「臭い」から「匂い」へ
未知なるニオイとの遭遇。そのあまりの衝撃に忘れかけていたが、ラーメンの匂いを嗅いだことで俺はやっと思い出した。
(あの店員は気になるけど……麺が伸びてしまう前に食べ始めないと)
ましてやここのラーメンは、時間が経つと麺がスープを吸ってゴワゴワに膨らんでしまう三郎系ラーメンである。一.五倍。下手をすると二倍まで量が膨れ上がった麺を食べきれる自信はない。
もにゅ……もにゅ……。
まずは野菜を一口。
じゅるる……ずゅぞぞぞっ……。
そして麺を三本ほどまとめて啜る。
(うん……うん………………うん)
パンチの効いているであろうニンニク。スープの絡んだ極太麺を噛み千切る楽しさ。麺と交互にシャキシャキとしたキャベツともやしを食べることで、食感が一旦リセットされて次の麺を楽しめるってわけだ。三郎系ラーメンとして十分合格の域にあるラーメンだと言えよう。
そのはずだったのだが……。
カチャン。
俺は自分の箸をどんぶりの上に置いた。
どうにも……。食欲が湧いてこない。この店に入ってきたときはお腹がグゥグゥ鳴っているほどの空腹具合だったはずなのに。前述した三郎系ラーメンの特性から早く食べ進めなければいけないというのに、麺を啜る勢いも出ない。
原因はわかっていた。全てはラーメンの匂いを打ち消してしまうあの臭い。あの店員の、彼女の体臭が原因である。
そして、非常に残念なことに。気怠そうな接客な割に。今時な見た目の割に。彼女は、いわゆるよく気が付く子だったのだ。
「お水のおかわり、いる?」
それほど水かさが減っていないのにも関わらず、水のおかわりをするか聞いてくる彼女。
せっかく足してくれようとして重たい水のピッチャーを持ってきてくれたのだ。その親切を無下にするわけにはいかず、俺はハイ、と頷いてしまった。
彼女の透き通るような白さの腕が、自分の視界に侵入してくる。それと同時に襲い来る、例のあのにおい、ニオイ、臭い……!
「う”っ……!!」
声を噛み殺して悲鳴を上げる。流石に彼女の目の前でえずくわけにはいかない。それは人としてあまりに失礼なことであるとわかっている。だが、それにしたって、この臭いはいかがなものか。
(ぐっ……お”っ……早く水を注ぎ終わってくれよ”ぉぉ……!)
じょぼぼぼぼぼ……。
満タンにしてくれた水のコップをテーブルに置いて。
「はい、どうぞ」
「あ”っ、ありがと……お”っっ……!」
若干声が裏返りながらも。なんとかお礼を言うことができた自分を褒めてあげたい。再び厨房の方へと戻っていく彼女。やはり今回も。彼女がこの場を去った途端、ラーメンの馨しい香りがテーブルに戻ってきたのだった。
ワキガ、ってやつだよな。多分。
例えば、俺がいつも通勤する際に乗らなければいけない満員電車。その車内でたまにワキガのおっちゃんと遭遇することがある。運が悪ければ近くの席に。最高に大凶な日ならばギュウギュウの車内で隣同士に。
あのおっちゃんの臭いは……そう。例えば水で濡らして床を拭いた雑巾の臭いだ。さっきも可能性の一つとして考えたことだが、台拭きを数時間放置した臭いともいえる。雑菌の繁殖した臭いというやつは、きっと誰しもが思い出せる臭いではないだろうか。
それと比べると彼女の臭いはまた系統が違う。日本人ではない外国人の体臭に多い匂いというか……スパイス臭に近い。カレーなどに多く使われるクミンというか。ケバブに使われるチリパウダーというか。俺はその手のアジアン・エスニック料理が大好きで、よくそういった店にも通っているからスパイスに例えることができるのだ。
だが、そういった料理よりも更に一段階上。香ばしさというラインを少しだけ超えてしまった、刺激臭に足を踏み入れてしまっているそんな臭い。彼女の体臭はそういう代物である。
いやしかし。どうしてこんなに臭いんだろう。ラーメンを食べている時にすることではないと思うが、少し考えてみることにした。むしろ考察せざるを得ない。箸も止まっていることだし。
