翼狼騎士の少女の涙は、僕しか知らない
大地を揺るがす咆哮が鳴り響く。
力強い風切り音と共に、周囲の魔物が吹き飛ばされる。
すべてを薙ぎ倒して大空へと舞い上がったその姿に、種族を問わず周囲の視線が一斉に引き寄せられた。
太陽を背に天上に君臨するのは、巨大な翼を持つ狼だ。
白銀の毛皮は雪の大地のように蒼く煌めき、純白の翼は眩しいほどの曇りなき白で青空を蹂躙する。
「まだまだ来るぞ。私に続け!」
その恐ろしくも美しい翼狼の背から、勇ましい声が降る。
少しだけ視線を斜めにずらせば、巨大な翼狼の背には一人の少女がまたがっているのが見てとれた。
一つに結んだ黄金色の髪を風にたなびかせた、まだ年若い少女。
その細く長い手足は、大地を見下ろす巨大な翼狼に比べてあまりにも華奢で頼りない。
だが、彼女の身体から発せられる覇気が。膨大な数の敵を前に決しても怯まぬ堂々とした姿が。
言葉にならずとも彼女こそ我々の戦女神であると伝えてくる。
――彼女の名は、アルバ。
若き女性の身でありながら、翼狼に認められ族長となった女戦士だ。
おお、と戦意に満ちた声が上がる。
疲労で勢いが衰えてきていた彼らの士気が、一気に上がるのが分かった。
それに笑みをこぼしながら、アルバは上空で槍を構える。心得たように、彼女を乗せた翼狼が魔物の群れめがけて急降下する。
血飛沫が舞い散った。
自分の身長よりも長い槍を軽々と振り回し、彼女は大型の魔物の喉を裂く。
突き刺し、切り伏せ、薙ぎ倒す。
そんな彼女を乗せながら、翼狼も荒れ狂うように魔物の群れに突進する。
騎乗する彼女を歯牙にもかけぬ動きだが、彼女は難なくそれを乗りこなし、槍を振るい続けていた。
その後ろに積み重なっていくのは、もの言わぬ魔物の屍。
その姿は間違いなく、殺戮の化身であった。血を欲して荒れ狂う戦女神であった。その先には、揺るぎない勝利が待っていた。
戦士たちは彼女に後れを取るまいと、その背中に必死に食らいつく。
そんな彼らの戦いを、僕は静かに見守っていた。血にまみれることもなく、死に怯える必要もない小さな結界の中で。
僕の周りに居るのは戦いに出ることのできない小さな子供たちだけだ。それ以外は女性も……そして老人ですら皆この狩りに身を投じている。
すべての者が、皆戦士の魂を持つ。
そんな一族の中で、僕一人だけが異端者だ。足が不自由で、声もろくに出せない不自由な身体。
何の役にも立たない僕は紛れもなく一族の鼻つまみ者で――そして、族長であるアルバの夫であった。
◆◆◆◆◆
「今回のスタンピードの収穫は大きいぞ! 大いなる勝利を祝して……乾杯!」
それから数時間後。
狂乱の狩りは終わりを迎え、収穫を祝う祝宴が始まった。
族長であるアルバが乾杯の声を上げれば、宴は一気に盛り上がりを見せる。
普段は質素な食事も、スタンピードの後だけは別だ。食卓に溢れんばかりの酒と肉がどんどん出てくる。
魔狼の群れを率いて旅をする遊牧の民にとってスタンピードは大いなる恵みであり、そして災いでもあった。
大型の魔物の肉は集落にとって貴重な食糧となり、それ以外の皮や骨も交易や生活で必要な資源となる。スタンピードがなければ、放浪の暮らしはもっと苦しいものとなっていただろう。
……ただし、それは多くの戦士と集落の大切な一員である魔狼の命を引き換えにした恵みであった。
「今回のスタンピードで、四人の戦士と九頭の魔狼が犠牲となった。彼らは皆、等しく勇敢だった。彼らの魂は天国に送られることだろう。彼らの安らかな眠りを祈って……乾杯!」
遊牧の民にとって、死は日常だ。悲しむものではない。
戦士として生きる彼らにとって、特に狩りの戦いの中での死は最大の栄誉であった。
朗らかなアルバの献杯の声に、宴席はさらに盛り上がる。話題の中心はやはり、族長のアルバの見事な活躍についてだ。
彼女こそ族長に相応しいと彼らは皆、口を揃えて褒め称える。
「美しく、そして強い! 流石は翼狼が選んだだけのことはある」
「彼女が先陣を切る姿を見ると、それだけで身体が滾るのを感じるよ。我らは良い族長に恵まれたものだ」
「まさに、まさに。彼女のもとで死ねるなら、これぞ誉れというもの」
――勝手なことを言う、と僕は宴席の片隅でそんな彼らの会話を冷めた顔で聞いていた。
三年前、当時の族長が亡くなって翼狼がアルバを乗せた時。
彼女に対する風当たりは、随分とひどいものだったというのに。
自分よりずっと若い女の指示など聞けるかとアルバを侮る者が多く現れ、統率のとれなくなった集落は多くの犠牲を出した。
そしてそれは彼らの勝手な振る舞いが原因であったというのに、多くの者はその責任を彼女に覆いかぶせたのだ。
族長として認められることもなく、責任だけを押し付けられたアルバ。
それなのに彼女は弱音を吐くことも逃げ出すこともなく、族長としてあり続けた。己の胸にある理想の族長を追い求め、血反吐を吐きながら研鑽を積んだ。
