三月十日 5
茜さんに、今夜のバイトに行けない事を知らせておく必要があった。…何度も何度も迷惑だとは思うが仕方がない。何もかも全てかたがついて、その時俺が生きていたとしたら…休んだ分を三倍返しで取り返してやる。だから今だけはわがままを許してほしい。
山本刑事と別れた後で、公衆電話から茜さんに一方的にそう電話した俺はそのまま病院へと向かった。四時五十五分…面会時間ぎりぎりで滑り込む。
「見回りや夕食を運んでくる看護婦さんはベッド下に隠れてやり過ごすんですよね。あ、冬見君の夕食はどうしましょうか。私の半分食べます? 私はお菓子があるから…ダメ?」
放っておいたら三食スナック菓子で済ませてしまいそうな女の子の誘いなんか乗るわけにはいかない。何より将来が心配だ。嫌いな野菜があったとしても強引に食べさせてやる。
「あの、実をいうとお菓子のストックがなかったんですよ…買ってきてもらえますか?」
…パシらされるとは思わなかった。しかも立場上断れない。
地下の売店でスーパーの袋が一枚パンパンになるくらいの量を買いまとめて手渡す。一応俺もハンバーグ弁当を買った。風呂上りな俺は、洗面道具と脱いだ服の入った紙袋をドアから影になるベッドの向こう側に隠し自身もそこに身を潜めた。看護婦が来た場合は滑り込むように中に隠れればいい。…埃っぽいベッド下にずっと入りっぱなしは嫌だ。
外と違い、ジャンパーがいらないほどに暖かい部屋だ。ジャンパーを脱いで椅子にたたみ置くき、リノリウムの床に腰を下ろした。右足は立て左足は投げ出して見つめる先には…窓からは差し込んでベッドに横たわる夕暮れの斜光。部屋のあらゆる白がオレンジに染まっている。
「今日、また銃殺事件があったんだ。…俺の知らない人だった。久上さんに二十代後半のOLの知り合いはいるのか?」
「んんと、いや、学校の先生でもいませんし、お母さんの友達でも、そんな人は…」
そもそもうちの近くで殺されていたしな。関係があるとしたら俺の方が近いのかもしれないけれど。
「そうだ。久上さんのお母さん…どんな人だったんだ?」
「…あまり、尊敬できる人ではありませんでした。冬見君で言うとお父さんみたいな人ですね。でも、ある意味お母さんの方がひどいかもしれません。ほら、私は円と違って何の才能もないじゃないですか。あの子は音楽で活躍していましたけど…私は楽器で演奏するのはうまくありませんし、勉強も特別できるわけじゃないんです。だから…どうしても円の方に世話を焼いてしまいますよね? そんなわけで、いつも一人だったんです」
何かの違和感を感じながらも、俺は頷いて、
「…やっぱり自分の娘じゃないからだったのか?」
「あ、そうか。もう知ってるんですね。円はお義母さんの連れ子なんです」
あまりその事を気にしてるわけではなさそうだった。特に口調を詰まらせる事もなく平然と答えた久上さんは、
「それはそうと…私は冬見君の方が気になりますよ。家、大丈夫だったんですか? ほら…何か物が盗られてたりとか」
「悲しいけど、盗られて悔しい物がない」
「そんなに貧乏だったんですか? あ、すみません。うぅん…でも私の家も同じような物かもしれませんね。盗られてまずいといったら下着かフルートぐらいですし。知ってます? あんなちょっと高級感が出たリコーダーみたいな物でも、銀なら五十万六十万…金なら百五十万円や二百万もするんですよ? 高いですよね、楽器って」
同感。というか、楽器なんて物自体俺みたいな貧乏には縁遠い話なのに。
「久上さんは楽器、しなかったのか? 音楽家の家に生まれたのに」
俺の窺うような視線に少し困ったような顔をした久上さんは、控えめに笑んで、
「よく、言われるんです。でも私は聞く方が好きでしたから。円がいつも家で演奏する時、ロッキングチェアでうたた寝ながら聞くのが休日の楽しみでした」
久上さんは言いながら遠い目を窓外へ向けた。俺の位置からは見えないけど、夕日に黄昏る街が広がっているだろう。目を閉じて、それをイメージする。
何を、思っているんだろうか。…そう、時折気になる。
久上さんはあまり自己主張しない人だ。円ちゃんや茜さん、疋田さんや山本さんと比べてみてもここまで他人に遠慮して気遣って、自分をさらけだそうとしないでいるような気がする。
でもそれは俺の見解の間違いで、元々の彼女の気質がそうさせているのかもしれない。そうだとしても、いまだに敬語なのは…悔しい。たったそれだけなのに、俺は彼女と距離を感じてしまっていた。
