挿入話⑦ 愛と呼べるかは
姉さんは、とても俺に世話を焼いてくれた。貧乏な生活でも…俺は満足だった。
姉さんは、寝る間も惜しんでバイトして…母さんが寝込んでしまうようになってからは生活費と、俺と自分の学費を稼いでいた。もちろん、到底ただの女子高校生が稼げるお金じゃない。水なバイトをしていたと知ってからは、姉さんを必要以上に働かせないようにするために、俺もその手のバイトに手を染めた。俺の場合はちょうどその時注目を浴びていた拳銃密輸の運び屋だった。ヤクザな事務所からクスリを盗んで高値で売ってた時もあった。
…悪い事をしているという自覚がありながら、不思議と心は痛まなかった。夢のためにはお金が十分に必要だったし…日々を生きる事すらままならなかったどうしようもない生活にも飽き飽きしていたのかもしれない。おかげで綱渡りの日々を過ごす事になったが、それでも姉さんの労力を減らす事ができている、という実感はあったから、もはや善悪の問題は全く関係なかった。
姉弟でありながら…俺は幾度となく姉さんと体を重ねた。今思えば、水のバイトの名残かもしれない。でもそれはただの欲求じゃなくて、クスリによって開発された欲求だった。体を重ねる以前から…何度も夜中に一人で慰めているのを目撃していた。…今だからこそ悪意は薄れているだろうが、姉さんの事だから最初はとても辛かったはずだと思う。家族を欲求を吐き出す対象にするのは…姉さんの事が好きだった俺にしてもそれは躊躇せざるを得ない事だった。
それが変わったのは…あの日。姉さんが大会で賞を取った日だ。俺が労いの言葉をかけようと近づいた時…姉さんと親しげに話している男がいた。姉さんは、家では見せないくらいの笑顔と少し高めのトーンの口調で、自分達と周りのざわめきとを隔てて、二人だけの空間を作っていた…遠目で俺はそれを見ながら、確信した。
机の奥に隠してあった文通の痕跡を発見してから、寂しさを紛らわせているだけだということは何となくわかっていた。だから、俺はその手紙の束を見た事を忘れようとしていた…俺の深読みに過ぎない、ここまで二人でやってきたんだからこれからも二人でやっていくんだ―――そうなる事を信じて疑おうとしなかったから。
愛と呼べるかは、わからない。だけど俺は姉さんの事が好きだった。だから危険な目に遭いながらも金を稼いだ…もしもブタみたいな姉だったら稼がせるだけ稼がせて自分はさっさと家を出ていただろう…あの姉さんだからこそ俺は自分を姉さんに任せ、姉さんを任される事を望んだ。
大学を卒業した後、姉さんはプロの演奏家としての道を捨て、音楽の教師になった。長く望み続けてきた夢なのに―――姉さんのためなら身を投げ出す覚悟の俺も、さすがにそれは目をつぶるしかなかった。奨学金なんかをいくらうまく回した所で、逼迫した生活はそれ以上の出費は見込めない…それを姉さんは察したのかもしれない。お互いに軌道に乗ってきてはいるものの、また危険な儲けに手を出しかねない、と。俺も姉さんも普通のバイトを人以上にこなす事でその頃はしのいでいたから、以前のような体を売ったりする儲け話は二度としたくない…そういう意思の結託で、俺は姉さんの決意を渋々了承した。
そして数年後、姉さんはその男の後妻として嫁いだ。話を聞けばずいぶんと無欲な男らしい…稼がせる馬車馬にしてはちょうどいい、と姉さんは俺に話した後、俺と姉さんの子「円」を連れて姉さんは久上に名字を変えた。
バレるといけないので、しばらく連絡をしないでくれ―――それは姉さんから切り出した話題だった。せっかく姉さんが考え付いた一獲千金の話なのだからと、俺はしっかりとそれを守った。ただ、時折演奏者として幼いながらも舞台に立つ我が娘を見に行く事数度、最前列付近で満足そうに舞台を見あげる姉さんの顔を見て、着実に進んでいるな…そう思って疑わなかった。
しかし変化が訪れたのは嫁いで三年後の事。それまで度々男の自宅から離れた喫茶店などで何度か姉さんと会っていたが、急に連絡がつかなくなった。その頃はすでに俺はその市の病院で勤務していたからこちらから会いに行こうと思えばいつでも会えるのだったが、姉さんの言いつけ通り、俺は数か月を連絡なしで過ごす事にした。しかし、高い生命保険をしっかりとかけ、男の稼ぎを娘の養育費へとあて、男を亡き者にした後で俺と暮らすための結婚…これは俺達の将来のためなのだと割り切ってはいたがその間はとても孤独だった。ただただ医者として大量の仕事をこなし、周囲に自分が好人物という印象を植え付け続けた俺は、表面では涼しい顔だが心の中では常にある不安に恐れていたのだった。
嫌な予感がしたのだ。
忘れていたのに…また思い出してしまった。
机の奥の、あの手紙。
―――もしかして、俺は捨てられたのではないかと。
俺は男が家に帰っていて、なおかつ姉さんの留守中という隙を狙って男の家に忍び込み、男のであろう歯ブラシに僅かな、弱い腹痛が起こる程度のヒ素を塗り込んだ。いっそ殺してもよかったが、それでは毒殺と分かった時点で姉さんが疑われるのでそれは躊躇われた。
昼食を終えた男は歯磨きをし始め…終えた後、咳きこみ始めた。
――そして何食わぬ顔で、
「おや、何か声が聞こえたかな…」
家の塀の外からでは聞こえるはずもない咳きこみを聞きつけたのだ。