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銀行行ってきます

作者: 水ノ ちひろ

銀行行ってきます


「銀行行ってきます」

 その言葉が、彼が校内で発した最後の言葉であった。


**


「あの~すみません、野田教頭」

「どうされました? 双海先生」

「少し、銀行行ってきます」

「こどもへの振り込みですか? オレオレ詐欺には気を付けてくださいね」

「いやだなあ。まだそんなものに引っ掛かる歳ではないですよ。では、失礼します」

 双海は教頭との会話にそう答えた。

 手提げバッグを持ち、颯爽と校門を出る、この男の名を双海という。足取りが軽いのは給料日であるから……ではない。そもそも彼の外出理由は銀行ではない。これから、彼の毎週のルーティンが始まるのである。

 向かう先は閑静な住宅街。勤務先の中学校周辺、歩いて数分の箇所である。住みやすい閑静な住宅街、それは不動産屋の使い古したフレーズであるが、実際には人目が少ないことに他ならない。それこそが、双海の狙いである。

 双海は急いでいた。というのも、二時間目の授業を担当しているからである。あまり遅くては生徒や他の教員に迷惑がかかってしまう。速やかに事を済ませなければ。北中学教員としてのプライドがある。

 ここはすでに彼のテリトリーである。この時間に人通りが少ないことは確認済みである。マンションやアパートの位置、一軒家の配置、通り抜けられる道や行き止まり、監視カメラやカーブミラーの場所、そして女性用下着が日頃干されてある部屋は記憶済みである。そう、まさに女性用下着である。

 美術教師である双海は、パンツの芸術性にほれ込んでいた。勤務二〇年で培われた彼の美術センスは、魅力的なパンツを見逃さない。あたかも、空中から獲物を狙うタカ同様である。

 彼の心拍数は、一定。物音を立てず、普段通りの足並み。呼吸も穏やかであり、瞳孔の開きも通常である。このマンションは塀がなく、ベランダがむき出しになっている。怪しまれずにさっと盗むには、絶好の場所である。

 双海は三回、時間間隔をあけて同じ道を行き来する。一、下着が干してある部屋の確認。二、その部屋の状況。部屋の証明やカーテンの閉まり具合から無人かどうか確認。三、決行。

 ここにしよう。ベランダにサボテンらしき多肉植物が飼育されているのも、家主の趣味が垣間見えて奥ゆかしい。そして下着。緑が二着、白が一着。ということは、今着ているのはおそらく白だろう。双海はどこかにいるこの女性に思いを馳せた。どちらも花柄の刺繍がしてある。正にかわいらしい下着に、すべて上下のペア。下着にこだわりのある若い女性だろう。彼氏がいるのかもしれない。だとすれば、双海の趣味と彼氏の趣味は同じである。

 とはいえ、ゆっくり思案をしている場合ではない。生徒たちが必死こいて一時間目の小テストをしているうちに、下着を回収する必要がある。

 双海は、どれを持ち帰ろうかと考え、決断した。選別するというのは素人の甘え。全部である。彼の回答は、欲しいものすべてを手中に収めること。

 往復三回目、決行直前にして、双海は初めて立ち止まる。まずは後方確認……。

「おはようございます」

 双海は突然声をかけられた。これにはさすがの双海もどきりとした。どうやらただの通行人のようである。目を向けると犬を連れており、朝の散歩という様子。

「あ、おはようございます」

 双海の挨拶に、通行人は笑顔を向けて通り過ぎて行った。危なかった。額から冷や汗が垂れる。

 ここで焦って決行に移るようでは二流三流。長年の勘が、ここは一旦見送るべきだと言っている。さすがの双海、ここは冷静。もう一周することを選択。一度マンションから離れ、授業までの時間を確認する。あと三〇分。十分間に合う時間だ。再び同じマンションの前に戻る。人気はない。後方確認。問題ない。狙っていた一階の部屋のベランダによじ登る。朝方、静寂の中、双海は、ベランダの壁に足を掛けた状態で、そっと手を伸ばす。あと少し。下着に手が触れる。回収する双海。一着、二着、三着……手提げバッグに詰めていく。成功した。後は立ち去るのみであ……。

