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三月十日 1


 ―――親父は、刑事だった。何でも県下でも有数の人材だったらしく、その検挙率はその全盛期、今からちょうど十年前になるが…警視庁捜査一課のベテランに並ぶほどだった、と言われている。…これはすごい事らしい。なぜなら大きな殺人事件や強盗などは警視庁が応対するが、それが到着する前に片付けてしまうという驚異的な捜査スピードを持っていて、しかも拳銃の腕も素晴らしく、それ専門の教官になれるくらいの才能があった。その実力が警視庁に知られていくにつれ特別な昇格なども用意されていったが…現場にとどまりたいという事で万年刑事だったらしい。凶悪な犯罪になればなるほど一課に事件をまわされるという常識を覆した、ある意味異端児だった。


 幼いながらも、俺は彼を尊敬していた。…親父のような父親がいる事を誇りに思っていた…。仕事一本で、なかなか家に帰ってこない父親だった。弱いがお酒は好きで、普段は飲む暇がないから…多少お酒で暴れたくらいでは俺も母さんも気にしなかった。母さんにいたってはむしろ体を壊さないか心配だ…といつも心労が絶えなかったようだ。ある時なんか病院に担ぎ込まれていた。マンガで見るみたいに包帯グルグル巻き…銃戦があったらしい。母さんはベッドに仰向けになっている親父に向かって「危険な事は止めてくれ」と頼んだ事があった。普段笑わない親父もこの時ばかりは苦笑した。…頷きはしなかったが。


 ――ある日、病院から電話を受けた。夕飯の買い物途中で母さんが倒れたらしい。体が弱いくせに極度の心配性だった母さんが積年の疲れがようやく胸にきたらしい。引き付けを起こしたように心臓麻痺。その日連絡を受けた俺も病院に行くまでに倒れて…父さんも銃撃戦で肩を撃たれたらしい。冬見家の厄日だったのだろうかとも思いたくなるくらいに家族がことごとく負傷した。


 …もともと、行った所で間に合わなかったんだ。


 俺は親父の負傷の事については後から知った。けど、白い病室で一人、いつもそばにいてくれていた優しい家族の冷たくなった手を握り締めていた俺には…そんな事はどうでもよかった。


 ――何で来ないの?


 ――お父さん、お母さんがいなくなるんだよ?


 ――どうして、こんな時にも帰ってきてくれないの?


 パチン、と何かがはじけた気がした。今までの憧れや愛情が…わずか八年の生の結果である俺の心がガラリと崩れ去った。今までは許容していた「家族への愛情の足りなさ」へ、文句を言ってやりたい気持ちに一気に火がついた。親父の何もかもが憎くなった…愛情を示せない親なんて親じゃない。こんな奴の息子である俺は息子である事を恥じるべきだ、刑事という職業には恨みはないけど何とかすれば帰っては来れたはずだ…なのに刑事という職業にかまけて自らが結んだはずの家族の契りを大切にしようとはしなかった…と。


 満足に愛してもらってなかったという感触があっただけに…気持ちの暴走は止まろうとはしなかった。…殺人未遂も実はある。なぜ未遂なのかというと、その時の俺の心情を読んでいたのか、包丁を構えた俺を茜さんは突き飛ばして止めた。…俺に下宿しないかどうか聞いてきたのはその数日後の事だった。しかし、親父は無言で俺を許したので、俺はそれを断った。…冷静になった途端に、母さんの言葉が蘇った。親父を最後まで心配していった一言…母さんが死ぬ前日に俺に言った、今思えば運命的な一言。


「隆史…お父さんの事、お願いね?」


 …今思えば、あれは母さんなりの全力な愛情だったのかもしれない。献身的な性格だった母さんは、刑事としての生き方に生きがいを感じているのだろう夫に対して、心労で体の調子が悪い…なんて事を言えるはずがなかった。だからそろそろまずいんじゃないかという頃になって、幼い俺にその後を託したんだ。


 母さんの言葉の意味を気づけた時、母さんが死んでから三日もしないうちに辞表を出してきた親父の真意がわかった気がした。きっと…いつも近くにいてやれなかったという、久上さんの父親の愛情と瓜二つの思いが、辞表を提出させるよう突き動かしたに違いない。 