一つ目は親から遺伝した可能性。さっき外国人に多い体臭と言ったが、親がそうだった場合、子にもその特性が遺伝することもあるだろう。彼女の場合、どう見ても日本人にしか見えないので、片方の親が外国人、つまりハーフである可能性があると言える。この場合、彼女の責任でも何でもないので彼女に非などない。
二つ目は普段の食生活が影響している可能性。ラーメン屋で働いていれば、おそらくまかないを食べていることだろう。つまりこの店のメニューのどれかを。ラーメン、チャーハン、唐揚げ、餃子。どれをとってもニンニクたっぷりだ。
そのニンニクが体の中へ入り消化され、血中に溶けて全身を巡った結果、汗腺からこの臭いになって排出されている可能性だ。ニンニク臭とは少し違うスパイス感は、消化の過程でヒトの体がなんらかの分解・加工を施してしまったせいなのかもしれない。
この店で働いている以上、まかないは食べなくてはなるまい。仕事をすれば腹は減る。当たり前だ。食べられるものがそういったメニューしかない以上、それを食べるしかないのだ。彼女に非はない。
そう。結局人の臭いというのは、多くの場合非を問うわけにはいかない。
例えば少し前にSNSを賑わせていた風呂キャン界隈という人種。つまり自分の意志で風呂に入らない、もしくは入る頻度が少ない場合は、明らかにその人の責任となる。金銭的理由など仕方がない場合もあるだろうが、自分の肌に付着した臭いを洗い流さないわけだから、それはその人が悪いと言える。
しかし、体臭というのは非常にデリケートな問題だ。特に今の時代、それぞれの個性が大事にされる傾向の世の中だ。体臭だって例外じゃない。良い匂い、悪い臭いという良し悪しを付けるのもご法度。それぞれのニオイでいい。人それぞれのニオイがある。それを許容し、違いを受け入れる心を持つことが必要なのである。
「メニュー下げていい?」
あぁあぁあ……また彼女が俺のテーブルにやって来た。メニューなんてテーブルに置きっぱなしでもいいだろうに、なんでわざわざ回収を……! でも、業務上必要なことならば断るのもアレだし……。
「ど、どうぞ」
「ごめんね。よっ、と……」
身を乗り出すようにしてテーブルの奥に置いてあるメニューに手を伸ばす彼女。今日一番の接近であった。
そして俺は理解してしまった。彼女の手から腕をたどり、その付け根。肩の内側に位置するその部分の名称は、腋、わき、ワキ。
そのワキがじっとりと濡れているのが見えたのだ。いわゆる汗染みである。この店の制服である黒いTシャツのワキの部分だけが更に黒く変色してしまっていた。
間違いない。このワキこそが大元。この臭いの発生源……!
その証拠に。ワキが近づいた途端、怒濤のごとく押し寄せるこの臭いっ……!!
「あ”っっ……! お”っ……!!」
声を出さずにはいられないほどの激臭。俺の苦しんでいる声がとうとう耳に届いてしまったのだろうか。彼女はジッとこちらの顔を見つめた後、店内に姿を消していった。
しまった。彼女を傷つけてしまっただろうか。声を押さえられなかったのは完全に自分の落ち度である。せっかく好物を食べに来たというのに。俺の気分は上がらないどころか下がる一方だった。
居心地が悪くなってきてしまったことだし、早めに店を出よう。そう考えた俺は、残っているラーメンを口に掻き込んでしまおうとして。
(あ、れ……?)
なぜだろう。食欲が増している。彼女の体臭で食欲の全てが持っていかれたと思っていたのに。これはどうしたことだろう。
考えられるのは、慣れ……だろうか。雑巾臭ではなくスパイス臭に近いワキガの臭いであるがゆえに、慣れてしまえば食欲を増進させる効果があるのかもしれない。自分でもまったく信じられない説だけれど。
元々アジアン、エスニック料理が好きなので、そういったスパイスに耐性があるおかげかもしれない。クミンやチリパウダー以外にもナンプラーとかね。ダメな人はまったくダメだけど、俺の場合はダメなどころか好物に近い域にある。
じゅるるるっ! じゅぞぞぞぞっ!!
麺を啜る。先ほどとは段違いの勢いで。
しゃきしゃきっ! しゃくしゃくっ!!
そうなると野菜も息を吹き返してくるというものだ。キャベツも、もやしも、その繊維質な噛み応えが麺をサポートし始める。
(美味い……美味いぞ?!)
