三月七日 1
「……おお、何か縁起いいな」
ふと眼が覚めるとちょうど五時。なぜか眠気もほとんどない。昨日遅刻してしまったから今日ぐらいは早めに用意しておくべきだろう。
布団から起き上がると軽く四肢の柔軟体操をし、昨日脱ぎ捨てた赤色の上着、ジーンズをもう一度着る。さすがにシャツは昨日着替えた。汗かいたしな。
カーテンと窓を開け、身を乗り出すようにして二、三度深呼吸する。まだ冬の名残なのか、気道に霜が張りそうなくらいに冷たい空気に触れて、喉がひくついて咳き込んだ。口を袖で拭いながら、しんみりとした朝の空を見あげると、蒼い夜が徐々に薄朱に飲み込まれていく所だった。
―――けど今は、そんな景色も色褪せて見える。
「幽…か」
二階からの景色でもここいらの家の高さはさほど変わらないから、遠くを見ようとしても見えるのは明らかに老朽化した家の頭ばかりで、見晴らしは悪い。正面の家にはともに七十才前後の老夫婦が住んでいるが、そのベランダには若い頃の恥じらいをなくした証のように老婆の下着が干されていた。その両隣もまた似たり寄ったりなんだが。
近所の何気ない日常風景。それがいつも通りであればあるほど、心の中の風は強くなる。俺の周りはこんなにも静かなのに、心の先に暗い雲の群れ…胸騒ぐ予感を感じていた。
――なぜ? …その一言が夜の間中、胃の中にとっぷりと溜まっていた。点滴のように、ぽつぽつと。次第に溢れて…一滴が器を伝い落ちた。それが今日の目覚め。
嘘のように信じられない。焦り。…なぜそんな風に心を乱すのかという、自身への憤り。
あれは冗談なんだ。冗談で、いいじゃないか。何で、それが信じられないのか。自分より、なぜあの子の言葉を信じる?
…朝日が層雲の間から零れる。眩しくて、目を少し閉じた。途端に広がる暗闇。春光に顔が照らされて感じる。でも暖かさや優しさとは違う、心をかき乱す波動のように感じた。
変な夢を見たと思えばいいのに。だってほら、俺は生きてる。こんなにも…日光を感じる事のできる自分がいるじゃないか。何を迷う? あの少女が本当の事を言っていると決まったわけじゃない。
でも昨日わかってしまった。そう、自身がうやむやにしようとしていた記憶。…銃の行方が、わからないという事。あの少女がそこまで気づいていたとしたら、彼女が言った予言は、当たってしまうのかもしれない。
―――六発の弾丸が、そのまま六人の命に変換される。
つまり、外さないという事。逃れられないと言う事。未来はそもそも言い切れるモノじゃないけど……本当に外さないように思えてならない。
「久上さん…」
俺が捨てたのが引き金だったんだ。俺があのまま死ぬか自殺せずに銃を持ち帰るかしていれば、彼女ら姉妹が悲しむ事はなかった。夫もいただろうに。人の命を…間接的にとはいえ、奪ったんだ。俺の身勝手な自愛で。
…謝りたい、と思った。許されたいんじゃない。けじめをつけたいだけだ。そのけじめをつけたいと願う事も、ある意味自愛からくる自己防衛に他ならないのだけど。
でもそうじゃない。ただ純粋に、彼女に謝りたかった。
こんな気持ち、母さんが死んでから今まで、感じた事、なかった。
誰かに。無性に……会いたいと感じたのは。
一階に下りて簡単に食事を取る。酒臭いが、仕方がない。親父の姿はなかった。おそらくどこかのマージャン友達と徹夜しているんだろう。一人前の味噌汁とご飯を用意して、俺は家を出た。
リンドウのバイトで、昨日は行き損ねたけど…俺の仕事に「買出し」という項目がある。といっても、それは単に朝の市場で材料を買い叩く茜さんの荷物持ちだ。野菜、果物、魚類。スーパーなどと比べてもかなり安いと思える食材をも、茜さんはギリギリまで値切る。決して根負けしない。少しは年寄りに勝ちを譲れと言いたいが、そこは経営者であり店主、利潤追求のためには仕方のない事なんだろう。リンドウに来ている人もいて、そういう人はこっちが値切らずとも安くしてくれていた。…だから、自然と重くなる俺の荷物。
家から出て数分。俺は踏切に足を踏み入れた。
「へぇ…」
何気ない驚きに足を止める。昨日まであったフェンスが、ない。綺麗さっぱり。かわりに…点々と地面にチョークらしき物でマルやら数字やら印がつけられてある。それ以外は何もかも、ここで昨日事件があったとは思えないくらいの見慣れた風景だった。人が死んだというのに。こんなにも…さっぱりとしているなんて。
