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三月十一日 6


 ウイスキーの水割りを差し出されるも、疋田はそれには全く手をつけない。カランと氷が琥珀色の液体の中で転がる。そんな様子の老婆を観察しながら、伊勢は一回グラスを口に傾ける。同じくそんな伊勢を見つめる疋田は、彼の口の中で酒を味わっている頬の動きに何かの答えを見出そうとしているかのよう。そして、呟いた。


「…思い出した、あの時の、この時期の事ね。へぇ、あんな頃から律儀に調べちゃってくれたの。暇なのね…でも褒めてあげたいくらいよ。たくさんの情報の波に埋もれて隠れていた私を当てるなんてね。せいぜいが銃の販売人としか思わなかったでしょうし。いいわ、貴方、本当にいいわよ」


「あたしだけじゃないんだけどねぇ、本当はもう一人いたのよ。まぁ、殺されちゃったけどね。冬見昭雄っていう、一人の家族不幸な男がねぇ」


「あぁ…新聞で載ってたわ。例のあの銃でだってね?」


 全くの他人が死んだかのような言い方に、疋田はわずかに歯ぎしりをした。この六日間で死んだその男こそ十年前に自分と撃ちあった相手だと、伊勢は気付かない。疋田はそれを悔しく思うのだった。本当ならばその男は自分の隣にいるはずだった。自分の後を継ぐ探偵として。


「で。私の事を知ってるのは、今は貴方しかいないのね?」


 ヤカンの、はじける蒸気の音が激しくなってくる。もうそろそろ、笛の音をあげるだろう。そう――銃声さえ、かき消してしまうほどの。それが音消し(サイレンサー)で、伊勢が使うならばたとえ同じ室内にいたとしても、誰も気づかないだろう。


「貴方、連れは?」


「安心して。誰もいないわ」


 遠くから迫ってくる、避けようのないほどに大きな津波を前に立ちつくしているかのような緊張感が、疋田は沸騰する音のみでイメージできていた。グラスの氷がピキピキと、背伸びをしているかのように鳴っている。


 伊勢は同じ不気味な表情なのにもかかわらず、一秒ごとにその内に秘めている猛禽類の殺意が滲みだしてきている。つりあがりつつある口元、グラスを持つ手の筋肉が怪しく痙攣する。


 ――手の中で胸の高さにあるグラスの氷をカランとわざと鳴らす伊勢。手品の如く、疋田の持つ注意を全て右手のグラスに集中させる。疋田は無意識にそれを目で追ってしまった。左手から一瞬、注意をそらしてしまったのだ。素早く左手は机の下の小型銃に伸ばされる。伊勢はまだ銃に触れていないにもかかわらず、殺した、と確信した。昔から仕事として殺し慣れているからこその勘である。長い沈黙の中で高まった緊張感が一気に剥がれ落ち、目の前の老婆を射殺する事に全ての意識を集中させる。もう伊勢の頭の中には脳漿を店いっぱいにぶちまけている老婆の頭蓋しかイメージできないでいた。


 ヤカンが、汽笛を鳴らす、その瞬間。すでに伊勢は銃を左手に収めていた。あとは机から引き上げて、呼吸するのと同じような自然さで引き金を引くだけ――――。


「あ、うぁ…っ」


 だが、伊勢はあろう事か銃を落とす。カシャンと、音を立てて、落ちる。


 銃に関してミスをするなど、彼にとってはありえない事である。幾度となく扱ってきた銃器の数々、それは彼にとってはもう体の一部のような物で、それを取り落とすなどといった事は万が一にもあり得ないのだ。―――そう、確かに彼のミスではなかった。


「この眠気っ、まさか」


「大当たり。催眠ガスよ」


 銃を落としたというショックと、恐ろしい勢いで意識を食い尽くさんばかりに広がっていく睡魔に苦悶を浮かべる伊勢に、疋田はニヤリと笑みを返した。ぴちゃと疋田の椅子から赤い水滴が落ちる。それはまごう事なき血液であり、自らナイフを突き立てていた太ももの辺りから流れていったものだった。


 疋田はしゃべりながら、ガスが浸透するまでの時間稼ぎをしていたのだ。この店に入る前に、彼女がドアの下の隙間からストローでガスを流し込んでいる間、ずっと。席に座った瞬間にナイフを太ももにつきたて、それでも声を上げずに。


 彼女は冬見とともに伊勢を調べ、七年の歳月を経てやっと彼がこの店を営んでかつ銃販売の根城にしている事に到達した。しかし、問題はどうやって彼を捕らえるかである。伊勢は飄飄としていながらも殺し屋、自分が狙われている感覚にはとても敏感だから、催眠ガスの噴出するわずかな音さえも気付くだろう。