 いつも家にいてやる事が…彼なりの罪滅ぼしだったんじゃないかとも思えた。今の俺から見ても、刑事としての生き方以外を、彼は知らなかったんじゃないだろうか。…罪の意識から逃れられなかった彼はおそらく、ずっと苦しんでいたんじゃないだろうか。でも頼みの綱の息子は母親の死と同時に自分の事を毛嫌いし、殺そうとまでした。癒される事のないまま、十年間、胸に抱いた罪の十字架を背負い続けてきた。自分の生きがいを捨てて。久上さんのお父さんが間違えればこういう結末に陥っていたかもしれない。


 …憎しみというヴェールで目の前を覆われていたけど、きっと俺は気づいていた。だから、その気持ちを、少しずつだけども形に表していった。でも母さんを失った悲しみが邪魔をして、いつも針のむしろのような雰囲気の中、俺達は暮らしていた。


 ――正直に気持ちを伝えられないまま。






 昨晩からずっと腕組をしたまま、牛乳をこぼしたようなリノリウムの床を見つめていた。誰かから話し掛けられたかもしれない。俺の聴覚は自分の声以外を拒絶していたのだろう。


「冬見君…横になっておいた方がいいですよ。昨日から調子が悪そうですし」


 俺の隣でぼぅっと天井を見つめている山本刑事。親父の外傷などの調べが終わると、そこにやって来て、午前五時の今までずっといた。何十分おきかに声をかけてくるが、どの声も強制するものではなかった。いたいならそうしていてもいい。ただ、見ている方が辛いから…声にはしないが、そんな風に彼の言いたい事も伝わってくる。


「茜ちゃんにも連絡を入れておきますね。そろそろ起きているでしょうから…」


 できれば伝えてほしくないが、無視した。…勝手にしてくれ、と心の中で呟く。

外ではマスコミがたかっている。それこそがやがやと…夜中からずっと。そっとしておいてほしいのに、気を休めるわずかな一時すら与えてくれないっていうのか。


「せめて…朝食くらいは食べてください」


 腹は減っていない。でも、どこかに座りたかった。本当はこのまま脱力してへたりこんでもよかったが、さすがにプライドが許さなかった。冬見昭雄の息子として。


「…わかりました。もう大丈夫ですから、山本刑事は捜査の方に」


「冬見君を放っておくわけにはいきませんな。目を離した隙に飛び降り自殺されそうです」


 はっはっは…笑い声が空しく響く。でも少しだけ心が潤った気がした。場に合わないブラックジョークだが、心遣いが身に染みる。そんな暖かさがわかったから。…せきを切ったように涙が頬を伝い始めた。


「…ハンカチ、いります?」


 嗚咽を我慢するので精一杯だったから、首を横に振ってかろうじて意思を伝えた。一晩中我慢してたけど。もう、限界みたいだった。


 ひとしきり泣くと途端にお腹が空いてきた俺は、山本刑事に連れられて早朝からカツ丼を食わされた。カツ丼自体が俺にとっては高級な外食だったので全く文句はなかった。聞きそびれたが、どうやら店屋物ではないらしい。警察署独自の? まぁ腹が減るよりも一晩中立ちっぱなしで足が痛かったから、飯よりもまず座りたかった。でも、昨日は座ると何かに負けるような思いに駆られて…とにかく意地を張ってみたかったんだろう。


 山本刑事が呼んでから、三十分もしないうちに警察署に茜さんがやってきた。


「ちょっと…タカっち、あんた大丈夫なの!?」


 近くには山本刑事やその他の刑事がいるのにもかかわらず思い切り俺を抱きしめてくる。


「…寂しくなかった? 何で昨日呼んでくれなかったの…すぐに飛んでいったのに」


 抗う力すら浮かばなかった。…安心させてくれる声と温もりに、精一杯の誠意を込めて薄い笑みを浮かべるしか。

 優しい抱きに甘えてしまいそうになる。でも、もうだめだ。俺は子供のように甘えるには年をとり過ぎた。…茜さんの両肩に手をかけ、そっと押し返した。


「…え? タカっち…」


「だめなんです。もう、俺に優しくしないでください。されればされるだけ、辛い…」


 俺の周りは、じきに(しかばね)だらけになる。それに埋もれるように消えていく俺なら、大切な人は、もう誰も巻き込みたくない。…そう言葉では言えないから余計に辛い。こういう跳ね除けるような方法になってしまうから…。