ショックに似た感情が浮かんだが、泡のようにすぐ消えた。足は歩行を取り戻し、そのままリンドウへ向かった。
「茜さん~、用意できてますか」
引き戸を開けて店内を覗き込みながら言う。人の気配はなく、想わずため息をついた。
「まぁたゲームしてるのかな…」
カウンターと洗い場の間にある階段。靴を脱ぐと静かに上がっていく。…徐々に、電子音が聞こえてくる。昇り切ると突当りで…両側に襖がある所に出る。左は物置、右が茜さん唯一の自室だった。襖からわずかな光が漏れている。俺は勢いよく襖を開けた。
「あ、タカっち。どしたの?」
「どしたのもこうしたもないですよ何やってるんですか。早朝からゲームですか? 全く…いい年した女の人がやってるなんて」
一階の店内に比べるととても小さく見える八畳の部屋。暖房がない中、椿柄のちゃんちゃんこを着て布団をかぶり、テレビの前に鎮座していた茜さん。俺が声をかけても振り返らずに、三十型のテレビを見つめていた。…一応他は綺麗に整頓されているだけに、この空間では茜さん周囲が浮いて見えた。
「いんや、あのまま徹夜」
「なお悪いですよ、さっさと止めてくれないと…遅れちゃいますよ」
「ん~どうしようかなぁ…きついしなぁ。今日は臨時休業って事で。たまにはいいでしょ基本的に年中無休なんだから。おぉ、よっしゃもう少しでこのボス倒せるかも…!」
とか何とか言って、まるで取り合う気のない茜さん。しょうがない、そのほかの用意だけでもしておこう。食材がないと出せる料理も出せない。
「朝飯でも作ってやるか」
昨日の料理の残りと簡単な味噌汁で構成された朝食をお盆に乗せて、また階段を上がる。
「はい、これでも食べて、って寝ちゃダメですよもう…」
いつの間にゲームを止めたのか、茜さんは布団の中に潜り込んでいた。頭まで隠しているのを見ると…おそらく負けたんだろうな。俺はお盆を棚の上に置くと、茜さんが包まっている布団を引っぺがす。着ているちゃんちゃんこを抱きしめるように、一晩中ゲームをしていたくせに今頃寒さに気づいて震えている、哀れな独身女性が出てきた。
「寒い~、行きたくないぃ~……タカっち、一人で行ってこない?」
「ダメです」
震えていたのは演技だったらしく、獲物を逃したように舌打ちしながら起き上がる茜さん。それでもズズズ、と鼻はすすった。ちょっとだけこのまま寝かしておいてやろうかとも思ったが、一度甘くなるとずるずるその好意にすがってしまうから…だから厳しくする。
食事が終わった後、上下ともに山にでも登る気かと思われるくらいに防寒を万全にした茜さんはシンプルな白の軽トラのエンジンをふかした。その助手席に俺が座る。寒い。店内の方がまだ寒くなかった。なぜならこの車、助手席の方の窓が最後まで閉まりきらない。途中で止まってしまうんじゃないかと思ってしまう危うげなエンジン音で走り出すと、窓からの風はさらに刺激的になって、たまらず俺は両手で耳を隠す。
「今度ねぇ~、新しい車買おうと思ってるのよね。中古だけど」
「いいですね。窓が完全に閉まればトラクターでもかまいませんよ」
先日うん十万もする明治風コ―ヒーメーカーを買ってきたばかりなのに。まぁリンドウの収益を考えれば中古車を買うお金もすぐ貯まるだろう。
以前、毎日買出しに行く手間を面倒に思った俺は茜さんにこんな質問をして見た事がある。
「それだけ儲かってるなら、大きな冷蔵庫を買って一週間分くらいまとめ買いすればいいじゃないですか」
だけど根っからの面倒臭がり屋であるはずの茜さんはそれをよしとしなかった。
「あのね、新鮮な材料だからこそおいしいの。どうせ夜の時間帯しかお客さんは来ないし、一日中構えとかなきゃいけない職業じゃないんだから…その分時間はかけられるわけだから、手間暇かけるのは当然でしょ?」
この時ばかりは質問した事を恥じた。腐っても鯛、一応店を仕切る店主だけある。
三十分ほど車を走らせて着いた魚卸し場。早く来たにもかかわらず、すでに百人程度の業者が場内をうろうろしている。茜さんは俺を急かすように手を引っ張ってその中へ入っていく。
「まずはサザエ、帆立、牡蠣から。親父らに人気だからねぇ貝焼き。…お、このタラ安い!」
欲しいおもちゃを見つけたように他の人を押しのけていって、さっそく値切りに入る茜さん。俺は立ち尽くしているのもなんなので、すぐ近くのキャベツ売り場に足を向けた。
「五玉で五十円…こんなので元が取れるのかぁ?」