「泥棒‼」

 双海に電撃走る。静止する双海。怒鳴り声だ。双海は、血の気が引くのを感じると同時に、即座に視線を向ける。バレた。盗んだ部屋のカーテンの隙間から、男性がこちらを見て、叫んでいる。双海は、我に返る。早く、早く逃げなければ。盗んだ下着をポケットに入れつつ、ベランダの壁から飛び降りる。すべての動作が遅く感じる。もっと、もっと早く動け。後ろを振り返りながら走る双海。その男性は、部屋からベランダの窓を開け、身を乗り出し、追いかけようとしている。

 な、なぜ男が⁉

 双海は混乱していたが、その疑問を解いている暇は到底ない。ただ走るのだ。


**


 時を同じくして、北中学美術室前。双海の必死の逃走劇などいざ知らず、中学生たちは立ち往生していた。

 ドアの一番近くにいる女子生徒が何度か開けようとしたが、開く様子はない。

「もしかして、美術室開いてないの」

「本当? 俺に代わって」

 今度は男子生徒が同じように、ドアに手をかけたが、やはり開かない。

「これ開いてないな」

 そうこうしているうちに、クラスのほとんどが美術室前に集まっていた。チャイムが鳴る。双海は授業に間に合わなかった。

 なぜ間に合わなかったのか、その理由を生徒たちが知る由もないが、双海の不在を知ったクラス委員長は職員室に向かった。当然双海の姿はない。

 美術室前に戻ったクラス委員長は、他の生徒に伝えた。

「双海先生、職員室にいなかったよ。教頭先生に聞いたら、銀行行くって言ったきり、戻ってないらしい」

「じゃあ暇だね」

 と女子生徒。

「今度お前んちでゲームしようぜ」

 男子生徒たちの関心は、もはや双海にはない。

 生徒たちの雑談の時間と化すと思われたが、そこに現れた先生がひとり。双海……ではなく、高橋という女性教師である。

「こんなに廊下に集まって、どうしたの?」

「高橋先生こんにちは。実は双海先生が来てなくて」

 とクラス委員長。

「いいぜ、俺が一番強いけどお前らいいの?」

 男子生徒たちの会話は依然進行中である。

「仕方がないから、みんな教室に戻っていなさい。双海先生が戻ってきたら伝わるように、私が張り紙を作っておくからね」


双海先生。お姿がないので生徒たちは元の教室で待機しています。戻りましたらお伝えください。 高橋


 高橋からの伝言が、無人の美術室前に貼られた。


**


 双海は息を切らしていた。必死の逃走は数分に渡っていた。五〇手前の双海には、数分の全力疾走はとてつもない疲労を伴う。だが、近隣の立地はすべて双海の頭の中に入っている。角を曲がった拍子に、双海はマンション下にある数トンサイズのゴミ回収ボックスの裏にしゃがみ込んだ。

「下着泥棒‼」

 男の叫び声が聞こえる。聞こえ方からして、そう遠くはない。同時に、大声を出すということは双海の姿を一度見失ったという証拠でもある。だんだん、足音が近づいてきた。よりいっそう息を潜める双海。

「出てこい‼」

 近い。相手が叫んだあとの荒い呼吸すら聞こえてくる。

 学校では、これまで無遅刻無欠勤。しかしここで飛び出せば、捕まるリスクも高まる。教師生活に泥を塗るか、下着泥棒として捕まるリスクをとるか、双海の天秤はせわしく震えていた。双海はリスクをとらない。勝負の要は体力から根気に変わりつつある。時間を使って、相手が遠ざかるのを待つ。

 足音が少し遠くなる。つまり、男は来た方向から逆側に通り抜けたことになる。双海は隙を見て、男と反対側へ移動する。

 足音はもはや聞こえない。一瞬顔を出す双海。一秒以内に全方位を確認。男の姿はない。となれば、あとは学校へ向かうだけである。立ち上がり全力で走る。


**


 学校へ辿り着き、職員室へ向かう双海。戻った報告と、授業道具を取りに行く必要がある。ドアを開けると、教頭がコーヒーを飲みながら成績表を見ていた。

「教頭先生、ただいま戻りました」

「あ、ハイ」教頭は不意を突かれたように返事をする。「大丈夫ですか? 二時間目は授業がありましたよね。遅れた理由はあとで聞かせてもらえば良いので、今は生徒を優先してください」

