。
ふぅ、とため息が肺から漏れる。夏の熱気だけではないだろう。既に額にはうっすらと汗が滲んでいた。
ドアの鍵を閉めると早足に、電車通りの商店街へ俯きながら向かって行った。