 彼女の調べでは、彼は自信家だった。それでも殺し屋としては素晴らしい以外になく、おそらく警官の束がこの店になだれ込んできたところで死体を五、六つ作るだけ。…疋田や冬見は、誰も殺させたくなかった。そしてわずかな証拠も残さない慎重な潜入により、いつも伊勢はこの時間にヤカンをかける習慣がある事を知った。この密室を催眠ガスで満たすという無茶な方法を考え付いたのは、今は亡き冬見昭雄だった。


 伊勢は疋田に掴みかかるがごとく身を乗り出して―――手は疋田に届かないまま、投げだす形に力尽きる。


 強烈な睡魔は疋田も同様である。彼女もまた、ももの痛みも伴って一歩も歩く意識すら保てないほどに朦朧としていた。


 こんな事になるだろうと、店に入る前にメールを送信しておいたのだ。ちなみに携帯はドア外のアルミバケツの影にそっと置いてある。


「さぁ…後は頼むねぇ、年寄りはもう寝る時間だぁ…ねぇ」


 疋田は席から動こうともせず、そのまま頭を垂らして目を閉じた。







「――幽」


 白のワンピース、裸足の少女は俺と久上さんの間に立ち、両手を広げる。


「何? 何て言ったの、今」


 久上さんは『何も見えていない』ようなセリフを言う。目の前に突然、何の予兆もなく空間から生まれ出た少女の事などまるで気にしていない言い方だ。


「やっぱりな、やっぱりそうだった」


 俺がしゃべると、背中越しにだが少女の口も同じように動いている。頭の中に、少女の声が響く。そう、俺の頭の中にだけ。


 今まで、どういう時に幽が出てきていたか考えると、それは突飛だが説明できないものじゃない。まず気付いたのが、路地裏、リンドウでの言葉だ。路地裏では残り五発、そして久上さんの母親が殺されたのは俺の銃が使われている事を言った。よく考えてみろ。たとえば弾を入れたまま銃を捨てたとして、それがその後誰かに使われないかどうか、一片たりとも考えないだろうか。想像できなくはないだろう。そして使われたとして、残りが五発だと知っているのは、俺だ。そして次の日のリンドウでの言葉では、人数が重要だと言った。それは俺が人数つまりは残りの弾数しかわからないからこそ重要だと言ったんだ。それに「犯人は関係ない。貴方が『連続殺人』を信じているかどうか」とも言った。これは「俺の銃のみが使われている」と思い込んでいたからこそ、その銃による連日にわたっての殺人、連続殺人と思ったんだ。幽の暗示する通り、本当は違った。久上さんは四度しか殺していない。でも、俺の銃だけで殺人が行われているのかと、脳裏で一回たりとも疑わなかったかどうかは否定できない。だから、この時の幽の言葉は、もしかすると俺の本心とリンクしていたという可能性も捨てる事はできない。


 一番決定的なのが、幽のカウントが『途中で間違っていた』という事だ。


 思い出してみろ――。




 ―――― 弾は残り六発 ΦΦΦΦΦΦ ――――(マンション屋上から捨てた時)

 ―――― 弾は残り五発 ΦΦΦΦΦ ――――(久上母死亡)

 ―――― 弾は残り四発 ΦΦΦΦ ――――(奥山死亡)

 ―――― 弾は残り三発 ΦΦΦ ――――(久上円死亡)

 ―――― 弾は残り二発 ΦΦ ――――(隆史父親)

 ―――― 弾は残り一発 Φ ――――(OL死亡)



 …そして、六発目は茜さんに打ち込まれたものと思っていた。しかし、この時点で残弾はまだ二つあったのだ。




 弾が六発と知っている人にしかこの間違いは起こりえない。


 つまり、六回とも全て一つの銃によって殺されていると思っていた俺だからこそ、間違えるんだ。実際はまだ、あと一発残っている。そう、茜さんが殺されているリンドウでひらめいていた。六発目の弾丸が、確かにあの銃身にある。


「幽なんて女の子は、最初からいなかったんだ」


 最初会った時の言葉を思い出せば、そしてよく考えてみれば、わかりそうな事じゃないか。彼女の言葉は、確かに得体のしれない少女という赤の他人が言ったとすれば、確かに不気味な死の予告だろう。だけど、あの言葉は俺をあの時死なせないようにするための言葉だったとすれば? 死に場所をあげるとその場限りで言っておく事で、ここでは死ねないと強引に言い聞かせる事によって、俺の自殺を思いとどまらせようという意図があったならば、もう答えは明らかだ。


「幽は、俺自身だったんだよ。死にたくないっていう本心が幻覚を見せていただけなんだ。あの時は確かにどこか疲れていたし、初めて会った日の夜は泥のように眠った覚えさえある。―――狂ってたのかな。とても疲れていた。死ぬと楽になれると思っていたんだ。だけど、捨てたくない事もたくさんあって、しかし思いとどまらせる明確な理由が一つもなかった。幽は、きっとそんなどうしようもない気持ちが生んだ、幻だったんだと思う」


 なぜ死ぬのはいけない事なのか。それは本当は誰にも分からない事だ。もしかしたらそれは、俺たち人間が勝手な美徳心で作り出した仮面にすぎなくて。生きなければならない義務を証明できる人は誰もいない。


