三月十日 6
「どう思いますか? まぁ、僕は僕で思う所があるんですけども」
さすがの山本も飲酒運転だけはまずいと思ったのか、珍しく麦茶のグラスを口に傾けながら言う。その隣では、肘を突きながら書類を片手に思索中の疋田が。萎びても未だに達者な唇は、今も何かを言おうとしているようにむずむずとしている。そんな様子の疋田と、疋田が今誰の書類に目を通しているかを観察しながら山本は口を開いた。
「冬見君は今日はどこに行ってるんですかね…」
返してほしくも何の相槌も打ってくれない疋田にため息をつきながら山本は店内にちらりと視線を走らせる。茜が隆史のいないリンドウをせわしなく動き回っていて、座っている老人の何人かは妙にそわそわしていた。茜を手伝おうかどうか迷っている…だなんて山本の知る由ではないし、それを知った所で彼にとってもはどうでもいい事なのだが。ただ、連続殺人事件を全く気にしていないかのような風景に山本は少し心を痛めた。
自分や親友の息子などの事件関係者が今現在も死の恐怖に晒されている事になっているのだから…せめてそれらを案じた上でそれなりに事件に怯えてほしい、とも思っていた。自分達だけが不運な状況にいる事を彼は考えたくなかったし、同じく最悪の結末の事も考えたくない…最後の一発が明日に差し迫っている今、その標的に相応しい人物は彼の頭の中に二人しかいなかった。
「こんな時に…冬見君は一体どこへ行ったんでしょうね? 私たちにそれぞれの持ち場につくように念を押してまで」
山本は部下二人に久上孝信の監視及び護衛を任せ、疋田にファイルを渡すためにこのリンドウに来た。林堂茜を監視していろだとかそんな風に言わなくとも、いつも通りに元探偵はここで夜の時間を楽しんでいる…彼女がいるのを見越した上で、訪れていた。
「あの子はああ見えて結構キレる子だからねぇ。もしかしたら、犯人の見当をつけてるのかもしれないわよ。犯人が警戒しているだろう私達に他の最重要人物を守らせておいて、自分はどこかで犯人を迎え撃つ気なのかも」
「へぇ…でもそりゃ少々疋田さん考え過ぎじゃありませんか? 何か他に用事があったとか…たとえば父親が死んだ事でどうにも茜ちゃんに顔を合わせづらかったとか」
「それもあり得るけれど…そんな事言ってる場合じゃないって事くらいあの子はわかってるはずよ。…思い当たる節はない?」
「さぁどうでしょうね」
言われた山本は素知らぬ顔できょろきょろし、茜を見つけると、
「ブリの照り焼き定食と漬物セットをお願いできますか」
居酒屋で注文するには珍しいメニューを口にする。
「定食に小皿の漬物が付いてますけど…」
「そうなの? じゃあそれだけで。あと熱いお茶ね」
茜が注文を取り終えてカウンターの奥に入っていくのを見送ってから、残り少なかった麦茶を飲みほす。そんな山本を横目に疋田はくすりと頬を緩ませる。
「あの子に愛着でも湧いたのかしら?」
「…まぁそんなもんですかね。いや、湧かずには居られないでしょう。だってあんなに似てるんですから…きっと子供を持った父親はこんな気持ちなんだろうなぁって心境です」
「そうね。私は昔から隆史君の事を見ていたけど、確かに似てるわ。明ちゃんにそっくり…もちろん表面的な物じゃなくてもっと根本的な…刑事に必要な捜査への好奇心が。資質っていうのかしらね。本当に賢い子だった」
言いながら疋田は思い出してた。それは、ほんの七、八年前の事。疋田は趣味だった推理ゲーム、謎かけや宝物探しといった遊びで茜と隆史を遊ばせていた。意外と時間がかかるしあまり走りまわったりしないので怪我などがしにくいため、という利点から出た単なる暇つぶしだった。きちんと考えていけば解ける問題から、ひらめきを働かせなければ大人でも解けない問題まであったが、いつもは茜にリードされっぱなしの隆史が、その時ばかりは茜の手を引っ張っていく光景が見られた。「ねぇ、どうしてそっちなの?」と聞いてくる茜に説明しながら先を進む隆史の顔つきは、幼いながらも知性に溢れていた。
賢過ぎたからこそ自殺に走ってしまったのかもしれない…と疋田は思う。隆史は大人に近づく度に謙虚さ、他人との壁を作っていってしまった。それがいつしか隆史を縛り、好奇心を宝の持ち腐れにしてしまった。…そして無駄に知性だけが残り、満たされない好奇心は死へと向かっていっただけ。疋田はそう思っている。
「私は特に注意深い点は思いつかないけど、犯人を特定するならどうしても六人目の被害者が必要ね。今日の…五番目の被害者は以前の殺人と何の関係も見いだせない…一応今は奥山との関係で調べてるけど、どうも期待薄ね」
「そうですか。僕はですね…ちょっと面白い考えがあるんです」
あら珍しい、と疋田は興味深げに山本の目を見た。わずかにちらちらと疋田の視線から逃れようとしているあたり、あまりその考えに自信がないのだろう。
「あまりにも突飛なんですがね。…例の、十年前の明ちゃんのメルヘンチックな話の事です。もしもですよ? もしもあいつの言っていた事は偶然じゃなくて、現実に今起こっている事件の事を指しているとしたら、どうでしょうか」
山本に茜が湯呑みを手渡す。受け取りながら自嘲気味に笑った。
「信じられませんが…奴の言っていたことは今の現在と酷似しています。だから少し、信じてみようと思うんですよ。思い出してください。確か、最初、冬見君が我々に話したのは、『自分で(・・・)自殺をするのを止めた(・・・・・・・・・・)』って事でしたよね。しかし明ちゃんの話では少女に止められるはずだった…それに撃たれた青年とはおそらくは冬見君かと思われます。また、青年が殺された時の現場にへたり込んでいた女の子は…おそらくは久上さんじゃないでしょう。屋上へ松葉杖をついた女の子がなぜ上がるでしょうか? それに明ちゃんは几帳面だからそんな情景を伝えようとする時『松葉杖を持った女の子』と表すはずです。…つまり、明日は…冬見君が最重要の保護対象で、屋上にさえ近づかなければ…と楽観視もしたい。ほぼゲン担ぎだが」
「へぇ…なかなか希望的観測ね。ちょっとは気も楽になるわ。そんなどこぞの幽体離脱の話を聞いてるみたい。でも、聞いちゃってたしね、私達は。まさかそんな事が現実に起こりうるなんて…宝くじの三億くらいは難しいんじゃない? 言い当てるのって」
「あながち、オカルトめいた話もバカにできないって事ですかね。全部が全部本当じゃなくとも、一つや二つは真実があるのかも」
二人はまた小さく笑った。あまりに話が年老いた男女には似合わな過ぎるからだろうか。
「そうですね。試しにオカルトを信じてみましょう。そしてそれが確かなら、ひとつだけ明確な事が浮かび上がります」
お茶を口に傾け飲み下すと…熱い溜息を吐いた。
「冬見君を止めた少女の事です。冬見君はまだ、私達に何かを隠している」
それぞれの思惑を笑うように。昏い夜に解けるように。
少女の呟きは無情に告げる。
―――― 弾は残り一発 Φ ――――