…俺を助けてくれた時、山本刑事が素の話し方で話してくれた事が俺の違和感の原因なのかもしれない。なぜ彼女は、敬語なしに話してくれないのかと。もちろん敬語で話してくれと言えばそうしてくれるだろう…でもそれじゃ意味がない。山本刑事のように、強制的に出したのではない素の久上さんは、あくまで彼女からしか出てこないのだから。俺が唯一覚えている彼女の素の言葉は…銃を捨てた事を告白し、それを許した時だけだった。
「久上さん」
俺は立ち上がってベッドに腰掛けた。目線は窓の外へ。直視するのが恥ずかしかった。
「俺、もしも生きていられたら…刑事になろうかと思ってる。もちろんちゃんと勉強しないといけないだろうけどそれは頑張るさ。だからさ」
全身に金色の光を浴びて―――体を通り過ぎ、部屋を染めあげるのを感じた。
「…また、家に会いに行ってもいいか?」
俺は気恥ずかしくなるくらいの素の自分で、そう言った。
「―――あ」
…ふと懐かしくなった。ちょうど茜さんが告白した時のような、緊張感が。きっとこんな気持ちだったんだろうな。怖くて怖くてたまらない物にそっと手を指し伸ばしたような、
…危なっかしくて、眩しい気持ち。
「あ、あの」
「いや…無理に返さなくてもいいって。そのまま流してくれても」
でもそれ以上は、今の俺にはきっと眩し過ぎるだけ。
「いいえっ、私、その…冬見君の言いたい事、わかります…」
よくわからない。自分の心に説明がつかない。
どうしてそんな事を言い出したのか。
どうして、抑えられなかったのか。
わかってる。きっと近づきたかっただけなんだ。
困らせてしまって、俺と会いにくくなるかもしれないのに。そんな結末を省みず。
夕日を見ていると…急に沸き立つような心の高まりを止める事ができなくなっていた。圧倒的な朱に酔ってしまったみたいに真っ赤になった顔を、夕日に隠す。
「その…おいしいコーヒーの入れ方、冬見君が来るまでに、習っておきますから」
「…何だよ、それ」
おかしくておかしくて…そっと手を手に重ねた。笑みに紛れて触れた暖かさは、いくら暖房に包まれていようとそれは久上さんだけの物だ。
些細な会話の中だけれど、俺達の距離は縮まってきていると分かった。今は…それを確かめる事ができただけで、よかった。
夕飯を一緒に食べた俺達はその後も話をした。将来の夢についてだとか、久上さんの通っている学校の事だとか、俺が借りてきていた小説の話だとか。外が暗くなってきてからカーテンを閉めて、明かりをつけたその後も続いた。どの話も新鮮で、とにかく俺は久上さんの話す先が気になった。彼女はとても話し上手だった。熱中していて危うく看護婦達に見つかりそうになったくらいで、引き込まれるというのはまさにこういう事を言うんだろう。本人は特に注目していないが、ある意味才能なのかもしれない。
それに、思えば、誰かと夢を語り合ったりしたのは初めてだった。茜さんとも一度も。…ある意味夢を語り合う必要がなかったからなのかもしれない。お互いに、先は決まっているように思っていた。今後も今までのような生活が続く事を、信じて疑わなかった。
夢がある代わりに危険な今と、夢がない代わりに停滞した世界。俺が選べる立場だったなら、提示された時、俺はどちらを選択していただろうか。今だからこそ、まともな平穏がない、いつも殺されるかどうかを考えていなくちゃならないけれど、もしも最初に選べたのなら…絶対後者を取っていただろう。わざわざ危険な目など遭いたくなかっただろうし、そういう平凡な生活が続いていくんだと信じ、それ以上を諦めていたから…今更選ぼうなどとはしなかったはずだ。
そう考えれば。…なんだよ、俺。結局俺は…自分じゃ選べなかったんじゃないか。
夢見る事を諦め、世に浸る事が…幸せだと思っていた。何気なさが幸せなんだと思っていた。でも違う。俺は危険な今に入り込んだおかげで苦しみ、悲しみ、その度に後悔したはずなのに…今の方が絶対に幸せだと感じている。
「これは私の知り合いの話なんですけどね、ある男の子は事故にあって、一命は取り留めたんだけど、腕が肘から下がなくなっちゃったらしいんです。それで、傷は塞がって普段通りに生活できるようにもなったんだけど…なぜかそのなくなった肘から下の爪の部分が痛いと感じたり、指先が動いているみたいに感じるようになったんです」
「あり得ないだろ…だって『ない』んじゃ、痛んだり動く理屈がないじゃないか」
「幻影肢っていうんです。脳って神経からの情報で触覚なんかを理解するじゃないですか。その神経が誤ってそういう反応をしてしまって…脳がそれを痛みや動きだと感じただけなんですけど…。でも、すごいですよね。ない物があるように思えるなんて」
時間を忘れていたんだと思う。誰かと積極的に言葉を交わす事が、こんなに楽しい事だとは思わなかった。どこか老成していた過去が、バカらしく思えるくらいに…。
なるほど。
人を失う痛みは、あるはずの場所にない幻影股の苦しみにも似ている。
