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3/5

もっと嗅ぎたい

 会計を済ませるため席を立ち上がろうとしたその時。


 (ん……?)


 水のおかわりを執拗なまでに注ぎ続けられたせいで、尿意がもうそこまで来ていた。それも、家まで我慢できないレベルの、尿意が。


 (ヤバい、漏れそうだ)


 店を出る前にトイレを済ませておくことにした。


 店内の壁には「お手洗いはこちら」という、親切かつわかりやすい紙が張ってあった。そのおかげで、すんなりトイレにたどり着くことができた。


 幸いにも先に入っている人はおらず。俺は急いで男子トイレのドアを開け、小便器の前に立つことができたのだった。


 じょぼぼぼぼ……。


「ふぅ……」


 凄い勢いで尿が排出されていく。当然か。あれだけ水のおかわりをしてしまったんだから。


 三郎系ラーメンの味が濃かったというのももちろんあるのだが、何よりも彼女に水を足し続けられたためにハイペースで水を飲んでいたことが原因だ。まぁ、おかげで彼女の匂いを堪能することができたのだから、トイレが近くなってしまうくらい別に問題はないんだけど。


 ちょろちょろちょろ……。


 もうすぐ完全に排尿が終わる。そんなタイミングだった。


(店長ー。五番入るね)


 トイレの扉の向こうでそんな言葉が聞こえた。


 五番というのはなんだろう。あぁ、あれか。きっと飲食店で使われる隠語みたいなものだな。俺も学生の時にしていたアルバイトで使った記憶がある。客に聞かれたくない類のことを店員同士が番号で呼び合うシステムだ。


 そう、例えばお手洗い、トイレ関係のこととか。


 ガチャッ。


「あ」


「え……?」


 まだ排尿が終わっていなかったため、首だけ後ろを向いた俺と。


 男子トイレにも関わらず、なぜかこの場所を訪れた彼女の。


 目が合った。




「……」


「……」


 訪れる沈黙。彼女は中に人がいると思っていなかったせいか。俺は俺でまだ出し切っていない尿のせいでこの場から動くこともできないためどうしようもできない。


 ここは俺が謝るべきか……? いや、でもここは男が用を足す場所であり、何も間違ってことはしていないし。そんな葛藤をしていると。


「ちょっと、ごめん」


 彼女はあろうことか男子トイレの中にそのまま入ってきてしまった。


「トイレ掃除の時間だったから。気にしないで」


「あっ……はい」


 俺は頷くしかなかった。まぁ、トイレ掃除なら男子トイレに入ってきても仕方ないか。きっと何か急いでやらなければならない理由でもあるんだろう。……でも、普通は閉店後とかにやるんじゃないかとも思ったけど。




 ジィィィィ……。


 排尿が終わりチャックを上げた俺は、手洗い場の方へと移動した。


 ……正直なところ。とても落ち着かない。人が見ている前で用を足すのもそうだが、男子トイレに女子がいるというのがまずイレギュラーな事態だ。


 ちらっと彼女の方を見る。トイレ掃除に来たと言っていた彼女は、トイレの入り口付近で前髪をイジっていた。……もしかして、サボりにでも来たんだろうか。それとも俺が出るのを待っているのか。


 手洗いを終えた俺は、ポケットから取り出したハンカチで手に着いた水滴を拭きとった。さぁ、会計して店を後にしよう。落ち着かないのはさっき言った理由だけではなかった。


 男子トイレは非常に狭い空間だった。小便器。洋式トイレの個室、掃除道具入れ、手洗い場。そんな閉ざされた密室めいた場所に彼女が来てしまったらどうなるか。


「あ”っ……ぅっ……」


 彼女の匂いがトイレ内の空間を浸食し始めていた。スパイス系の馨しいワキガ臭が充満していく。確かにもっと嗅ぎたいとは思っていた。だが、排尿を終えてしまった今。手まで洗い終えてしまった今。このままこの場に留まるのはあまりにも不自然だ。残念だけど、ここはトイレを出るしかない。


「……ごめんね?」


「えっ?」


 不意に話しかけられたので、トイレの入り口に向かおうとした俺は驚いて動きを止めてしまった。しかも、なんだ……? 謝られた……?


