匂い立つ彼女
正直に言えば。
客席で彼女がラーメンを運んできた時。つまり彼女の匂いを初めて嗅いだ時から、軽くこうなってしまっていた。エロい画像や動画を見たわけでもなく、女性の甘い喘ぎ声を聞いたわけでもない。匂いだけでこうなってしまったのは初めての経験だった。
匂い。そしてそれを感じ取る嗅覚というやつは、人間の五感の中でも特別な位置にある。
他の五感の場合、感じた情報は脳の中の理性を司る大脳新皮質に伝わる。だが、嗅覚だけは感情・本能に関わる「大脳辺縁系」に直接伝達されるらしい。
つまりどういうことかというと。嗅覚は、つまり匂いは、理性をすっ飛ばして本能に訴えかけることが可能だということだ。
彼女の匂いが自分の本能を揺り動かしたゆえのコレである。……言い訳くさいな。要は興奮しっぱなしってことだ。
以前にも、自分が「おっ?」と感じる匂いというものはいくつかあった。
街ですれ違った美人のお姉さんの、イイ感じにフワッと香ってくる香水とか。香水って、キツすぎると鼻につく臭いになってしまうから、本当に適量を使えている人が少ないんだけど。思わず振り返ってしまう匂いを振りまくお姉さんという存在は遭遇率は低いものの確かに存在している。
学生の時に体育の授業が終わったそのままの格好で。つまり体操着で教室に女子たちが雪崩れ込んできた時とか。あれこそザ・女子臭というものだった。見た目も相まって、男子皆でそわそわしていたっけ。
思い出せばまだまだある気はするが、どれも今の俺の状態までには至らなかったと思う。このラーメン屋で働いている彼女の匂いが特別なのだ。
残念ながら、百人中、九十九人は彼女の匂いを不快だと感じるだろう。彼女の体臭はそのレベルのものであるというのも理解できる。
でも俺にとっては違う。全く違う。その逆だ。
彼女のニオイを嗅ぐだけで食欲は爆上がりするし、恥ずかしいがご覧の通り性欲も増進させられてしまうのだ。人間の三大欲求のうち二つを同時に満たしてくれるものなんて、禁断の果実以外の何物でもない。その芳醇な香りが彼女のワキから漏れ出ているわけだ。
「わー……すっご……」
見られている。じっくりと。自分のワキの匂いを嗅いでこうなってしまった男のアレをまざまざと見られている。
「これ、痛くないの?」
「……痛いよ。突っ張ってる」
スラックスもある程度の伸縮性は持ち合わせてはいるが、ジャージやスウェットの生地ほどではない。膨れ上がったモノを収納できるスペースは、もう僅かでさえも存在していなかった。
時が立てば収まるかと言われればそれも怪しい。いつも自分でする時とは訳が違った。根元から硬くなっているというか、太い芯があるかのような感覚。たぶんこれが収まるのは相当な時間を要すると思われた。
「……楽に、してあげよっか」
彼女の口からおずおずと切り出してきた、その魅力的な提案に。
「……お願いします」
俺は一も二もなく飛びついた。
だって、このままでは帰るどころか、歩くことすらままならない。前屈みになってごまかしたり、カバンで隠せばいいのかもしれないが、この有様ではそれも難しい。
何よりも、俺をこんなに興奮させてしまった存在が目の前にいるのだ。
髪の毛に派手なメッシュを入れたクール系バンギャの彼女。そのワキから溢れてくるのは、俺専用の発情物質がふんだんに含まれた、ニンニク臭を超えた極彩色の匂い。
我慢、できるわけがなかった。
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「もう……なんでワキなんて舐めるかなぁ……。ビックリしちゃったじゃん」
「ご、ごめん……」
二人でコトの後片付けをしながら。そんな風に俺は責められた。確かに何も申告せずに舐めたのは申しわけなく思っている。
でも、事前に言っていたら断られたかもしれないのだ。その場合、ワキの味なんて確かめることはできなかったし、彼女のあんな声を聞くこともできなかったことを考えると、やっぱりああしてよかったとも思う。
「よし。これだけジアで拭いたからバレないでしょ」
彼女が言っていたジアなるものが何なのか、ようやくわかった。なるほど、ジアとは塩素のことか。プールに行った時によく嗅ぐ匂いだった。殺菌・消毒に使われるような薬品だ。俺たちの匂いも隠してくれるに違いない。
トイレに充満した行為の臭いも。自分の汗の臭いも。そして一番濃厚な彼女の匂いも。それら全てをツンとした薬品めいた匂いが包み込んでいく。この場であったコトを隠すにはもってこいの代物だった。
「はい、コレ。私のシフト」
「え? し、シフト?」
会計を済ませた俺に、レシートを渡しながら彼女が言ってきたのはそんな言葉だった。
「だって、また来るでしょ?」
「あぁ、まぁ、それはそうなんだけど」
そりゃ来たい。三郎系ラーメンは期待以上のものだったし。なによりこの子に、彼女に会えたのが一番の収穫だ。この匂いを、彼女の体臭を嗅ぐためなら頻繁に通ったっていい。でも、普通自分の勤務シフトを渡すものか……?
