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私語訳  作者: AI子
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會津八一 一片の石

 人間が石を頼るようになって、もう本当に長い時間が経ちました。それでも今なお、人々は粘り強く石に頼り続けています。石にすがり、石を神聖なものとし、石を拝んでいます。城の壁も、祭壇も、神像も、宮殿も、石で作られてきました。もうこれは石に恋をしているといっても過言ではありませんね、いや、過言ですね。ストーンと恋に落ちたんです、石だけに。


「この世にずっと残ってほしい」と願うものを形にするため、東洋でも西洋でも、大都会だろうと世界の果てのような場所でも、昔から人は努力を重ねてきた姿は実に印象的に見えます。努力を重ねていたらそりゃあ印象的に見えるでしょうが、路傍の石だって捨てたもんじゃないよといってしまうと、この話が成り立たなくなるので聞かなかったことにしてください。


 人は死にます。こればっかりはどうしようもない事実であり、証拠であり、確執であり、確固たる純然たる本当のことです。何もしなければ、体は腐り、血も肉も流れてしまい、最後に骨だけが残ります。どんなに腹黒い人だろうと腹の黒さは残りませんが、悪行は残るので注意しましょう。その骨は石に似ていて長く残るはずなのに、遺された家族や友人たちは集まって火葬をします。そして、せっかく残るはずの骨も粉々に砕いてしまいます。そうしてその骨を集めて地中深くに埋め、その上に四角くてごつごつした石を立てるのです。最近のお墓はけっこうテカテカしていますよね。加工技術の進化に脱帽です。


 お参りするというと、まるでその石が故人そのものであるかのように、皆が石に手を合わせます。そしてその石が大きければ大きいほど、「良い妻だった」「親孝行な子だった」と誉められます。貧しい人にとっては、こういう点でも「親孝行」は難しいものに見えます。賽の河原の石積みも親より先に亡くなったことへの苦行ですよね。ここに石が出てくるのも面白いです。


 たしかに、像や建物、墓など、人間が作ったものが長く残ることもあります。しかし、どれもごくわずかです。古い時代のものほど、作られた数に対して残っているのはほんの一部、千に一つくらいしかありません。今あなたの立っている地面の下にももしかしたら昔の偉人が残した石碑があるかもしれませんし、犬の糞が埋まっているかもしれません。多分後者の方が確立が高いです。


 つまり、どんなに丈夫な石でも、長い年月の風雨にさらされれば、簡単には耐えられないのです。野火や山火事で崩れることもあります。立派な墓や石碑も、人々の記憶から消えないうちに倒されて、建物の土台や石垣の材料になってしまうこともあるのです。田舎のおばあちゃんの家にある漬物石もひっくり返してみたら何か文字が書いてあるかもしれませんし、何も書いていなくても美味しい漬物が食べられると思います。


「追悼」や「研究」と称して、拓本(石碑に紙を当てて文字を写す技法)を取る人たちの手によって、かえって文字がすり減ってしまうこともあります。これは困ってしまいます。天女の羽衣が岩をそっと撫でてそれが擦り切れる位までの時間を計るような性格ですよ。これは確実に減ってしまいますね。


 たとえば中国・漢の時代、村々には石碑がたくさんあったそうですが、今では全国で百基ほどしか残っていません。国はまだあり、山河も昔のままなのに、人間の思いを込めた記念物は多く失われてしまっています。実に寂しいことです。物より思い出とはよく言ったものですが、その思い出を思い出せないままになってくるとそろそろ物忘れかしらと心配してしまいます。最近は若年性健忘症というものもありますからね明日は我が身ですね。


――


 昔、晋の時代に羊祜ようこという人がいました。学問にも優れ、人格も立派で、晋の国の大官として、呉の国の懐柔に貢献した人物です。彼は自然の風景を愛し、襄陽じょうようという地に赴任していた時、近くの「岘山けんざん」という山に登っては、友人と酒を酌み交わし、詩を作って楽しんでいました。山の上から下々の者を見る、、俗にいうヒルズ族です。(いいえ、違います。)