「本当にすみません。ご迷惑をおかけします。美術室行ってきます」

 双海は内心ほっとした。外出時間が長かった言い訳を、急いで考えていたからである。ひとまずこの場は凌げた。下着を盗んだその手で教材を持ち、その足で美術室へ向かう。

 美術室へ着くと、そこには高橋の字で書かれた貼り紙があった。生徒たちは自身の教室で待機しているという旨だった。

 生徒たちの待つ教室へ入る。高橋の姿もあった。

「すみません高橋先生。お手数おかけしました」

「私は授業がなかったので、大丈夫ですよ」

 高橋はそれ以上話を掘り下げず、双海にバトンタッチした。双海は感心した。

(高橋先生、なぜ遅刻したかよりもスムーズに授業することを優先する、思いやりのある先生だ)

「すみません遅れました」

 双海は生徒たちに向かって言う。こうして全員で美術室に移動した後、通常通りの授業が再開されたのであった。


**


 同日夜。双海は無事に帰宅した。通報が心配だった彼は、念のため、今日の不審者情報を確認した。


本日の不審者情報は一件。

◆種別:声かけ

◆日時:九月一二日 午前九時一〇分頃

◆場所:○○市○丁目の路上

◆状況:帰宅中の女子中学生に対し、男性が「結婚してください」と声を掛けられたもの。

◆特徴:四〇~五〇歳位、白髪混じりの黒色短髪、中肉中背、スーツ、黒色の自転車利用

 

 時刻を見た際は冷や汗をかいたが、内容を見るに双海自身のことではないらしい。彼は一息ついた。

(バカな奴もいるもんだな。最初からやらなければ良いし、こんなことで通報されるのも、頭が悪い証拠だ。こんなやつと同じ町に住んで同じ空気を吸っているとは)

 双海はそう思った。

ひとまず安心した双海は心機一転。さあ、これからは自分を労う時間である。盗んだ下着をバッグから出して試着するのだ。全身鏡でそれを確認する。これは彼が女装癖だからではない。彼女らが身につけていたときの心境に思いを馳せているのである。

(あのときとっさにバッグにしまったのは正解だった。男に追いかけられ、そのうえ報酬もなしでは、骨折り損のくたびれ儲けだ)

 今日はどっと疲れてしまった。だがこうしていると、それらの疲れも癒されるというものである。間接憑依、双海はこの行為をそう呼んでいる。間接憑依用以外の下着は床に広げて並べてある。そうすることで、着用と鑑賞を同時に行うことができる。双海は、寝転ぶ。女性下着のカーペットである。

 まずは仰向け。幾人の胸に支えられ、彼の体は浮かび上がる。ライブ会場のダイブさながらである。次にうつ伏せ。双海は深呼吸する。谷間に顔を埋めるのは、双海のこだわりである。ここで双海が最も好きなのは、腹部にあたるそのふくらみである。そのあとは両腕でかき寄せる。大金を手にした富豪でも、この喜びは得られまい。

 外で誰かが言い争う声がする。酔っ払いであろうか。この至福の時間にも、怒鳴っている人がいるらしい。

 そういえば、泥棒と叫んでいたあの男は、何者だったのであろうか。昼間は逃げ切った疲れと、授業のことで忘れていたが、男の正体は全くの謎である。顔を覚えられていないかどうかも不安になってきた。持ち主の親族か誰かであろうか。もし親族であるならばその人の服も干してあるはずだが、ベランダを見た限りでは、女性ひとり分の服しかなかった。であれば、通い詰めている誰かかもしれない。

 しかしあの男、かなりの時間探していたから、執念深い性格だろう。しばらくは用心する必要がありそうだ。この近くに住んでいてすれ違わないとも限らない。しばらくは今日事件があった付近をうろつくのはよすべきである。

 謎の男に対して一抹の不安が残る。

 そのとき、インターホンが鳴った。

(誰だ、こんな良いときに)

