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三月六日 2

 自宅から十分ほどの所にそもそもの目的地はあった。踏切を渡り切ってしばらく進んでいくと大通りに出る。そこからすぐ近くのコンビニ横の路地を抜けて、直線状に広がっていく飲み屋の群れ。ほとんどの店がバーな中、唯一和風な店…居酒屋リンドウと外電灯が建てられている居酒屋。俺はこの店でバイトしている。


 暖簾の出されていない入り口のステンレス製の引き戸を、ガララと横に開く。手入れしていないせいだろう、ちょっと開きにくい。


「おはようございま~す。茜さ~ん?」


 電気をつけていない店の中は薄暗く、人のいる気配はない。

 普通の居酒屋にしては幾分広い店内。古ぼけた振り子時計、なぜか所々にハニワ、カウンターに寝かせてある暖簾でさえ年代を感じさせる藍染。時代に置いて行かれたように思わせる趣味は、ここの店主のアンティークだった。


「アァん…? 何だぁ、タカっち。遅かったじゃない」


 カウンターの下からモグラ叩きのモグラのように顔を出す女店主。ショートボブだが手入れの行き届いていない髪は、ただ重力に従って垂れているだけ。一応顔は、俺の基準では美人なんだけど…。


「何やってたんすか?」 


「ぬか漬けの様子をね、ちょっと見てたんだって」


 二十を少し過ぎたばかりだろうに、俺から「ぬか漬けの似合う女」のレッテルを張られている彼女。幼い頃からの姉代わりで、よく遊んでもらっていた。この店一筋で彼氏もいない。人はいいのに…ちょっとだけ不憫に感じてしまう。が、本人は特に気にした様子はないので、まぁこれでもいいのかなと納得せざるを得ない。


「あ、そうそう買出し…すみません。起きたの六時でした」


「何それ? …もぉ今日は厳しかったんだからね? 次遅れたら表で正座させる。そうだなぁ、一升瓶二本くらい抱えさせて…とにかくマジだからね」


 彼女の両親が元々この店を運営していた。数年前から隠居と称して茜さんに店の全部を任せてしまっているのだ。親分気風な彼女はそれらの現実を楽しげに受けとめているが…つまりは、実質的に言って彼女…林堂(りんどう)(あかね)さんがこの店の店主だった。


「しかし来るの遅かったねぇ…いつもはもうちょっと早く来るのに」


 ニヤついた笑みを浮かべて言う。いじめる気だ…茜さんの言葉攻めは拷問レベルだった。俺は苦笑で返すとそそくさと奥へ逃げる。荷物を置き、エプロンをかけて戻ってくると、茜さんはまたカウンター下のぬか漬けと格闘していた。


「それがですね、事故の現場に遭いまして」


「事故ぉ!?」


 ゴン! と、後頭部を強く打ち付ける音が聞こえた。あまりに痛そうだったので、俺も顔をしかめながら後ろ頭を押さえた。…茜さんのうなり声が聞こえる。小指をぶつけた時のように、低く、何かの笑いを堪えるように。ちょっと怖かった。


 今日(というか三十分前)あった出来事を簡単に話した。茜さんはとうとう腰が痛くなったのか、ぬか漬けの入った壷をカウンターの上に置く。力を入れやすくなったのか、力強くぐちゃぐちゃと細いながらも筋肉のたくましい腕でかき混ぜつつ、「ほぇ~」と度々頷きながら聞いていた。その顔は学校の事を楽しげに話す弟に向けるような、表情に似ていた。