もしかしたら変な農薬を使ってるのかもしれない…そんな風に迷っているうちに、紐で口を結ばれたタラ四匹丸々を持って茜さんがやってきた。
「さっきの猟師さん吉水のおじ様だったわ。交渉してみたらこの四匹、タダ」
クリスマスプレゼントが希望通りの品だった子供のように満面の笑みを浮かべる。人前だからといって恥ずかしがるような真似はしない茜さんは、普段から感情を出す事に躊躇がない人だ。
「人徳なのか横暴なのかよくわからないんですけど」
だから、ドキッとしてしまう。ずっと一緒にいるのに、しょっちゅうそうなる。
「ん? どしたのタカっち、起きてるぅ?」
「…起きてますって。はい、それ渡してください。持っておきますから」
首を傾げている茜さんからタラを取りあげると、すぐさまカートに引っ掛けた。赤面顔を見られたくない俺は、茜さんから逃げるように人ごみに入っていく。
「え、えぇ? ちょっとタカっち、どしたのよホント。ねぇ待ってよ」
「牡蠣とかはこっちでしょ? 早く行かないと取られちゃうかも―――」
なぜかは、わからないけれど。今まで気づかなかった事にいきなり気づかされたような恥ずかしさだった。顔を触ってみても…少し熱い。海風も届くこの市場は言うまでもなく寒いのに。目先が少し、うつろに見える。心の中を鎮めるのに必死で。
―――いつも、見慣れているはずなのに。
バカらしいバカらしいバカらしい…念じるように、そう言葉を反芻する。でも、ただバカらしいとだけしか考えられなかった。具体的に何を言い聞かせたいのか…気持ちはまとまらないまま。白い息のようにヴェールがかかったみたい…でも、息が消えてもいつまでもはっきりしない、それ。
何で、今? わからない…今までずっと一緒にいたのだから、ずっと前から思っていてもおかしくない気持ちなのに。姉代わり…そんな立場だった彼女に、そんな立場だったからこそ甘えていた自分がいた事に気づく。家族の、愛情に埋もれていた、もう一つの愛情。
「もぉ、よしっ捕まえたっ!」
がしっと腕を掴まれる。ぎゅっと握るその手は冷たくて、柔らかい。今まで触れてきた感触よりもずっと、新鮮な感じがした。
「はいはい…わかりました」
ため息混じりに応じる。そして隣に来た、追いかけるようについてきていた茜さんの背をそっと押す。
「次、どこに行けばいいですか? 先導お願いします」
「ほいほい。じゃあ、すぐ近くのサザエから潰していこか。オッケー」
オッケーです、と苦笑しながら頷く。そんな俺に茜さんは不思議そうな顔で、
「ホント、どしたの? あんた今朝からおかしいよ? 妙に悟ったような顔して…」
「徹夜で眠くて目がおかしいんじゃないですか?」
「私は四日間は徹夜で生き残れる女だよ」
「知りませんよそんな事」
俺が急ぎましょうと促すと、またもや困惑した顔ながらも、歩を進めだす茜さん。カートを押してる俺と違って軽快に歩くので、早い。
「何やってんの、急げって言ったのあんたでしょ?」
ちょいちょい、とジャンパーに半分隠れた手のひらで手招く。全く人の気も知らないで…自分でカートを押せと言いたい。でも、
「わかりました…」
歩幅を少し大きくする。少しずつ縮まっていく距離。…どんどん周りの人口は増えてきて、人ごみではぐれないように手を握る。
―――今日は寒い。だけど、いつも以上に暖かい朝だった。
リンドウに帰った俺達はそれぞれの仕事につき、掃除も終了、朝のバイトを終えて九時半。例によってこの時間から俺は暇になる。
いつもなら、街をうろうろする。十時を過ぎれば本屋も開く。ちょっと歩けば中央図書館…椅子も空調も万全のあそこなら時間なんてあっという間につぶれてしまう。読書…になるのかな。俺はよく高校生用の参考書なんかを読んだりしていた。やっぱり高校に行けなかったのが未だに悔しいんだろう。貸し出しカード用のペンと図書館アンケートの裏を使って一人で勉強していた。勉強、と言えるのだろうか。やっぱり人の噂に聞く通り、文字ばかりを読んでいると眠くなる。ついうとうととなった時、たまに哲学書や綺麗な星の写真が載っている図鑑なんかを眺めたりする。どちらも案外頭を使うし、勉強と比べてみても明らかに後者の方がしっかりと記憶されている感じがする。
でも今日はそんな意味で図書館に来たわけじゃない。それなりの用事があった。
久上さんは本を妹に持ってこさせると言っていたけど、それだけでは物足りない気がする。妹の方が姉の好みを知っているだろうけれど、でもそれは既知だ。新しいジャンル開拓も、入院という無駄に時間が余る期間を乗り切るためには必要なんじゃないかと思う。