 双海は無視した。知らぬ客より、今日の下着である。だが、間もなくして再度インターホンがなる。

「双海文也さん、いらっしゃいますか」

 野太い男性の声。誰だかわからないが、下の名を呼んだということは、双海のことを知っているらしい。

「あなた、呼んでるわよ」

 妻の声が、部屋の向こうからする。

「はーい、今行く」

 と返事をする。本日のお楽しみはここまでだ。双海は女性下着を脱いで、部屋の隅に置いてある、いつもの段ボール箱へ丁寧に片付ける。

 三度目のインターホン。

 興を削がれたうえに急かされて、双海は内心いらいらしていた。部屋用のジャージに着替え終えた双海は、自室の鍵を開けて、玄関へ向かう。

 まずはのぞき穴から外の様子を確認する。双海は息をのんだ。警察の白と青の制服を着た男性が二人、こちらを向いているのである。もちろん目が合うはずなどないのだが、双海は反射的に目を逸らした。

 瞬間、双海は頭を回転させる。落ち着くのだ。まず、出るべきか否か。出て、自身に関係のない出来事だった場合、話すメリットはない。また、自身が疑われている場合、ここで出るのはまずい。この場は、出ないが吉だ。

 双海は妻のいるリビングへ戻る。

「カルトの勧誘みたいだったから、放っておこう。静かにしておいて」

 とっさの判断にしては、うまい言い訳である。複数回ノックされたとしても、不自然ではない。妻は双海と目を合わせ、二度頷いた。

 今度はインターホンではなく、ドアを直接ノックされた。

「双海さん、警察です。捜査のご協力願えますか」

 様子を窺うように妻を見る双海。カルトだと伝えた言い訳がたたない。

 だが、この場で最も混乱していたのはある意味妻かもしれない。妻の目が明らかに泳いでいる。震えた声で彼女が言った。

「カルトって言ったじゃない。どういうこと?」

「なんだよその目は。おれを疑うっていうのか? 別に、信用がないなら見てきてもいい。でもね、これだけは覚えておくんだよ。そうした場合、君は俺との信頼関係を失うことになる。それでも良いなら、自分の目で見てきてみなよ」

「なによそれ、ちょっと疑っただけじゃない。誰だって、警察だなんて言われたらびっくりするでしょう。カルトか警察かなんて、創造と破壊くらい違うじゃない」

 妻の言う通り、カルト教団と国家の犬とでは、両極端にもほどがある。

「いいわよ、そんなに言うなら行ってくるわよ。でもね、警察だったら、あなた明日の夜に寿司でも奢ってよね」

 妻はリビングのドアを閉め、出ていった。待ってくれ、とは口が裂けても言えない双海。なぜなら、裏がなければ待ってもらう必要などないからである。

 先ほど双海は、圧力をかけることで妻が玄関へ行かない方へ賭けた。しかし結果は逆効果であった。行かないでくれ、という一言が、喉元で反芻している。寿司でも奢ってよね、などとお茶らけている場合ではない。留置所で冷や飯を食べている可能性すらあるのである。

 妻が玄関へ続く廊下を歩いている隙に、双海はリビングから自室へ入る。双海の部屋は廊下に面しており、玄関からは直接見えない。それに、妻と警察が会話するとして、盗み聞きできる位置にある。

妻はのぞき穴から外を見る。当然、そこには警察の姿がある。

「なによ、警察じゃない、どうして出なかったの? 私出るわよ」

 双海の鼓動はよりいっそう速まる。双海は部屋のドアを開けた状態で、先ほど女性下着を入れた段ボール箱を、物置きにしまう。この来客が下着盗みに関係しようがしまいが、念には念をおくべきだ。物置きを開けようとして、双海は取っ手に頭突きをしてしまった。

 作業をしながら、玄関にいる妻と警察の会話に聞き耳を立てる。

「警察です。双海さんですか」

「ええ、そうですけど。どうされました?」


**


 玄関での会話を聞きながら、双海の作業は続く。両手で段ボール箱を持ち上げ、物置きの上段へしまおうとする。だが、途中でつっかえてしまう。彼自身今気付いたのだが、緊張のあまり、あがっていたのは肩だけであった。

(腕が、腕が上がらない)