「そのおばさんって、死んでたの?」


「即死ですよあれは。フロントガラスにバリリっと。何でですかね…一目で『あ、これ死んでるわ』って思えたんです」


「おえぇ…やっぱり死ぬなら畳の上だよ私は」


 日本人である事を誇りに思っているらしい茜さんは、洋風を好まない。振り子時計も、見る人が見れば明治風で、彼女に言わせれば「洋風と明治風が全然違う」らしい。


 茜さんは「もうお腹一杯」と言いながら、かき混ぜ終えたのだろうぬか漬けの壷を抱え、奥の部屋に行った。あ、朝の分の掃除をしなくちゃいけないんだった。


「茜さん? 掃除はまだしてないですよね?」


「うん、あんたが来ると思ったからさぁそっちはギリギリまで粘ってみたさ」


 俺がしている居酒屋のバイトは朝の店内の掃除と買出し、夜の皿洗いだった。昼は茜さんが簡単な仕込みに入るため、自然と何もする事がなくなる。それでも時給千円と割と高めを払ってくれているのは、やっぱり俺の家の事を多少なりとも心配しているからだろう。昔から、たまに「残ったから」と言って夕食分をタッパーに詰めてもらっていた。しかもその高い時給に色がつく事もある。小学校の頃から親しかった彼女には色々事情が筒抜けで、雇われの身である俺も遠慮できない立場にある。


「茜さん、他、何かする事あります?」


 竹箒を取り出しながら訊く。


「ん~ないね。後は夜で」

 

 夜とは七時から。ようするに、お客が入ってくる修羅場の事だ。少しこった肩を揉みほぐしながら…ふと、今朝の事を思い出してみる。

 あの子、大丈夫かな。あの子、ちょっと可愛かったな…。


「…っだめだだめだ。遅れたんだし、しっかりやらないと」


 変な下心が浮かぶのを、頭を振ってかき消した。ったく、不謹慎だっての。

 竹箒を片手にいざ門前へ。何って、ただの掃き掃除。慣れてくるとこれが意外と楽しめるものだ。


 竹箒という竹枝の長さが一定していない箒だと、目の前のゴミを掃こうとしても、果たして先端が届いているのかどうかがわからない。丈夫さ、安さだけが取り得の荒い作りなんだ。熟練度も存在して、とにかく初めの頃は同じ所を何度も掃かなければいけない。つまり、コツがいる。しかし、愛用とまでは言わないけれど、同じ竹箒に慣れてくると、その箒のクセがいつの間にかわかってすんなり掃く事ができるようになる。それに、今時竹箒を使ってる所も少ないだろう。何となく古風で俺は好きだ。


 店に向き合うようにして、隣のお店の分もまとめて、さっさっと掃いていく。すると、


「あらぁ、やっとるねぇ隆史君」


「あれ………あ、おはようございます疋田さん」


 背の方から声がして振り返ってみるといつもと同じにんまり笑顔。店のお得意様、疋田正子(ひきた まさこ)さんが立っていた。昨年、還暦を迎えたばかり。白髪は染めるような事はせず素直にゴムでまとめていて、銀縁の眼鏡はいかにもお婆さん臭い。小さい体に覆い被せられているかのように暖かそうなジャンパーを羽織っている…どうやらいつもの散歩の途中らしい。


「寒いのに…よく毎日続きますね」


「何、こっちはこんな事しかやる事がないからねぇ。しっかし隆史君、何その薄着は? もう…私の心配より自分の体の心配をしときなさい。これ、貸したげるから」


 そう言うと、この寒いのに着ていたジャンパーを脱ぎ始める。下は花柄薄ピンクの寝巻きのまま。慌ててそれを制する。


「風引いちゃうよって。ほら、晩、店に来た時に返してくれればいいから」


「いや、さっさか終わらせちゃうんで大丈夫です。ありがとうございます」


 この人も昔からの顔なじみ。茜さんと同じく何かと世話を焼いてくれるいい人だ。ついでに言うと、未だに独身。茜さんと同じく、俺の周りの世話焼きないい人はほとんど独身だ。そういう宿命でも背負ってるんだろうか。…後、疋田さんの職業については何も知らない。彼女もその事については話したがらない。昔の記憶だといつもは家でゴロゴロしていて、突然ふらっと一週間一ヶ月いなくなる。いつの間にか戻ってきては、色々俺や茜さんにご馳走してくれたりしていた。