「あたしが接客するとさぁ。どのお客さんも嫌な顔すんの。……この臭いのせいで」


 どうやら彼女は、自分が()()()()()体臭であることを自覚しているようだった。


「お客さんもそうだよね。あたしが近付くとすっごい顔してたし。『うっ!』とか言ってたし」


「それは……ごめんなさい」


 さっきの男子トイレ云々とは違い、ここは確実に謝るべきところだ。どんな体臭であろうと本人のまえでは決してしてはいけないことを俺はしてしまったのだから。


「あーいいっていいって。あたしのコレ嗅いだらさ、みんなそうなんの。臭いものは臭いから仕方がないってば」


 ヒラヒラと両手を降って否定した彼女は笑っていて。きっと幾度となくこういう経験があったに違いない。きっと体臭のせいで苦労してきたに違いない。


 でも。その笑い顔の中に。どことなく寂しそうな表情が混じっているのは気のせいだろうか。


「でもさぁ」


 トイレの入り口に立っていた彼女はこちらに向かって一歩踏み出した。


「お客さん、他の人とちょっと違うなって思ってたんだよね」


 二歩、三歩。


 歩きながら彼女は言葉を続ける。


「普通の人はさ。あたしの臭いから遠ざかろうとするの。臭いから。耐えられないから」


 四歩、五歩。


「でもお客さんはさぁ。あたしがお皿を下げる時。あたしの方に顔を近付けたよね……?」


「っ……!!!!!」


 バレていたのか。少しだけ顔を動かしただけなのに。絶対バレないと思っていたのに。


 六歩、七歩。


 もう彼女は俺の目の前に立っていた。


「ねぇ、なんで?」


 それは到底答えられない質問だった。


「あなたの匂いが嗅ぎたかったから」なんて言った暁には、それこそセクハラ、カスハラものだ。なんだったら警察に突き出されてもおかしくない事案になりかねない。自分の口からは絶対に言えるわけがない。


 緊迫感に引きつった俺の表情を見かねたのか。彼女が助け舟を出してきた。


「もしかして……もっと嗅ぎたかったの?」


「…………!!!!」


 図星だった。きっと俺は目を見開いてでもいたのだろう。その表情をみて彼女は十分に察してくれたようだった。


「ふぅん……そうなんだ。あたしの臭いが気になったんだ……?」


 それを知った彼女の表情は。軽蔑するでもなく、引いたような表情でもなく。なぜか満更でもない顔をしていた。いかにもロックでクール系な見ためだったのに、こんな表情もできるなんて。


「じゃあ……もっと嗅いでみる……?」


「は……ぇ……?!」


 間抜けな声を出して驚いてしまった。


 それは自分が今一番欲しい言葉だった。同時にまずあり得ないとも思っていた。それを彼女本人の口から発せられているなんて……。


 夢でも見ているんじゃないか、俺は……!


「ねぇ、嗅ぎたいの? 嗅ぎたくないの? どっち?」


 そんなもの。嗅ぎたいに決まっている。俺がこのラーメン屋に来てからまだ、三、四十分しか経ってはいないだろう。それなのに、もうすっかり彼女の匂いの虜になっているのだ。


「嗅ぎたい……です……」


「ふぅん……?」


 俺の答えを聞いた彼女はさっきよりもさらに顔が緩んでいて。


「ほら、こっち来て」


 俺を洋式トイレの個室へと誘うのだった。




「そこに座って」


 俺は言われるままに、ふたを開けた洋式トイレの便座に腰かけた。そして座った俺の目の前に。片腕を上げて、自分の後頭部に手を当てたグラビアモデルみたいなポーズで。開かれた彼女の腋が突き出されていた。