「あ…茜さん。俺、もう大丈夫ですから」


 下唇をわずかに噛み締めながら言う。


「そんな事言って…全然大丈夫じゃないじゃないの」


「茜さん、ごめん。俺じゃ…貴方の相手にはなれません。…だから」


 これで、帰ってほしい。俺との事は終わりにしてほしい…そう続けるつもりだったのに、


「そんな事、もうどうでもいいわよ」


 本当に吐き捨てるような言い方で、過去の自分の思いを捨ててきた。再び俺を抱いて、


「私はね…やっぱり貴方にとってはお姉ちゃんだもの。…もちろん好きよ。嫌いになったわけじゃないわ。――でもね、やっぱりそれは贅沢な事。人を好きになれば、今までと違った目で見ないといけなくなる。私、やっぱり弟みたいなタカっちがいなくなるのは、嫌」


 嘘だと、すぐにわかった。…俺の目を見なかったから。でも、静かに聞いていた。


「ごめんね。…だからもう無理しないで。私を…許してくれる?」


「それは、俺のセリフですよ」


 しばらく抱き合った後、俺の着替えの入った紙袋を俺に手渡し、店の用意があるからと言って茜さんは帰っていった。寂しげな後姿は朝日に光るリノリウムの床を一歩一歩、何かの感情を込めて踏みしめて。開いたドアの隙間風が、名残の温もりを飛ばしていった。








「冬見君、いいですか?」


 廊下で立ち尽くしている俺の隣で、山本刑事が言いながら壁に背中を預けた。

ちゃんと客用の席も設けられているというのに俺はそこに座ろうとしなかったから…座りたがらない俺にわざわざ合わせてここに来てくれたのだろう。それともいっこうに席に来ようとしない俺に苛立ちを覚えたのかも。…いや、それはないな。初対面だったらそう思うかもしれないが、山本刑事はそんな人じゃない…短い付き合いだがそれくらい分かる。


「いいですよ。俺もそろそろ人恋しくなってきました」


「あははは。…相当参ってますなぁ」


 ちらりと隣に視線を向けると、さっきまでの俺と同じく少し俯きがちに、そして年寄り臭い慈悲めいた目をして正面の壁に目をやっていた。焦げ茶の長いコートはよれよれで、初めて山本刑事を見た時の状態とは随分違っている。この数日間でくたびれたようで…コートまでも精根尽き果てた、といった所か。


「最初に冬見という名前を聞いた時から、ずっと冬見君の事が気になってましたよ。まさか私の親友の息子とは…思いもしませんでした。昭雄が突然辞職して消息をくらました…でもずっとこの町にいたなんてね。僕もだいぶ探したんですよ? あいつは見つけるのと隠れるのは滅法(めつぽう)上手だったですから…」


「親父と、付き合いは長かったんですか?」


「ええ、巡査の時から一緒ですよ。同じ年ですし。疋田の婆さんもそうです」


 懐かしいな後俺に笑いかけながら言う。興味を引かれて、俺はその口に続きを求めた。


「親父…どんな人だったんですか?」


「何にでもクソ真面目な奴でしたよ。でも特に、刑事という職業に誇りを持っていました。忍耐強さといい、鋭い直感といい、奴ほど刑事な人間はいないんじゃないでしょうか。その代わり、対人関係はアレでしたけどね。…基本的に無口で容赦ない口ぶりでしたし」


「親友…だったんですか?」


「はい。私の…本当の意味での、最後の相棒でしたね」


 急に悲しそうに言うので察してみたところ、山本刑事の言葉の裏に気づく。…奥山刑事が敵方のスパイだった。つまり、彼の信頼を信頼で返せていた相棒は親父が最後だったのだ。…偽りの信頼で塗り固められていた事を知って、山本刑事はどう思ったのだろう。