完成された三郎ラーメンに施す工夫なんて存在しないと思っていたが、まさかこんな臭いが思わぬアクセントになるなんて……。
「お水のおかわりはどう?」
「ア”ッ、オ”ゥ……あり”がと”う”っ……!」
彼女が近付くたびにまき散らかされるワキガの臭いは、やっぱり刺激が強くて。失礼だとわかっていても顔を顰めてしまう。……でも、何故だが後を引く臭いであり、不思議と食が進むのだ。
そう、今や俺は。水のお代わりや紙ナプキンの補充など、何でもない用事で彼女がテーブルに来るのを待ち望んでいるほどに───。
カランッ……。
空のどんぶりに箸を置く。とうとう俺はラーメンを完食してしまったのだ。
彼女の体臭が。その臭いがラーメンを台無しにしまったため、最初はとても食いきれないと思っていた。しかし臭いに慣れてからは一変。なんだったら、いつもよりも食欲が増しているぐらいだった。
「……お皿、下げていい?」
馨しい匂いを纏わせた彼女が来た。そう、もはや俺は彼女の体臭を悪い「臭い」ではなく、良い「匂い」と感じるようになっていた。
彼女が俺に関わるのは、きっとこれが最後だろう。食事を終えた今、俺に残されているのは会計だけである。レジに彼女が立つかどうかはわからないし不確実だ。
つまり、これが最後のチャンス……!
「……あぁ、はい。ごちそうさまです」
俺の了承を得た彼女が食べ終わったラーメンのどんぶりを取ろうとして手を伸ばす。「白魚のような」とはよく言ったものだ。透明感のある白い肌についつい見とれてしまう。
だが、そんな感想なんてものをドス黒く上書きしてしまうのが、この匂いだ。そして俺は彼女の体の一部に目が釘付けになっていた。
(あぁっ! もう少し手を伸ばしてくれれば、あの腋の部分が見え、見え……。頼むっ! 見えろっ……!)
下世話な欲望丸出しの願望である。だが、そんな俺の祈りが世界に届いたようで。
(やったっ!! 見えたぁっ!!!!)
俺は再び、彼女の着ている制服のワキの部分を見ることができたのだった。
やっぱりそうだ。腋の部分だけ黒くなっている。それに、さっきよりも汗染みが拡大している。道理で彼女の匂いが増していると思った。眼福ものである。
あぁ、本当にこのラーメン屋に入ってよかった。こんなにも魂を揺さぶられる匂いに出会えるなんてそうそうあることじゃない。結果的には本来の目的である三郎系ラーメンも美味しくいただけたことだし、一石二鳥というものだ。
彼女の手がどんぶりに触れる。どんぶりを下げてしまったら、この至福の一時は終わりを告げてしまうのか。そう考えた途端。俺の中にある下心というやつがつい顔を出してきてしまったのだ。
(そうだ。どうせなら最後の一嗅ぎは一番強い匂いがいい)
彼女の匂いをもっと強く嗅ぐにはどうしたらいいか。
簡単だ。もっと近付けばいい。何も密着するわけじゃない。ほんの少し頭を前に傾けるだけ。これぐらいセクハラにもカスハラにも該当しないはずだ。問題は、ないはずだ。
食べ終わったどんぶりを下げようとしている彼女のワキ。俺はその部分目掛けて、バレないように、ほんの少しだけ自分の顔を近付けた。
そして息を吸った。
すんっ…………。
「おっ……!!!!!!!!! あっ……!!! ぁ……!」
(これ”っ……はぁぁぁぁっ……!!!!! 濃いっ! 濃すぎる”ぅっっ!)
濃厚に過ぎる彼女の体臭が俺を襲った。頭を針でぐさぐさ刺された後、ぐるぐる掻き混ぜられたような衝撃。紛れもなく今日一番の匂いだった。
濃縮されたワキガ。近距離で嗅ぐ彼女の臭い。
(くさいっ! くさぁいっ! くさすぎるぅぅっ!!)
それは、やっぱり強烈といえるほどのワキガ臭だった。
(でもっ! 自分でもなんでなのかわからないけどっ! もっと嗅ぎたい! 嗅ぎたくなるんだっ……!!!)
そして、不思議なことに中毒性があった。臭いということはわかっているのに、もう一度嗅ぎたくなってしまうのだ。
(あああぁあぁあっ!! もっと欲しいっ……もっと……嗅ぎたいっ!!!)
吸って吐いての一呼吸。急いで二呼吸目を行なおうとして。
しかし、残念なことに幸福な時間はそれまでだった。どんぶりを掴んだ彼女の手がテーブルから離れていく。途端に濃度が薄れていく彼女の匂い。
(あぁあぁあぁあ! くそっ、くそぉっ! もっと嗅いでいたかったのに……!!)
思わずテーブルに突っ伏してしまった自分。そんな俺の悔いが残った表情を。
「ふぅん……?」
厨房の方に行ってしまったはずの彼女がこちらをジッと見つめていたことに。
俺は気付きもしなかったのだ。