 ある日彼はこう言いました。「この山は天地開闢てんちかいびゃくの時から存在していて、多くの偉人たちがここを訪れたはずだ。でも今となっては何も伝わっていない。そう思うと本当に寂しい。もし百年後、この場所を訪れて、私たちを思い出してくれる人がいるなら、私はきっとそのとき、魂となってここに現れるだろう」。千の風になって戻って来ると言う事ですね。(いいえ、違います。)


 友人はそれを聞いてこう慰めました。「あなたほどの人なら、その功績や人柄はきっとこの山と共に、ずっと語り継がれるはずです」。


 その後、羊祜が亡くなると、地元の人々はお金を出し合って、この山の上に碑(石碑)を立てました。通りがかった人はその碑を見て彼の徳を思い、涙したといいます。それが「堕涙のだるいのひ」と呼ばれるようになったのです。体がだるい、重たい、胃がムカムカする。ほてり、のぼせ、その他の症状、辛いですよね。私もです。


――


 同じ頃、杜預とよという貴族もいました。羊祜より少し年下で、教養があり、人当たりも良く、同じように襄陽に赴いて功績を立てました。堕涙の碑という名前も、彼が名付けたと言われています。


 杜預は羊祜と考え方は少し違いましたが、自分の死後に名を残すことを強く意識していました。そこで自らの業績を刻んだ碑を二つ作らせ、一つは羊祜と同じ岘山に立て、もう一つは漢江の深い淵に沈めました。もし将来、天変地異で山上の碑が失われても、川底の碑が現れるかもしれない――そういう思いがあったのでしょう。あったのでしょう、という事なので、なかったかもしれないことも無いですよね。


――


 唐代には、孟浩然という詩人が現れました。彼も弟子を連れて岘山に登り、羊祜を思ってこう詠んでいます。


人の世は移り変わり、古今が繰り返される。

山や川は昔のままで、私はここに登る。

水が引いて川底が浅く見え、寒空の下、夢のような世界が広がる。

羊公の碑は今も残っている。


 それを読み終えて、涙がこぼれた。


 この詩は孟浩然の代表作の一つとされ、彼がどれだけ羊祜の思いに共鳴していたかが伝わってきます。


 それから12年後に生まれた李白も、若い頃この地を訪れ、次のような詩を作りました。


岘山は漢江に臨み、水は緑、砂は雪のように白い。

頂には堕涙の碑があり、長い歳月の中で苔に覆われている。


 また別の詩ではこう詠みました。


君は知らぬか、晋の羊公の一片の石、

その亀の台座は壊れ、苔むしている。

涙も、もはやこぼれることなく、

心も、それを哀しむことができない。


 李白は、「羊公の碑が壊れてしまったなら、今を楽しめ、酒でも飲め」というような主張をしているようですが、ここで大事なことがあります。


 孟浩然や李白が見た石碑は、実は羊祜の死後そのままのものではなかったようです。というのも、彼の死からたった272年後、碑はあまりにも壊れていたため、南朝・梁の時代(大同10年)に、残った石で再び刻み直されたのです。裏面には劉之※(注:正確な文字は異体字)の文が刻まれています。


 つまり、彼らが涙した碑は「再刻版」だったのです。にもかかわらず、李白の時代にはすでにその碑がまた崩れ、苔に覆われていた。そこがなんとも興味深いところです。苔って転んでもいたくないのかしらとふと思ったのですが、そもそも触りたいかといわれれば恐る恐るとなりますので、転びたくないなあと


――


 堕涙の碑はあまりにも有名になったため、李商隠や白居易など多くの詩人もこれを詠みました。唐代・大中9年には李景遜という人物が、また新たに碑を建てたとも言われますが、明代の記録にはその名が載っていません。つまりそれも失われてしまったようです。記録には残らない過去の偉人たちの功績は、どうやったって今の私たちが知る術がないことがもどかしいです。もどかしすぎて、もどかしいという言葉もいったい誰が最初に言い出したんだろうと気になってしまいました。


 結局、羊祜が死後の名声を気にして人々に立ててもらった碑も、三代目の碑までがすべて失われてしまいました。かたちあるものはいつか崩れ、永遠なんて無いんです。儚いけれど、それが事実であり、確固たる純然たる本当のことなのです。

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