次回使えるというクーポン券とやらを俺の手に置きながら、彼女が囁く。
「……なるべく平日で遅めの時間帯の方がオススメだよ。お客さんがあんまりいないから『ゆっくり』接客できるし」
言うだけ言ってさっと後ろを向いてしまった彼女。その横顔は、俺の自惚れでなければ少しだけ赤く染まっていた。
クーポン券をもらってしまったからには仕方ない。また来るしかないじゃないか。
「ありがとうございましたー!」
店を出て帰路に就く、その道すがら。さっき手渡された彼女のシフト表に目を通す。幸いなことに夜勤務が多いらしく、ちょうど俺が仕事を終えた後に立ち寄りやすい。そんなシフト構成になっていた。
「……よし」
俺はたった今。あの店へ週五で通うことに決めた。三郎系ラーメン以外のメニューも気になっていたところだ。どうせなら全メニュー制覇してやろうではないか。
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カランカラン……。
「いらっしゃいませー!」
入り口を開けると威勢の良い店員の声が聞こえてくる。
今日もこの店は客足が途絶えることがない。この店のラーメン。その香りに魅せられた同好の士で賑わっている。
そして。
「……いらっしゃい」
匂い立つ彼女の姿もそこに───。
お読みいただきありがとうございました!
今回は「におい」というものにフォーカスしてみました。
におい、ニオイ、臭い、匂い、スメル、フレーバー。
平仮名、カタカナ、漢字、英語、と色々な「におい」がありますが、字面でだいぶ印象が変わりますね。
匂い≧フレーバー>におい>ニオイ=スメル>>>臭い 比較するならこんな順番でしょうか。
「匂い」と「臭い」では天と地の差がある感じがします。
自分に合うにおいというやつは、人によって実に様々です。
あなたの周りでもいませんでしたか? 油性マジックペンのにおいが好きな人。
もしくは作中でも出てきたジア(次亜塩素酸ナトリウム)のにおいが好き、という人も時々耳にします。
食べ物に関して言うと、私が好きなのは肉の焼けるにおいでしょうか。
これはアミノカルボニル反応とかメイラード反応という名称があるらしく、物質が褐色化して香ばしくなる現象を指すそうです。
いいですよね肉。焼肉行きたい。カルビよりロース派です。あ、ごはん(大)もお願いします。
そして人の体臭ですが……これは最も重要かもしれません。
その人との相性、関係も左右してしまう要素になりえるのです。
赤ちゃんのにおいから少年、青年期の汗臭さ、女性特有の香り、加齢臭。
この年齢別のにおいに個人個人の体臭が加われば、正に千差万別。十人十色。
みんな、世界に一つだけの香りを持っているのです。
それをフェロモンという言葉で表していいのかはわかりませんが。
人というのは、自分に合う人やパートナーを見つける時、無意識下でにおいを頼りにしているのではないかと思います。
作中の主人公とバンギャ女子のように、どんなにおいでもベストマッチというやつが存在すると信じています。
十八歳以上の大人な方はノクターン版の方も是非どうぞ。
我慢ができなくなった二人のシーンが追加されています。