一応俺もここで勉強や図鑑ばかりを眺めていたわけじゃない。古い蔵書が並ぶイメージがある図書館と言えど、最近話題の本なども多数あったりする。ちょっと前までは推理小説にはまった。その前は冒険モノとか、ファンタジーモノとか。
「どんな物が好きなのかな…」
磨り減って年月を感じさせるも綺麗に掃除されているマットレス。そのストライプ柄を横断歩道の白だけを渡る小学生のようにひょいひょいと踏んでいく。しかし、マットが敷いてあるというのに、その音はいやに響いた。さすがに朝一番から来ている利用者は俺だけのようで(第一平日だし)、何人かの司書もパソコンの前で何かを打ち込んでたりする。
どんなジャンルが好きなのか。そもそも女性はどんな本を読むんだ? …って何をそんな珍動物みたいに…。一応異性と言えど同じ人間なんだし、読む物は一緒だと思う。
でも完全に一緒なのかと言えば疑問だ。さすがに男性のようにエロ本に飛びつく女性は少ないだろうし…久上さんは間違いなくその部類じゃない。それは断言できる。俺のイメージだとやっぱり恋愛モノ。恋に恋する乙女って言うし、はてさてどうしたものかな。
「う~ん、それはそれでベタだしな。やっぱりここは一番似合わないジャンルをあてていった方がいいのかもしれない」
ある意味チャレンジだが、どうせ図書館貸し出しはタダだ。無料より強い後ろ盾はない…という事で、広く浅く、色んなジャンルの寄せ集めで攻めてみよう。もちろん危険球は投げない方向で。できればその内容について話ができればいいな、と思った。それにタイトルだけで選んで実は面白くなかった、という失敗も避けたい。自分が読んで面白かった本を中心にオーダーを組み立てていこう。
「推理小説からいってみよう。パズルゲームみたいに入院中の王道だろうし」
そんなスタートを切って、とりあえず文芸、文庫の棚に全部目を通してみる。いいだろうと思われた本は五冊だ。推理モノが一冊、冒険モノが二冊、恋愛モノが一冊、純文学系が一冊。まぁ一週間だし…読み切れるかな? 俺なら一度読み出したら数時間で最後まで読んでしまうから、十冊はほしいところだけど…。まぁようは彼女の言った通り退屈をしのげれば内容は関係ないんだし、寝ちゃうとも言ってたし、そこから後は彼女にまかせるしかない。もう借りて帰ろう…そう思っていた時だった。
「この棚は詩か。パスだな…ってあれ? これ違うじゃん」
図書館のベージュのカーテンから零れる陽光が、一筋。俺の目は蛍光灯に群がる虫のように、ふらふらとその背表紙につられていった。
―――『銃痕』
…っ。思わず息を飲む。じっと、揺れる陽光に照らされたその金色の二文字を凝視した。
「待て…何か、する事があった、よな」
本で退屈を紛らわせる? …違う、それも心遣いだけど、そうじゃない。もっとしなければならない何かがあった。
「……っ、そうだ、………謝らなきゃ」
どっと汗が背筋から湧き出た感じがした。きちんと管理された図書館の空気でさえ、居心地の悪いむわむわした肌触りのように思える。歯がカチカチうるさい。ふる、えて、る。
「くそ…くそぉっ! 俺は、何を」
まだ二文字から目が離せない。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―――――――でも、磔にされたように、眼球が動かない。
―――目を閉じろ。安心しろ、逃げるんじゃない。お前は瞬きを忘れてる。だから。
強引に目をつぶる。すると、見えない呪縛から解き放たれたように体が自由になった。暗闇に力を与えられる気がした。でも、とてもぶしつけな力。
開けろ。俺は、開けなきゃいけない。
いつまでも閉じている事はできる。でも、それこそ逃げだ。俺は、死から逃げた。だから彼女の母親は死んだ…だから、もう二度と逃げられない。向かい合わないと、いけない。
恐る恐る目を開ける。…すると、カーテンがわずかに動いたのか、陽光は角度を変えてしまっていて金の二文字は色褪せたようにその輝きを失っていた。ゴクリと、喉を鳴らす。
「久上、さん―――」
俺は胸に五冊の本を抱いて、焦るようにその棚から立ち去る。が、しかし立ち止まる。
振り返る図書館の風景…そこには誰もいない。わずかに空調の音がするだけで、他に物音を立てるものは何一つ存在していない。―――なのに。
「え――?」
誰かが、俺を呼んだ気がした。