「奥山刑事の事、ショックでしたか?」


「ははは、この際言っちゃいますけどね…死にそうなくらいにショックでしたよ。…奥山は本当にいい刑事だった。いや、なり得た。私が手塩をかけて育て上げた刑事でしたからね。いずれ、冬見明雄を継ぐ人材と思っていましたなぁ」


「…寂しかったり、しましたか?」


「もう、忘れました」


 はぐらかすように背を壁から離すと俺の手を引っ張る。突然の事に俺の上半身が倒れこみそうになった。俺は倒れないように踏み出した右足の感触を確かめながら、


「危ないじゃないですか。…ったく、昔からそう、乱暴だったんですか?」


「じきに慣れますよ。じきに」








 山本刑事は簡単な取調べ(ほとんど意味がないが)を俺にした後、ちょっと用があるので、と俺を残してどこかへ行ってしまった。手持ち無沙汰な俺は、きょろきょろと辺りを意味もなく署内を見回す。


「君は誰だね」


 背からの初めて聞く声に驚いて振り返る。そこには手を後ろで組み、スーツをきっちり着こなしている俺より背の小さい眼鏡の男が立っていた。俺が通行の邪魔になったのか?


「すみません…どうぞ」


 頭を下げながら廊下の端に寄る。しかし男は動かずに俺の足先から頭までを汚い物を見るかのように目を細めて見回し、


「…君は誰だと聞いている。部外者が署内をうろつかれては困る。…出て行け」


「は? あ、いや…あの、昨日の殺人事件の親族で…」


「担当は?」


「えっ?」


「担当は誰だと聞いている。一般人が…それも殺人事件ならなおさら、署内にとどまるにはその事件を担当する刑事がつくはずだが。挨拶をされただろう?」


 …チビのくせになんて高圧的なんだろう。ただでさえ気が立ってるっていうのに…殴り飛ばしてやろうか。思わず拳を握り締めた。


「名前は?」


 俺の不快度数なんかお構いなしに先を言う男。


「冬見…隆史です。担当は…おそらく山本刑事だと」


「山本…? あのバカが。命令もわからんというのか老いぼれめ…」


憎々しげに言う。何様のつもりだ。まぁ警察には違いないんだろうけどさ。山本刑事と比べても、この男の礼儀は最悪だ。親父がこんな奴らと一緒にされるなんて。


「ちょっと待ってください。今の言葉は山本刑事に失礼です」


「お前…冬見、だったか。…仮にも保護される立場の人間がそんな生意気な口を利くな。こっちは昇格がかかっているというのに、こんな時期に全く面倒な事をしてくれたな」


 国家を守っている人間とは思えないほど冷たい言葉が、鼓膜を振るわせた。


「……おい、お前、言い過ぎだぞ」


 言う事は言って気が済んだのか、俺の言葉も無視して廊下を我が物顔に歩いていく。


「待てよ」


「まぁいい。…後は山本の処罰だな。警視庁じきじきの命令もある事だし、あの年だ。そろそろ現場はおさらばしてもらわなくては困るな…」


 ギリ、と歯軋り。指先の震えを握り締める事で堪える。

 ――死んでほしくない人はたくさんいるのに。

   生きていてほしい人はたくさんいるのに…!

   どうしてだろう。何でこの世はこんな奴が堂々と日の下を歩けるんだ…!


 爆弾が破裂したかのように、いてもたってもいられなくなった俺はその背を追った。背骨を折らん勢いで、思い切り力を込めた右足で背中を蹴り飛ばす。磨かれている床はスーツをよく滑らせて、大の字になった男は情けない声とともに階段間際まで滑っていく。近くを歩いていた職員は可笑しな出来事に驚きの声やら痛々しい声を発した。


「っう……お、お前、何をしてるかわかっているんだろうな!? …お前ら、あのガキを追い出しておけ! どうせ山本のお目付けだ!」


 正面が砂埃で汚れた男は立ち上がりながらそばにいた職員らに怒鳴った。


「お前に…俺と十ほどしか違わないようなお前に、山本刑事や親父達の何が分かる!」


 罵声も空しく、俺はたくましい体つきの男達に顔をしかめるほどの強さで腕を捕まれ、署の外に追い出された。迷惑そうな目を俺に投げつけた後また中へ戻っていく。…悔しいながらも気分はとてもすっきりした。




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