四月二日 エピローグ 幽か散る桜のごとく
日の光が、まるで。寝ている我が子を幸せそうに見ている親の撫でる、柔らかな指先のように感じて、まだ眠っているような意識のまま俺は目を覚ました。俺が目を覚ますと、そこは久上さんがいたような真っ白な病室だった。胸には包帯が巻かれ、腕には点滴がつながれている。心電図まであった。盲腸で入院した事はあったが、さすがに心電図をつながれた事はなかったので少し驚いた。
俺が目覚めた時には、背もたれのない椅子を壁際に寄せてこっくりこっくりしている疋田さんがいた。俺が声をかけると、油を差した錆びたブリキ人形が少しずつ元の動きを取り戻すかのように笑み、抱きついてきたのを覚えている。起きたのは午前中だったようで、午後なるかならないかの時には山本刑事も来た。彼は彼で仕事に忙しそうで、元気か、傷は痛くないかとか、そんな会話をほんの十分ほどした後すぐに帰って行った。新しいやっかいな事件の捜査中らしい。でも本当に楽しそうに見えたのは、やっぱり彼がその仕事が気に入っているからだろう。俺も、初対面の頃の山本刑事の印象はどこへやら、しっかりした刑事の顔をしていると思った。彼以上に刑事な人なんて、この町、県にはいないんじゃないだろうか。
胸の傷は、銃で撃たれた事によるものだった。誰が撃ったかなんて事はもはや聞くまでもないだろう。久上さんはあの後来た山本刑事に投降したそうだ。罪を認め、裁判も本人の希望で早めに行われるらしい。彼女が全てを自供した事で、捜査もすぐに完了した。ちょうど裁判所もスケジュールが詰まっていなかったらしく、裁判の方も比較的円滑に進められたらしい。残念ながら俺が昏睡状態の時にすでに行われ、裁判は一審で終わったようだ。
銃弾は心臓のすぐ左一センチをかすめ、貫通していたそうだ。我ながらずいぶんと悪運の強い人間だと思った。銃を放った、それでも心臓に当たりそうで当たらなかったのは、久上さんの本心が作用して急所をそらしたからか、それとも単に銃が悪かっただけなのか、もしかすると、幽がかばってくれたおかげなのかもしれないけれど…そんな過ぎてしまった事は今となってはもうどうでもいい。今ではきれいに縫われたおかげで、どこが傷だったかなんてのは探すのも難しいくらいだ。
俺が昏睡していたのはおよそ十日間だった。そして今日が四月二日、今日がもう退院の日だ。寝ている間も体は勝手に療養しているわけで、俺の体感した療養時間は比較的短い。若いから治りが速いのねぇと疋田さんは言った。そう言う自身もなぜか太ももを怪我していて、話によると角にぶつけたらしい。そんなアホなと追及したくなったが、言わないという事は言いたくない事なんだろう。だからあえてその話題には触れないでおいた。
長い事、眠っていたような気がする。実際十日と長かったのだけど、一年とか二年とか、もっとそれ以上の年月をここで過ごしていた気がする。記憶の出来事がいかにひどくて悲しいものだったとしても、もう涙が流れる事はない。俺が目覚めた時にはすでにそうだった。撃たれてから俺の心の時間は止まっていたはずなのに、撃たれてからすぐ次の瞬間の意識だというのに、あの時の痛み、彼女の不憫さを鮮明に思い出す事ができないでいる。案外、人間の感情は鈍感にできているのかもしれない。
昼食を取るにはまだ早い時間、俺はすべて荷物をまとめ終え、忘れ物がないか病室を見回す。今日が退院だという事で、この白い…家の畳よりも寝心地のいい柔らかなベッドともおさらばという事だ。非常に名残惜しい。
「用意は終わったかねぇ冬見君。車が来たよ。もちろん山本刑事のパトカーだけどねぇ」
ドアの開けざま、退院だという事でなぜかおめかしをしている疋田さんは言う。なぜ「もちろん」なのかはすごく疑問を感じさせるが、今それを突っ込んだ所で疋田さんは飄飄としてかわしてしまうだろう。わざとかもしれない。ありえる。入院中にわかったが、疋田さんは人をいじるのが何かと好きな人だ。
両手にバックを持って、白い廊下を歩いていく。ロビーを、あの時何度も新聞を確かめた待合室を横切って、白よりも真っ白な光が入り込んでくる入口へ。そこには山本刑事が立っていた。視線が妙に生暖かい。父が子に向けるような、微笑ましいといった様子の視線だ。もしくは旧友に向けるような親愛のまなざしかもしれない。
「おはようございます。どうしたんですか山本刑事」