 でも俺は、誰から教えられなくとも、自分が生きたい、という本心を知る事ができると思う。生まれた時から理性ではどうする事もできない、鳴り止まない心臓の鼓動は、何よりの生きる動物としての、人の本心なんだろうから。


「…冬見君。何で避けようとしないの。そんな、幻が見えてしまうほど生きたいなら、何で銃先から逃れようとしないの。馬鹿みたいじゃない私…。自分のために、誰かの大切なものを次々に壊してきて、結局自分の好きなものも壊してしまうんじゃ、どうしようもないくらい馬鹿じゃないっ…」


 いつの間にか、久上さんは顔を歪ませ始めていた。それぞれの瞳からは、水晶のように透き通った涙が流れている。頬を伝い、顎へ溜まる。


「冬見君の話ならさ、貴方って、自分で運命を変えられたんじゃない。誰からの助けでもなくて、自分でどうしようもできなかった事を、自分で変えたんじゃない。何で貴方にはできて、私にはできなかったの…。おかしいじゃないっ…同じ、人間なのに、ねぇ、どうしてよっ…! 何で私だけ、これ以上汚くなりたくないのに心を鬼にしてまで、こんな…見せかけの病人になってまで、心も体もびしょびしょになって汚れてまで、もう何も失いたくなかったから守ろうとしたのに…! どうして私には何も残らないの? 何で失うばかりなのよ…! 私は、私なりに、自分の不幸を壊そうとしたのに!」


 涙では表せないほどの気持ちの叫びが、屋上を埋め尽くし、消えた。


「だからだよ。壊そうとしたからだ」


 俺の冷たい言葉に、キッと目を見開いて標準を合わせ直す久上さん。


 俺をかばうように立つ幽。


 その先にいる俺めがけて、確かに銃口は合わさった。


 いかに粗悪な銃と言っても、この距離でははずしようがない。


「気づくだけでよかったんだよ。大切なものがあるって。わからないなら…誰かに聞けばよかったんだ。君は最後まで一人で通した。これまで、誰にもその事を相談しなかったんだろう? 不幸を失くしてしまえば、なかった事にしてしまえば。同じくらい幸せはなくなるよ。谷があるから山があるんだ。――そして今、久上さんは『大切なもの』と言った。もう何が大切なのか、わかったんだろ。気づけばよかったんだよ。不幸を壊す、なかった事にするんじゃなくて…大切なものを、増やしていけばよかったんだって。君は幸せになろうとすれば、こんな事にはならなかったんだ」


 俺だって、幽という奇跡が起こらなければ、この世にはもういなかった。気づくのは簡単な事なのに、それを知らない、または忘れてしまった人がそれを得るのは本当に紙一重なんだ。運が良かったか悪かったか、さいころのような、そんな分かれ道なんだ。


「――でも私、もう、戻れないよ。人、殺し過ぎちゃった。もう、おかわりはいらないくらい。自転車の錆びたチェーンみたいに、体動かす度に心の表面がぼろぼろと剥がれ落ちていきそう。そんな事今頃言われても、私どうしようもないよ。今更構えたこの銃も、今更下げられない。貴方が上げた撃鉄でも、私がそれを引いちゃったんだから」


 彼女がもう引けない事は、もう俺も分かっていた。彼女の思いのこもった言葉、汚い本心を聞けただけで、こんなにも心が満たされているのを感じる事ができるのは。――それは、俺が本当に彼女の事を好きに思っている証明だろう。だから、俺は避けない。


「君が決めればいい。俺は君じゃない。だから選ぶのは、やっぱり君自身なんだよ」


 幽の透けた後ろ姿を通して、久上さんが嗚咽しそうになるのをぐっと目を強くつぶってこらえるのを見た。彼女は撃つんだ。撃って、何もかも終わらせる事を選んだんだろう。先にも彼女自身が言った通り、止まれない自分の代わりに俺が避けてくれる事を期待して。


 俺は聖者にでもなったかのように落ち着いた心で、ゆっくりと息を吐き、幽とシンクロして言った。


「俺(私)は、ここでは死なない」


 撃鉄が火薬を爆発させる。ドアが開いた。久上さんの避けてという叫び声。


 母さんに読んでもらった、三匹の子ブタの絵本。


 一回だけど印象的な親父とのキャッチボール。


 茜さんと初めて会った時の笑顔。


 優しくしてくれた疋田さん。


 家族のようなリンドウのお客さん。


 山本刑事、円ちゃん、もう忘れかけていた、フェンスに追突して車の中で気絶していた久上さんの寝顔。彼女の笑った顔、泣いた顔、怒った顔、冷たい殺意の顔、叫ぶ声とともに涙した本当の、彼女の、一人の女の子としての顔。


 全部を走馬灯するほどゆっくりに、六発目の弾丸は、静かに俺を貫いていった。








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