 物置の上段の高さは一五〇センチ程度。双海の体格であれば、軽く腕をあげるだけで載せられる高さである。仕方がない。双海は全身を使って段ボール箱を持ち上げることにした。年末に置いてあった、服用の収納箱に足を乗せ、肩が吊り上がった奇妙なかっこうで、上段に段ボール箱をのせた。

 とりあえずは、見つかりにくい位置に隠すことができた。双海は一息ついた。


**


 時を同じくして、行われていた妻と警察の会話の内容とは。

「旦那様はおられますか」

「ええ、いますけど」

「お話がありまして、呼んでいただけますか?」

「かまいませんが、うちの旦那にどんな用事があるんですか」

「奥様はお聞きになさらない方が良いかと……」

「え? うちの旦那が何かしたって言うんですか」

「それは、今から確認いたしますので」

「ちょっと、話が分からないんですけど」

「文也さん、おられますか! おられましたら、出てきてください!」

 しばらくの沈黙。双海は返事をしない。

「奥様、少し入らせてもらっても良いですか」

「文也、どうして返事をしないの」

 妻のか細い声。明日のお寿司は確定である。

「下着泥棒の件で逮捕状も出ていますので、入らせてもらいます」

 お寿司は不確定となった。


**


 警察が廊下を歩く音が聞こえてくる。

「奥様、文也さんはどちらにおられますか」

「リ、リビングに」

 警察は、リビングのドアを開ける。

「いませんが」

「えっ、さっきまでリビングにいましたけど」

(どこか隠れる場所は……)

 双海は素早く身を隠した。警察がこの家から出ていくのを待つ。

 警察が歩き回っている足音がする。まだリビングにいるようだ。ベランダの扉が開いた。しばらくして、近くでリビングの扉が開いた。警察は次々に捜査をしていく。洗面所、浴室、トイレ。

「奥様、文也さんの部屋はありますか」

「こっちですけど」

 双海のいる部屋の引き戸が、音を立てて開く。

 足が見える、これは妻の足ではない。

「文也さん、自室にもおられないんですか」

 当然返事はしない。だが警察が玄関にいたときとは違って、もはや明確に声が聞き取れる。喉が渇いた。

(たのむ、それ以上近付かないでくれ)

 双海の前で、ぴたりと足音が止まる。これほどの切迫感を味わうならば、最初から部屋の前に突っ立って、扉が開くのをじっと待っておく方がマシだった。あっちへ行け! 近寄るな!

物置が開けられる。顔を物置に突っ込み、左右を見る警察官。

「ここにはいないようだな」

 警察は物置の戸を閉めた。

 誰か代わりに物置にいてくれよ。双海は願った。警察を連れて帰ってくれ。

 警察は次に、置き机に近付く。双海は苛ついていた。警察のやつめ、あきらめの悪い男だ。そんなに頑張ったって給料は増えやしない。さっさと帰ってしまえ。

 警察の膝が、床につくのが見える。足を折り曲げたのだ。まずい、こいつ頭を下げるぞ。

「こっちにもいないのか」

 警察が見たのは、長机の下だった。危なかった。双海からは警察の後頭部が見える。警察はその姿勢のまま、振り返る。警察が見たのは、双海である。

「いやあ、探しましたよ」


**


「どうもよろしくお願いします、双海と申します」

 男から渡された名刺を受け取った。双海? どこかで聞いた覚えのある名前だ。そうだ、思い出した。

 人生で空前絶後のダッシュをしたことがある。当時付き合っていた彼女の下着を盗んでいた男を、追いかけたときだ。数年前、「変な男がベランダをじろじろ見ていて気味が悪い」という連絡を彼女から貰った俺は、心配になって彼女の部屋に泊まった。その日の夜は、何事もなくて安心した。それも束の間、朝方ベランダにスーツの男が現れて、下着を盗んだのだった。俺は叫びながら必死で追いかけたが、逃してしまった。

 その後通報し、警察の手で、当日のうちに犯人の男は捕まった。双海文也という中学教師だった。警察により押収された下着の数は、上下別で千着にも及んだらしい。風の噂で聞いたことだが、その後彼の家族は破綻したようだ。彼の奥さんは精神病を患って離婚し、慰謝料を請求したそうだ。子どももいたそうだから、彼の家族には心底同情している。


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