「あぁ……あぁぁぁ……!」 


 凄い。今までで一番の匂い。


 ここが密室ということもあるが、単純に距離が近いのだ。さっきよりも汗染みが広がっているということは、あれからさらに汗を掻いたのだろう。よりキッツイ、熟成したような匂いになっているのはそのせいだ。


「……もっと嗅げば?」


 しかも彼女の。本人の許しが出ているのだ。


 俺の心の枷がついに外れてしまった。




 まずは限界まで鼻を近づけてみることにした。近付くことで空気中に霧散していない純粋な彼女の匂いを嗅いでみたかったからだ。あぁ、あの黒いTシャツの汗染みが、もう眼前に……! 


 すんっ。


 そして「浅く」。息を吸った。


 最初から深呼吸めいた吸い方をしなかったのは、怖かったからだ。あまりに刺激が強くて、もし気絶なんてしてしまったら、この幸福な時間がそこで終わってしまう。なので、最初は様子見のつもりで浅く吸うことにした。


 はたしてそれは、見事に正解だった。


「あ”っっ?! ぉ”ぉ”お”お”ぁ”っ”?!」


「うわ、すっごい声……」


 初めて超至近距離で嗅いだ彼女の匂いは……(くさ)かった。他に形容のしようがないのだ。スパイス臭のするワキガの源泉は、人を寄せ付けない臭いで満たされていた。


 だが、それでも俺にとっては臭いではなく匂いだった。慣れがそうしたというのもあるが、俺にはこの匂いが心地良いものだと心から感じていたのだ。


 だから、もっと吸いたい。もっと嗅ぎたい。


 俺は二回目の呼吸を行なう準備を始めた。


「ふぅぅぅ……」


「息を……吐いてる?」


 そう、二回目の呼吸は俺がラーメンを味わう時にするやり方で吸うことにした。まず息を吐ききる。そして余分な空気がなくなった肺に、次の匂いを余さず取り込むのだ。


 ……少しだけ。まだ恐怖があった。さっきの軽く一吸いしただけでアレだったのだ。それを何十倍もの容量の匂いを吸い込んでしまったら、自分がどうなってしまうのかわからない。


 しかし、目の前に極上の香りを持ったオカズをぶら下げられた生き物が。その誘惑を振り払うことなどできはしないのだ。


「すぅぅぅぅぅぅ……!!」


 目いっぱい。吸った。吸ってしまった。


「ア”ッ”…………?!」


 鼻腔、喉、気道、肺。呼吸器系の全てを彼女の匂いが満たす。


「ちょっと……大丈夫? 白目になっちゃってたけど」


「だっ、だい”じょお”ぶ……!!」


 彼女が言う通り。今回の呼吸で俺は一瞬だけだが意識が飛んでいた。強すぎたのだ。人間が嗅ぎ取れる嗅覚の値を振り切ってしまったのだ。


 白い光が辺りを満たしていた。なんだったら、バカでかい門の両側で双子の天使がラッパを吹いている光景だって見えた。それはきっと天国の入り口。それはそれは幸せな時間だった。




「ねぇ、もう無理しないでいいよ……。ほんとは臭くてイヤなんでしょ?」


 あまりの俺の様子を見かねたのか。彼女がそんなことを言ってきた。……少しだけがっかりしたような顔で。


 確かに彼女は臭い。


 今までに嗅いだことのないレベルで臭い。


 顔を顰めてしまうほどに臭い。


 思わず変な声が出てしまうほど臭い。


 くさい。臭い。激臭だ。


 でも、俺にとってこの臭いは。この匂いは……。


「ね。もうやせ我慢しなくていいって。正直に臭いって言いなよ」


 彼女の言葉に、俺は───。


「……臭い」


 初めて自分から「臭い」と口にした。


「……!!!」


 彼女の目が見開かれる。今まで幾度となく浴びせられたであろうその言葉は、確実に彼女を傷つけるものだとわかっていたはずなのに。




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