「…いいや、何も。じゃあ行きましょうか」
入口を出ると、ピンク色の地面が広がっていた。十日前はまだまだ散り始めくらいだったのに、もう木には何枚かしか残っていないようだ。木の枝の隙間からの朝日は全身を揉みほぐしてくれるかのようで、ちょっとだけ目をつぶり、熱を感じてみた。
「もう、春ですよね」
「そりゃそうねぇ。いい気候。こんな日の花見は最高なんでしょうに、花はそういう趣なんか考えないもんねぇ」
「花見ですか…久しくやってないですな。しかし婆さんは暇ですね本当に」
「あんたそういう無粋な人だもんね。暇があってもしないに決まってるわ」
暖かいと感じる。それは生きてるって事だ。踏みしめる花びらの感触が靴越しにでもこそばゆい。弱い向かい風に乗ってきた遠い街の息遣いが、聞こえた。
「はいはい…まぁ、これからは冬見君もそんな暇はなくなりますね。勉強で缶詰ですから」
そう、入院中に山本刑事に話したが、来年警察官の試験を受ける事になった。あまりに俺が山本刑事の薦めをすんなり受け入れたため、彼も一瞬俺の言葉を疑ったらしい。自分でも少し驚いていた。少し前までは親父を、刑事を嫌悪していて、その事を考えると信じられないような転換ぶりだ。
「さ、門の外に止めてありますので行きましょうか」
山本刑事を先頭に、俺達は味わうような歩幅で病院から出ていく。
入院している時の話で、親父がこの事件を予知していたかもしれない、奴の言葉であの屋上にたどり着けたんだ、という話題が出てきた。最後、俺が撃たれて倒れている姿を、親父が話していたそうだ。そんな話を真面目に話す山本刑事を見ていると、不思議と、本当に予知していたのかもしれないとも思えてきた。あんな男だって、少しは子供への気遣いをしても罰は当たらない。俺の場合の幽のような、一種の奇跡だったんだろうな、と。
隣にも、後ろにも、頭の中にでさえも、幽の気配はもうない。彼女は、ようするに俺の精神、健康状態の危険さに応じて出てきた緩和剤のような物で、俺が心身ともに健全なら本来出てこなかったものだ。そう言えば、医者が入院当初は脳波に異常が見られたとか言っていた気がする。ならば、あの時の俺はやっぱりどこかおかしかったと言えるのだろうか。いや、そんな事はない。
ひらり、と一枚だけがひらひらと目先の桜から落ちてきていた。ハート形を引き伸ばしたような形の花びらはくるくると回転して、静かに地面に横たわる。
人が生きようとするのは当然の事だ。だから自分の理性ではどうしようもない場合、人間としての本能がそれを助けようとするのは当たり前だとも言える。自殺をしようとする前にもう少し周りを見ておいたなら、そうしたら幽とは別の奇跡が見られたかもしれない。
それに、幸せに気づく事が大切なんだと、自分で言った。生きてる事が幸せだなんて、そんな事を本気で思えるのは、生死の境を本気でさまよった人や悟りを開いた人くらいだ。だから俺達はもっとわかりやすいものでなくちゃいけない。そして、それでも身近にあるものを、だ。―――そう、例えば、今落ちた一枚の桜の花びらとか。
「桜の花びらは幸せを表すんだって、聞いた事ありません?」
「メルヘンなこと言うわねぇ~。血ねぇ、やっぱり。あ、お父さんの方はオカルトだったかしら」
もうそろそろ、世間は入学のシーズンに入る。桜が散ると、俺達は始まるようだ。幸せでできた地面を踏んで、期待に夢を膨らませながら。
俺も、そうだ。だけど変わらないのは、もう見失ったりしない事だろう。一枚一枚が幸せでできている事を、こんなにも大切な物であふれていた事を、もう忘れるわけがない。
今も一枚舞い落ちた。幽か散る桜のごとく、残る、幸せの形が。
そしてふと思い出し、気づいた。
「さぁさ疋田さん、ババァ優先ですから乗ってください…。ん?」
「今日はあんたのおごりだからね…。どうしたのね? 冬見君?」
隆史は崩れ落ちた。
まるで少女のように顔をかばい。でもその涙がこぼれていくのを止めることは出来なかった。そばの二人が、もうどうしようもないほどに。
『――隆史が立派になるまでお姉ちゃんなんだからね』
脳裏いっぱいに思い出したのだ。
そうして頬染めて背中を向けた幼い頃の姉代わりは、幽と瓜二つだった事に――。
了
六発目の弾丸、いかがでしたでしょうかwww
わずかの時間でも楽しめたのなら幸いです――。
ではでは~。m(_ _)m