看護婦が消灯の時間だと言って明かりを消していった。…何でもない月明かりの暗闇に、俺の本来の目的を思い出させられる。少し残念で、それでも構わないという思いもあった。
「その…棒、何ですか?」
「鉄パイプ。武器がいるだろ。でもこれでどうにかなるか、わからないんだけどさ」
ずしりとした重みを強く握ってみる。とても中が空洞になっているとは思えないくらいに硬い。思い切り振れば威力もあるだろう。
「今日で、全部終わればいいのにな」
「でも銃殺事件はもうあったんですよね? …来ると思いますか?」
「来るだろ。だって俺も久上さんもその人の事を知らないんだぞ。そうじゃないと、今までの法則が成り立たたないって事になる」
お互いに言葉がなくなり、俺はじっとドアを睨み付けた。ベッドを踏み台にして飛びかかる準備はもうできている。ある種吹っ切れたような感じだ。
「冬見君は、その幽っていう女の子が犯人だと思っているんですよね」
「ああ。そいつ以外に、あり得ない」
彼女の声が聞こえたと思ったら、急に苦しくなって道路に転がり、轢かれそうになったという話はすでにしていた。山本刑事や疋田さんも犯人は別の人だと考えているだろう。
「でも嘘みたい…そんな子がいるなんて。そんな力があって何で、冬見君や私を狙うんでしょう」
光がよく入るようにカーテンを開けた。…さすがにこんな高い窓外にはいるわけないな。
一応狙撃される可能性もなくはない…窓のすぐ下に座り込み、窓とドアの両方を警戒する。
「だろ? 面倒な事になったよな…」
ははは、と笑いが漏れる。笑い事じゃないのに…今なら何でも笑える気がした。
「でも…この事がなかったら、私と冬見君は会う事はなかったわけですよね」
しみじみ言う。考えてみれば…その通りだった。私生活の水準も、学校に通ってるか通ってないかも、悲しいくらいに俺と久上さんは接点がなかった。きっとこんな出来事でもない限り、こんな風に親しげに話す事はなかっただろう。
「ああ。…喜ぶ事はできないけどな」
「そうですけど…。でも、そろそろ…そういう『今』も認めてもいいんじゃないですか?」
「どういう事なんだ、それ」
「これは私の勝手な思い込みかもしれないんですけど…、冬見君はとにかく自分が許せなくて…奥山刑事の事はわからないですけど、円やお母さん、自分のお父さんを死なせてしまった事を悔やんでるように見えます。だから罪滅ぼし的な考えで自分を犠牲にしようとしている…そう思えてならないんです」
…そりゃ仕方がないだろう。人を死なせてしまったんだから、そうでもしないとあがない切れるわけが―――、
「例えば飛行機の操縦士さんは、その飛行機が落ちるとわかっていてお客さんを乗せる事はないですよね。…事故は全て不可抗力なんです。冬見君は銃を捨てた時、それで誰かが死ぬかもしれない。そんな事を考えたりしなかったんですよね? ただ持っているとまた自殺してしまいそうな気がして、捨てただけですよね? …なら、冬見君は本来そこまでして自分を追い詰める必要なんかないんです。飛行機事故や今回の事は大きな出来事ですが、そういう不可抗力な事は人生のうちに何十回とあると思います。人は誰だって一生のうちに数え切れないくらいに間違いをするのに、自分じゃどうにもできない事までわざわざ反省してたら…きっと疲れちゃいますよ」
「……ああ、そうだな。…ありがとう」
「本当にわかってますか? もう、たぶん自分じゃわかってないと思うんですけど、冬見君ってどこか責任感が強いというか自虐的というか…ようするにマゾなんですっ! とにかく勝手に自分を傷つけちゃう性格なんですから、気をつけないと」
うんうん、と自分で頷きながら言う久上さん。そこまで言われると別の意味で傷つく…。
「まぁ…後悔はしてないよ」
なす術もなく流されて行き着いた今でも、それなりに愛着がある。
もしも過去に、銃を捨てる所まで時を戻る事ができたとしても…俺が戻るか戻らないかを選んだ事を知られないとしたら、…おそらく戻っていない。今に留まる事を選ぶ。
「冬見君、明日デートしませんか?」
「ああ」
「やたっ。じゃあ、お昼頃から…どうですか? さすがに松葉杖じゃ味気ないんで車椅子を借りようと思うんですけど…なんか押してもらいながら歩くのってロマンチックで感激です…」
―――あれ?
「って、おいおい…! そりゃまずいって。それに何だよ急に…」
「一日、付き合ってください。それで、全部チャラになるんだと思って」
――心の内を悟らせないように、普段どおりに振舞おうとする表情だった。…久上さんの事だから、何を言わんとしているかは、何となくわかった。
「…わかった。いいよ。どうせ、明日が、最後だしな…」