もともとは身体能力も戦闘能力も人並みぐらいでしかなかった彼女は、そうして少しずつ族長として認められるようになっていったのだ。
「唯一難を言うとするならば、彼女の夫だな。どうしてあのような役立たずを夫に据えたのか……」
「子供にまであの臆病さが影響したらどうするつもりなのだろう」
話題の内容が自分へと移り変わったことを感じて、僕はそっとその場を抜け出すことにした。
いつの間にかアルバも宴席を離れているし、これ以上ここに用はない。
自分が周囲からどう思われているのかぐらい、よくわかっている。
――それでも、僕は彼女の夫であることをやめるつもりはない。
◆◆◆◆◆
松葉杖をついて、歩き出す。
体を引きずるようにして歩みを進める僕に意識を向ける者は居ない。気づいたとしても、嫌そうに顔をしかめるだけだろう。
ろくに身体を動かすこともできない生き物がのうのうと生き永らえている姿なんて、戦場に生き、戦場で死ぬことを命題としている彼らにとってはグロテスクな光景でしかない。
もちろん僕も、誰かが手を貸してくれるなんて期待を抱くことなんてしていなかった。
宴席を離れ、一番森に近い僕たちの移動式住居へと足を向ける。
その建物の、さらに裏の人目につかない空間を覗き込めば、予想通りアルバはそこに居た。
静かに精神統一をした彼女は、槍の型をひとつひとつ丁寧になぞっていた。
その表情には宴席での朗らかさも勝利の喜びもまったくなく、静謐で張り詰めた真剣さだけが浮かび上がっている。
何度も、何度も。
複雑な型も、基本的な型も、演武でしか用いられない型も、彼女は愚直にすべての動作を反芻していく。
聞こえるのは、槍が風を切る音だけ。時間の流れすらも断ち切るような、濃密で無我の境地。
しばらくしてから、ふと彼女の動きが止まった。
すっと上げた視線が僕の存在に気がつき、そして張り詰めていた空気が一瞬で緩む。
「ああ、スイか。気づかなかった」
気にしないで、と声の出ない唇の動きだけで僕は返した。君の姿が見たかっただけだから、と。
僕の言葉を正確に読み取ったアルバは、あっさりと首を振る。
「いや、もう良いんだ。家に戻ろう」
即座に鍛錬をやめると、アルバは自然な動作で僕の肩へと腕を伸ばした。不安定な僕の足元が、途端にしっかりとした感覚に支えられる。
そうして彼女は、普段よりもずっとゆっくりとした歩みで家へと向かい始めた。
族長とはいえ特別扱いを嫌う彼女の家は、それほど大きくはない。
入口に刻まれた翼狼の紋章が、唯一の族長の証だ。……とはいえ、家の中は代々族長に伝えられる絨毯やクッションが敷き詰められているおかげで、普通の家よりもずっと快適になっているのだけれど。
二人の家に帰ると、それだけで彼女の雰囲気はぐっと和やかで柔らかなものになる。
僕だけが知っている、本来の彼女の姿だ。
「スイ、お酒はまだ入る?」
(もちろん)
大きく頷いた僕の反応にかすかに笑って、アルバは乳白色の酒を盃に注いだ。
静かに盃を合わせると、僕たちは言葉を交わすことなくゆっくりと酒を飲みはじめる。
いつものスタンピードの後の習慣だ。話しかけることも言葉を促すこともなく、僕はただ黙って彼女と共に酒を酌み交わす。
――やがて。
「キース、ウェンディ、グレッグ、クレア……」
彼女の唇から、今日死んでいった仲間たちの名前がこぼれ始めた。
流れ出す涙を拭うこともせず、彼女は淡々と喪った仲間の名前を呼びあげていく。
「また、仲間を死なせてしまった。私がもっと、強かったなら……」
声を殺して嗚咽しながら、アルバはぐいと僕を抱き寄せる。
僕の肩のあたりが、じんわりと涙で温かく濡れるのがわかった。
戦で死んでいった仲間に涙するのは失礼なことで、自身の力不足を口にするのは族長として不適切で、そして族長が人前で涙を見せるのは許されないことであった。
でも、今だけは関係ない。唯一まともに動く右腕を使って、僕はアルバをぎゅっと抱き締める。この僕の体温が、少しでも彼女の心を慰めることを願って。
仲間の死を悲しみ、傷ついた仲間に手を差し伸べずにはいられない彼女は、本当は族長なんて向いていなかった。彼女の肩に、族長という肩書はあまりに重すぎた。
それなのに、翼狼はそんな優しすぎる彼女を選んでしまったのだ。
彼女が族長になったばかりの、初めてのスタンピード。
脚を噛みちぎられ、喉を裂かれてもなお生き残ってしまったのが、この僕だ。
本当はそのまま死ぬつもりだった。そんな僕が生き残ることを選んだのは、瀕死の僕を助け起こした彼女を見た所為だ。
僕の顔に涙を落としながら、彼女は言い放った。
「族長の涙を見て良いのは、夫だけ。だから、貴方は生きて、私の夫となりなさい」
それが死んではいけないと、生をつかみ取った瞬間だった。
彼女が心のままに泣ける場所を作るために。
彼女が族長として強く振る舞い続けるために。
彼女の涙を知るのは、僕一人だけで良い。
――この不自由な身体は、そのためにあるのだから。