「今日はですね、茜さんがぬか床をほじくり返してましたから…ぬか漬けが一番よく漬かってておいしいと思いますよ」


「そう? まぁ私はどっちにしろリンドウに言ったら漬物を頼むけどねぇ」


 茜さんの料理は身内のお世辞を抜きにして、おいしい。ちゃんとした料亭でもやっていけるんじゃないかとも思われるくらいで、この辺の和食嗜好な住民には定評がある。特に漬物が絶品で、茜さんはいくつもの種類の漬物を作っているが、その中でもぬか漬けが人気だった。茜さん曰く「魔法のぬか床」らしい。あんまりみんなが注文するもんだから、バイトの始めたての頃は、何かヤバい物でも入ってるんじゃないかと心配になった。


「…と、そうそう隆史君、今朝、踏切で事故があったんだって。知ってる? 私、散歩のついでに見てきたけど、ワゴン車がフェンスに突き刺さっててねぇ」

 

「シルバーでしたよね」


「なぁんだ知ってるの。ま、それで…ちょうど私が見た時は撤去作業をやってたわ。難航してるみたいだったねぇ。相当スピードを出してたんだろぉね。フェンスに食い込みすぎちゃってて、しょうがないからフェンスごと移動させようとしてた」


「という事は電車、相当遅れたんですね…」


「そうね…って、何そのやけに知ってる口ぶり。さてはあんたも野次馬に行ったね? …さ、そろそろ行こうかねぇ。隆史君も掃除、サボっちゃいけないよ」


 じゃあね、とまた散歩を再開する疋田さんに手を振り、俺も掃除に戻った。



 ―――変わる事のない。



 こうやってバイトをしながら、店のお得意さんの相手をしたりなんかして日々を過ごしていく。…凹凸もなく、何の変わり映えもしない。

 今日はたまたますごい場面に出くわしたけど、しばらくすればすぐに忘れてしまうだろう。そう…印象深い出来事はなかなか忘れないように思えて、実は何でもない日と同じだ。こういう怠惰な生活に延々と飲まれていくうちに、いつの間にか記憶の彼方へ消え去ってしまう。そして時には、茜さん達と「こんな事があったね」と思い出しては笑うんだ。


 それが笑い話だったならなおさら。悲しい話でも、みんなで面白い方向へ持っていく。ある意味、俺たちの生活には、日々の退屈さを紛らわすエッセンスがあふれている。

 足りない物はない。多過ぎる物もない。ただ平坦な道が続き、小さな、小さなキーホルダーのような人生の「面白さ」が時折落ちているだけ。…それを拾う度に自分のどこかにつけていって、誰かと語らう時、その思い出の品をネタに時間を潰していくんだ。

 こんな日々をもう数年と続けて…これからも続けていくんだろう。俺は昨日、死ななかった。きっと、こんなつまらない日々に、俺は恋していたんだな、と。

 …自嘲気味に笑ってみる。なかなかと詩人だ…俺の情けなさを誤魔化すには何て便利のいい言い訳だろう。


 一度は死のうとした奴が。


 何今頃になって、そんな大切な事に気づいてるだよ―――――。




 俺はたった一度でも、拳銃を持った。自分の命を捨てるために。…それだけで罪だ。思い立った時点で、俺は今まで自分によくしてくれた人達、俺がここに存在する事を認めてくれていた人達の心遣いを裏切った事になる。


 …もう二度と、死のうなんて思っちゃいけない。


 俺の命は、たった一つでも。俺にとって、かけがえのない物はたくさんあるから…俺は、たった一つの命でそれらを守らなくちゃいけない。


 何も、力強い武力じゃなくていい。複雑な知力じゃなくてもいい。


 ようは、いつでもそう思える―――心構えを持つ事なんだから。


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